ジョン・フォン・ノイマン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
テンプレート:Infobox scientist ジョン・フォン・ノイマン(ハンガリー名:ノイマン・ヤーノシュ、ドイツ名:ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン、John von Neumann, Margittai Neumann János Lajos, Johannes Ludwig von Neumann, 1903年12月28日 - 1957年2月8日)はハンガリー出身のアメリカ合衆国の数学者。20世紀科学史における最重要人物の一人。数学・物理学・工学・計算機科学・経済学・気象学・心理学・政治学に影響を与えた。第二次世界大戦中の原子爆弾開発や、その後の核政策への関与でも知られる。
最初に結婚したマリエット・ケヴェシの娘マリーナ・フォン・ノイマン・ホイットマンは、1973年からピッツバーグ大学経済学部教授だった。1979年にゼネラルモーターズ社に入り、1985年から1992年まで副社長を務めた[1]。
目次
来歴
- 1903年: ブダペストにて3人兄弟の長男として生まれた。名はヤーノシュ。愛称はヤーンチ。父は銀行の弁護士ノイマン・ミクシャ(英語名:マックス・ノイマン)、母はカン・マルギット(英語名:マーガレット・カン)で、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人だった[2]。
- 幼い頃より英才教育を受け、ラテン語とギリシャ語の才能を見せた。6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算で行い[3]、父親と古典ギリシャ語でジョークを言えた[4]。テンプレート:要出典範囲興味は数学にとどまらず、家の一室にあったウィルヘルム・オンケンの44巻本の歴史書『世界史』を読了した[5]。好んで読んだもの、特に『世界史』やゲーテの小説などに関しては一字一句間違えず暗唱できた。長じてからも数学書や歴史書を好み、車を運転しながら読書することもあった[4]。
- 1910年ごろ: 父親がフェンシングの先生を招き、家族でフェンシングに取り組んだ。もっとも、ヤーノシュはまったく上達せず、先生も匙を投げてしまう。また、音楽の先生にピアノやチェロを習わせたが、これもまったく上達しなかった。実はレッスンの最中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが後から判明した[4]。
- 1913年: 父親が貴族の称号をお金で購入した(オーストリアのユンカーに相当する位)。この段階で「ノイマン・ヤーノシュ」は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」になり、さらにドイツ語のヨハン・フォン・ノイマンJohann von Neumannに変わることになる[6]。
- 1914年: ブダペストにあるルーテル・ギムナジウム「アウグスト信仰の福音学校」へ入学[7]。ノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーとはルーテル校で学友だった[8]。入学したルーテル校のラースロー・ラーツ先生がヤーノシュの数学の才能を見抜き、父親に「ご子息に普通の数学を教えるのはもったいないし、罪悪とすらいえるでしょう。もしもご異存がなければ、私どもの責任でご子息にもっと高度な数学を学べるように手配いたします。」と話し、父親が承諾すると、ラーツ先生はブダペスト大学の数学者にヤーノシュを引き合わせた。その数学者のひとりであるヨージェフ・キルシャーク教授がガブリエル・セゲー講師にヤーノシュの家庭教師を頼んだ。セゲーは最初の授業で試しに出題した問題をヤーノシュがみごとに解いたので、その夜自宅で涙を浮かべて喜んでいたと、セゲーの妻は記憶している[9]。
- 1915年から1916年: セゲーはヤーノシュの家庭教師を続けた。その後、ブダペスト大学の数学者たちが個人教授をうけもった。そのうちのミヒャエル・フェケテとリポート・フェイエールが最もよく付き合った[10]。
- 1920年: 17才のギムナジウム時代に、数学者フェケテと共同で最初の数学論文「ある種の最小多項式の零点と超越直径について」を書く。その論文は1922年にドイツ数学会雑誌に掲載される[11]。
- 1921年: ラーツ先生は父親との約束を守り、ヤーノシュが数学以外の科目を勉強するように指導した。ヤーノシュはギリシャ語、ラテン語や歴史、そして数学の授業も他の生徒と同じように受けていた[11]。同窓生のウィルヘルム・フェルナーやウィグナーによると、ヤーノシュはみんなから好かれようと懸命に努力しており、いばるそぶりや自分の殻に閉じこもって周りを無視するようなことは無かった。しかし、体育は何をしてもまったくダメで、どうしても周りの学生といっしょになることはできなかった[12]。ギムナジウムでは首席であり、当時の成績表によると、ほとんどの科目は「優」であった。いっぽう、例外的に習字・体育・音楽の成績は落第すれすれの「可」であった[13]。6月に受験した卒業試験「マトゥーラ」では首席であり、さらにエトヴェシュ賞にも合格した[14]。
- 1921年から1926年: ブダペスト大学(Eötvös Loránd Tudományegyetem)の大学院で数学を学ぶ。数学よりも金になる学問をつけさせようと望んだ父親がセオドア・フォン・カルマンに相談した結果、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学を掛け持ちして化学工学(kemical engineering)を学ぶことになった。授業を欠席しても試験では非常に優秀な成績だった。23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。
- 1926年: 論文がダフィット・ヒルベルトにいたく気に入られ、ゲッティンゲン大学でヒルベルトに師事する。ヒルベルトも彼に感心するばかりで、瞬く間にヒルベルト学派の旗手となった。
- 1927年から1930年: 最年少でベルリン大学の私講師 (Privatdozent) を務めた。
- 1930年代はナチス政権を避けて、ノイマン一家はアメリカ合衆国に移住することになり、ジョンというアメリカ風の名前に改名した。兄弟はみな異なった姓の表記に変え、ヤーノシュは、フォン・ノイマンvon Neumannという貴族風の匂いが強く残る苗字に、彼の兄弟たちはVonneumannとニューマンNewmanにした[15]。
- 1930年: プリンストンに招かれ、プリンストン高等研究所の所員に選ばれた(4人のメンバーのうち2人はアルベルト・アインシュタインとヘルマン・ワイルであった)。
- 1933年以降、この研究所で数学の教授を務めた。
活動
数学
- 純粋数学では、数学基礎論、集合論や測度論、作用素環論、エルゴード理論
- ゲーム理論の成立に貢献。特にミニマックス定理の証明は数学の分野だけでなく、企業経営における戦略の理論や、軍事戦略の基礎理論(オペレーションズ・リサーチ)、ゼロサムゲームにおける戦略(将棋やチェスなどのコンピュータプログラムを含む)などに指針を与え社会に大きな影響を与えた。
- 数学基礎論ではゲーデルとは独立に、第二不完全性定理を発見している。公理的集合論における正則性公理を提唱した。
- モンテカルロ法を考案したうちの一人で、名付け親だとされている。
物理学
- 物理では量子力学の数学的基礎付けを行っている。量子力学の解釈の中で現在主流のコペンハーゲン解釈は、ノイマンの考えが最も大きな影響を及ぼした。彼は量子力学の波動関数の収縮という現象を、量子力学の数学的枠組みで説明することができないことを証明した。
気象学
- ジュール・グレゴリー・チャーニー、フョルトフトとともに気象力学の草分けの一人。気象学において数理モデルとコンピュータを使う斬新な手法を持ち込んだ。
経済学
- フォン・ノイマン多部門成長モデルによる経済成長理論への貢献。
- 生産集合・再生産の生産システム概念の導入。
- ブラウワーの不動点定理を使い均衡の存在を証明。
- 経済学での最も大きな貢献として、オスカー・モルゲンシュテルンと共に経済学にゲーム理論を持ち込んだことが挙げられる。この応用がゲーム理論の本格的な幕開けとされ、現在、経済学ではミクロ経済学・マクロ経済学と並ぶ重要な分野として確立している。
計算機科学
- EDVAC開発に参加した際、プログラム内蔵方式に関する論文を自分名義で発表したため、ストアードプログラム方式の考案者であると言われていた。その方式は「ノイマン型コンピュータ」とも言われ、現在のほとんどのコンピュータの動作原理である。アラン・チューリング、クロード・シャノンらとともに、現在のコンピュータの基礎を築いた功績者とされている。EDVAC開発チームのジョン・エッカートとジョン・モークリーが技術面を担当し、ノイマンが理論面を担当したと言われている。ノーマン・マクレイはプログラム内蔵方式に関してクルト・ゲーデルが不完全性定理の証明で用いたゲーデル数化のアイデアを応用したものと説明している[16]。
- セル・オートマトンの分野をスタニスワフ・ウラムと創出し、(当初はろくにコンピュータもなかったにもかかわらず)実に方眼紙とペンだけで、自己増殖の概念を証明してみせた。ここでユニバーサル・コンストラクタの概念が考え出された。この分野については、彼の死後『自己増殖オートマトンの理論』Theory of Self Reproducing Automataが出版されている。この自己増殖マシンを使用すれば、例えば月全体を探索するというような大規模探索の課題は、指数級数的な増加の利点を生かして、最も効率的に行うことができることを示してみせた。
- アルゴリズムの研究にも貢献。ドナルド・クヌースは、ノイマンがマージソートの発明者であると指摘している。
- クヌースは数値流体力学の分野にも挑戦したことも指摘している。R.D.Ritchmyerとともに、"人工粘性"artificial viscosityを決定するアルゴリズムを開発し、その成果により人類の衝撃波についての理解が進歩することになった。その後の天体物理学の分野の進歩や、高度なジェットエンジンやロケットエンジンの開発に、この研究は大いに貢献している。流体力学・空気力学の問題をコンピュータで計算するときには、計算すべき格子点(グリッド)が多くなりすぎるという問題があるのだが、この"人工粘性"という数学的な道具を用いることで、基本的な物理学特性を損なわずに、衝撃の伝播をコンピュータで計算しやすい形で表現することができるようになったのである。
- 人工知能の父のジョン・マッカーシーとマービン・ミンスキーにも論文指導やアドバイスを行い、大きな影響も与えている。
核兵器開発への加担
- 1937年にアメリカに移住してほどなく応用数学を研究し始め、ドイツとの戦争に数値解析が必要と考えたノイマンは、アメリカ合衆国陸軍に自ら志願する。これはノイマンに化学の道を開いたカルマンが弾道研究所の責任者だったので不思議ではなかったが、不採用になった。しかし、ほどなくして爆発物の分野での第一人者となり、特にアメリカ合衆国海軍へのコンサルティングの仕事をした。この分野での彼の主要な結果に、「大きな爆弾による被害は爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」というものがある。この理論は、広島と長崎に落とされた原子爆弾にも利用された。
- またアメリカ合衆国による原子爆弾開発のためのマンハッタン計画に参加していた。長崎に投下されたプルトニウム型原子爆弾ファット・マンのための爆縮レンズの開発を担当し、1940年代に爆轟波面の構造に関するZND理論を確立し、この理論を元に10ヶ月にわたる数値解析によって、爆薬を32面体に配置することによって、原子爆弾が実際に実現できることを示した。
- 赤狩りの際はエドワード・テラーと対立してロバート・オッペンハイマーを擁護し、ソ連のスパイだったクラウス・フックスとの共同作業で自身も非難されている。また、日本に対する原爆投下の目標地点を選定する際には「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ殲滅すべき」だとして、京都への投下を進言した。このような側面を持つノイマンは、スタンリー・キューブリックによる映画『博士の異常な愛情』のストレンジラヴ博士のモデルの一人ともされている。
晩年
- 1950年代にはさまざまな仕事を引き受け、特にアメリカ合衆国空軍へのコンサルティングが増え、1953年に発足した通称「フォン・ノイマン委員会」の答申によって合計6種の戦略ミサイルが開発された[17]。
- 太平洋での核爆弾実験の観測やロスアラモス国立研究所での核兵器開発の際に放射線を浴びたことが原因となって、1955年に骨腫瘍あるいはすい臓がんと診断された(同僚のエンリコ・フェルミも1954年に骨がんで死亡している)。癌は全身に転移。その後も精力的に活動を続け、合衆国政府の相談役として重要な役割を果たし続けていた。原子力委員会初代委員長ルイス・ストラウスの回想によれば「あるとき国防総省がノイマンに相談することになった…移民だった彼のベッドはいまや国防長官、副長官、陸海軍の長官や参謀長達に囲まれていた」という。
- 1956年1月にウォルター・リード病院に入院。死が間近になると、以前は信仰に熱心でなかったにもかかわらず、一度目の結婚時に改宗したカトリック教会の司祭と話すことを望んで、周囲を驚かせた。猛烈な痛みに苦しめられながら最期を迎え、ニュージャージー州のプリンストン墓地に埋葬されている[18]。
逸話
- その驚異的な計算能力と特異な思考様式、極めて広い活躍領域から「悪魔の頭脳」「火星人」「1000分の1インチの精度で噛み合う歯車を持った完璧な機械」と評された。
- 圧倒的な計算能力については数々の逸話が残っている。
- 電話帳の適当に開いたページをさっと眺めて、番号の総和を言って遊んでいた。
- 水爆の効率概算のためにエンリコ・フェルミは大型計算尺で、リチャード・P・ファインマンは卓上計算機で、ノイマンは天井を向いて暗算したが、ノイマンが最も速く正確な値を出した(これは数学者森毅の創作である)。
- テンプレート:要出典範囲
- しかし、死の直前には腫瘍が脳にまで達し、3+4という一桁の計算すらできなかった(上記「晩年」の節の記述のごとく)。
- 幼少時代、深い思考に入るときに部屋の隅へ行き壁と壁の継ぎ目を凝視するクセがあった[19]。
- 米軍だけでなく、IBM・ゼネラル・エレクトリック・スタンダード・オイルなど大企業の顧問をしていた[20]。
- 入院後は、車椅子で救急車に乗ってまで、アメリカ原子力委員会の会合に出席したりした[21]。
- テンプレート:要出典範囲
- 後にノーベル経済学賞を受賞するジョン・ナッシュは、学生時代にノイマンにナッシュ均衡に関する考えを紹介している。この時ノイマンは理論の結論を聞く前に「それは注目に値するほどのことかね、要は不動点定理を適用しているだけじゃないか。」と一蹴した。なお、ナッシュ均衡に関してはナッシュ自身も「私の業績の中でも特に目立たぬもの」と評している[22]。
- 1930年9月7日にケーニヒスベルクで開催されていた「厳密科学における認識論」についての第2回会議においてクルト・ゲーデルが第一不完全性定理を発表すると、発表の後にノイマンはゲーデルと個人的に会話を行い、定理の内容を直ちに理解した。その会議の後、ゲーデルは第二不完全性定理を得て論文にまとめ、論文は11月17日に受理された。いっぽう、ノイマンは独力で第二不完全性定理を導き、その結果を11月20日付けの手紙でゲーデルに知らせた。ゲーデルはすぐに返答の手紙を書き、論文の別刷を添えて返送した[23][24]。この分野で自分に先んじたゲーデルのことは例外的に尊敬しており、生涯高く評価し続けた[25]。
- 何十年も居住している家の棚の食器の位置すら覚えられなかったほか、1日前に会った人物の名前すら浮かばなかった。興味がないものに対しては全く無関心であると評された。
- 政治での立場はタカ派であった。
- 青年期に経験したハンガリー革命、アーサー・ケストラーの『真昼の暗黒』やスターリン政権下のソビエト連邦への短い旅行などを通じて、ナチズムと共産主義を「左右の全体主義」と嫌っていた[26]。ソ連への先制攻撃を強く主張し、後に『ライフ』誌が掲載した死亡記事によれば[27]、1950年に「明日彼らを爆撃しようではないかと言われたら、なぜ今日爆撃しないのかと言う。今日の5時にと言うなら、なぜ1時にしないのかと言う。」("If you say why not bomb them tomorrow, I say why not bomb them today? If you say today at 5 o'clock, I say why not 1 o'clock?") という発言をしたとされる。
- ハト派だったノーバート・ウィーナーとは性格から政治信条まで好対照だったため、比較に出されることが多い[28]。ウィーナーとは1945年以降にサイバネティックスの分野で共同研究をした。1940年代後半にノイマンが生物学の研究のためには細胞を研究すべきだという手紙をウィーナーに出した結果、ウィーナーの怒りを買い、共同研究は終わりを告げた[29]。
邦訳
- 銀林浩他訳『ゲームの理論と経済行動』全5巻(東京図書のちにちくま学芸文庫に収録):オスカー・モルゲンシュテルンとの共著
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite book
脚注
参考文献
関連項目
- 技術的特異点
- 数学者
- 博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか(主人公ストレンジラブのモデルとされる。1950年にしたとされる「なぜ爆撃しない」発言などが挙げられる)
- フィラデルフィア実験
- フォン・ノイマンメダル
- マッドサイエンティスト