橘逸勢
橘 逸勢(たちばな の はやなり、延暦元年(782年)? - 承和9年8月13日(842年9月24日))は、平安時代初期の書家・貴族。参議・橘奈良麻呂の孫。右中弁・橘入居の末子。官位は従五位下・但馬権守、贈従四位下。書に秀で空海・嵯峨天皇と共に三筆と称される。
経歴
延暦23年(804年)に最澄・空海らと共に遣唐使として唐に渡る。中国語が苦手で、語学の壁のために唐の学校で自由に勉強ができないと嘆いている。おかげで語学の負担の少ない琴と書を学ぶことになり、大同元年(806年)の帰国後はそれらの第一人者となった。[1]
承和7年(840年)に但馬権守に任ぜられる。のち、老いと病により出仕せず、静かに暮らしていたという[2]。
承和9年(842年)の嵯峨上皇が没した2日後の7月17日に皇太子・恒貞親王の東国への移送を画策し謀反を企てているとの疑いで、伴健岑とともに捕縛された。両者は杖で何度も打たれる拷問を受けたが、両者共に罪を認めなかった。しかし、7月23日には仁明天皇より両者が謀反人であるとの詔勅が出され、春宮坊が兵によって包囲された。結局、大納言・藤原愛発や中納言・藤原吉野、参議・文室秋津は免官され、恒貞親王は皇太子を廃された。逸勢と健岑は最も重い罰を受け、逸勢は姓を「非人」と改めた上で[3]伊豆へ、健岑は隠岐(後に出雲国に移されたが経緯は不詳)への流罪が決まった(承和の変)。
逸勢は伊豆への護送途中、遠江板築(浜松市三ヶ日町本坂)で病没した。60余歳という。このとき、逸勢の後を追っていた娘は板築駅まできたときに父の死を知り、悲歎にくれた。その娘はその地に父を埋葬し、尼となり名を妙冲と改め、墓の近くに草庵を営み、菩提を弔い続けた。[2]
死後、逸勢は罪を許され、嘉祥3年(850年)太皇太后・橘嘉智子の没後まもなく正五位下の位階を贈られた。その際に逸勢の娘の孝行の話が都に伝わり賞賛されている[2]。仁寿3年(853年)には従四位下が贈位された。仁安元年(1166年)には橘以政によって伝記『橘逸勢伝』が著された。
また、無実の罪を背負って死亡した事で逸勢は怨霊となったと考えられ、貞観5年(863年)に行われた御霊会において文屋宮田麻呂・早良親王・伊予親王などとともに祀られた。現在も上御霊神社と下御霊神社で「八所御霊」の一柱として祀られている。
書
在唐中、書は柳宗元に学び、唐人は逸勢を橘秀才と賞賛したという。逸勢の真跡として確認できるものは今日ほとんど伝わっていない。その中で、空海の三十帖冊子の一部分、興福寺南円堂銅燈台銘、伊都内親王願文が逸勢の筆とされているが確証はない。ただ逸勢以外の書家からその書風を見出すことができないので、逸勢の筆と推定されている。
伊都内親王願文
『伊都内親王願文』(いとないしんのうがんもん)は、桓武天皇の第8皇女・伊都内親王が生母・藤原平子の遺言により、天長10年9月21日(833年11月6日)、山階寺東院西堂に香灯読経料として、墾田十六町余、荘一処、畠一丁を寄進した際の願文である。楮紙に行書で68行あり、末字に「伊都」の2字がある。朱で捺された内親王の手形が25箇所ある。書風は王羲之風であるが、その中に唐人の新しい気風が含まれており、飛動変化の妙を尽くし、気象博大である。御物。
人物
性格は放誕で、細かいことには拘らなかったという[2]。
系譜
参考文献
- 木村卜堂著『日本と中国の書史』(社)日本書作家協会
- 季刊墨スペシャル第12号『図説 日本書道史』、芸術新聞社発行、平成4年(1992年)7月