戸次川の戦い

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colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戸次川の戦い
戦争:豊臣秀吉による九州征伐
年月日:天正14年12月12日1587年1月20日
場所:豊後国戸次川
結果:島津軍の豊後府内平定、豊臣軍の大敗
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 島津軍15px 豊臣軍20px
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 島津家久 長宗我部元親
長宗我部信親
仙石秀久
大友義統
十河存保
依岡左京
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 10,000~13,000 20,000(実際、即時行動可能な軍は6,000)
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | - 長宗我部信親、十河存保ら戦死
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戸次川の戦い(へつぎがわのたたかい)は、豊臣秀吉による九州征伐の最中である天正14年12月12日1587年1月20日)に、島津家久率いる島津勢長宗我部元親長宗我部信親父子、仙石秀久大友義統十河存保率いる豊臣勢の間で行なわれた戦い。この合戦は九州征伐の緒戦で、豊臣勢が大敗した。

合戦までの経緯

天正6年(1578年)の耳川の戦い大友宗麟軍は島津義久軍に大敗し、多くの有力武将を失った。この結果、大友家の所領では一族家臣による離反、反乱が相次いで勢力は一気に衰退する。逆に勝利した島津義久は天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで、大勢力を誇っていた龍造寺隆信軍を壊滅させて隆信や有力武将の多くを討ち取り、隆信の嫡子・政家を屈服させた。こうして、九州では島津家の勢力が抜きん出る事になる。

大友宗麟は衰退した自家では島津家の侵略を食い止める事は無理と判断し、当時中央に豊臣政権を築いていた豊臣秀吉に支援を要請する。秀吉は当時、中央の覇権をめぐって織田信長の次男・信雄徳川家康連合軍と対峙していたため、大規模な主力軍を九州に派遣する事は不可能であり、ひとまずは政治的仲裁をもって大友宗麟と島津義久を和睦させようと図った。しかし島津義久はこれを拒絶し、大友領への侵略を続行する。天正13年(1585年)には大友家を大黒柱として支えていた重臣・立花道雪が病死。これを契機に島津義久は島津忠長を大将にした大軍を筑前に派遣。道雪亡き後、大友家を支える有力な高橋紹運を攻め立てた。紹運は岩屋城に篭もって半月の間、徹底抗戦して玉砕(岩屋城の戦い)。しかし島津軍も3,000を超える多数の死傷者を出し、道雪の養子で紹運の長男が篭もる立花山城を攻めきれず、しかも攻撃が長期化する間に豊臣秀吉が命じた吉川元春小早川隆景の軍勢が豊前に上陸したため、疲弊の激しい島津の他国衆が動揺し始め、忠長は敵中に孤立する事や寝返りを恐れ、8月24日に忠長は博多を略奪して焼き払い、薩摩に撤退した[1]

島津義久は筑前攻めで被害を受けた軍の再建を急ぎ、10月には総計4万を数える大軍で大友家の本拠地・豊後に日向肥後の2手から侵攻した[1]豊薩合戦)。肥後口から侵攻した島津義弘岡城志賀親次のみは徹底的に抗戦されて落城させられなかったが、それ以外はほとんどを落とした[1]。日向口の島津家久も栂牟礼城佐伯惟定の前に一敗したが(堅田合戦)、それ以外は勝利を続けて12月には豊後の要衝・鶴賀城を包囲した[1]。この城は大友宗麟の本拠・臼杵城と嫡子の大友義統の本拠・府内城の中間に位置する要衝であった上、肥後から侵攻した義弘軍と合流するためにも確保が必要だった[2]。ところが、12月6日より開始された城攻めで島津家久軍は二の曲輪、三の曲輪を焼き払って本曲輪まで迫り、城主の利光宗魚を討ち取るまでに至ったが、城兵の激しい抵抗に島津軍も3,000余に上る大損害を被って撃退された[2]

その頃、豊後府内城には豊臣秀吉がひとまずの抑えとして送り込んだ土佐長宗我部元親信親父子、四国攻めなどの戦功で淡路から、讃岐10万石を与えられたばかりの仙石秀久、讃岐の十河存保四国勢6,000人が到着し、大友軍と合わせれば家久軍1万は優に凌ぐはずだった[2]。しかし仙石・十河・長宗我部らは織田信長の時代から互いに戦ってきた仇敵同士であり、団結力など望めるはずも無かった[2]。その上、大将の義統は暗愚で惰弱、士気も低く、大友軍は数として数えられる状況ではなかった。

合戦の経過

秀吉の出陣も無く、代わりに指揮を任されたのが秀久である。先の四国征伐の功で讃岐高松10万石の領主となっていたが、着任して日が浅く、その中核となる直軍を含めて寄せ集めで団結力に乏しかった。従軍した四国大名の士気も、それに輪をかけて高いとは言えなかった。さらに救援に出迎えた大友勢も、道案内役の戸次統常率いるわずかな兵であり、島津勢に比べ兵力でも劣っていた。功に焦った秀久は状況を打開すべく、先勝を挙げて士気を高めようとした。無謀にも冬季の渡河作戦を決行し、12月12日 (旧暦)(1587年1月20日)早朝、戸次川を挟んで両軍が対峙した。夕刻になって最初に交戦したのは島津勢左翼の伊集院久宣と、仙石勢であった。戦況は、島津戦法の「釣り野伏せ」に誘われ、緒戦は家久が狼狽するほど豊臣勢が押し気味であったが、仙石勢が深追いしたところに主力の新納大膳と右翼の本庄主悦が雪崩れ込み、人数に劣る仙石勢はあっという間に浮き足出たせ遁走する事となった。勢いに乗る島津勢は、仙石勢に続いていた第2陣の十河勢・信親勢を伏兵と共に包囲殲滅した。長宗我部信親十河存保は、戸次川の中で戦死したと伝えられている。戸次統常も戦死した。長宗我部元親の第3陣は合戦に参加できず、先遣隊の敗報を受けて、全ての馬を放置したまま、数名の部下と一緒に船で伊予日振島へ退却している。軍監である仙石秀久は諸将の軍を差し置いて、小倉城に撤退。その後、二十名の部下とともに脱出し妙見で他の兵と合流し、自領の讃岐へ逃げ帰るという醜態を晒す事となった。

この大勝に乗じた島津勢は鶴賀城を落とし、翌12月13日 (旧暦)(1月21日)には府内に侵入。義統は万策尽きて豊前に逃走した。しかしその後も大友軍は臼杵、杵築、佐伯、竹田等で激しく抵抗を続けたため豊臣軍の大軍が豊前に入ると島津は豊後から撤退することになる。

帰還後、秀久は敗戦の責を問われ、秀久の所領没収ならびに改易処分となり高野山へ追放された。

脚注

註釈

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出典

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参考文献

書籍
  • 河合秀郎『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年
  • 桐野作人「戸次川の大勝で大友軍を駆逐、九州制覇を目前とする」『歴史群像シリーズ【戦国】セレクション・烈帛 島津戦記』学習研究社、平成13年(2001年)。
史料

関連項目

  • 1.0 1.1 1.2 1.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.122
  • 2.0 2.1 2.2 2.3 河合秀郎 著『日本戦史、戦国編』学習研究社、2001年、p.123