済州島
テンプレート:Coord テンプレート:Infobox テンプレート:Infobox 済州島(チェジュド、さいしゅうとう)は、朝鮮半島の西南、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約55万人、面積は1,845km²。15世紀初め頃までは耽羅という独立した王国があった。なお朝鮮語では「島」と「道」は同じ音なので、「済州島」と「済州道」の区別に注意が必要である。
以前の西洋では、オランダ統治時代の台湾から長崎に向かう途中に難破したオランダの商船に因んで、Quelpart(귤밭、橘밭、「みかん畑」の意)と呼ばれていた。
目次
歴史
耽羅国三姓神話
済州島には、「三姓神話」という、朝鮮半島の「檀君神話」とは違った耽羅民族の独自の建国神話があり、『高麗史』や『世宗実録』におよそ次のような内容で表されている。
瀛州(ヨンジュ)と呼ばれ、未だ人の住まない太古の濟州に「高、梁、夫」の3つの姓を持った3人の神人(3神が高乙那・良乙那・夫乙那と描かれるものも[1])が、漢拏山の北山麓の地の穴(三姓穴)から現れたのが現在の済州の人々の先祖であるという。ある日、漢拏山から遠くの海を眺めていた彼らは、日本海の方から流れてくる木の箱を発見した。開けてみると、箱の中には東国の碧浪国(日本と取る学者もいる。)から来たという紅帯紫衣の使者と美しい3人の姫と駒と馬と五穀が入っており[1]、神人は、彼女達を妻として迎え、年齢順に住処を定めて暮らすようになった。その後神人の子孫達は、産業と五穀の栽培を始めて集落を作るようになり、約900年後に皆の人望を集めた高氏を王として、初めて「タクラ」という王国が成立したとされる。
耽羅国
三国志に現れる3世紀の州胡を済州島人(耽羅民族)に比定する説がある。その後耽羅国が成立し、4世紀頃には、百済に朝貢していた。
新羅の朝鮮半島統一後は、主に新羅に朝貢するようになったが、日本へも朝貢を行い、日本からも使節が派遣されるなど独自の外交を行った(遣耽羅使)。
耽羅国の言語は朝鮮民族とは言語系統が異なるものであったとするのが通説である。
高麗朝時代
高麗時代の1105年に耽羅郡として直轄領として組み込まれ、1214年から済州と呼ばれるようになるが、在地支配層は依然健在で、高い独立性を維持し続けた。
元に対して抵抗した三別抄の残党は、済州島を最後の拠点として立てこもった。反乱は元・高麗軍によって平定され、済州島は元の直轄地に組み込まれた。
元が済州に牧場を設けたため、以後の済州は馬産地になり、また元からの移住者およびその子孫は牧子と呼ばれた。
朝鮮時代
朝鮮王朝の時代には朝鮮八道の1つ、全羅道に組み込まれ、在地勢力は次第に力を失っていった。朝鮮時代には江華島と並ぶ流刑地の一つでもあり、主に政争で負けた王族や両班が流刑にされている。
15世紀の済州には船に居住して海産物を採る海民が存在し、本土の海岸まで出ていくものがあり、一部は海賊化した[2]。
19世紀の後期には日本漁船の島の周辺海域への進出とそれに伴う漁民間の衝突が日朝間の政治問題となった(朝鮮出漁)。
日本統治時代
1910年の韓国併合で日本の領土となり、1945年まで朝鮮総督府によって統治されていた。
済州島四・三事件と大韓民国への編入
テンプレート:Main 1948年4月3日には朝鮮の南北分断を固定するとの理由から、南朝鮮単独での総選挙実施に反対する過程で済州島四・三事件が発生し、少なくとも3万人の島民が南朝鮮国防警備隊やその後身の大韓民国国軍、大韓民国の民間右翼などによって虐殺された。在日韓国・朝鮮人には第二次世界大戦後、済州島四・三事件より命からがら逃れるために済州島から日本に渡って来た者も多い。
地理・気候
およそ200万年前、火山の噴火によってできたと考えられている。その結果、主に玄武岩から成っている。韓国の最南端(高知県や福岡県と同緯度)に位置する火山島であり、付近を暖流である対馬海流が流れているため、大陸性気候により冬の寒さが厳しい韓国の中では最も気候が温暖で、韓国国内では「韓国のハワイ」とも呼ばれる。しかし、実際には、冬になると半島部と同様の北西季節風の影響や島の中央に漢拏山(標高1950m、韓国最高峰)がそびえる地形的要因により、非常に風が強く島の南北の気温差が大きい。この季節風により風下となる南側には、しばしばカルマン渦の雲が見られる。漢拏山の北側にある済州市は東京と同じくらいの寒さで(風が強いため、体感気温はさらに低い)、関東地方と同程度(年に1、2回以上)のまとまった降雪もある。一方、南部に位置する西帰浦市は1月の平均気温は6.8度とより温暖な気候で、日中の気温は10度以上になり、日本の高知県や宮崎県北部の気候に匹敵する。
韓国で唯一のミカンの産地であるが、ミカン畑も南部の西帰浦市に偏在している。日本では長崎県の五島列島に一番近く、約180キロメートルの距離がある。また韓国で唯一の自然湖である火口湖がある。
- 済州市の極値
- 最高気温37.5℃(1942年7月25日)
- 最低気温-6.0℃(1977年2月16日)
- 過去最深積雪21.5cm(1959年1月18日)
- 西帰浦市の極値
- 最高気温35.9℃(1966年8月3日)
- 最低気温-6.3℃(1977年2月16日)
- 過去最深積雪37.8cm(1963年1月25日)
自然
- 漢拏山:標高1950m、(38度線(軍事境界線)以南の現在の)大韓民国統治範囲において最高峰で、多くの登山客が訪れる。
- 城山日出峰:噴火口跡から成る岬。火山学上はタフコーン(火山灰丘)に分類される。
- 拒文岳溶岩洞窟系
上記の3つは「済州の火山島と溶岩洞窟群」として2007年に世界遺産に登録された。
- 新・世界七不思議 自然版:新世界七不思議財団により2011年に選定された。この発表直後には組織票の疑いなどのさまざまな論争が巻き起こった。
軍事
大韓民国海軍は2006年現在、済州島に新たに海軍基地を建設中である。基地建設後は、独島級揚陸艦と計画中の最新鋭潜水艦をそこに集中配備し、済州島に機動艦隊用前進基地を建設する予定。
交通
済州国際空港へは、成田国際空港・関西国際空港・福岡空港・中部国際空港、北京首都国際空港から大韓航空・アシアナ航空が就航している。
便数は成田が週7便(大韓航空・JALのコードシェア便)、関西が週10便(大韓航空・済州航空)、福岡が週3便(アシアナ航空)、名古屋が週5便(大韓航空)である。
社会
観光
ゴルフ場やカジノなどの観光・娯楽施設が多数あるほか、海産物なども豊富なため、韓国国内のみならず、日本などからも多くの観光客が訪れる。かつては、外国人観光客の多くを日本人が占めたが、近年は、中国人に対するビザ特例措置(済州島のみを訪問する場合、観光ビザを免除)もあり、中国人観光客が急増している。
治安
殺人、強盗、強姦、窃盗、暴力の5大犯罪の発生率が韓国全土で最も高く人口1万人当たり167.9件となっている[3]。
文化
「三麗」と「三多」、および「三無」
済州島の特徴を言い表すのに、「三麗」と「三多」、および「三無」という言葉がある。
三麗とは、「美しい心」「素晴らしい自然」「美味しい果物」といった島民の心や景観の美しさ、特産物を意味する。
三多とは、「石と風と女の3つが多い」という意味。火山島であるため、火山の噴火により流出した火山岩が多く、台風が度々通過する上、季節風の吹く地域であり、またかつては漁労のため海に出て遭難するなど男性の死亡率が高かったことに由来している。
三無とは、「泥棒がいない」「乞食がいない」「外部からの(泥棒と乞食の)侵入を防ぐ門が無い(必要無い)」という意味を表す。かつての済州島は、厳しい自然環境を克服するため協同精神が発達しており、そのことも前述の3つが無かった(あるいは必要とされなかった)とされてきた所以とされる。そのために韓国本土に住む人々の気性の激しさとは対照的に性格も温和で純朴だと言われる(日本国内各地に点在するコリアタウンでも済州島出身者は、古くから同島出身者を「元流刑地に住んでいた者」「元流刑地に住んでいた者の子孫」として差別してきた韓国本土出身者を避けて(東京都荒川区三河島や大阪市生野区桃谷等に)集結している[4])。
ただし近年は、韓国の他の地域より犯罪の発生率が高いという一面もある。
大宅壮一の著書『炎は流れる』の朝鮮編には、「済州島民は朝鮮半島本土と違い、性格は温厚で生活様式が日本に近い」とある。
トルハルバン
トルハルバン(石じいさん)は、もともと朝鮮時代の行政区域である3つの郡・県のそれぞれの東・西・南門の入口に立てられた、村の災厄を追い払う守護神(道祖神)であったが、現在は済州島のシンボルとして各地に立てられ、土産物としてトルハルバンを模した置物が製作・販売されている。
関連人物
出身者
在日韓国人二世
- 金石範(作家・両親が済州出身)
- 梁石日(作家・父が済州出身)
- 竹田青嗣(文芸評論家)
- 文京洙(政治学者)
- 李政美(歌手)
- 高橋順伊(ミュージカルアクター)
- 和田アキ子(歌手・父が済州出身)
- 趙景達(歴史学者)
脚注
関連項目
- 耽羅
- 済州島四・三事件
- 済州方言
- 済州新聞社
- 済州新聞
- 放牧
- 在日コリアン
- 吉田清治 (文筆家)
- 李奎遠 - 朝鮮時代末期に済州島を踏査。
- ヘンドリック・ハメル - 17世紀、済州島に漂着したオランダ人
外部リンク
- 済州島エリア観光地紹介 - 韓国観光公社公式サイト テンプレート:Ref-ja
- 済州観光公社旅行ブログ - 済州観光公社 テンプレート:Ref-ja