夫余
夫余(ふよ、拼音:Fúyú、旧字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。扶余(扶餘)[1]とも表記される。
目次
歴史
建国以前
夫余が建国する以前のこの地には濊(わい)族が住んでいたと思われ、松花江上流の弱水(奄利大水、現拉林河)を渡河南進して夫余を建国する以前の慶華古城(「濊城」、周囲約800m、前漢初期には存在、黒龍江省賓県)も発見されている。
建国神話
『論衡』(『後漢書東夷伝』『魏略』)に「昔、北夷の索離国があり、王は侍女が妊娠したので殺そうとした。侍女は「以前、空にあった鶏の卵のような霊気が私に降りてきて、身篭りました」と言い、王は騙された。その後、彼女は男子を生んだ。王が命じて豚小屋の中に放置させたが、豚が息を吹き掛けたので死ななかった。次に馬小屋に移させると、馬もまた息を吹き掛けた。それを王は神の仕業だと考え、母に引き取って養わせ、東明と名づけた。東明は長ずると、馬に乗り弓を射ること巧みで、凶暴だったため、王は東明が自分の国を奪うのを恐れ、再び殺そうとした。東明は国を逃れ、南へ走り施掩水にやって来て、弓で川の水面を撃つと、魚や鼈が浮かび上がり、乗ることが出来た、そうして東明は夫余の地に至り、王となった。」という記述がある。
また『魏書』や『三国史記』には、高句麗の始祖朱蒙も夫余の出身であり、衆を率いて夫余から東南に向かって逃れ、建国した話が載っている。
『三国史記』や『三国遺事』には、解夫婁が治めていたがのちに太陽神の解慕漱が天降ってきたので解夫婁は東に退去して別の国(東夫余)を建てたという。
前後漢時代
吉林省東団山一帯で発見された南城子の調査結果から紀元前200年頃にはなんらかの勢力が存在したことがわかる[2]。夫余王の王室には「濊王之印」が伝来していた[3]。また夫余王および夫余の老人たちは自らを「亡命者」と称していた[4]。漢四郡を設置した際の記述中に夫余の名が見える[5]。
- 東夫余:この頃の伝説として『三国史記』によると東夫余は建国後間もない高句麗を臣属させていたが、紀元前6年1月に太子都切を人質へ差し出すことに応じた高句麗がなかなか履行しないため、11月に至って5万と号する兵で高句麗を攻めたが大雪と厳寒により凍死者が相次いだため軍を還した。3年後、王の帯素が再び使者を遣わして脅すと高句麗は再び服属したという。
王莽が新を作ると異民族に対する蔑視政策を執ったため、離反した。建武年間(25年 - 56年)、東夷諸国が後漢に来朝し、中国に方物を献上するようになった。建武25年(49年)、夫余王が遣使を送って朝貢したので、光武帝はこれを厚くもてなした。
安帝の永初5年(111年)、夫余王は歩騎7~8千人を率いて玄菟郡を寇鈔し吏民を殺傷したが、間もなく再び帰附した。永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年(延光元年)、また高句麗が馬韓,濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。
順帝の永和元年(136年)、夫余王は京師(洛陽)に来朝した。
桓帝の延熹4年(161年)、夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守の公孫域によって撃破され、千余名が斬首された。
霊帝の熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた。
夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。
三国時代
魏の黄初元年(220年)、夫余が魏に朝貢した際、その君主は「夫余単于」と呼ばれた[7]。
尉仇台が死ぬと、簡位居が立った。簡位居には適子がいなかったが、孽子の麻余という者がいた。位居が死ぬと、諸加(諸大臣)は共に麻余を立てた。牛加(ぎゅうか:官名)の兄の子である位居は大使(たいし:官名)となり、善政をしいたため、国人はこれに附き、年々中国に遣使を送って朝貢した。
正始年間(240年 - 249年)、幽州刺史の毋丘倹は高句麗を討伐し、玄菟太守の王頎を夫余に遣わした。大使の位居は大加(たいか:官名)を遣わして王頎らを郊外で出迎えさせるとともに、軍糧を供えた。時に、季父(おじ)の牛加に二心があったため、位居は季父父子を殺して財産を没収して帳簿に記録し、使者を派遣してその帳簿を官に送った。麻余が死ぬと、まだ6歳である子の依慮が立って王になった。[8]
『三国志』及び『晋書』に夫余の中枢とみられる濊城の記載があるが、吉林省の東団山一帯から周囲2kmの濊城とみられる城が発掘されているテンプレート:要出典。
西晋時代
武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命して「東夫余」を建国した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、今の遼寧省開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州,冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた。[9]
東晋時代
東晋の永和2年(346年)正月、夫余王の玄は前燕の慕容皝に襲撃されたが西晋はすでに滅んで夫余を後援する力なく、王と部落5万人余りが捕虜として連行され、夫余王の玄は燕王の娘を娶った。これ以後、弱体化した夫余は前燕の属国となることでかろうじて滅亡をまぬがれる有様だった。
滅亡
- 東夫余
『広開土王碑』には、410年に高句麗の広開土王が東夫余を討伐し、東夫余の5集団が来降した[10]ことが記されている。435年の段階では東夫余はすでに高句麗に併合され消滅していたが、410年から435年までのどの段階で滅ぼされたのかなど詳しい歴史は不明である
- 北夫余
夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅ぼされた。
地理
夫余は長城の北方、玄菟から夫余の王都まで北へ千余里はなれている。南は高句麗、東は挹婁、西は鮮卑と接している。北には弱水がある。国の広さは2千里四方ある。
戸数は8万戸あり、人々は定住生活をしている。城郭や宮室、倉庫、牢獄があり、山や丘や広い沢が多く、東夷地域では最も広い平坦な所である(トンペイ平原)。土地は五穀を育てるのに適しているが、五果はできない。
習俗
衣食住
国内では白の衣服を尊重し、白布の大きな袂の袍や袴を着て革鞜を履く。国外に出るときは、絹織物,繍,錦織,毛織物などを身につけ金銀で飾る。大人は、その上に狐,狸,狖(黒猿),白貂,黒貂などの皮をまとい、金銀で帽子を飾っている。
食飲は俎豆(そとう:食器、作法)を用い、宴会で酒杯を受けたり酒杯を返すときも、その立ち居振舞いは謙虚である。
殷歴の正月には、天を祭り、国中で大会を開き、連日飲食して歌舞する。この祭を「迎鼓」という。この時には刑罰を行なわず、囚人を解放する。
政治体制
国には統一的な君王がいる。古い夫余の風俗において、天候が不順で五穀の生育が順調でない時にはその責任を王のせいにし、或いは王を易えるべきだと言い、或いは王を殺すべきだとした。
官職の名称はすべて六畜の名でよんでおり、馬加,牛加,豬加,狗加の諸加[11]テンプレート:要出典 があり、諸加はそれぞれ四出道を守り、勢力の大きな者は数千家、勢力の小さな者は数百家を支配していた。
諸加の下には大使,大使者,使者の諸使がある。邑落には豪民と呼ばれる奴隷を持った豪農、下戸と呼ばれる隷属農民や奴隷、奴僕と呼ばれる奴隷がいる。
産業
夫余の生業は主に農業であり遺跡では早い時代の層からも大量の鉄製農具が見つかるなど、農業技術や器具は同時代の東夷の中で最も発達していた。また、金銀を豊富に産出する土地であり、金属を糸状に加工して飾り付けた物など、金銀の加工に関しては非常に高い水準だったとされる。紡績に関しても養蚕が営まれ絹や繍・綵など様々な種類の絹織物が作られたほか、麻織物や毛織物が作られ東夷の中で最も発達していたとされる。
また牲の牛を多く養い、名馬と赤玉,貂,狖,美珠を産出し、珠の大きなものは酸棗(やまなつめ)ほどもある。『魏略』には、国は賑わい富んでいるとあり、その頃が最盛期だったとみられる。
武器
弓矢,刀,矛を兵器としている。家々には自分たちの鎧や刀剣類を所蔵している。
刑罰
刑罰は厳しく、人を殺せば死刑となり、その家族は奴婢にされる。盗みは盗んだ物の12倍を償わせる。男女が私通したり、婦人が妬んだりすれば、すべて死刑にされる。妬みによる罪をもっとも憎んでおり、その罪により死刑にされると、死骸は国の南の山上にさらされ、腐爛するまで放置される。死骸が腐爛したのち、その婦人の家人がその死骸を引き取りたいと望んで牛馬を連れていけば、死骸を与える。
婚姻
兄が死んだ場合、兄嫁を弟が妻とする。これは匈奴と同じ習俗(レビラト婚)である。
葬祭
有力者が死ぬと、夏期であればみな氷を用い、人を殺して殉葬する。多い時には殉葬者が数百人に達する。死者を厚葬し、遺体を納める棺(ひつぎ)があるが槨(かく)はない。また、喪に停すること5月、久しきを以って栄とする。その亡くなった者を祭るのに「生」と「熟」がある。喪主は速やかなるを欲せずして他人がこれを強制し、常に諍引してこれを節とする。男女は皆純白の喪服を着用し、婦人は布面衣(布製のベール)を着用し、環珮(腰に付ける環状の玉)を去らす。これらのことは大体中国と似ている。
その他の風俗
人々は体格が非常に大きく、性格は勇敢で、謹み深く親切であり、あまり他国へは侵略しない。
通訳が言葉を伝える時、みな跪いて両手を地につけ、小声で話をする。
戦争を始めるときは天を祭り、牛を殺してその蹄を見て開戦の吉凶を占う。蹄が開いていれば「凶」、蹄が合わさっていれば「吉」である。戦争になれば、諸加はすすんで戦う。下戸は食糧を担いで諸加に従い、諸加は下戸の荷う食糧を飲食する。
東夫余と北夫余
『三国史記』や『三国遺事』などには北夫余と東夫余という二つの国が存在するが、テンプレート:要出典範囲。22年に高句麗に滅ぼされたというが、神話的な伝承が多く、ほぼ伝説上の存在である。それとは別に、東夫余という名は『広開土王碑』にわずかな記録があって5世紀に存在したことが知られる。いずれも詳細は不明である。
言語系統
中国の史書によると、夫余の言語は高句麗と同じとされ[12]、沃沮と濊もほぼ同じとされる[13]。一方、東の挹婁は独特の言語を使っていたとされ、夫余の言語と異なる[14]と記される。ここで2つの言語系統が存在することがわかるが、夫余語が現在のどの系統に属すのかについては古くから論争があり、現在に至ってもよく解っていない。
- ツングース+モンゴル語系説…比較言語学的研究により、穢貊系(濊系、扶余系)の語彙[16]の多くがツングース系の語彙と共通し、かつモンゴル系の語彙も含むことから、夫余・高句麗語はツングース系をベースとしたモンゴル系との混成語であるとする説[17]。これに対し、粛慎系の言語はモンゴル系などが混じっていない「純ツングース系」とされる。
- 夫余語系説…比較言語学的研究により、『三国史記』所載の高句麗地名から抽出した高句麗語語彙が、ツングース系語彙よりも日本語や中期朝鮮語語彙に多く共通するとして、アルタイ祖語は夫余・日本・朝鮮・韓共通語とテュルク・モンゴル・ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫余語とに分かれ、ついで原始夫余語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとする説[18]。しかし、村山七郎や清瀬義三郎則府は、高句麗語と朝鮮語は遠いことを示すと共に、日本語と近縁の言語とし[19]、そもそも高句麗語の存在や不正確さも指摘している[20]。
- モンゴル語系説…北夫余の故地に在った豆莫婁の言語は、室韋,庫莫奚,契丹と同じであることが『魏書』に記されており、『新唐書』にある北夫余の末裔を自称した達末婁が同じ国であるため、言語的にも末裔であればこれらの言語系統はモンゴル系になる。しかし支配層と民衆の言語が異なる可能性も有る。
歴代君主
東夫余
北夫余
- 夫台王
- 尉仇台王
- 簡位居王
- 麻余王
- 依慮王
- 依羅王
- 蔚王(※夫余王か疑問)
- 玄王
- 居王
脚注
- ↑ 扶餘(扶余)の語は五代十国時代以降の史書(『旧唐書』、『新唐書』、『旧五代史』、『宋史』、『三国史記』など)から使われるようになったものであり、実際に夫余国として存在した南北朝時代までの呼び名としては夫餘(夫余)である。
- ↑ ただしそれが夫余という名であったかどうかは不明である。
- ↑ これは蒼海郡を廃止した際、穢君に「穢王之印」与えたものである。このことからして夫余王の祖先がこの時の穢人の君主に関係あることがわかる。
- ↑ 玄莵郡は蒼海郡の復活でもあり、「穢王之印」を所有した穢人の勢力は北に逃げて鹿山(吉林省の農安県とする説と黒龍江省のハルビン市とする説がある)の地に依り夫余国を建てた。
- ↑ これは夫余の名を遡って記述した可能性もある。
- ↑ 『後漢書』東夷列伝
- ↑ 『三国志』魏書文帝紀「濊貊、扶餘單于、焉耆、于闐王皆各遣使奉獻。」
- ↑ 『三国志』魏書東夷伝
- ↑ 『晋書』四夷伝
- ↑ 廣開土境平安好太王 碑文
- ↑ 加は、後世のモンゴルの「汗」と同語源である。飼育していた家畜の種類を分担して飼育していたとの説、各氏族のトーテム説、それぞれの領域の方角を十二支で表した説、夫余語の東西南北の音写(当て字)であるとする説などがあるがいずれも反論があり不明である。史料には馬加,牛加,豬加,狗加しか現われず「四出道を守る」とあることからもともと四加しかないとみる説と、「六蓄の名」とあることから史料に現われない「牛加」「鶏加」があったとみる説、五加として高句麗の五部族と同系の制度とみる説とがある。高句麗の五部制では中央の部が王家で他の四部との連合体であるが、夫余王はそのような物理的な基盤がなく宗教的な権威で諸加の上に推戴されているとみられる。
- ↑ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 高句麗「東夷舊語以為夫餘別種,言語諸事,多與夫餘同」、『後漢書』東夷列伝 高句驪「東夷相傳以為夫餘別種,故言語法則多同」
- ↑ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 東沃沮「其言語與句麗大同,時時小異。」濊「言語法俗大抵與句麗同,衣服有異。」、『後漢書』東夷列伝 東沃沮「言語、食飲、居處、衣服有似句驪。」濊「耆舊自謂與句驪同種,言語法俗大抵相類。」
- ↑ 『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 挹婁「其人形似夫餘,言語不與夫餘、句麗同」、『後漢書』東夷列伝 挹婁「人形似夫餘,而言語各異」
- ↑
- シロコゴロフ著、川久保悌郎・田中克巳訳『シロコゴロフ 北方ツングースの社會構成』(1942年、岩波書店)p285-p287「鳥居龍蔵氏は彼らを北朝鮮の強国、夫余及び高句麗の建設者と見做し、彼等をツングースであろうと考えている。」
- 『白鳥庫吉全集 第4巻』(1970年、岩波書店)P536「『穢貊は果たして何民族と見做すべきか』穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
- 井上秀雄、他訳注『東アジア民族史1-正史東夷伝』(1974年、平凡社)p103「(高句麗、夫余の)両族は、ともにツングース系と考えられている。両族が同系であることは始祖神話(東明・朱蒙伝説)の類同によっても推測できよう。」
- 加藤九祚『北東アジア民族学史の研究』(1986年、恒文社)p156「高句麗は北扶余から発したとされるが、その北扶余がツングース・満州語族に属することは定説となっている」
- 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p161「Ⅱ(夫余、高句麗、濊、東沃沮)の言語はツングース・満州語の一派か、またはそれに近い言語と思われるが、むしろ朝鮮語と近い親縁関係にあるか、詳しく調べてみなければわからない。」
- 鳥越憲三郎著『古代朝鮮と倭族』(1992年、中央公論社)「高句麗は紀元前1世紀末、ツングース系の濊族によって建国」
- 『Yahoo!百科事典』「【濊貊】前3世紀ごろモンゴル系民族に押されて朝鮮半島北東部に南下し、夫余(ふよ),高句麗(こうくり),沃沮(よくそ)を構成したツングース系の諸族を含むのである《浜田耕策》。【夫余】古代中国の東北地方に割拠していたツングース系と思われる民族が建てた国名《村山正雄》」
- 南出喜久治「私の見解では、高句麗は、建国の始祖である朱蒙がツングース系(満州族)であり、韓民族を被支配者とした満州族による征服王朝であつて、韓民族の民族国家ではないと考へている。(いはゆる「保守論壇」に問ふ ‹其の五›日韓の宿痾と本能論)」
- ↑ 中国史書にわずかに見える漢文語彙。
- ↑ 白鳥庫吉「穢貊は果たして何民族と見做すべきか」(『白鳥庫吉全集 第4巻』1970年、岩波書店)「穢貊の言語には多量のTunguse語に少量の蒙古語を混入していることが認められる。想うにこの民族は今日のSolon人の如く、Tunguse種を骨子とし、之に蒙古種を加味した雑種であろう。」
- ↑ 三上次男・神田信夫編『民族の世界史3 東北アジアの民族と歴史』(1989年、山川出版社)p169「彼(李基文)によると、アルタイ諸語と朝鮮語の間に動名詞語尾と若干の曲用語尾について一致が見られるという。また、語彙の比較においては、かなりの一致が朝鮮語とアルタイ諸語に共通して見出され、そのうち、朝鮮語とツングース諸語の間に語彙の一致がもっとも多く、ついでモンゴル諸語との間にも興味深い一致が見出され、チュルク語との間には一致するものが非常に少ないという。(中略)こうした状況のなかで、李基文は『三国史記』所載の高句麗地名からかなりの語彙を抽出し「高句麗語」としてとらえ、朝鮮語、日本語、ツングース語との比較を試みた(1966年)。そして、高句麗語が、朝鮮語(新羅、中世語)と著しい語彙の一致をみせ、日本語とも多くの共通語をもち、ツングース語とも若干の一致例をみせるとし、アルタイ祖語が原始夫餘・原始韓共通語とチュルク、モンゴル、ツングース共通語の二つに分離し、前者が原始韓語と原始夫餘語とに分かれ、ついで原始夫餘語が高句麗語と原始日本語とに分かれたとして、高句麗語は日本語と朝鮮語との親縁関係をつなぐミッシング・リングの位置を占めると主張した。《梅田博之》《李基文「韓国語形成史」(『韓国文化史大系Ⅴ.言語・文化史』)ソウル1967 p21-122、李基文「高句麗の言語とその特徴」(『白山学報』4号)1968(中村完訳、『韓』第10号 東京韓国研究院 1972;池田次郎・大野晋編『論集 日本文化の起源5 日本人種論・言語学』平凡社 1973 p594-627)》」
- ↑ 清瀬義三郎則府『日本語学とアルタイ語学』(明治書院、1991年)
- ↑ 金東昭(訳:栗田英二)『韓国語変遷史』(明石書店、2003年)、金芳漢『韓国語の系統』(三一書房、1985年)
- ↑ 朱国忱・魏国忠(訳:佐伯有清・浜田耕策)『渤海史』(1996年、東方書店)
参考文献
- 『三国志』烏桓鮮卑東夷伝、魏略
- 『後漢書』東夷列伝
- 『魏書』列伝第八十八
- 『晋書』四夷伝
- 『周書』列伝第四十一 異域上
- 『隋書』列伝第四十六 東夷
- 『北史』列伝第八十二
- 『旧唐書』列伝第一百四十九上 東夷
- 『新唐書』列伝第一百四十五 東夷
- 『旧五代史』外国列伝二
- 『宋史』列伝第二百四十六 外国三
- 『三国史記』第2巻