結城晴朝

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結城 晴朝(ゆうき はるとも)は、戦国時代から江戸時代初期の武将下総国戦国大名で、結城氏17代当主。結城城主。叔父結城政勝の養嗣子となり、結城氏を継承。父は小山高朝で三男。室は水谷正村の娘あるいは山川氏の娘(山川晴重のおば)。妹に江戸重通室。養子に朝勝秀朝(のち秀康、徳川家康の次男)。元服に際し古河公方足利晴氏偏諱を受けて晴朝と名乗る(初め小山姓)。通称は七郎

生涯

天文3年(1534年)8月11日、小山高朝の三男として生まれる。弘治2年(1556年)、小田氏との海老島合戦に参加し、小田城を攻める。永禄2年(1559年)8月に叔父の結城政勝が死去すると、嫡男・明朝が既に没していたために結城家の家督を継承する。この時、晴朝は養父・政勝に迫られて、実父・小山高朝との「親子之好」を切るという起請文を作成して古河公方の使者(実質は北条氏の名代)である瑞雲院周興に提出したとされている(「乗国寺文書」小山高朝書状)[1]

永禄3年(1560年)、佐竹氏宇都宮氏、小田氏が共同した大軍で攻めてきたが、晴朝はこれを結城城に籠もって撃退し、和議を結んだ。同年に佐竹氏の要請で、越後国の長尾景虎(上杉謙信)が関東管領上杉憲政を奉じて遠征するが、晴朝は叔父・政勝の路線を引き継ぎ古河公方の足利義氏(晴氏の子)及び北条氏に加担する。景虎が関東管領に就任すると反北条に転じる。元亀元年(1570年)、小田領へ攻め入り、平塚原の戦いで小田氏治と激突している[2]。政勝の路線を継承して、結城氏の再興・拡大を意図する以上、結城氏と同様に北条氏と上杉氏との間で生き残りを模索する実家の小山氏との対立は避けることは出来ず、実父・小山高朝ともたびたび交戦した。天正元年(1573年)に高朝が死去した際にも、敵である結城氏の当主として駆けつけることが出来ない事情を結城氏の菩提寺で高朝とも親交があった乗国寺の住職に伝えて代わりに焼香に行かせている[1]

天正4年(1576年)に兄の小山秀綱北条氏照に降伏すると、翌天正4年(1577年)、北条氏に攻め込まれた。この時、嗣子の無い晴朝は同年12月に宇都宮広綱の子・朝勝を養子として迎え、自身の妹を佐竹義重(朝勝の母の兄)の傘下である江戸重通に嫁がせる。さらには那須資胤が娘を佐竹義重の嫡男徳寿丸(後の佐竹義宣)に嫁がせるなど、婚姻関係を通じて周辺領主と連合することで、北条氏の攻撃をしのいでいる。

後には豊臣秀吉に従い、天正18年(1590年)には小田原征伐に参陣して所領を安堵された。晴朝は秀吉に臣従した頃より秀吉との結びつきを求めて水谷勝俊を通じて養子縁組を願い出ており、秀吉が養子としていた徳川家康の次男・秀康に養女の鶴子を嫁がせて養嗣子として迎え、秀康(一時期晴朝から一字与えられ秀朝に改名)に家督を譲ると隠居する。ただし、市村高男の研究によれば、この時晴朝は既に隠居して、一度朝勝に家督を譲っていたと考えられ[3]、実際に天正15年(1587年)初めから天正18年(1590年)4月まで、結城氏の知行・官途・受領名に関する文書に晴朝の花押が確認できないとされている。天正18年5月に晴朝が北条方についた小山秀綱の小山城榎本城を奪い、朝勝が実兄宇都宮国綱とともに秀吉の下に参陣しているため、この時期には晴朝が結城氏当主に一時的に復帰して、朝勝は実家の宇都宮家に戻っている[1]

関ヶ原の戦いの後、秀康が慶長9年(1604年)に越前国へ転封となると、晴朝もこれに従う。ところが、この頃より秀康およびその周辺で徳川氏への復帰が図られるようになり、慶長12年(1607年)に秀康が死去すると、跡を継いだ忠直(秀康の嫡男)は松平姓を称するようになる。実父(小山高朝)や養子(結城朝勝)との縁を切ってまで守り抜こうとしていた鎌倉時代以来の結城の所領と家名があっさりと捨てられる事態[4]に晴朝は衝撃を受け、徳川家康に懇願して秀康の五男・結城直基を養育して結城家を継承せしめた(直基も後に松平姓を称した)。また、結城への帰還を願いながら、一族の家系図・過去帳・家伝などを編纂して、結城にある結城氏ゆかりの寺社などに納めるようになる[1]

慶長19年(1614年)7月20日に越前国北ノ庄[5]または中久喜城(茨城県結城市・一部栃木県小山市)にて81歳で死去テンプレート:要出典。法名は泰陽院殿宗静孝善大居士。領地は結城直基が相続した。晴朝の死をもって、結城氏の血脈は断絶したが、結城氏の祭祀は歴代の前橋松平家が継承した。

墓所は福井県福井市の孝顕寺。終焉の地、中久喜城跡はJR水戸線によって真っ二つに横断されており、遠目にはそれとわからない。

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:下総結城氏当主
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 市村高男「隠居後の結城晴朝」(初出:渡邊平次郎『現代語版結城御代記』上(私家版、1993年)/所収:荒川善夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4
  2. 『小田氏十五代―豪族四百年の興亡-下巻』 (1979年) (ふるさと文庫―茨城) [古書]小丸俊雄 (著) P72-74
  3. 市村高男 「当主の居城と前当主(または継嗣)の居城」(千葉城郭研究会 編 『城郭と中世の東国』(2005年 高志書院 ISBN 4862150063)
  4. 「乗国寺文書」に残された結城晴朝の書状の文中には「朝光以来不安名字ニ付瑕疵事」「外聞内儀失面目、先祖迄付疵申事」と記され、結城朝光以来の家名存続に対する思い入れの強さを示している(市村、2012年、P312)。
  5. 荒川善夫「下総結城氏の動向」(荒川善夫 編著『シリーズ・中世関東武士の研究 第八巻下総結城氏』(戒光祥出版、2012年)ISBN 978-4-86403-069-4 )