小山高朝

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小山 高朝(おやま たかとも)は戦国時代の武将。結城政朝の三男。小山政長の養嗣子。

生涯

下野国を代表する勇将として知られた。古河公方足利高基偏諱を受けて高朝と名乗る。永正16年(1519年)、高基の意向を受けて小弓公方足利義明に味方する真里谷氏の城である上総国椎津城を攻撃した武将の中に「結城六郎」が含まれており、これが後の高朝と推定されている。1535年頃に小山政長の養嗣子となって小山氏の家督を継承した。なお、この際山川氏から来た同じ養子の小四郎を倒したとされている。

その後は父や兄と協力して、結城氏の敵対勢力と戦う。1547年に父が死ぬと、その隙を突いて宇都宮氏が攻めてきたが、高朝は兄と協力してこれを駆逐した。

1549年北条氏康が古河公方・足利晴氏(高基の嫡男)の後継に足利義氏を擁立しようと画策したのに対して、嫡男足利藤氏を擁護する高朝はこれと対立する。だが、兄・政勝がその圧力に屈して義氏方についた上に自分の嫡男である秀綱までもこれに同調したため、隠居を余儀なくされ、1560年頃に秀綱に家督を譲った。1561年上杉謙信が大軍を率いて氏康を攻めたときは、上杉軍の一員として参じている。しかし、謙信の関東管領就任式で千葉胤富に関東諸将の首位の座を奪われたことに不満を抱いたと言われており、直後に氏康と手を結んだために謙信の怒りを買うこととなり、翌1562年、高朝は謙信に攻められて降伏した。その後は秀綱に小山城を譲り渡して榎本城に退き、1570年頃に出家して命察と号する。

兄の結城政勝の死後、三男の晴朝がその家督を継いだが、晩年の高朝は結城氏の菩提寺の住職にあてて「自分が小山氏を継いだ頃は、何かがあると両親(結城政朝夫妻)が小山に来るので困惑したものだが、晴朝の事を考えると両親の気持ちが良く分かる」という趣旨の手紙を出して、自分に代わって晴朝を助けてくれる様に求めている。一方、晴朝も同じ頃に父の健康が優れない事を聞いて、乱世で結城氏を守るためとはいえ父を攻めた罪に悩んでいる事を同じ住職に告白する手紙を送っている。この頃の関東は、古河公方家の内紛や北条氏上杉氏の争いの影響を強く受け、親子や同族が敵対する側に立って互いを攻め合う事が多くあり、小山・結城両氏も例外ではなかったのである。

1574年、北条氏政を攻めようと軍備を整えていた直後に急死した。

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