結城朝勝

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結城 朝勝(ゆうき ともかつ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将

永禄12年(1569年)、下野国大名宇都宮広綱の次男として生まれる。

天正5年(1577年)10月、水谷勝俊の交渉によって結城晴朝養子となる。これによって宇都宮氏結城氏、そして佐竹氏は3者同盟を結んで北条氏政に対抗した。天正6年(1578年)、後北条氏常陸国に侵攻した際(小川台合戦)、3者連合軍は力を合わせてこれを撃退した。このとき、朝勝は初陣している。

しかし、天正18年(1590年)、結城秀康が結城氏の養嗣子として入嗣すると、朝勝は相続権が無くなって実家の宇都宮氏のもとへと戻った。ただし、近年の異説として天正15年(1587年)の段階で既に朝勝が結城氏の家督を継いでいたものの、晴朝が結城秀康を養子とするために朝勝を結城氏当主の座から退かせたとする説も存在する[1]

その後は長兄の宇都宮国綱に従い、文禄の役では肥前名護屋城に参陣したが、慶長2年(1597年)に宇都宮氏が改易されると、母方の従兄弟にあたる佐竹義宣のもとへ寄食した。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こると上杉景勝に与して白河城に入り、景勝と義宣の間を取り持つ役目を果たしたり、宇都宮氏の旧臣に下野で挙兵するように促すなどしている。佐竹氏が出羽久保田藩に減移封されるとそれに従ったが、大坂の陣には豊臣方として参戦し、生き延びた。戦後は宇都宮姓に復し、宇都宮恵斎宗安(そうあん)と名乗った。晩年は神官となったという。

寛永5年(1628年)4月3日に死去。享年60。朝勝(宗安)には子が無く、真壁重幹(しげもと、真壁氏幹の甥)の次男を婿養子として迎え、宇都宮光綱(みつつな)と名乗らせ、宇都宮氏の家名を残した。この宇都宮氏はそのまま久保田藩佐竹氏に仕えていくこととなる(こちらを参照)。

脚注

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  1. 天正15年(1587年)前後に発給された結城氏当主の文書に結城晴朝とは明らかに別人の花押が記されたものが存在する事が確認されたこと、加えて同時期晴朝が御台所に依頼を受けた(従来は晴朝の正室と考えられていたが、晴朝正室の水谷正村の娘(山川氏の娘とする説もある)は既に病没していた事が明らかになった)旨の文書が発見された事から晴朝とは別の「結城氏当主」が存在した可能性が浮上してきた。この場合の「当主」とは結城朝勝であると考えられる(市村高男 「当主の居城と前当主(または継嗣)の居城」(千葉城郭研究会 編 『城郭と中世の東国』(2005年 高志書院 ISBN 4862150063)参照)。