ABCヤングリクエスト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年8月21日 (木) 00:14時点におけるDr jimmy (トーク)による版 (依頼失効につきテンプレート除去)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:基礎情報 ラジオ番組 ABCヤングリクエスト(エービーシーヤングリクエスト)は、朝日放送ABCラジオ)で1966年昭和41年)4月1日から、1986年(昭和61年)10月3日まで放送された、リスナー参加のリクエスト音楽番組である。通称"ヤンリク"

概要

ハガキによる楽曲のリクエストを主体に、多彩なコーナーを盛り込みながら、ABCラジオにおける深夜放送の基礎を築いた生放送番組。『MBSヤングタウン』(MBSラジオ、開始当時は『歌え!MBSヤングタウン』)、『日本列島ズバリリクエスト』(放送当時は近畿放送ラジオ、現在はKBS京都ラジオ)などとともに、長きにわたって関西地方名物の深夜放送として君臨した。

番組開始から1983年10月2日までは、月曜から日曜までの毎晩午後11時10分から放送されていた。当初は午前2時で放送を終えていたが、後に放送時間を午前3時まで延長。ABCラジオが24時間放送を開始した同年10月3日からは、土・日曜放送分に『ヤンリク サタデー(サンデー)スペシャル』というタイトルを冠して、午前0時40分から午前3時まで放送。1984年からは、平日で午後10時から午前3時までの5時間生放送を実施していた。

番組コンセプト

男性アナと女性タレント

朝日放送(ABC)の若手アナウンサーと女性タレントの2人1組をパーソナリティに起用して、毎晩(土・日曜含む)23時台-翌朝午前3時にかけて放送された。選曲のジャンルは多岐に亘り、受験生が主要なターゲットであったが、深夜に働く大人も意識し、歌謡曲なども多く放送された[1]

初代の男性パーソナリティーは、道上洋三辻豊人因田宏紀の3名が日替わりで担当した。以来1960年代後半から1980年代前半にかけて入社した同局の男性アナウンサーのほとんどがヤンリクを経験し、ここにフリーの女性アナウンサー・タレントが加わり、男女2名で進行した。在阪他局の深夜番組がお笑いタレントやミュージシャンなどで出演者を構成するなか、若手男性アナウンサーと若手女性パーソナリティの組み合わせでの放送は、番組終了まで続けられた。

なお、夏の全国高等学校野球選手権大会の開催期間中、朝日放送では全試合の中継をテレビ・ラジオ各々で終日行っており、加えて、プロ野球中継もあることから男性アナウンサーが払底することがあり、このときに限っては女性アナウンサー2人、または女性アナウンサーと女性タレント各1名という暫定的な放送が行われることがあった。

プレゼント

当番組には、「はがきで当てよう!!車と1万円」というキャッチコピーが付いていた。そのため、リスナーから寄せられたはがきを1ヶ月間保存し、月末に抽選。日産自動車(後にいすゞ自動車)提供の自動車と賞金1万円が各1名ずつプレゼントされた。なお現金1万円のプレゼント人数は徐々に増え「車と1万円×3」を謳った時期を経て、番組末期は「車と6万円」と、1万円の賞金が6人に増えた。

また番組では、ノベルティグッズとして、シャープペンシル、ノート、カセットテープ、ステッカー、スポーツバッグ、オルゴールなどを製作[2]。ステッカーなどには、魚を模したキャラクターの"オトト"が入っていた。また、「ホロホロコーナー」では、星座別スプーンをリスナーに進呈。一部の商品は、大阪タワー(当時の朝日放送本社敷地内にあった電波塔)の売店で販売された。1970年6月20日から数年間は、番組の公式小冊子として「ヤンリクメイツ」を定期的に刊行していた[3]

「一山の石炭より一粒のダイヤモンド」

当番組では、リクエスト曲とリスナーを尊重する立場から、歴代のプロデューサーがその時々のパーソナリティに下記のようなルールを課してきた。

  • 「一山の石炭より一粒のダイヤモンド」(放送中には、たくさんの言葉であれこれ喋るより、少しであっても気の利いた言葉を喋ること)
  • 放送する楽曲を、パーソナリティ自身のセンスや独断で選ばないこと。
  • 番組に送られてきたハガキには、リクエスト曲だけを書いている場合を除いて、担当のパーソナリティが放送前にすべて目を通すこと。
  • 放送中にリスナーからのハガキを読む際には、発送元の住所を基準に、大阪市内→大阪府内→関西地方の他府県→その他の地方の順で紹介すること[4]
  • 放送中にリスナーや歌手の名前を紹介する際には、必ず最後に「さん」を付けること。

ABCのアナウンサーをパーソナリティに起用する際には、アナウンス部から推薦された若手アナウンサーに対して、局内で厳しいオーディションを実施。パーソナリティとして出演できるようになるまで、オーディションを数回経験させられたアナウンサーもいたという[5]。当番組が穏和で折り目正しい雰囲気を保っていたのは、パーソナリティのキャラクター・話術に加えて、このような制作サイドの姿勢によるところも大きい。

コーナー

リスナーからのリクエストはがきの合計でヒットチャートを毎晩決定する「ヤンリク・ベスト20」の他、パーソナリティーの個性を生かしたコーナー「ヤンリク・おもちゃ箱」(後に「らくがき帳」「トライアルスポット」)、PRコーナー「命を賭けてる60秒」などがあった。

この他、タレントが出演するコーナーとしては以下のものがあった。

  • ABCミッドナイト寄席
    落語や漫才などの演芸コーナー。東阪企画社長などを務めた朝日放送OB澤田隆治が在職中から構築し独立後後輩社員が引き継いだ『ABC落語ライブラリー』を利用する貴重なコーナーで、『ABC上方落語をきく会』の演目が放送されることもあった。1971年(昭和46年)11月11日にはこのコーナーの超拡大版ともいえる『1080分落語会』が放送され伝説的興行となる程の成功を収めた。
    当番組終了後平成に入ってからも『ウシミツリクエストABC』『ABC発午前1時』で復活(いずれも放送終了)。現在は日曜日朝に独立番組『日曜落語 〜なみはや亭〜』として放送されている。テンプレート:Mainテンプレート:See also
  • 仁鶴・頭のマッサージ
    笑福亭仁鶴がさまざまな聴取者からの投稿を紹介。猛スピードで紹介し、リアクションする語り口が話題を呼んだ。なお、コーナー開始当初は生放送だったが、仁鶴の人気が上がり、録音コーナーとなった。なお仁鶴出演の番組内コーナーには「仁鶴のふるさと昔話」「仁鶴のヤンリク土曜アラカルト」(ともに1978年頃)もあった。1992年(平成4年)1月1日発売の嘉門達夫のアルバム『天賦の才能』の1曲目「アカペラな夜」には本コーナーの一部が収録されている。
  • ミキサー完備 スタジオ貸します
    番組のテーマ曲を作曲したキダ・タローが出演する、アマチュアミュージシャンの演奏コーナー。出場ミュージシャンの学校や職場の仲間、肉親を第1スタジオに招いた公開生放送のスタイルで、キダの辛辣な審査コメントが人気となる。月間賞に選ばれるとキリンレモンが送られたほか、セイコーが協賛し「セイコー・ヤングスタジオ」という冠をつけたこともあった。なお、このコーナーには河島英五庄野真代らがデビュー前に出演した。1990年代末には「キダ・タローのステージ貸します」としてリバイバルされた。
  • 心の旅 遠くへ行きたい
    青春の悩みや夢など、真摯な投稿と詩の朗読をするコーナー。メインの出演者である「謎のおじさん」は高尾元通(当時朝日放送アナウンサー。後にアナウンス部長を経て同局解説委員)。アシスタントは川田恵子、後に小菅文代が担当。なお「謎のおじさん」の正体は、番組の最終回で披露された。
  • ホロホロコーナー
    占星術師・香月星苑監修による占いコーナー。番組終了後も後継番組『乾龍介のホットポイント』の中で「ホロスコープ・ホットポイント」として継続した。『ウシミツリクエスト』でも、「ウシミツほろほろコーナー」として放送している。
  • ヤンリク・ラジオキッチュ
    「心の旅」の終了を受けて、1985年(昭和60年)年4月に放送を開始。文化人などのモノマネで注目を浴びたキッチュ(後の松尾貴史)による、投稿やミニコントのコーナー。アシスタントは牧野エミ。なお「心の旅」「ラジオキッチュ」は花王石鹸の提供だった。
  • ヤンリク共和国
    月亭八方と桂べかこ(後の桂南光)が日替わりで担当するフリートーク中心のコーナー。
  • たむたむたいむ
    ニッポン放送製作の企画ネット番組。番組パーソナリティがそのまま担当。
  • 浜村淳のミッドナイトブレイク
  • ふぁんふぁん・アラモード
  • キリン・ヤングスタジオ
  • ABC発午前2時○○分“心の旅”
  • 朝日新聞ニュース・天気予報

テーマソング

「星があなたにささやく夜も 小窓に雨が降る夜も…」のフレーズで知られるテーマソング(キダ作曲)は、奥村チヨ岡本リサふたつのさくらンぼ松原みき岩崎良美桑田靖子ラブポーション(現在も中村貴子がタレント、音楽ライターとして活動)ら当時の人気歌手が歌っていた。

当初、テーマ曲の歌詞は東京在住の高名な作詞家に依頼した。しかし、番組開始の昭和40年代は、東京と大阪の色の違いが激しく、発注した番組プロデューサー・今田昭にはしっくりこなかった。しかし、何度か修正を依頼しているうちに、放送開始日が迫ってきてしまい、今田自身が自ら作詞をした(最終回に於いて今田本人が述懐した)。

なお、このメロディーは、2000年代になって朝日放送の携帯用ウェブサイトからダウンロードできるようになった。また、当番組でパーソナリティを務めた元アナウンサーが週替わりで出演した『Club JONR』(ABCラジオの深夜番組、2009年10月10日2011年10月1日まで放送)では、奥村が歌ったテーマ曲が当時のオープニングコールとともに番組の途中(午前3時台)で流れた。

リスナーとの交流企画

当番組では、楽曲のリクエストを主体に放送していた関係で、『MBSヤングタウン』などの深夜番組に比べてリスナーによる投稿コーナー(いわゆる「ネタコーナー」)が限られていた。その一方で、富士山への登頂を目的にした1泊3日のバスツアーをはじめ、リスナーとの交流企画を随時実施。主に週末を使っての企画だったため、全ての曜日で放送していた時期には、土・日曜担当のパーソナリティがスタジオで「お留守番」をすることが多かったという[6]

ヤンリク担当のアナウンサーによる生での放送終了アナウンス

1983年10月2日までは、当番組がABCラジオにおける1日の最終番組であった[7]

その為、番組終了の午前3時を過ぎると放送終了アナウンス「今夜も朝日放送ラジオを最後までお聴きくださいましてありがとうございます。この後、朝日放送ラジオは暫く放送をお休みいたしまして…」のコメントを男性アナウンサーが生放送でコメントし、最後にコールサインの「JONR」を2度コール。その後オルゴール[8]の音色で放送を締めくくった[9]

なお、1983年9月までは午前3時終了とはなっていたものの、その後の番組がなかったこと、また、プロ野球シーズンのナイター中継の試合時間による延長によっての後続番組の放送時間開始の遅延があった事、放送終了アナウンスが生放送であったことから、融通を利かせた放送編成であった。午前3時前から流していたレコード音楽は時報を過ぎても最後まで流すなど、予定されたレコードの数が多すぎて午前3時までに終わらないときや、ナイター中継の延長により後続番組の放送時間開始の遅延があった場合は、10分・20分と更に終夜放送までと放送終了時間を現場裁量で伸ばしていた。

番組終了とその後

1983年頃から番組に陰りが見え始める。1984年には10時スタートとし、5時間の超ワイド編成となった。

コーナーのテコ入れ、プレゼントもリニューアルを図ったが、マンネリ化していた事と番組も20年間を全うした事、そして当時の編成局長による「番組の活力がまだ十分ある内にこそ、ゆとりを持った新しい番組を開発しなければならない」といった理由もあり[10]1986年(昭和61年)10月3日の放送をもって終了した。なお、最終日のパーソナリティは、石原勝アナウンサー(当時)と阪口佳澄であった[11]

最終回

最終回には歴代のパーソナリティー・レギュラー出演者らを迎え、朝日放送ラジオ第1スタジオに50人の聴取者を招き「ヤンリクお別れ大放送」のタイトルで、午前5時まで放送された。前日の放送で発表された「20年6ヶ月のベスト20発表」に続き、同年1月からのリクエストランキングを発表する「1986年のベスト20」のほか、OBアナウンサーが3部構成で担当する「懐かしのパーソナリティー」では、道上洋三、金木賢一乾龍介のアナウンサーがそれぞれ進行役となり、思い出やエピソードを語り合った。

また、すでに終了したコーナーの出演者も登場。「仁鶴・頭のマッサージ」のコーナーには、当時の仁鶴をよく知る村井守(元アナウンサー)がエピソードを語ったほか、「ミキサー完備・スタジオ貸します」のコーナーは、キダ・タローの他、当時一般出演者として番組に参加したタレント・土谷多恵子がその時の同録テープを持参して登場。「心の旅・遠くへ行きたい」では「謎のおじさん」の正体が明かされた。

この他「ヤンリク・ラジオキッチュ」「ヤンリク共和国」の出演者も登場。番組後半では、ヤンリク生みの親・今田昭(番組終了時は朝日放送事業局次長)も初めてマイクに前に姿を現した。また、イギリス・BBCに出向中のヤンリクOBアナウンサー・長沢彰彦からの国際電話も入った。また、翌朝に放送された同局のTV番組『おはよう朝日です』のカメラが入ったほか、雑誌「ラジオパラダイス」(三才ブックス)がカラーグラビア3ページに渡って、最終回の模様を取り上げた。

エンディング前は番組の原点に戻り、リクエスト曲とメッセージの紹介を行い、ラストナンバーとして、森山良子の「今日の日はさようなら」を紹介。エンディングテーマを出演者・会場のリスナー全員で歌い、20年6ヶ月の放送に終止符を打った。

放送終了後

ABCラジオでは、当番組の終了後も、月~金曜日の同時間帯に自社制作の生放送番組を次々と編成。当番組のコーナー企画の一部(「ホロホロコーナー」「命を懸けてる60秒」「ミッドナイト寄席」など)は、後に『ウシミツリクエストABC』で復活した。

しかし、1991年10月から放送されてきた帯番組『ABCミュージックパラダイス』が、2009年7月の番組改編で終了。同月以降は、後継番組『ミューパラ アグレッシブ』(金曜のみ放送)が当番組の系譜を辛うじてつないでいたが、2012年6月29日の放送で終了した。

復活放送

1990年代後半には、当番組でパーソナリティを務めた中原秀一郎が、『青春プレイバック・秀さんのヤンリク時代』(平日11:00~11:45、1996年4月1日1997年12月31日放送)と題した番組を担当。当番組が放送された1960~80年代の楽曲のリクエストを中心に放送した。

また、1990年3月の朝日放送創立40周年記念日、2000年11月の開局50周年記念日にそれぞれ放送された特別番組の中でも、当番組がスペシャル企画として復活。1990年には道上、2000年には金木賢一(当時役員室勤務)がメインパーソナリティーを務めた。

ちなみに、前述の『Club JONR』には、当番組のパーソナリティ経験者から嶋田崇彦、金木、成宮恒雄西野義和、中原、石原が週替わりで登場(出演順、いずれも元アナウンサー)。道上をナビゲーターとして、当番組の裏話や思い出の楽曲を放送した。

2010年11月13日には、ABCラジオ開局60周年記念として特別番組が放送され、番組コーナーの一環として当番組がスペシャル企画として復活した。道上がパーソナリティを務めたバージョンと、和沙哲郎阪口佳澄[12]がパーソナリティを務めたバージョンの2本が放送された。さらには道上の最終担当日(1974年8月29日)の音源も流れた。また出演者が番組の思い出を語り合うコーナーも放送され、道上と同時期にパーソナリティを務めた熊谷瞭子も電話出演した。テンプレート:Main

CDボックス「ABCヤングリクエスト フォーエバー」

朝日放送では2014年3月16日から、レギュラー放送時代の音源を5枚組のCDに収めたCDボックス「ABCヤングリクエスト フォーエバー」を、電話および自社直営のショッピングサイト「ABCかうも。」で発売している。

この商品は、学生時代に当番組でアルバイトを務めたことをきっかけに朝日放送へ入社した川崎宏(元・同局ラジオ編成局長、現在は関連会社のエー・ビー・シーメディアコム社長)が、「紐解くと若返る『逆・玉手箱』」というコンセプトの下に企画。当番組を放送していた朝日放送旧社屋(現在は解体)の付近にある専門学校「HAL大阪」の学生が、ジャケットのデザインを担当している。

またCDには、当番組のリクエストで特に人気を博した楽曲や、当番組から誕生した楽曲を収録。以下のパーソナリティ・アシスタントコンビによる出演当時のリクエスト曲紹介の模様、歴代のオープニングテーマ(岡本リサおよび奥村チヨバージョン)の音源、「きこうABC」(往年のABCラジオステーションソング)のインストゥルメントバージョンの音源も収められている。

ちなみにABCラジオでは、発売直後の2014年4月改編から、当番組を放送していた時間帯の編成方針を一新。2009年7月改編から在京局制作番組の同時ネットに充てていた月 - 木曜日の22:00 - 25:00に『よなよな…』、月 - 金曜日の25:00 - 27:00に『夜は、おととも』(いずれもABCの自社制作による生放送番組)を編成する。

主な担当パーソナリティ

1978年11月

1985年4月

1986年10月・最終パーソナリティ

2014年4月時点では、男性パーソナリティのうち、和沙・楠・伊藤がABCでアナウンサーを続けている。和沙と阪口は、同じ時期に当番組のパーソナリティを務めたことが縁で結婚に至ったが、当番組での共演は1回にとどまった(和沙が阪口担当の曜日にパーソナリティ代理で出演)。

歴代男性パーソナリティ

歴代女性パーソナリティ

関連項目

脚注

  1. 当番組が放送された時代には、道勇嘉彦(朝日放送にアナウンサーとして入社、現在は同局報道情報局専任部長)のように、当番組のヘビーリスナーから放送業界に転じる若者が少なからずいた(『Club JONR』2009年11月7日放送分に西野が出演した際の証言より)。番組後期のパーソナリティには、西野や石原のように、学生時代に当番組を聴いていたアナウンサーが起用されることもあった。
  2. 電話機の保留用で、当番組のテーマソングが流れる仕組みだった。
  3. 2009年11月28日放送の『Club JONR』で、嶋田が自ら保存する創刊号の内容を紹介。
  4. 西野がパーソナリティを務めていた1978年頃には、発送元の町名・丁目の読み方まで細かく決められていたという(前述『Club JONR』での西野の証言より)。
  5. いずれも、当番組のパーソナリティを務めた金木や西野が、『Club JONR』へ出演した際に証言。男性アナウンサーの場合には、オーディションでの評価を最も優先したため、入社1年目の秋から当番組に出演できるとは限らなかった。ちなみに、金木は2年目、西野は4年目で初めてパーソナリティを務めた。
  6. かつて土曜日のパーソナリティだった成宮が、2009年10月31日放送の『Club JONR』に出演した際の証言より。富士山へのバスツアーでは、夕方に朝日放送本社(当時は大阪市大淀区)前を出発してから車中で1泊。翌日の早朝に、富士山の7合目から山頂へ登る趣向であった。平日に登頂を試みる場合には、ツアーに同行したアナウンサーが、『おはようパーソナリティ道上洋三です』の生放送中に7合目から中継リポートを送ることもあった。なお、他の交流企画としては、六甲山でのキャンプファイヤーやフェリーを使った九州旅行などが実施された。
  7. 当時、土曜深夜も午前3時半で放送終了。10月になると『もうすぐ夜明けABC』がスタートし、日曜深夜を除いて終日24時間放送に移行する。
  8. 別名・チンコロカン キダ・タローが作詞・作曲したABCのステーションソング「きこうABC」をアレンジしたもの。
  9. なお、オルゴールは、2010年現在も月曜日未明=日曜深夜の1時の終了アナウンスの後に流れている。
  10. 社史「朝日放送の50年」より
  11. 最終日の日付を含めて、2009年11月21日放送の『Club JONR』で石原が証言。
  12. 和沙と阪口は同時期にパーソナリティを務めていたが担当曜日が異なり、2人のコンビで進行したのは他担当者の都合で和沙が阪口担当の曜日にかわりに1度務めただけだったという。
  13. おはようパーソナリティ道上洋三です』2007年11月19日の放送より。平松は、大学卒業後にアナウンサーとして毎日放送へ入社。その後退社して、放送前日に投開票の大阪市長選挙で初当選を果たした。

外部リンク

「ABC かうも。」 CDボックス『ABCヤングリクエスト フォーエバー』

テンプレート:前後番組