ネルソン・ピケ
テンプレート:Infobox ネルソン・ピケ・ソウト・マイオール(Nelson Piquet Souto Maior、1952年8月17日 - )は、ブラジル・リオデジャネイロ生まれの元F1ドライバーであり、F1世界選手権で1981年・1983年・1987年と、3度のドライバーズチャンピオンに輝いた。
ピケとは母方の姓であり、父親に隠れてレース活動をするために名乗ったものである。日本では1980年代初頭まで、英語読みの「ピケット」と表記されていた。
目次
人物
1980年代のF1を代表するドライバーの1人であり、アラン・プロスト、ナイジェル・マンセル、アイルトン・セナは、日本では纏めて「F1四天王」や「四強」と称された。
シーズン終盤の勝負強さ、効率の良さが持ち味の1つであり、3度のF1タイトルのうち2度は最終戦での逆転というかたちで獲得している。また年間最多勝利数は1986年の4勝(チャンピオン獲得時に限ればいずれも3勝)と、同時期のライバルに比べ優勝回数は多くない一方で、ランキング3位以内に入ったシーズンには、66~75%の入賞率を記録している。
3度のタイトル獲得は、いずれも異なるエンジンメーカーで記録した(1981年フォード、1983年BMW、1987年ホンダ)。自身にとって最盛期といえる1980年代前半から中盤はターボエンジンの全盛期と重なっており、獲得した3つのタイトルのうち、1981年にブラバム・フォード(コスワースDFVエンジン)で獲得したものを除く2つはいずれも、ターボエンジンを搭載した車で獲得した。そのことから、ブラジル本国では「ターボ時代の王」という形容がしばしばなされる。
ドライバーとしての評価以外にも、数多くの女性の間を渡り歩く艶福家ぶり、モナコの海に漂うクルーザーを自宅とする優雅さなど、独特な一面の多い人物だった。
息子のネルソン・ピケJr.(ネルソン・アンジェロ・ピケ)もルノーF1のテストドライバーを務め、2008・2009年とルノーからF1に参戦した(2009年はシーズン途中まで)。
経歴
初期の経歴
父親エスターシオ・ソウト・マイオールは政治家で、ジョアン・ゴウラール政権下(1961年 - 1964年)において保健相を務めた人物である。そのため、1960年のブラジリア遷都に前後して、一家は新首都ブラジリアに移り住んだ。
14歳の頃にカートを始めたが、息子がモータースポーツをすることを望まなかった父親に隠れて活動できるよう母親の旧姓(Piquet)を「Piket」と故意に誤って綴り、初期のレース活動はこの名でエントリーをした。
息子をプロテニス選手にしようと考えていた父親により、高校時代になると米国のアトランタにテニス留学をさせられ、その適性を評価された。しかしピケ本人はテニスには関心がなく、自動車レースへの情熱を持ち続けたため、結局モータースポーツに打ち込むこととなる。
1971年にはブラジルカート選手権においてチャンピオンとなり、翌1972年も連覇。1974年に父親を亡くすが、その後もレースを続け、1976年にジュニア・フォーミュラのフォーミュラ・Veeでチャンピオンとなる。
当時ブラジル人唯一のF1ワールドチャンピオンで、かつブラジルのフォーミュラ・Veeにおいて大きな影響力を持っていたエマーソン・フィッティパルディに目をかけられ、その助力もあって翌1977年はヨーロッパに活躍の舞台を移し、ヨーロッパF3選手権に参戦。初出場で、しかもシーズンフル参戦したわけではないにもかかわらず、ランキング3位に入るという結果を残した。
F1
- 1978年
1978年第11戦ドイツGPにて、エンサインからデビュー。その後、第12戦オーストリアGPから第14戦イタリアGPまで、マクラーレン・M23を使用するカスタマーチーム・BSファブリケーションから参戦、イタリアGPで9位初完走を果たした。
ブラバム時代
- 1978年
第15戦アメリカ東GPを欠場後、最終戦カナダGPにはブラバムにて出走(11位完走)。これは、翌1979年よりニキ・ラウダのNo.2ドライバーとして、ブラバムに移籍することが決まっていたが、オーナーのバーニー・エクレストンの計らいにより、同年中から出走が実現したものであった。
- 1979年
フル参戦1年目ながら、第6戦ベルギーGP、第9戦イギリスGPで予選3位につけるなど速さを見せ、若手の有望株として注目を集めた。アルファ・ロメオV12エンジンの信頼性が低く、なかなか結果には繋がらなかったが(結果的に15戦中リタイヤ9回)、第12戦オランダGPでは4位に入り、初入賞を果たした。
また第14戦カナダGPのフリー走行後に、チームのエースドライバーだったニキ・ラウダが突如引退を表明。ピケはNo.1ドライバーに昇格することとなった。最終戦アメリカ東GPでは、予選2位とフロントローを獲得している(決勝は8位)。
- 1980年
この年マシンの戦闘力は大幅に向上し、開幕戦アルゼンチンGP では、2位初表彰台を獲得。第4戦アメリカ西GPでは、予選で初ポール・ポジション(以下:PP)を獲得し、決勝でも終始トップを走行し初優勝、ファステストラップ(以下:FL)もマークした。
その後も安定してポイントを積み重ね、ウィリアムズのアラン・ジョーンズとチャンピオン争いを展開、終盤には第11戦オランダGP・第12戦イタリアGPを連勝し、ランキングトップに立った。しかし第13戦カナダGPではトップ走行中にエンジントラブルでリタイヤ、このレースで優勝したジョーンズに逆転を許す。続く最終戦アメリカ東GPも電気系トラブルでリタイヤとなり、ランキング2位に終わった(計3勝、2PP)。
チャンピオンは逃したものの、14戦中入賞10回(うち表彰台6回)と、後に持ち味となる安定感を発揮。ここから、エースとしてチームの第2期黄金時代を作り上げることとなる。
- 1981年
ジョーンズ及びカルロス・ロイテマンのウィリアムズ勢とチャンピオン争いを展開。第3戦アルゼンチンGPにて、シーズン初優勝をポール・トゥー・ウィンを達成すると、第4戦サンマリノGPも連勝した。その後5戦中4度のリタイヤとやや停滞するも、第10戦ドイツGPでシーズン3勝目を挙げて以降は、連続入賞でランキングトップのロイテマンを猛追した。
ランキングで同率首位で迎えた第13戦イタリアGPでは、2位走行中の最終周にエンジントラブルでストップ(6位完走扱い)。残り2戦で3ポイントのビハインドを抱えるが、しぶとく食らいつき、1ポイントのビハインドで最終戦ラスベガスGPを迎えた。酷暑の中の開催となったこのレースで、ピケは失神寸前の状況に陥りながらも5位に入り、一方のロイテマンはノーポイント(8位)。第2戦ブラジルGP以降、ランキングトップを守っていたロイテマンを上回り、最終戦での逆転という形で、自身初の王座を手にした。この年、ピケがランキング単独トップとなったのは、この最終戦だけであった。ブラジル人としては、エマーソン・フィッティパルディに次いで2人目となった。
この年も15戦中入賞10回(うち表彰台7回)と、安定した成績を残し、予選では4度のPPも獲得した。
- 1982年
BMW開発のターボエンジンの完成度が低く苦戦。前年のフォードNAエンジン搭載車で走った第2戦ブラジルGPでは、トップでゴールしたものの、最低重量違反で失格。第7戦デトロイトGPでは、予選落ちまでも喫した。第8戦カナダGPでは優勝したものの、その後もシーズンを通しては苦戦を強いられることとなる。第12戦ドイツGPでは、シーズン2勝目のチャンスが巡ってきたが、エリセオ・サラザールを周回遅れにする際、サラザールに接触されリタイヤとなった。結局、ランキングで僚友リカルド・パトレーゼより下の11位に終わった。
- 1983年
開幕戦ブラジルGPで優勝を飾るが、以後はルノーのアラン・プロストに後塵を拝し、優勝に手の届かないレースが続いた。一方でポイントは安定して積み重ね、終盤においてもチャンピオンの可能性を残していた。
そんな中第12戦オランダGPでは、シーズン初のPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走行するが、バトルの中でプロストに接触され両者リタイヤした。ピケのマシンは既にトラブルを抱えており、実はプロストはもう数周待てば難なく首位に立てる状況だったという。この接触から、シーズンの流れが大きく変わることとなる。
オランダGP終了時点では、残り3戦でプロストに14ポイントのリードを許していたピケだが、第13戦イタリアGP・第14戦ヨーロッパGPを連勝、2ポイント差にまで詰め寄り、最終戦南アフリカGPを迎えた。南アフリカGPは終始ブラバム勢のペースとなる中、プロストは早々リタイヤ。無理をする必要がなくなったピケは、パトレーゼを先行させるなど徹底的に安全策を取る走りで3位フィニッシュ、1981年同様最終戦での逆転という形で2度目の王座を獲得した(シーズン3勝)。この年は全15戦中入賞10回(うち表彰台8回)を記録し、安定した成績も初チャンプ獲得時と同様であった。ブラバムで2度王座に就いたドライバーはピケが初であり、結果的に唯一となった。
- 1984年
1984年はマクラーレン・ポルシェがラウダとプロストのコンビでシーズンを席巻。ピケは予選でこそ、当時のシーズン最多記録となる9度のPPを獲得、決勝でも3度のFLなど速さを見せたが、優勝は2度。全16戦中リタイヤが9回にのぼるなど、マシントラブルが多発したこともあり結果がついてこず、ランキング5位に留まった(入賞6回・うち表彰台5回)。
- 1985年
ブラバムの戦闘力はさらに下降気味であり、前年以上の苦戦を強いられた。 ピレリタイヤのタイヤ選択がはまった第7戦フランスGPでは勝利を挙げるが、これを含め表彰台は2度、入賞自体も5度に留まり、ランキングは8位と更に下がってしまった。
1978年から所属したブラバムは既に自分のチームになっており、ピケは翌シーズンもブラバムに残留することを考えていた[1]。しかし、結果的に契約金が少なかった事への不満から、チーム能力がブラバムと同等であるウィリアムズに移籍することを決めた[1]。
ウィリアムズ時代
- 1986年
完全No.1待遇での契約だったが、オーナーのフランク・ウィリアムズが開幕前に交通事故で下半身不随になる混乱の中、イギリスのチームであるウィリアムズは、内部でイギリス人であり前年に初勝利を挙げたナイジェル・マンセル派と、エンジンを供給するホンダがバックアップするピケ派に二分された。
元々ピケのウィリアムズ入りはホンダ側が強く望んだもので、ピケとの契約にあまり乗り気ではなかったウィリアムズ側を説得するため、ピケの年俸の一部をホンダが肩代わりしていた[2]。
ピケとマンセルは、互いの情報を一切共有しようとはしなかった上、ホテルのロビーで隣同士になっても、挨拶するだけという関係であった。この年はピケが4勝、マンセルが5勝を挙げてコンストラクターズ・チャンピオンシップでは1位になるものの、ドライバーズチャンピオンはマクラーレンのプロストにさらわれた(マンセルが2位、ピケは3位)。
- 1987年
第2戦サンマリノGP予選中、高速コーナー・タンブレロにて激しいクラッシュに見舞われ、レースを欠場。その後も十分な睡眠を取れないなど、クラッシュの後遺症にシーズンを通して悩まされ続けることとなる。
しかし、6勝ながら勝つかリタイヤかという極端な成績だったマンセルに対し、体調が万全でない中、2位7回など勝てないレースでも確実にポイントを積み重ね、第8戦ドイツGP以降ランキングトップの座を維持。そして第15戦日本GPにて、逆転王座の可能性を残すマンセルが、予選中にクラッシュ。背骨を痛めて出場不可能となり、決勝を迎えずしてピケが3度目且つ最後のチャンピオンに輝いた(シーズン3勝)。この年は全16戦中入賞12回(うち表彰台11回)と、チャンピオン獲得年の中でも特に安定した成績を残している。PPは4回。
この年を最後に、チーム支援がマンセルに傾いているウィリアムズを離れ、当時最強とされたホンダ・エンジンが供給されていたロータスに移籍することとなった。 テンプレート:-
ロータス時代
- 1988年
前年からの残留となった中嶋悟をセカンドドライバーとし、ファーストドライバーとして迎え入れられるが、重心が高くコーナリング性能の劣るマシン「100T」に苦戦を強いられることとなる。開幕戦ブラジルGP・第2戦サンマリノGPでは、連続3位表彰台を記録するが、サンマリノGPではマクラーレン勢に周回遅れにされ、ノンターボのベネトン・B188を駆るアレッサンドロ・ナニーニと同等のバトルを繰り広げる羽目となる。次第に成績は下降。最高位は3度の3位に留まり、入賞は7回。ランキングは6位に終わった。
- 1989年
翌1989年にはホンダエンジンを失い、非力なジャッドV8エンジンを搭載した101をドライブすることになる。戦闘力が前年以上に落ちたこともあり、成績は入賞4回で表彰台なし、ランキング8位と更に下降。第11戦ベルギーGPでは、6年ぶりの予選落ちを喫している。結局、ロータスでは1勝も挙げることは出来なかった。
ベネトン時代
- 1990年
ベネトンに移籍し、アレッサンドロ・ナニーニとコンビを組んだ。ギャラを完全出来高制(1ポイント獲得につき10万ドル)にするという異例の契約の中、開幕から堅実に入賞を重ね存在をアピール。そして第15戦日本GPでは、ナニー二の代役・ロベルト・モレノを従え、3年ぶりの優勝をチーム初の1-2フィニッシュで遂げる。続く最終戦オーストラリアGPでも優勝し、2連勝でシーズンをしめくくり評価を取り戻した(このGPは、F1創設から通産500戦目のメモリアルレースでもあった)。最終的に16戦中12度の入賞(うち表彰台4回)を記録し、ランキング3位に食い込んだ。
- 1991年
前年の日本GPでの2位を評価されての加入となった同胞モレノをチームメイトに迎え、可愛がっていた後輩とのタッグとなった。第5戦カナダGPでは、スタートから終始トップを走っていたマンセルが最終ラップにストップし、土壇場で逆転勝利を収めた。これはピレリタイヤにとって5年ぶりの勝利で、ピケのF1での最後の優勝となった。
第11戦ベルギーGPで3位入賞、これがF1最後の表彰台となる。続く第12戦イタリアGPでは、F1通算200戦目を記録、決勝では6位に入賞し自ら記録に華を添えた。たが、チームはレース直前にモレノとの契約を一方的に解除し、メルセデスのバックアップを持つ新人ミハエル・シューマッハを、ジョーダンから引き抜き加入させていた。このことでチームに不信感を抱いたピケは移籍を決意し、リジェなどと交渉したが契約には至らず、そのままF1を引退することとなった。最後となった、最終戦オーストラリアGPの成績は4位(豪雨の為、14周で打ち切られた)。この年は全16戦中入賞8回・うち表彰台3回の成績で、ランキングは6位だった。
F1での通算出走数204は、2011年現在歴代9位である。
F1後
F1引退後、1992年にはインディ500へ参戦。しかし予選前の練習走行中にスピン、コンクリートウォールにノーズから突っ込む大クラッシュを起こし、両足を複雑骨折してしまう。足の切断も検討されたほどの状態だったが、何とか免れ、その後懸命のリハビリで回復。翌1993年には再びインディ500への参戦を果たし、予選を13位で通過したが、決勝レースはマシントラブルでリタイアし33台中32位に終わっている。
その後もスパ・フランコルシャン24時間レース(1995年、1997年)、ル・マン24時間耐久レース(1996年、1997年)、南米F3(1998年)などに出場した後、ドライバーとしてのキャリアを終えた。
2000年に国際モータースポーツ殿堂入りした。
実業家としての側面
ドライバーとして引退して後はブラジリアを拠点に各種事業を展開している。主なものだけでも、レースチーム「ピケ・スポーツ」のようなモータースポーツ関連の活動以外に、ブラジル内陸の貨物輸送がトラック輸送に依存しているという点に着目し、GPSを用いた監視業務を行う会社Autotrac社[1]を創業している。
また、ピレリタイヤのブラジルにおける販売権の一部を有し、一方でBMWの輸入代行業も手がけるなど、さまざまな事業活動を行っている。
スタイル
ピケの走りは、チャンピオンを獲得した際に見せたシーズン終盤の勝負強さ等から、爆発的な速さよりも確実性を伴ったものというイメージを持たれている。しばしば「走りのアーティスト」と称されたその走りは、無駄がない反面クセがなさすぎてややインパクトに欠けるとも言われた。クレバーなドライバーであったことと全盛期のブラバムのゴードン・マレーの才能、バーニー・エクレストンがオーナーであり現在のようにコマーシャリズムに振り回されない時代という当時の状況がピケのスタイルに合っていたという意見もある。
1986年にはハンガリーGPでアイルトン・セナとのバトルの際、アウトからドリフトで仕掛け、そのままカウンターを当てて抜くと言う荒業を成功させ、チャンピオンが掛かっていた最終戦オーストラリアGPでは、最終周にファステストラップをたたき出す攻めのレースを見せている。
テクニック
ピケのドライビングテクニックとして知られているものに、滑らかなシフトワークがある。ギアを飛ばすことなく、一段一段早く正確にギアシフトを行い、メカニックがレース後にトランスミッションを開くと、まるで新品同様の状態を保っていた(他のドライバーではすり減ってほとんどなくなってしまうドッグリング)と、日本のTV番組に出演した際津川哲夫が語っている。特に、シフトダウン操作が非常に上手かったと言われている。
ホンダのスタッフとして、上記の四強全員と組んだ経験を持つ桜井淑敏は、「シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、アクセルワークのセナ」とそれぞれを称している。
特筆されるレース
- 1981年最終戦ラスベガスGP
- ランキングトップのロイテマンと1ポイント差で迎え、予選では4位グリッド。PPを獲得したロイテマンに後塵を拝す結果となった。決勝ではロイテマンがハンドリングの不調から次々と後続に抜かれ、ピケも酷暑の中生彩を書くが、失神寸前まで体力を消耗しながら5位でゴールし、2ポイントを獲得。8位でノーポイントに終わったロイテマンを逆転し、初のチャンピオンを獲得した。同様に失格処分となった1982年のブラジルGPでも、表彰台上で失神するという場面があった。
- 1982年第12戦ドイツGP
- 2周目からトップを走行していたが、19周目に中周回遅れのエリセオ・サラザールにラインをブロックされ、両者接触リタイヤとなった。この際、ピケはマシンを降りるやいなやサラザールを殴り、さらに蹴りを試みる(実際には外れている)。この一部始終は、映像として残っており、今なお話題となることも多い。ピケがここまで怒りを見せた背景には、シーズン2勝目をフイにされたこと以外に、サラザールの面倒を見たことがあったため、「恩を仇で返された」と感じたこともあると言われている。
- しかしリタイヤ後にピケのマシンのエンジンを調べたところ、あるピストンのスカートが壊れかかっていた[3]。エンジンサプライヤーであるBMWの地元ドイツGPでマシントラブルによってリタイヤする事態を免れたことはBMWにとって幸運であった[3]。
- 1983年第12戦オランダGP
- 開幕戦以来優勝のないピケは、堅実に入賞を重ねつつも、ランキングトップのプロストに対し14ポイントのビハインドを抱えこのGPを迎えた。予選ではシーズン初(結果的に唯一)のPPを獲得し、決勝でもスタートからトップを走行するが、マシンにトラブルが発生し次第にペースが落ちてゆく。一方のプロストは予選4位から追い上げ、42周目のタルザンコーナーでついにピケのインを突いた。既にトラブルを抱えていたピケは無理なブロックはせず、十分なスペースを空けていたが、ブレーキングを遅らせすぎたプロストは減速しきれず、ピケに追突しタイヤバリアへ押し出す結果となった。その場でリタイヤとなったピケに対し、プロストはフロントウイングを破損しつつも暫くはそのまま走り続けたが、結局その周のうちにスピンを喫しリタイヤとなった。
- 結果だけを見れば両者リタイヤであったが、既にトラブルで長くは持たない状態だったピケと、好調な流れの中で無用のリタイヤを喫したプロストは失ったものの差が大きく、このGPを境にシーズンの流れは大きく変わることになった。
- 1983年第最終戦南アフリカGP
- ランキングトップのプロストに2ポイント差で迎えたこのGPで、軽い燃料で決勝からトップを走行。重い燃料で23位以下を抑え込んだチームメイト・パトレーゼの援護もあり、ピケに優位なかたちでレースは進んだ。パトレーゼのピットインで前が空いた後、プロストは一気にペースを挙げるが、急なペースアップはターボトラブルを発生させ、36周目にリタイヤ。ライバルの消えたピケは、その後徹底的に守りの走りを見せ、3位でゴール。4ポイントを加算し、2年前同様最終戦での逆転でチャンピオンを決めた。
- 1986年第11戦ハンガリーGP
- 予選2位からスタートしたピケは、12周目にトップのセナを抜きトップに立つが、タイヤ交換の際に再び先行を許す。しかしセナはハイペースが祟ってタイヤにフラットスポットを作ってしまい、ピケが再度背後まで迫った。55周目、ピケはインからセナを差すが、大きくはらんでしまい、セナに抜き返された。57周目、今度はアウトから仕掛け、カウンターを当てドリフトしながらセナを抜いた。レースは、そのままセナを突き放したピケが優勝した。
- 1986年第13戦イタリアGP
- マンセルが先行するが、無理なペースからタイヤが厳しくなる。余裕を持ち走行していたピケが、38周目にマンセルを抜き優勝、レース全体を考えたペース配分が勝敗を分けるかたちとなった。
- 1990年第15戦日本GP
- ピケは予選6位スタートであったが、スタートを決めて、5番手スタートのティエリー・ブーツェンの前に出る。ドライバーズタイトル争いをしていたセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して両者リタイヤ。替わってトップに立ったゲルハルト・ベルガーも2周目でスピンオフ。これでピケはマンセルに次ぐ2位となる。そして、26周目にマンセルがピットアウト時にドライブシャフトのトラブル発生でリタイヤすると、ピケがトップに立ちそのまま優勝。ピケにとっては1987年イタリアGP以来、実に3年・51レースぶりの優勝であった。
- 1990年最終戦オーストラリアGP
- ピケは予選7番手からのスタートであったが、タイヤ無交換作戦が当たって、マクラーレン・フェラーリ勢のタイヤ交換の間隙を縫う形でトップに立つ。終盤にポールシッターのマンセルと激しいバトルを演じるが、トップを守り切って優勝した。レース後にピケが犬猿の仲であるマンセルと健闘を讃える握手を交わしたほどの互いの力を出し尽くした攻防であった。
- 1991年第5戦カナダGP
- ニューマシン・FW14の熟成が進んだウィリアムズ勢がフロントローを独占。レースはスタートから予選2位のマンセルが一貫してリード。ピケは予選7位からじわじわと順位を上げてマンセルに次ぐ2位に浮上。マンセルとは1分近い差があったが、ファイナルラップでマンセルのマシンが突如ストップし、労せずしてピケはトップに立ち優勝。なお、ピケはストップしたマンセルのマシンの横を通過する際、マンセルに手の甲を向けてピースサインをした。(マンセルの母国・イギリスにおいては侮辱を表すサインであり、タブーとされている)
エピソード
- ブラバム低迷時にマクラーレンからオファーがあった際、ロン・デニスから好待遇で移籍を打診され、ピケもサイン直前にまで至った。しかし、分厚い契約書を見るなり、「この話はなかったことにしてくれ」と言い、「ブラバムは(契約書が)紙切れ1枚なんだ」と言った。
- 1982年のドイツGPで、エリセオ・サラザールに追突された際、共にリタイアとなった直後、ピケはサラザールを公然と殴るという行動に出た。これは怒りのあまりとも捉えられるが、ピケ自身はあまり語らないがサラザールの世話を焼いていたことも一因してるという。
- 1987年のオーストリアGPは、スタート直後の多重クラッシュにより2回もスタートがやり直しとなった。通常このようにスタートを何度も行わなくてはならない状況は、ほとんどのドライバーは嫌がるものだが、3回目のスタート前にピリピリした他のドライバーを他所に、「鼻をほじってその指をなめる」というお茶目なピケの姿がテレビに捉えられた。
- 中嶋悟が引退宣言した際、川井一仁がインタビューをピケに行ったが、「中嶋が辞めないように説得してくるよ」と言って席を立ってしまったものの、その後は戻らなかった。
- 川井一仁が語ったところによると、インタビューでは放送できない言葉(特に下ネタ)をたびたび言うため、レポーター泣かせだったという。優勝したレースでも、「思わず、イキそうになった」と平然と答えるほどからその事が伺える。
- 近年の雑誌のインタビューで、「ミハエル・シューマッハは世界最高のドライバーだと思いますか?」と問われて、「世界で一番偉大なドライバー?その名前はネルソン・ピケだよ」と答えた。
- 2008年、FIA会長マックス・モズレーのセックス・スキャンダル(秘密クラブでの乱交パーティー)が明らかになった際、「私はモズレーに対して怒りを感じている。本当に怒っているんだ。なぜ彼はそのパーティに誰も誘ってくれなかったんだ。今までセックス・パーティを開いたことのあるF1関係者はいなかったよ。」と批判した。
ドライバーとの関係
- アイルトン・セナ
- 自身と同じく3度のチャンピオンであるセナとは、同胞でありながら犬猿の仲であった。このことは現役中から有名であり(同胞とはいえピケはカリオカ(リオデジャネイロ出身者)、セナはパウリスタ(サンパウロ出身者)であることも大きい理由とされる)、「あいつが乗ったマシンに乗り込むなら、念入りに消毒する必要がある。」と発言し物議を醸したこともある。
- セナはF1へステップアップする際にブラバムと交渉したが、ピケはセナの加入に反対している。ピケは自分をサポートする、でなければ何もしないナンバー2を求めていて、貪欲に上位を狙うセナのようなドライバーは要らなかった。ピケはブラバムのメインスポンサーであったパルマラットと一括契約しており、ピケは自分の反対意見を通す権利があった。[6]
- 1988年開幕戦のブラジルグランプリにおいては、セナについて「サンパウロのタクシードライバーには負けない」さらに「あいつはラジコン飛行機ばかりして女に興味はないのか(これは地元メディアによって『やつはホモだ』と発言を脚色されて書き立てられた)」と発言したことが大きな批判を受け、史上初めて自らの名前を冠したサーキットでのグランプリ開催、かつワールドチャンピオンとしての地元凱旋という歓迎ムードに自らの発言で水を差してしまった。
- 1990年日本GP決勝前に行われたドライバーズミーティングにおいて、セナが前年の日本GPで失格の原因とされたシケインのショートカットを踏まえて、国際自動車連盟(FIA)は「元のコースに戻るように」と通達したが、「それだと正面衝突しかねず、危険極まりない。シケインをショートカットし、コースマーシャルが安全を確認した上でコースに復帰するのが良い。」とピケが主張し、認められた。結果的に、前年のセナのとった判断が間違いではなかったことを主張したことになる。
- 1990年日本GPではセナとプロストがスタート直後の1コーナーで接触して物議を醸した。このレースを制したピケは勝利者インタビューでアクシデントの状況を聞かれた際に「セナがまっすぐプロストのケツに突っ込んでいった。これが真実さ」とサラリと言った。後年セナ自ら故意にぶつけたと告白したが、この時点ではセナの故意かプロストの過失かで議論は分かれていた。
- 1994年にセナがイモラサーキットで事故死すると、「自分もあそこ(タンブレロ・コーナー)で事故に遭ったことがある。」とショックを隠し切れぬ様子であった。また、追悼コメントも発している。
- ナイジェル・マンセル
- ウィリアムズ時代のマンセルとの確執も激しく、ピケはマスコミの前で公然とマンセルを上品とは言いかねる調子で攻撃した。その悪口はマンセルの妻ロザンヌの容姿にまでおよんだ。これらの発言はピケの自由奔放な性格によるものと思われていたが、後にピケ自身が「マンセルとの精神戦で優位に立つための方策だった」と語っている。
プライベート
父親は大富豪であり、ブラジル政府で閣僚を務めていたほどであった。そのため、ピケを一流のテニスプレイヤーにしようとアメリカ留学させたほどである。しかし、レースの魅力に取りつかれ、半ば勘当同然に家を飛び出し、赤貧にあえぎながらも、レース活動を行っていた。その時知り合ったのが、ロベルト・モレノである。
プライベートを大事にすることは、ブラバム時代のニキ・ラウダに影響されたことが大きい。普段はモナコの海に漂う豪華なクルーザーに住む等、さまざまな面で独特の人物であった。
前述した1992年の事故以降、足の小指から爪がなくなってしまった。また、今でも歩く際には痛々しく足を引きずっている。
2007年6月にはスピード違反や駐車違反などにより自動車運転免許を取り消され、7月より自動車教習を受け直すことになった。
家族
大変な艶福家としても知られ、本人も複数のガールフレンドの間を渡り歩く様子を隠そうとはしなかった。複数の女性との間に子供をもうけ、当のピケ本人をよそに、女性間では正妻がどちらかという争いが起こったこともある。
ピケのプライベート・ジェットに同乗していたジャン・アレジによると、ピケは機内で衛星電話を片手に、これからどの恋人と会おうか真剣に考えていたという。
前述したように母親は異なるが、認知を受けている子供としては、長男ジェラルド、次男ネルソン・アンジェロ、三男ラスツロ(Laszlo)、長女ケリー、次女ジュリア、四男ペドロ、五男で末子のマルコがいる。中でもネルソン・アンジェロは父親と同じくフォーミュラカーの分野で活躍しており、“ネルシーニョ・ピケ”、あるいは“ネルソン・ピケJr.”として有名である。そのレース活動を全面的にサポートし、F1のテスト走行にも帯同するなど、同じく二世ドライバー(ニコ・ロズベルグ)を持つケケ・ロズベルグとともに「親バカ」ぶりが話題になった。
他の兄弟も、長男ジェラルドはブラジル国内のトラック選手権で活躍しており、四男のペドロも2006年にブラジルの国内カート選手権の初級クラスを最年少で制するなど、ネルソン・ピケを嚆矢にレース一族を形成しつつある。長子のジェラルドから末子のマルコまで、歳の差は23歳ある。
ネルソン・ピケ・サーキット
その活躍を記念して、1988年にはリオデジャネイロのジャカレパグア・サーキットがネルソン・ピケ・サーキットに改名された。2010年現在、ピケは自らの名が冠せられたコースでレースを行った唯一のF1ドライバーである。
概歴
- 1977年 欧州F3シリーズ3位
- 1978年 同2位、F1にスポット参戦
- 1979年 ブラバムからF1フル参戦開始。ニキ・ラウダの引退によりシーズン途中からNo1に昇格。
- 1980年 西ドイツGPで初優勝。アラン・ジョーンズと争うも敗れ選手権2位。
- 1981年 カルロス・ロイテマンに競り勝ち、初の選手権制覇。
- 1982年 デトロイトGPで予選落ちするなど、走らぬマシンに苦しみシーズンわずか1勝。
- 1983年 アラン・プロストとの争いを制し、2度目の選手権制覇。
- 1984年 予選で当時年間最多となる9度のPPを獲得。
- 1986年 ウィリアムズに移籍。選手権3位。
- 1987年 ナイジェル・マンセルに勝利し、3度目で最後の選手権制覇。
- 1988年 ロータスに移籍。マシンが低迷、以後2年間未勝利。
- 1990年 ベネトンに移籍。日本GPでの3年ぶりの優勝を含めシーズン2勝。
- 1991年 カナダGPで最後の優勝。移籍先が見つからず、シーズン終了後F1から引退。
- 1992年 インディ500へ参戦するも、プラクティス中のクラッシュにより負傷。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | シャシー | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 | WDC | ポイント |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1978年 | エンサイン | N177 | ARG |
BRA |
RSA |
USW |
MON |
BEL |
ESP |
SWE |
FRA |
GBR |
GER Ret |
28位 (NC) |
0 | |||||
BSファブリケーション | マクラーレン M23 | AUT Ret |
NED Ret |
ITA 9 |
USA |
|||||||||||||||
ブラバム | BT46 | CAN 11 | ||||||||||||||||||
1979年 | ARG Ret |
16位 | 3 | |||||||||||||||||
BT48 | BRA Ret |
RSA 7 |
USW 8 |
ESP Ret |
BEL Ret |
MON 7 |
FRA Ret |
GBR Ret |
GER 12 |
AUT Ret |
NED 4 |
ITA Ret |
||||||||
BT49 | CAN Ret |
USE Ret |
||||||||||||||||||
1980年 | ARG 2 |
BRA Ret |
RSA 4 |
USW 1 |
BEL Ret |
MON 3 |
FRA 4 |
GBR 2 |
GER 4 |
AUT 5 |
NED 1 |
ITA 1 |
CAN Ret |
USA Ret |
2位 | 54 | ||||
1981年 | BT49C | USW 3 |
BRA 12 |
ARG 1 |
SMR 1 |
BEL Ret |
MON Ret |
ESP Ret |
FRA 3 |
GBR Ret |
GER 1 |
AUT 3 |
NED 2 |
ITA 6 |
CAN 5 |
CPL 5 |
1位 | 50 | ||
1982年 | BT50 | RSA Ret |
BEL 5 |
MON Ret |
DET DNQ |
CAN 1 |
NED 2 |
GBR Ret |
FRA Ret |
GER Ret |
AUT Ret |
SUI 4 |
ITA Ret |
CPL Ret |
11位 | 20 | ||||
BT49D | [[1982年ブラジルグランプリ|テンプレート:Color]] DSQ |
USW Ret |
SMR |
|||||||||||||||||
1983年 | BT52 | BRA 1 |
USW Ret |
FRA 2 |
SMR Ret |
MON 2 |
BEL 4 |
DET 4 |
CAN Ret |
1位 | 59 | |||||||||
BT52B | GBR 2 |
GER 13 |
AUT 3 |
NED Ret |
ITA 1 |
EUR 1 |
RSA 3 |
|||||||||||||
1984年 | BT53 | BRA Ret |
RSA Ret |
BEL 9 |
SMR Ret |
FRA Ret |
MON Ret |
CAN 1 |
DET 1 |
USA Ret |
GBR 7 |
GER Ret |
AUT 2 |
NED Ret |
ITA Ret |
EUR 3 |
POR 6 |
5位 | 29 | |
1985年 | BT54 | BRA Ret |
POR Ret |
SMR 8 |
MON Ret |
CAN Ret |
DET 6 |
FRA 1 |
GBR 4 |
GER Ret |
AUT Ret |
NED 8 |
ITA 2 |
BEL 5 |
EUR Ret |
RSA Ret |
AUS Ret |
8位 | 21 | |
1986年 | ウィリアムズ | FW11 | BRA 1 |
ESP Ret |
SMR 2 |
MON 7 |
BEL Ret |
CAN 3 |
DET Ret |
FRA 3 |
GBR 2 |
GER 1 |
HUN 1 |
AUT Ret |
ITA 1 |
POR 3 |
MEX 4 |
AUS 2 |
3位 | 69 |
1987年 | FW11B | BRA 2 |
SMR DNS |
BEL Ret |
MON 2 |
DET 2 |
FRA 2 |
GBR 2 |
GER 1 |
HUN 1 |
AUT 2 |
ITA 1 |
POR 3 |
ESP 4 |
MEX 2 |
JPN 15 |
AUS Ret |
1位 | 73 (76) | |
1988年 | ロータス | 100T | BRA 3 |
SMR 3 |
MON Ret |
MEX Ret |
CAN 4 |
DET Ret |
FRA 5 |
GBR 5 |
GER Ret |
HUN 8 |
BEL 4 |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP 8 |
JPN Ret |
AUS 3 |
6位 | 22 |
1989年 | 101 | BRA Ret |
SMR Ret |
MON Ret |
MEX 11 |
USA Ret |
CAN 4 |
FRA 8 |
GBR 4 |
GER 5 |
HUN 6 |
BEL DNQ |
ITA Ret |
POR Ret |
ESP 8 |
JPN 4 |
AUS Ret |
8位 | 12 | |
1990年 | ベネトン | B189B | USA 4 |
BRA 6 |
3位 | 43 (44) | ||||||||||||||
B190 | SMR 5 |
[[1990年モナコグランプリ|テンプレート:Color]] DSQ |
CAN 2 |
MEX 6 |
FRA 4 |
GBR 5 |
GER Ret |
HUN 3 |
BEL 5 |
ITA 7 |
POR 5 |
ESP Ret |
JPN 1 |
AUS 1 | ||||||
1991年 | B190B | USA 3 |
BRA 5 |
6位 | 26.5 | |||||||||||||||
B191 | SMR Ret |
MON Ret |
CAN 1 |
MEX Ret |
FRA 8 |
GBR 5 |
GER Ret |
HUN Ret |
BEL 3 |
ITA 6 |
POR 5 |
ESP 11 |
JPN 7 |
AUS‡ 4 |
脚注
参考文献
- マイケル・ドットソン著 田村修一訳 『ネルソン・ピケ / サーキットの孤高の戦士』 ソニーマガジンズ、1991年 ISBN 4-7897-0650-8
関連項目
テンプレート:S-sports
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アラン・ジョーンズ
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1981年
|style="width:30%"|次代:
ケケ・ロズベルグ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
ケケ・ロズベルグ
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1983年
|style="width:30%"|次代:
ニキ・ラウダ
|-style="text-align:center"
|style="width:30%"|先代:
アラン・プロスト
|style="width:40%; text-align:center"|F1ドライバーズチャンピオン
1987年
|style="width:30%"|次代:
アイルトン・セナ
- 転送 Template:End
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- ↑ 1.0 1.1 テンプレート:Cite book
- ↑ 「F1地上の夢」(海老沢泰久著、朝日新聞社、1991年)pp.411 - 412によれば、ホンダはピケの年俸として年間80万ポンドを支払っていたという。
- ↑ 3.0 3.1 テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ テンプレート:Cite book
- ↑ 「セナを殺した男たち」(ジョー・ホンダ、ベストセラーズ、1994年)pp.117 - 119