キャンベラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年2月7日 (金) 10:06時点におけるKalz (トーク)による版 (人口統計更新)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:世界の市 キャンベラCanberraテンプレート:IPAc-en or テンプレート:IPAc-en)[1])は、オーストラリア首都。35万8000人の人口を擁し、オーストラリア国内では8番目、同国内陸部では最大の都市である。キャンベラは、オーストラリア首都特別地域(ACT)に属し、シドニーの南西280キロメートル、メルボルンの北東660キロメートルに位置している。キャンベラの住民のことを英語で、Canberranと呼ぶ[2]

キャンベラがオーストラリアの首都として選ばれたのは1908年のことであり、同国の二大都市であるシドニーとメルボルンの間の首都をめぐる争いの妥協の産物であった。他のオーストラリアの都市とは異なり、キャンベラは都市全体が計画都市として設計され、誕生した歴史を持つ。キャンベラの都市設計においては、国際的なコンテストが実施され、シカゴの建築家であるウォルター・バーリー・グリフィンマリオン・マホーニー・グリフィンの計画が1913年に採用された[3]。グリフィンの都市計画では、キャンベラの街は、円、六角形、三角形などの幾何学模様がモチーフとして採用されている。加えて、街の中心部は、ACTにおけるランドマークとして重要な景観を形成している。

キャンベラの都市デザインは田園都市の影響を大きく受けており、都市区域内には自然の植生の地域を組み込んでいる。キャンベラの建設に際しては、都市計画のために3つの機関が設立されたことから、議論が長期化すると同時に非効率になった。このため、都市の発展が妨げられ、大きく遅れることとなった。 第二次世界大戦後、ロバート・メンジーズ首相がキャンベラの整備を指揮し、国立首都発展委員会(NCDC:en)が設立された。ACTは現在では、地方自治が展開されている一方で、オーストラリア連邦政府は、国家首都局(NCA:en)を通じて、キャンベラの都市開発に大きな影響力を保持している。

オーストラリアの首都機能を有するため、キャンベラには、国会議事堂、高等裁判所、さまざまな官庁がある。首都機能のみならず、キャンベラには、オーストラリア戦争記念館en)、オーストラリア国立大学オーストラリア国立スポーツ研究所オーストラリア国立美術館en)、オーストラリア国立博物館オーストラリア国立図書館といった多くの社会的、文化的な施設がある。オーストラリア陸軍の教育機関として、王立軍事大学があり、オーストラリア国防大学もキャンベラに存在する。

語源

キャンベラの語源で、人口に膾炙しているのは、先住民族の言葉であるNgunnawal語のKamberaが由来で、「人々が集う場所」と言う意味である[4]

一方、1860年代に、ケアンビヤンen)の新聞社のオーナーであったジョン・ゲールが報告した内容によると、先住民の言語で「女の胸の谷間」を意味する「nganbra」あるいは「nganbira」が英語化されたものであるとしている。この報告では、アインズリー山en)とブラックマウンテンen)の間にある氾濫源のサリバンス川についても言及している[5]

歴史

テンプレート:Main ヨーロッパ人が移住する前の、キャンベラを含むオーストラリア首都特別地域(以下、ACT)は、先住民が季節に応じて、居住していたことが分かっている。文化人類学者のノーマン・ティンデールen)は、キャンベラを含む一帯は、ングンナワル人en)が居住していたと考えている。また、一方で、ンガリゴ人en)がACTの南に、ワンダンディアン人が東に、加えて、ガンダンガラ人()がACTの北に、ウィラジュリ人en)が北西に居住していた。この地域で発掘された遺跡から分かることは、少なくとも、21,000年前からこの地域に人々が住んでいたと考えられており[6]、当時の人々の遺跡では、ロック・シェルター、岩に描かれた壁画、埋葬場、キャンプ、石切り場が発見されており、石器の使用も確認されている[7]

ファイル:Historic Blundells' Cottage.jpg
1860年代に建設されたブルンデルズ・コテージen)は、キャンベラに残る、最初期のヨーロッパ系住民の住宅の数少ない建築物である[8]

キャンベラにヨーロッパ人が探検、居住し始めたのは、1820年代初頭のことである[9][10]。1820年から1824年の間にかけて4つの遠征隊が組織された[9][10]。その結果、1824年に最初の白人居住地が建設された。その場所は、現在のアクトン半島であり、ジョシュア・ジョン・ムーアによって雇われた人々が最初に、居住した[11]。ジョシュア・ジョン・ムーアは、1826年に、遠征隊の居住地を正式に買収し、その不動産を「Canberry」と名づけた[12]

19世紀を通して、キャンベラの成長は非常にゆっくりとしたものであった[13]。19世紀に建設された建築物で目立つものと言えば、キャンベル・ファミリーと言われる石造りの建築物で、ドゥントルーンen)にある王立軍事大学en)がまず挙げられる。 キャンベラに現存する最古の公共建築物は、ライド地区にある[14]聖公会系の洗礼者ヨハネ教会(the church of St John the Baptist)であり、1845年に建設された[15][16]。この境界にある墓地は、キャンベラ地方にある墓地の中でも最古のものである[17]

ヨーロッパ人の存在感が増すに連れて、先住民の人口は天然痘あるいは麻疹を原因として、減っていった[18]

首都決定

ニューサウスウェールズ州の片田舎に過ぎなかったキャンベラがオーストラリアの首都に決定したのは、独立直前のことである[19][20]。当時のオーストラリアにおいて、同国の二大都市であるニューサウスウェールズ州の州都であるシドニーヴィクトリア州の州都であるメルボルンの間で、独立後の連邦の首都の座をめぐって[21]、長い間、議論がなされていた。しかし、お互いが自らの都市を首都にしたいという意向を持っており、なかなか結論に至らなかった。その結果、最低でもシドニーから100マイル離れている[19]場所に新しい首都を建設すべきという意見が持ち上がり、新首都建設の間、暫定的に、メルボルンが行政府の首都(capitalと言う言葉を用いることは無かった)とした[22]。新聞社ザ・ケアンビアン・エイジen)の創設者であるジョン・ゲール(en)は、'Dalgety or Canberra: Which?'というパンフレットを配布し、キャンベラが連邦政府の首都になるべきであることを主張した。1909年、政府の調査団を率いたチャールズ・スリヴェナーen)の調査結果が決定打となり、キャンベラが首都として選定される運びとなった[23]。ニューサウスウェールズ州政府は、連邦政府に、連邦首都地域という形で土地を割譲した[19]1911年5月24日 [24]、キャンベラの都市デザインの国際コンペが実施され、ウォルター・バーリー・グリフィンが提出した計画が採用された[25][26]1913年、グリフィンは連邦首都のデザインと建設のディレクターに任命され、建設が開始された[27]

建設開始

ファイル:Parliamenthouse2.jpg
1927年に開場した国会議事堂

1913年3月12日 [28]、第5代オーストラリア総督トーマス・デンマン夫人であるデンマン夫人(en)によって、正式に、キャンベラと命名され、クラジョングの丘で[29]そのセレモニーが実施された。この丘は、そのセレモニー以来、キャピタル・ヒルと呼ばれるようになり、現在、国会議事堂が置かれている[30]。キャンベラの日は、キャンベラ創立を祝して、ACTで制定され、3月第2月曜日に実施される[18]

このセレモニーの後、官僚の議論がグリフィンの計画を妨げるようになった[31]。グリフィンと連邦政府の関係は緊張したものとなり、さらには、キャンベラ建設に拠出される資金も1920年にグリフィンが解雇されるまで、少ないものであった。グリフィンがした仕事は、ごくわずかであった[32][33]。とはいえ、グリフィンは、解雇のときまでに、最初の計画を改訂した。

1927年5月9日、キャンベラは、正式にオーストラリアの首都となり、国会議事堂(現在の旧国会議事堂(en))が開場した[34]スタンレー・ブルース首相[35]は、その数日前に、ザ・ロッジen)を首相公邸とした[36]。1930年代の大恐慌時代とそれに続く第二次世界大戦の時代の間、計画都市の拡張は遅々としたものであった[37]ローマ・カトリック聖公会のカテドラルを含めた建設が計画されたが、完成しなかった[38]

ファイル:Lake-ParlHouse.JPG
湖面は、バーリー・グリフィン湖。中央に建っているのは旧国会議事堂、右側の建物は、国立科学技術センター(通称:クエスタコン)

1920年から1957年の間は、グリフィンの計画を引き継いだのは、連邦首都助言委員会en[39]、連邦首都コミッション(en[40]国立首都計画発展委員会en)の3つの構成主体だった。しかしながら、彼らはあくまで助言機関に過ぎず[41]、キャンベラ建設の決定は、彼らに相談されること無くされたため、時を経るにつれて、非効率となってきた[42]

終戦直後、キャンベラは、「村」に似ていると酷評を受け[43][44]、さらには、ずさんに建てられた建築物は、醜いものであるという酷評を受けた[45]。キャンベラは、いくつかのサバーブが集まっているものであるものとして、嘲笑的に述べられていた[46]ロバート・メンジーズ首相[47]は国家の首都として恥ずかしいものとみなしていた。時間を越えて、メンジーズは、その後、態度を変えて、街の発展を擁護するようになった。メンジーズは、2人の大臣をキャンベラの発展が貧しいものであるとして解雇した。10年以上に及ぶメンジーズの時代で、キャンベラの発展が急速に行われるようになった[48][49]。キャンベラの人口は、1955年から1975年の間に、5年ごとに50%の人口成長を成し遂げた[49]。いくつかの政府機関と公務員は戦後にメルボルンからキャンベラに移動した[50]オーストラリア首都地域住宅公社en)が、キャンベラの人口成長に大きな貢献した[51]

1957年に、国立首都発展委員会(NCDC:en)が設立された後に、急速に発展した。NCDCは上述の3つの機関に代わって、設立された[52]。NCDCは40年に及ぶ人工湖バーリー・グリフィン湖の形とデザインをめぐる論争を終わらせ、4年間の建設で、この湖の建設を完成させた[53]。最終的には、キャンベラ中心街は、バーリー・グリフィン湖の上に、キャピタル・ヒル(現在、国会議事堂がある)、旧国会議事堂、オーストラリア戦争記念館の3ヶ所を結ぶいわゆる「パーラメンタリー・トライアングル」を建設するというグリフィンの計画通りとなった[54]。湖の建設の最初期に、湖岸にいくつかの重要な建築物が建設された[55]

オーストラリア国立大学の拡張が実施され[55]、また、さまざまな彫刻やモニュメントも作られた[56]。国立図書館は、オーストラリア高等裁判所とオーストラリア国立美術館によって構成されるパーラメンタリー・トライアングルの内側に建設された[14][57]。しばしば、北キャンベラと南キャンベラとも呼ばれるキャンベラ中心部のサバーブは、1950年代により発展した[58]。さらに、ウォーデン・ヴァレーen)やベルコンネンen)と呼ばれている地域もまた、それぞれ1960年代の半ば、あるいは後半に発展していった[59]。また、キャンベラ周辺に建設された新しいサバーブは、オーストラリアの政治家の名前にちなんでいる。例えば、 Barton、Deakin、Reid、Braddon、Curtin、Chifley、Parkesは、それぞれ、エドモンド・バートンアルフレッド・ディーキンジョージ・リードエドワード・ブラッドンen)、ジョン・カーティンベン・チーフリーen)、ヘンリー・パークスen)にちなんでいるものである[60]

ファイル:Aboriginal Embassy, Old Parliament House, roses and bird.jpg
旧国会議事堂に残るアボリジナルテント大使館
ファイル:Aborigina tent embassy burnt.jpg
アボリナジルテント大使館は、放火によって、一部が破壊されている

1972年1月27日は、アボリジナルテント大使館が、国会議事堂の周辺に建設された日付ということで、キャンベラの歴史に記録されている。この大使館は、先住民の権利と土地問題に関心を集めるために、建てられたもので、テント大使館は、1992年まで、国会議事堂前を占拠した。1988年5月9日 [61]、新国会議事堂がオーストラリア建国200周年を記念して、キャピタル・ヒルに開場した[14][57]。国会機能は、この新国会議事堂に移転された[61]

1988年12月、オーストラリア連邦議会で可決されたことによって、ACTに完全な地方自治が与えられた。初めての選挙は、1989年3月4日に実施され[62]、17人の議員がコンスティチューション通り1番地[63]で、1989年3月11日に最初の議会が開かれた[64]。ロンドン・サーキットに建設されたキャンベラ市議会の落成は、1994年のことであった[64]オーストラリア労働党がキャンベラ市議会の最初の与党団を形成し[65]、そのキャンベラ市議会を指導したローズマリー・フォレット(en)は、オーストラリアの歴史の中で、最初の州政府の女性首長となった[66]

地理

ファイル:Canberra From Black Mountain Tower.jpg
キャンベラとバーリー・グリフィン湖を望むパノラマ

キャンベラの面積は814.2平方キロメートル[67]ブリンダベーラ山脈en)のそばにある。また、オーストラリア東海岸からは、150キロメートル内陸に位置する。海抜はおおよそ580メートルであり、標高が最も高いのは、マジューラ山en)の888メートル[68][69]、それ以外にも、テイラー山アインズリー山ブラック・マウンテンがキャンベラの回りにある[70]

キャンベラの周辺にある天然林のほとんどがユーカリである。このユーカリが、燃料やそれ以外の目的で利用されてきた。1960年代までに、キャンベラ周辺のユーカリの多くが伐採されたことと水質の悪化が懸念されるようになった。そのため、森林の開発が中止された。キャンベラの森林資源の保護への関心は1915年の複数の「種の保存をめぐる」訴訟で始まった。それ以来、キャンベラ周辺では、植生の地域を増やすことに取り組み、キャンベラの緑は、余暇の場として役割を果たすようになっている[71]

ファイル:Canberra Map-MJC.png
The location of Canberra within the オーストラリア首都地域の地図。黄色の部分がキャンベラの市街地で、緑の部分がキャンベラ周辺の自然保護地域。キャンベラは、ACTの一角を占めていることがわかる。

キャンベラの市街地は、Ginninderra plain, Molonglo plain, the Limestone plain, and theTuggeranong plain(Isabella's Plain)という4つの平原の上に展開している[72]。モロングロ川は、モロングロ平原をながれ、キャンベラの中心部でせき止められ、キャンベラの中心部にある人工湖バーリー・グリフィン湖を形成する。その後、キャンベラからACT北西部に流れていき、ニューサウスウェールズ州へ流れていく[73]

モロングロ川には、Jerrabomberra CreekやYarralumla Creeksといった小川が、流れ込む[72]ジニンデラ湖en)とタガーアノン湖en)からは、それぞれ、ジニンデラ川とタガーアノン川が流れ出る[74][75][76]。ごく最近まで、モロングロ川は、大きな洪水を繰り返してきた歴史を持つ。というのも、モロングロ川を流れる水は、バーリー・グリフィン湖を満たすよりも先に、周辺の流域を水没させていた[77][78]

気候

キャンベラは大陸内陸部に位置しているため、相対的に乾燥している。夏は暑く、冬は寒い[79]。キャンベラの夏は極端に乾燥し、暑さも厳しい一方で、キャンベラの冬は、空気も冷たく、濃い霧やしばしば、霜も降りる。キャンベラ市街地での降雪はまれではあるが、キャンベラ市街地からは、周辺の山の山頂が冠雪していることをしばしば見ることができる[79]。過去の最高気温は、1968年2月1日に記録した42.2度[79]で、一方、過去の最低気温は、1971年6月11日に記録したマイナス10度である[79]

キャンベラは、首都とオーストラリアの州都7都市の計8都市の中では、アデレードホバートについで、降雨が少ない[80]。しかしながら、季節に関係なく降水は観測される都市であり、特に晩春は激しい降雨がある[81]雨を伴う嵐は、10月から4月の間発生するが[79]、この雷雨は、夏の暑さとや山間部にある影響である。風に関してはそこまで強く吹くことは無く、冷気を伴う風は8月11月の間に吹く。キャンベラはまた、他の海岸部の都市よりも湿度が低い[79]

テンプレート:Weather box

都市構造

テンプレート:Main

ファイル:Inner-canberra-triangle MJC01.png
キャンベラ中心街とバーリー・グリフィン湖。この地図で、グリフィンが計画した「パーラメンタリー・トライアングル(議会の三角形)」を確認することができる。
ファイル:Canberra SPOT 1088.jpg
キャンベラの衛星写真

キャンベラは、計画都市として設計され、市の中心街の設計は、ウォルター・バーリー・グリフィンが行った[82]。バーリー・グリフィン湖に近い道路ほど、碁盤目状ではなく、「車輪とスポークの」形状を取っている[83]。グリフィンは、キャンベラ建築計画において、ふんだんに幾何学上のパターンを採用しており、その中には、六角形や八角形の形状も含まれている[83]。しかしながら、キャンベラも郊外に行くと、街作りが遅かったことから、幾何学上の街づくりもしていない[84]

バーリー・グリフィン湖は、キャンベラの地形状のランドマークとして、キャンベラの街を構成する要素に関連付けるために建設された[85][86]。バーリー・グリフィン湖は、キャンベラ中心部を東西に横たわり、キャンベラ・セントラルは、この湖によって、南北に分けられている。キャピタル・ヒルからコモンウェルス通りを北上して、湖を渡るとそばには、コモンウェルス公園があり、キャンベラの中心地へとつながる。そのキャンベラの中心地には、ロンドン・サーキットと呼ばれる六角形の環状道路があり、ロンドン・サーキットから南東にコンスティチューション通りを行くと、北東方向に伸びる大通りがANZACパレードである。ANZACパレードの突き当りには、オーストラリア戦争記念館がある[44]。この設計は、アインズリー山の展望台から、キャピタル・ヒルの方向を臨むと国会議事堂・ANZACパレード・オーストラリア戦争記念館が一直線で展望することができる設計となっている。

コンスティチューション通りをさらにまっすぐ南東方向に進むとキングス通りとの交点に、豪米戦争記念碑en)がある。南西方向にキングス通りを進み、バーリー・グリフィン湖を渡るとキャピタル・ヒルに戻ることができる。このコモンウェルス通り、コンスティチューション通り、キングス通りの3つの街路で囲まれた部分をパーラメンタリー・トライアングル(en)と呼び、グリフィンの計画の中心をなすものである[86][87]

キャンベラから南西方向に伸びる軸の終点が、キャンベラから52キロメートル離れた所にあり、ACTで標高が最も高いビンペリ・ピークen[86][70]である。

さらに、グリフィンは、アインズリー山、ブラック・マウンテン、レッド・ヒルに精神的な価値を置いていた。そのため、彼は、それぞれの山を花で飾ることを計画した。そして、彼の計画は、それぞれの頂を1つの花で彩ることにした。その花は、それぞれが精神的価値を代表した[88]。第一次世界大戦の間、建設と計画は遅々として進まず、結果的に、ビリー・ヒューズ首相によって、グリフィンが解雇されたことで、計画が実現することは無かった[32][33][89]

キャンベラの街は、7つの地区に分けられる。7つの地区とは、キャンベラ・セントラル、ウォーデン・ヴァレー、ベルコンネン、ウェストン・クリーク、タガーアノン、ガンガーリン、モロンゴ・ヴァレーである。これらの7つの地区の中心に、役場が設けられており、複数のサバーブを束ねているピラミッド型の構造をとる。[90]

  • キャンベラ・セントラルen)--25のサバーブで構成される地区。キャンベラの中心であり、1920年代から1930年代に、居住が開始された。1960年代に区域が拡張されている[91]
  • ウォーデン・ヴァレーen)--1964年より、供用された地区[59]で、12のサバーブで構成される地区。
  • ベルコネンen)--1966年より供用された地区[59]で、25のサバーブで構成される地区ではあるが、1つのサバーブは、まだ、開発されていない。
  • ウェストン・クリークen)--1969年より供用された地区で、8つのサバーブで構成される[92]
  • タガーアノンen)--1974年より供用された地区[93]で、18のサバーブから構成される。
  • ガンダーリンen)--1990年代より供用された地区で、18のサバーブから構成されているが、6つのサバーブがまだ、未開発である。
  • モロンゴ・ヴァレーen—2010年に開発が開始された。13のサバーブの開発が予定されている。

キャンベラ・セントラル地区は、基本的に、ウォルター・バーリー・グリフィンの計画に基づいている[86][87]。1967年、NCDCは、「Y計画」という計画を決定した[94]。「Y計画」という計画は、タガーアノンが「Y」の文字の縦棒の一番下の部分、ベルコンネンとガンガーリンがそれぞれ、「Y」の文字の斜め棒の先端とすることで、それぞれの地区とキャンベラ中心部を高速道路で結ぶという計画で、Yの文字に似ている所から来ている[94]


前述のように、多くのキャンベラのサバーブは、オーストラリアの首相や有名なオーストラリア人、オーストラリアへ移住してきた人々、あるいは、アボリジニにちなんで名づけられている。キャンベラの街路名は、特定の主題にしたがっている。例えば、「Duffy」の街の通りは、オーストラリアのダムや貯水池、「Dunlop」の街の通りは、オーストラリアの発明や発明家・芸術家、「Page」の街の通りは、生物学者や博物学者の名前にちなんでいる。

大使館の多くは、 ヤラルムラen) 、ディーキンen)、オマリーen)といったサバーブにある[95]。キャンベラの工業地域は、フィッシュウィックen)、ミッチェルen)、ヒュームen)の各地区にある[96]

行政

ファイル:Australian Capital Territory Legislative Assembly and the statue Ethos.jpg
オーストラリア首都特別地域議会と
Ethosの像 (Tom Bass, 1961)

キャンベラの外は、ACTでは、村の規模よりも大きい住居地区は無い。オーストラリア首都地域議会(en)は、市議会とACT全体の立法を兼ねている[97]。この議会は17人から構成され、それぞれ、人口の比率に応じて割り振られた3つの選挙区から選出されている[65]。3つの選挙区とは、モロングロ選挙区、ギニンデラ選挙区、ブリンダベーラ選挙区と名づけられており、それぞれの議席数は、7、5、5である[98]

キャンベラを主管するACTの首相は、ACT議会のメンバー(the Members of the Legislative Assembly: MLA)から選出され、首相が同一会派のメンバーから大臣を任命し、ACTの内閣が組閣される[97]2004年の選挙では、オーストラリア自由党が17議席中9議席を獲得することで第一党となり、ジョン・スタンホープen)がACT首相となったが、2008年の選挙で、自由党は、少数派に転落し、オーストラリア緑の党との連立政権を強いられた[65][99]

ACTの人口のほとんどがキャンベラに居住しているが、政治的傾向は、キャンベラ・ACTともに似通っている。ACTに下院の議席が割り当てられたのは1949年のことである[100][101]。ACT選出の議員は、ACTに直接影響を与える案件にのみ、投票することができる[101]。 1974年、ACTには、上院2議席が割り当てられた[100]。1996年には、第3の議席が割り当てられたが、これは、地域の人口バランスの変更のために、1998年に廃止された[18]。キャンベラ選出の議員は、ともに、常にある程度のリードをもって、労働党が議員を獲得している[18][102]。少なくとも、1990年以来、少なくとも、7%のリードを労働党は自由党に対して保ち続けている[65]。 オーストラリア上院の2議席は、労働党と自由党がそれぞれ1議席を分け合っている形となっている[103]

地方自治権を獲得したとはいえ、オーストラリア連邦政府は、ACT政府に大きな影響力を持ち続けている。行政の分野では、国家首都局en:NCA)が、キャンベラの都市計画を首都としての重要性あるいはグリフィンの計画を遂行させるために、責任を持っているという考えから、頻繁に行動をとっている[104]。グリフィンの計画には、パーラメンタリー・トライアングル、バーリー・グリフィン湖、道路計画、連邦政府の所有地、あるいは未開発の山や尾根といったものも含まれる[104][105][106]。連邦政府は、1988年に制定されたオーストラリア州地域地方自治法(en)を整備したことで、ACT議会をある程度、コントロールしている[107]。連邦政府の行動は、ACT議会の立法権を定義している[108]

オーストラリア連邦警察(en :AFP)は、州警察と似たような警察力をACT管内で行使しているが、警察権の行使は、ACT政府との契約に基づく[109]。そのため、AFPは、オーストラリア州地域警察として、地域の保安の役割を担っている (Australian Capital Territory Police).[110]

犯罪ないしはその他の被告人は、、 オーストラリア州地域地方裁判所en)あるいは、重大犯罪は、 オーストラリア最高裁判所en)において、裁判が行われる[111][112]。被告人の拘留は、ベルコンネン・リマンド・センター(en)で行われるが、有罪が確定した場合には、ニューサウスウェールズ州内の刑務所に収監される[113]。2008年9月、ジョン・スタンホープACT首相の手によって、新しい刑務所であるアレクサンダー・マッコーニー・センターen)が開所した。建設費用は、1.3億オーストラリアドルである[114]。また、民事裁判や家庭裁判は、Small Claims Tribunalや家庭裁判所で審理される[115][116]


経済

ファイル:Australian Treasury.JPG
多くのキャンベラの住民が官公庁で勤めている。写真は、オーストラリア財務省。

2010年のキャンベラの失業率は、3.9パーセントで、オーストラリア全体の失業率が5.3パーセントであったことから[117]、他の地域よりも相対的に低い[118]。失業率の低さと公共部門・商業部門の雇用に支えられ、キャンベラは、オーストラリアの中でも、1人当たりの所得が高い[119]2009年11月の統計では、オーストラリア全体の平均1人当たり所得が週給1223.30オーストラリアドルであったのに対し、キャンベラのそれは、1392オーストラリアドルに達する[120]

2009年の経済統計に基づくと、キャンベラの中位家計所得は511,820オーストラリアドルである。この数字は、キャンベラと10万人以上のオーストラリアの都市の家計所得と比較した場合、シドニーのみがキャンベラよりも豊かである。2005年以降は、メルボルンパースの金額を上回っている[121][122]。労働分配という視点で、週給をものさしとした場合、キャンベラの住民の平均週給は、他の州・準州と比較しても高い[123]。2009年3月の統計では、 キャンベラの住民の平均週給は420ドルで[124]、オーストラリア全体の中で、第3位である[125]

キャンベラの主要産業は、官公庁セクターと防衛産業である。2008-09年度の地域総生産は、これらの産業は31%に達し、キャンベラの労働力の40%以上の雇用を生み出している[120][126]オーストラリア国防軍のいくつかの施設は、キャンベラ近郊にある。その中でも著名なものは、オーストラリア国防軍総司令部とHMAS Harmanと呼ばれるオーストラリア海軍の施設である[127]キャンベラ国際空港の隣接地にはかつて、オーストラリア空軍の施設があったが、その施設は現在、空港のオペレーターに売却されている[128]。しかしながら、旧オーストラリア空軍基地は、現在もVIPのフライトとして使用されている[129][130]

政府機関の顧客の需要に応えるために、ソフトウェアの会社のいくつかの会社がキャンベラに本社を置いている。代表的な会社は、タワー・ソフトウェアen)とルールバーストen)の二社である[131][132]。官民合弁のコンソーシアムは現在、キャンベラをアジア太平洋地域のデータ・ハブセンターとすることを狙い、10億ドルの出資計画を策定している[133]

人口統計

2006年時点で、キャンベラの人口は、323,056人である[134]。2006年の人口統計では、キャンベラの人口の1.2%が先住民系、21.7%が海外系である[135]。キャンベラにおける最大の人口グループは、イギリスあるいはニュージーランドを出身とする英語話者のグループである[135]

キャンベラにおける移民で、重要な意義を持つ民族集団は、中国インドヴェトナム出身者である。直近の移民の多くは、東アジア東南アジアを出自としている[135]。キャンベラで話される言語は、当然のことながら英語 (81.1%)であるが、それ以外の第二言語も話されている。その言語とは、マンダリン(中国語)、イタリア語ヴェトナム語カタルーニャ語ギリシャ語である。これら5つの言語は、合計で人口の4.8%ではなされている[135]

キャンベラの住民は、相対的に年齢が若い。平均年齢は34歳であり、人口の9.8%が65歳以上である[134] 。また、人口流動がオーストラリアで大きい都市である。1996年から2001年の間にかけて、キャンベラの人口の61.9%がキャンベラから転出あるいは転入している。この流動性は、オーストラリアの州都8都市の中で2番目に高い[136] 。2004年の時点で、ACT内15歳から64歳の年齢層の30%が学士号を取得している。この数字は、オーストラリア全体の19%という数字と比較しても高い[137]

約60%のキャンベラの住民が自らをキリスト教徒と考えており、カトリックあるいは聖公会である。6%がキリスト教以外の宗教を信仰し、23%は無宗教である。

2002年時点でのキャンベラで発生した犯罪の多くが、住居不法侵入と自動車の盗難で、それぞれ、10万人あたりの発生件数は、1961件と630件である。殺人に関連する犯罪は、10万人当たり、1.5件であり、オーストラリア全体の4.9件と比較しても小さい。暴行事件や性的暴行事件もまた、オーストラリア平均よりも低い数字である[134]

教育

キャンベラには、2つの総合大学がある。アクトンにあるオーストラリア国立大学(ANU)とブルースにあるキャンベラ大学(UC)である。それぞれ、10,500人と8,000人の学生を抱える[138][139]1946年に設立された[140]オーストラリア国立大学は、常に、研究活動に焦点をおき、オーストラリア最高位の順位の大学として、The Times Higher Education Supplementのランキングにランクされている[139][141]。また、キャンベラには、2つの宗教系大学がある。1つがキャンベラ北部のサバーブ・ワトソンにあるSignadouでオーストラリアカトリック大学の校舎であり[142]チャールズ・スタート大学のキャンパスとして、St Mark's Theological Collegeがある[143]。 キャンベラ北部のサバーブ・キャンベルには、オーストラリア国防大学(ADFA)と王立軍事大学en)がある[144][145]。ADFAでは、軍事大学及び軍事大学院を保有し、ニューサウスウェールズ州立大学のキャンバスでもある[146][147]。ドゥントルーンには、オーストラリア陸軍の士官学校部門もある[148]。キャンベラ工科大学の複数のキャンパスでは、大学レベル職業訓練が施されている[149]

2004年2月の段階で、キャンベラには140の学校があった。96校は公立で44校は私立校である。2006年中に、ACT政府は、39校を効率化のために閉鎖すると発表した[150]。その結果、2006年から2008年にかけて、複数の学校が閉鎖、統合された。このACT政府の学校政策に関しては、重要な反対が起きた。 多くのサバーブが小学校を持つように設計されている。学校の多くは、レクレーションやスポーツ活動が簡単に利用できるような公共空間の近くに設けられている[151][152][153][154]

文化

芸術・娯楽

キャンベラには、オーストラリア戦争記念館オーストラリア国立美術館オーストラリア国立肖像美術館en)、オーストラリア国立図書館[155]オーストラリア国立アーカイブen[156]オーストラリア国立映像音響アーカイブ [157]オーストラリア科学院en[158]オーストラリア国立博物館のように、多くの国立のモニュメントや施設がある[155]。キャンベラにある連邦政府の施設である国会議事堂オーストラリア高等裁判所王立オーストラリア造幣局は、一般公開されている[159][160][161]。 バーリー・グリフィン湖の湖畔には、キャプテン・ジェームズ・クック・メモリアルen)とナショナル・キャリロンen)がある[155]。他のキャンベラの主要施設には、ブラック・マウンテン・タワーen)、オーストラリア王立ボタニック・ガーデンen)、国立動物園水族館en)、国立恐竜博物館en)、国立科学技術センターがある[155][162]

キャンベラ市街地にあるキャンベラ博物館美術館en)は、キャンベラ地域の歴史と芸術を収納する役割を果たしている[163]。複数の歴史的な住居が一般公開されている。タガーアノンen)にあるLanyon and Tuggeranong Homesteads[164][165]シモンストンen)にあるMugga-Mugga[166]パークスen)にあるブランデルズ・コテージは、キャンベラ入植初期の白人の生活スタイルを展示している[8]レッド・ヒルen)にあるCalthorpes' Houseは小さいながらも、1920年代のキャンベラの住宅をよく保存している[167]

キャンベラは、多くの音楽や演劇が公演されている場所でもある。例えば、キャンベラ劇場en)では、多くの主要なコンサートが開催されている。オーストラリア国立大学音楽学校en)内にあるLlewellyn Hallも世界級のコンサートが開催される[168]。The Street Theatreでは、主流の音楽以外を提供している場所である[168]アルバート・ホールen)は、キャンベラで最初に開場した劇場であり、1928年に開場した。ここでは、Canberra Repertory Societyのような劇団がオリジナルの演劇を行う場所である[169]

キャンベラ大学で開催されるストーンフェストenは、2日間にまたがって開催される音楽祭である[170]。また、特に、ディクソン、キングストン、キャンベラの中心街には、たくさんのバーやナイトクラブがあり、この地域でも多くのエンターテイメントが提供されている[171]。多くの町の中心部には、劇場、映画館、図書館といった施設が整備されている[172]。ナショナル・フォーク・フェスティバル(en)、ロイヤル・キャンベラ・ショー(en)、サマーナッツ(en)といった人気のあるイベントは2月に実施され、「Celebrate Canberra festival」は、3月、キャンベラの日を祝うために、10日以上にわたって開催される[170]

ファイル:Canberra Nara park.JPG
キャンベラ・奈良公園

キャンベラは、奈良市北京市姉妹都市関係、東ティモールディリ杭州市とは友好関係を締結している[173]。都市同士の結びつきが、相互に、幅広い分野で、文化交流を行っている。キャンベラとならの姉妹都市関係を祝して、「Canberra Nara Candle Festival」が毎春開催される[174]。Tこの祭りは、バーリー・グリフィン湖畔のキャンベラ・奈良公園で開催される[175][176]


スポーツ

キャンベラには、複数のスポーツリーグのチームがある。キャンベラでもっとも有名なスポーツチームは、ラグビーリーグキャンベラ・ライダーズen)とラグビーユニオンブランビーズen)である。この両チームは、それぞれのリーグで優勝経験があり[177][178]、ともに、キャンベラ・スタジアムを本拠地としている。キャンベラ・スタジアムは、キャンベラ最大の競技場であり[179]2000年シドニーオリンピックでのサッカー競技、2003年のラグビー・ワールドカップが開催された[180][181]。キャンベラにはまた、キャンベラ・キャピタルスen)というリーグ戦で11回中7回優勝し、最も成功している女子バスケットボールチームがある[182]。また、女子サッカークラブのキャンベラ・ユナイテッドFCen)が、キャンベラを本拠地としており、2011-12シーズンを優勝した[183]

ファイル:Manuka Oval.JPG
クリケットとオージーフットボールが開催されるマヌカ・オーヴァル

キャンベラには、またネットボールホッケーアイスホッケークリケット野球の国内リーグのチームがある。マヌカ・オーヴァルen)は、クリケットとオージーフットボールの試合を行うことができる、キャンベラのもう1つの競技場である。ここでは、メルボルンを本拠地とするオーストラリアン・フットボール・リーグのチームであるカンガルーズの愛称を持つノースメルボルンFCen)が2006年7月に試合を主催したことがある競技場である[184]。カンガルーズがキャンベラから本拠地をクイーンズランド州カラーラen)に移動すると、メルボルンFCen)と同じくメルボルンを本拠とするウェスタン・ブルドッグスen)が、シドニー・スワンズ(en)と試合をする際には、マヌカ・オーヴァルで開催するようになった[185]。 キャンベラはまた、ジュニアのオージーフットボールの国際大会であるバラシ国際オーストラリアン・フットボール・ユース・トーナメント(en)の開催地でもある[186]。さらに、オーストラリアの歴史的なクリケットの試合であるプライム・ミニスターズ・イレブン(en)も毎年、 マヌカ・オーヴァルで開催される[187]

野球はオーストラリアではマイナーなスポーツだが、オーストラリア代表チームとして初めてアジアシリーズ2013年に制覇した、キャンベラ・キャバルリーがある。

毎年、キャンベラで開催されるほかの重要なスポーツイベントは、キャンベラ・マラソンen)、キャンベラ・ハーフマラソン、キャンベラ・トライアスロンである。かつて同地で開催されていたものとしては、2001年から2006年まで毎年1月にテニスWTAツアー大会の一つであったテンプレート:仮リンクが、グランドスラム大会の一つである全豪オープン開催前週に前哨大会の一つとして実施されていた[188]

オーストラリア国立スポーツ研究所 (AIS)は、ブルースen)にある[189]。AISではジュニア層のエリートをコーチする施設である。1981年以来、AISは、さまざまな成功を国際的にも国内的にも、エリートのアスリートを育成することで収めてきた[189]2000年シドニーオリンピックのオーストラリア選手団とそのメダリストの多くは、AISを卒業している[190]。 キャンベラには、複数のスポーツ競技場、ゴルフコース、スケート場、テニスコート、プールがあるが、これらは、一般に公開している。キャンベラ一帯に整備されている自転車道は、サイクリストがレクレーションやスポーツ活動をできるように作られた道路である。キャンベラの周辺にある国立公園には、多くの遊歩道や乗馬用、マウンテンバイク用の道路を整備している。セイリング、ボートやドラゴンボート、水上スキーといった水上スポーツは、キャンベラの湖で行われている[191][192]。キャンベラでは毎年、ラリー競技も開催されており、現在では、ドラッグレースの施設の建設を計画中である[193][194]

インフラストラクチャー

医療

キャンベラには、2つの大きな公共病院がある。1つが、おおよそ600床を持つキャンベラ病院en)で、もう1つが、174床を持つカルヴァリー公立病院en)である。両機関とも、教育機関も兼ねている[195][196][197][198]。キャンベラ最大の私立病院は、ディーキンにあるカルヴァリー・ジョン・ジェームズ病院(Calvary John James Hospital)である[199][200]。ブルースにあるカルヴァリー私立病院(Calvary Private Hospital)とガーランにあるヘルスコープス首都私立病院(Healthscope's National Capital Private Hospital)もまた、医療分野での教育機関である[195][197]

王立キャンベラ病院は、かつて、バーレー・グリフィン湖畔のアクトン半島にあったが、1991年に閉鎖、1997年に廃止された。廃止の際には、爆破され(en)、跡地には、オーストラリア王立美術館が建設された[55][87][155][201] 市内には老人介護施設が10箇所ある。キャンベラの病院は、ニューサウスウェールズ州南部の救急医療を請け負っており[202]オーストラリア首都地域救急サービスenは、オーストラリア首都地域緊急サービス局en)に属する4つの機関の1つである[203]新生児救急輸送サービスen:NETS)は、ACTのみならず、ニューサウスウェールズ州南部の新生児の救急サービスを請け負っている[204]

輸送

キャンベラにおいては、自動車が最も支配的な交通手段である[205]。キャンベラは幹線道路が複数の住宅地区及び未開発地域や森林を貫いている[206]。結果として、キャンベラの人口密度は低いものとなっており、このことが意味することは、仮に将来、キャンベラの未開発地域が開発に供与されることが必要となったとしても、他のオーストラリアの主要都市とは異なり、道路建設の際には、必ずしもトンネルを建設し、既に住宅となっている地域の収容をする必要がないということを意味する[207]

キャンベラの7つの地区は一般的に、2車線の入場が制限される「公園道路」で接続しており[205][208]、制限速度は、時速100キロメートルに設定されている[209][210]。一例として、キャンベラ中心地区とトゥゲラノング(en)をむすぶトゥゲラノング・パークウェイen)は、ウェストン・クリークの迂回路になっている[211]。多くの地区では、不連続の住宅地区のサバーブは、幹線道路によって境界が設けられている。これは、サバーブに居住する人々以外の車が近道目的で、サバーブに侵入するのを防ぐ目的がある[212]

オーストラリアの公共バスサービスであるACTIONen)は、キャンベラ全体の公共輸送を受け持つ[213]。Deane's Transit Groupは、キャンベラとキャンベラ近郊のニューサウスウェールズ州南部のムルムベイトマンen)とヤスen)の間には、「Transborder Express」のブランドで[214]ケアンビヤンen)の間には、 「Deane's Buslines」のブランドで[215]バスを運行している。2006年の人口統計では、通勤者の7.7%がバスを利用している。一方で、7.4%の通勤者が徒歩か自転車を利用している[134]。 キャンベラには2つのタクシー会社があり、2007年に、Cabxpressが登場するまでは、Aerial Capital Groupがキャンベラのタクシー輸送を独占していた[216]

シドニーとキャンベラの州間鉄道輸送をカントリーリンクが担っている[217]キャンベラ駅en)は、サウス・キャンベラ地区のサバーブであるキングストンen)にある[218]1920年から1922年の間、鉄道路線は、モロングロ川を渡り、さらに、北進しキャンベラの中心街まで延びていたが、モロングロ川の洪水のために、キャンベラ駅とキャンベラ市街をつなぐ鉄道路線は閉鎖され、再建されなかった。同時に、ヤスへの延伸計画も放棄された。1067ミリメートルの狭軌で、Yarralumla brickworksと国会議事堂の間にも軌道は建設され、市街地まで延伸したものの、こちらも、1927年には廃止となった[219]。キャンベラからメルボルンに鉄道で出るには、バスで1時間離れたヤスまで移動し、そこで、シドニーとメルボルンを結ぶカントリーリンクに乗り換える必要がある[220][221]

TGVのような高速鉄道で、シドニー、キャンベラ、メルボルンを高速鉄道で結ぶ計画はあるが、2012年現在では、まだ、建設されていない[222]。背景には、高速鉄道を建設したとしても、経済的に採算が取れる提案ができないためである[223][224]。キャンベラ市内に鉄道を建設する計画もあるが、そちらも達成されていない[42]。同様に、ジャービス・ベイと鉄道で結ぶ計画もあるが、こちらも未建設のままである[225]

自動車での都市間移動では、シドニーとは連邦高速道路23号線で連結しており、シドニー・キャンベラ間の所要時間は約3時間である[226] 。また、連邦高速道路25号線を介して、8時間でメルボルンに到達することができる[226]。また、オーストラリアのスキー・シーズンの中心であるスノーウィ山脈en)やコジオスコ国立公園en)には、23号線で2時間[221]、ニューサウスウェールズ州南部の保養地であるベイトマンズ・ベイ(en)もキングス・ハイウェイ(en)を経由して、約2時間である[221]

キャンベラ国際空港は、キングスフォード・スミス国際空港(シドニー)、メルボルンブリズベンアデレードパースとの直行便がある[227]。また、ニューサウスウェールズ州のアルバリー(en)とニューカッスル との便も用意されている。しかし、国際便の定期便は、就航していない。2003年までは、軍民共用であったが、現在は、オーストラリア空軍がキャンベラ国際空港を利用していないため、完全民間空港である[228]

その他の公共インフラ

ファイル:Telstra Tower 2009.jpg
ブラック・マウンテン・タワーもまた、キャンベラの観光客をひきつける、キャンベラのランドマークである。

ACT政府保有のACTEW公社(en)がキャンベラの上下水道を担っている[229][230]ActewAGLen)は、ACTEWとオーストラリアン・ガズ・ライト・カンパニーen)の共同出資会社であるActewAGLがキャンベラに水道水、天然ガス、電気、そして、TransACTen)の子会社の電線を経由して電話サービスを供給している[231]

キャンベラは、コリン(Corin)、ベンドラ(Bendora)、 コッター川(en)にあるコッターダムとケアンビヤン川にあるGoogong Damの計4つの貯水場を持つ。Googong Damは、ニューサウスウェールズ州にあるが、管理は、ACT政府によって行われている[232]。ACTEWは、フィッシュウィックとモロングロ川の下流域の2ヶ所に下水処理場を持っている[233][234]

キャンベラに供給される電力は、国家電力網を通じて、ホウルト(en)やフィッシュウィックから供給される[235]。再生可能エネルギーはキャンベラに水資源を供給するストロムロ山にある水力発電で発電され、ベルコンネンとムッガ・レーンには、メタンによる発電所が設置されている[236][237]。キャンベラに最初の発電所が建設されたのは、モロングロ川近くで1913年のことである[238]。ACTは、オーストラリアの中でも、もっとも、コンピュータの使用率とインターネットの利用率が高い[239]

姉妹都市

キャンベラは、2つの都市と姉妹都市となっている。

脚注

  1. テンプレート:Cite book
  2. The Sydney Morning Herald. 7 September 1954 (pg 2)
  3. テンプレート:Cite book
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite web
  6. Flood, J. M.; David, B.; Magee, J.; English, B. (1987). "Birrigai: a Pleistocene site in the south eastern highlands", Archaeology in Oceania 22:9–22
  7. テンプレート:Cite book
  8. 8.0 8.1 テンプレート:Cite web
  9. 9.0 9.1 Fitzgerald, p. 5.
  10. 10.0 10.1 Gillespie, pp. 3–8.
  11. Gillespie, p. 9.
  12. Fitzgerald, p. 12.
  13. Gibbney, p. 48.
  14. 14.0 14.1 14.2 Sparke, p. 116.
  15. Gillespie, p. 78.
  16. Fitzgerald, p. 17.
  17. テンプレート:Cite web
  18. 18.0 18.1 18.2 18.3 テンプレート:Cite web 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "canb"が異なる内容で複数回定義されています
  19. 19.0 19.1 19.2 Fitzgerald, p. 92.
  20. Gillespie, pp. 220–230.
  21. Davison, Hirst and Macintyre, pp. 464–465, 662–663.
  22. Wigmore, p. 24.
  23. Fitzgerald, p. 93.
  24. Fitzgerald, p. 100.
  25. Gillespie, p. 178.
  26. Wigmore, pp. 160–166.
  27. Wigmore, p. 63.
  28. Gillespie, p. 303.
  29. Fitzgerald, p. 103.
  30. Fitzgerald, p. 105.
  31. Wigmore, pp. 70–71.
  32. 32.0 32.1 Lake Burley Griffin, Canberra : Policy Plan, p. 4.
  33. 33.0 33.1 Wigmore, pp. 69–79.
  34. Fitzgerald, p. 130.
  35. Wigmore, p. 101.
  36. テンプレート:Cite web
  37. Wigmore, pp. 125–128.
  38. Gibbney, pp. 116–126.
  39. Fitzgerald, p. 115.
  40. Fitzgerald, p. 128.
  41. Wigmore, p. 113.
  42. 42.0 42.1 テンプレート:Cite journal
  43. Sparke, p. 6.
  44. 44.0 44.1 Sparke, pp. 1–3.
  45. Sparke, pp. 7–9.
  46. Minty, p. 804.
  47. Sparke, p. 30.
  48. Sparke, pp. 31–32.
  49. 49.0 49.1 Sparke, pp. 103–104, 145, 188, 323.
  50. Wigmore, pp. 111–120.
  51. Gibbney, pp. 230–242.
  52. Andrews, p. 90.
  53. Sparke, pp. 130–140.
  54. Sparke, pp. 170–180
  55. 55.0 55.1 55.2 Lake Burley Griffin, Canberra : Policy Plan, p. 18.
  56. Sparke, pp. 173–174.
  57. 57.0 57.1 Fitzgerald, p. 138.
  58. Gibbney, p. 250.
  59. 59.0 59.1 59.2 Sparke, p. 180.
  60. UBD Canberra, p. 6.
  61. 61.0 61.1 テンプレート:Cite web
  62. テンプレート:Cite web
  63. テンプレート:Cite web
  64. 64.0 64.1 テンプレート:Cite web
  65. 65.0 65.1 65.2 65.3 テンプレート:Cite web 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "state_el"が異なる内容で複数回定義されています
  66. テンプレート:Cite web
  67. テンプレート:Cite web
  68. テンプレート:Cite web
  69. テンプレート:Cite web
  70. 70.0 70.1 The Penguin Australia Road Atlas, p. 28.
  71. McLeod, R. 2003. Inquiry into the Operational Response to the January 2003 Bushfires in the ACT. Australian Capital Territory, Canberra. ISBN 0-642-60216-6
  72. 72.0 72.1 Gibbney, inside cover.
  73. Sparke, pp. 131–132.
  74. Sparke, pp. 181–182.
  75. テンプレート:Cite web
  76. Williams, p. 260.
  77. Sparke, pp. 4–7, 13–14.
  78. テンプレート:Cite book
  79. 79.0 79.1 79.2 79.3 79.4 79.5 テンプレート:Cite web
  80. テンプレート:Cite web
  81. テンプレート:Cite web
  82. Wigmore, pp. 60–63.
  83. 83.0 83.1 Wigmore, p. 67.
  84. UBD Canberra, pp. 10–120.
  85. Lake Burley Griffin, Canberra : Policy Plan, p. 3.
  86. 86.0 86.1 86.2 86.3 Wigmore, p. 64.
  87. 87.0 87.1 87.2 Lake Burley Griffin, Canberra : Policy Plan, p. 17.
  88. Wigmore, pp. 64–67.
  89. テンプレート:Cite web
  90. UBD Canberra, pp. 10–60.
  91. Gibbney, pp. 110–200.
  92. テンプレート:Cite web
  93. Fitzgerald, p. 167.
  94. 94.0 94.1 Sparke, pp. 154–155.
  95. テンプレート:Cite web
  96. テンプレート:Cite web
  97. 97.0 97.1 テンプレート:Cite web
  98. テンプレート:Cite web
  99. テンプレート:Cite web
  100. 100.0 100.1 Sparke, p. 289.
  101. 101.0 101.1 テンプレート:Cite web
  102. テンプレート:Cite web
  103. テンプレート:Cite web
  104. 104.0 104.1 テンプレート:Cite web
  105. テンプレート:Cite web
  106. テンプレート:Cite web
  107. テンプレート:Cite web
  108. テンプレート:Cite web
  109. テンプレート:Cite web
  110. テンプレート:Cite web
  111. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  112. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  113. テンプレート:Cite web
  114. テンプレート:Cite web
  115. テンプレート:Cite web
  116. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  117. テンプレート:Cite web
  118. テンプレート:Cite news
  119. テンプレート:Cite web
  120. 120.0 120.1 テンプレート:Cite web
  121. テンプレート:Cite web
  122. テンプレート:Cite web
  123. テンプレート:Cite web
  124. テンプレート:Cite web
  125. テンプレート:Cite web
  126. テンプレート:Cite web
  127. テンプレート:Cite web
  128. テンプレート:Cite web
  129. テンプレート:Cite web
  130. テンプレート:Cite web
  131. テンプレート:Cite web
  132. テンプレート:Cite web
  133. テンプレート:Cite web
  134. 134.0 134.1 134.2 134.3 テンプレート:Census 2006 AUS
  135. 135.0 135.1 135.2 135.3 テンプレート:Cite web
  136. テンプレート:Cite web
  137. テンプレート:Cite web
  138. テンプレート:Cite web
  139. 139.0 139.1 テンプレート:Cite web
  140. Gibbney, pp. 258–262.
  141. テンプレート:Cite web
  142. テンプレート:Cite web
  143. テンプレート:Cite web
  144. テンプレート:Cite web
  145. テンプレート:Cite web
  146. テンプレート:Cite web
  147. テンプレート:Cite web
  148. テンプレート:Cite web
  149. テンプレート:Cite web
  150. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  151. テンプレート:Cite web
  152. テンプレート:Cite web
  153. テンプレート:Cite web
  154. UBD Canberra, pp. 1–90.
  155. 155.0 155.1 155.2 155.3 155.4 テンプレート:Cite web
  156. テンプレート:Cite web
  157. テンプレート:Cite web
  158. テンプレート:Cite web
  159. テンプレート:Cite web
  160. テンプレート:Cite web
  161. テンプレート:Cite web
  162. テンプレート:Cite web
  163. Germaine, pp. 756–758, 796–797, 809–810, 814–815, 819–820, 826–827, 829–830.
  164. テンプレート:Cite web
  165. テンプレート:Cite web
  166. テンプレート:Cite web
  167. テンプレート:Cite web
  168. 168.0 168.1 テンプレート:Cite book
  169. テンプレート:Cite web
  170. 170.0 170.1 Vaisutis, p. 278.
  171. Vaisutis, pp. 283–285.
  172. UBD Canberra, pp. 10–12.
  173. テンプレート:Cite web
  174. テンプレート:Cite web
  175. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  176. テンプレート:Cite web
  177. テンプレート:Cite news
  178. テンプレート:Cite web
  179. テンプレート:Cite news
  180. テンプレート:Cite news
  181. テンプレート:Cite news
  182. テンプレート:Cite news
  183. テンプレート:Cite news
  184. テンプレート:Cite news
  185. テンプレート:Cite news
  186. テンプレート:Cite news
  187. Growden, pp. 200–210.
  188. テンプレート:Cite news
  189. 189.0 189.1 Sparke, p. 304.
  190. テンプレート:Cite news
  191. テンプレート:Cite web
  192. テンプレート:Cite web
  193. テンプレート:Cite news
  194. テンプレート:Cite news
  195. 195.0 195.1 テンプレート:Cite web
  196. テンプレート:Cite web
  197. 197.0 197.1 テンプレート:Cite web
  198. テンプレート:Cite web
  199. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  200. テンプレート:Cite web
  201. テンプレート:Cite news
  202. テンプレート:Cite web
  203. テンプレート:Cite web
  204. テンプレート:Cite web
  205. 205.0 205.1 テンプレート:Cite web
  206. The Penguin Australia Road Atlas, pp. 23–25.
  207. The Penguin Australia Road Atlas, pp. 23–25.
  208. テンプレート:Cite web
  209. テンプレート:Cite web
  210. テンプレート:Cite web テンプレート:リンク切れ
  211. UBD Canberra, pp. 57, 67, 77.
  212. UBD Canberra, pp. 1–100.
  213. テンプレート:Cite web
  214. テンプレート:Cite web
  215. テンプレート:Cite web
  216. テンプレート:Cite web
  217. テンプレート:Cite web
  218. テンプレート:Cite web
  219. テンプレート:Cite book
  220. テンプレート:Cite web
  221. 221.0 221.1 221.2 The Penguin Australia Road Atlas, p. 20.
  222. テンプレート:Cite web
  223. テンプレート:Cite web
  224. テンプレート:Cite web
  225. Gibbney, pp. 58, 76.
  226. 226.0 226.1 The Penguin Australian Road Atlas, inside cover.
  227. テンプレート:Cite web
  228. テンプレート:Cite journal
  229. テンプレート:Cite web
  230. テンプレート:Cite web
  231. テンプレート:Cite web
  232. テンプレート:Cite web
  233. テンプレート:Cite web
  234. テンプレート:Cite web
  235. テンプレート:Cite web
  236. テンプレート:Cite web
  237. テンプレート:Cite web
  238. テンプレート:Cite news
  239. テンプレート:Cite web

参考文献

外部リンク

テンプレート:Commons&cat 公式

日本政府

観光

テンプレート:Navbox

テンプレート:Link GA