スバル・360
スバル360(Subaru 360 )は、富士重工業(スバル)が開発した軽自動車である。1958年から1970年までのべ12年間に渡り、約39万2,000台が生産された。
目次
概要
航空機技術を応用した超軽量構造を採用し、また限られたスペースで必要な居住性を確保するための斬新なアイデアが数多く導入された。その結果、量産型の軽自動車としては史上初めて大人4人の乗車を可能とするとともに、当時の水準を超える走行性能を実現した。
比較的廉価で、十分な実用性を備え、1960年代の日本において一般大衆に広く歓迎されて、モータリゼーション推進の一翼を担った。ゆえに日本最初の「国民車(大衆車)」と考えられている。同時に「マイカー」という言葉を誕生・定着させ、日本の自動車史のみならず戦後日本の歴史を語る上で欠かすことのできない「名車」と評価されている。
模範となったフォルクスワーゲン・タイプ1のあだ名となっていた「かぶと虫」との対比から、また、そのコンパクトにまとめられた軽快なデザインから、「てんとう虫」の通称で庶民に広く親しまれた。
生産中止後も、1960年代を象徴するノスタルジーの対象として、日本の一般大衆からも人気・知名度は高い。スバル・360が初めての自家用車だったという中高年層が多いこともその傾向を強める一因となっている。生産終了後約50年近く経過しているが、後期モデルを中心に可動車も少なくなく、愛好者のクラブも結成されており、今なおまれに路上を走る姿を見ることができる。
スバル以前の軽自動車
スバル360発売以前の1950年代中期、日本における国産乗用車は複数の大手メーカーから発売されていた。しかしその価格は小型の1000cc級であっても当時で100万円程度であり、月収がわずかに数千円レベルであったほとんどの庶民にとっては縁のないものであった。
軽自動車の規格自体は1949年から存在したが全幅は1.00mに制限されており、この数値は2輪車のバーハンドルよりも若干幅の広い3輪貨物車の荷台が辛うじて成立するレベルで、もっぱら2輪車や3輪トラックを製造することを念頭に置いた規格であった。1950年には全幅1.30mに拡大されたが、エンジン排気量の制限があり、少なくとも1954年の規格改定時点までは本格的な4輪自動車を成立させるのは難しく、これに準拠して4輪の乗用車を製造する大手メーカーはほとんどなかった。
史上初の4輪軽乗用車は、1952年に製造された250cc車「オートサンダル」と見られている。名古屋の零細メーカーである中野自動車工業が、三菱の汎用単気筒エンジンを用いて手作業で製造したもので、リアエンジン2人乗りのフリクションドライブ車であった。およそ通常の実用に耐えうる性能ではなく、1954年までに200台ほどを製造し、その後前輪駆動モデルの開発を行ったが量産化せずに生産中止したと言われているが、中野自動車については零細企業のためほとんど資料が残されておらず詳細は不明である。
その後1957年頃までに、いくつかのメーカーが4輪軽乗用車の開発を行った。「NJ(のち『ニッケイタロー』)」(日本自動車工業 1953-1957年)、「テルヤン」(三光製作所 1957年)などは、何れも零細企業が技術的裏付けの薄いままに急造した粗末なもので、長続きはしなかった。
元日産自動車社員で野心的な自動車技術者の富谷龍一は、大手織物メーカー傘下の自動車ボディメーカーである住江製作所で、超軽量4輪軽自動車「フライングフェザー」を開発した(1954 - 1955)。リアエンジンV型2気筒の350cc・2座席である。4輪独立懸架の採用はともかく、華奢な外観は商品性に乏しく、前輪ブレーキがないなど性能的に不十分な面も多かった。数十台が市販されただけで製造中止となった。
富谷は1956年に後輪を1輪としたFRP製フル・モノコック車体の125cc2座キャビンスクーター「フジキャビン」を、富士自動車で開発したが、こちらもパワー不足と操縦安定性の悪い失敗作で、85台しか作られていない。
比較的まっとうな成績を収めたのは、自動織機メーカーから2輪車業界に進出していた鈴木自動車工業(現・スズキ)で、1955年に前輪駆動の360cc車「スズキ・スズライト」を開発した。これは実質西ドイツ・ボルクヴァルトのミニカー、「ロイトLP400(Lloyd LP400)」を軽自動車規格に縮小したような設計で、外観も酷似していた。乗用車・ライトバン・ピックアップトラックの3タイプがあり、乗用車タイプは名目上は大人4人が乗車できたが、実際は後部座席は子供が精一杯の広さだった。乗用車・ピックアップの販売は不振で、1957年には後部を折り畳み式1座とした3人乗りのライトバン仕様のみとなった。このライトバン仕様「スズライト」も商業的に大きな成功は収められず、スズキの軽自動車生産が軌道に乗るのは改良型の「スズライト・フロンテ」に移行した1962年以降であった。
富士重工業
富士重工業の前身で、旧・中島飛行機を前身とする富士産業は、群馬県太田市の呑竜工場と、東京都下の三鷹工場において、1946年からスクーター「ラビット」を生産し、実績を上げていた。また、群馬県の伊勢崎工場では1947年から軽量なバスボディの製作で好成績を収め、1949年にはアメリカ製のバスに倣った、フレームレスモノコック構造(応力外皮構造)のリアエンジンバスを、日本で初めて開発している。何れも、航空機メーカーとしてのエンジン技術や金属モノコック構造設計に関する素地があっての成功であった。
その後、1950年にはGHQ指令による財閥解体で富士産業は計12社に分社され、太田呑竜・三鷹の各工場は富士工業に、また伊勢崎工場は富士自動車工業に改組される。
これら12社のうち、東京富士産業、富士工業、富士自動車工業、大宮富士工業、宇都宮車両の5社が協同出資して1953年に「富士重工業」が設立され、のち出資した5社が1955年に富士重工業に吸収合併されるという形で統合された。
スバル・360の開発以前に、富士自動車工業は1952年から普通乗用車の開発に取り組み、モノコック構造を備えた先進的な1500cc・4ドアセダン「スバル1500」の試作にまでこぎ着けたが、採算面や市場競争力への不安から、富士重工業成立後の1955年に市販化計画を断念し、開発は頓挫している(詳細は「スバル・1500」の項を参照)。もっともスバル・1500の開発は、技術陣にとっての多大なデザイン・スタディとなり、のちのスバル・360開発にも大いに参考となった。
開発過程
富士重工業では1955年12月、スバル・1500の市販を断念する決定を下したが、同日、当時三鷹製作所で生産していた250ccのスクーター用エンジンの生産ラインを流用し、356ccの軽自動車用エンジンを製造することと、これを基にした大人4人乗り軽乗用車開発着手をも決定した。これは、当時の通商産業省が企画した「国民車構想」を凌ぐ自動車である。
軽乗用車開発
1955年当時、日本製自動車の品質・性能は欧米の自動車先進国と比較して著しく低いものだった。
1954年9月に「新・道路交通取締法」が施行され、全長×全幅×全高(mm)=3,000×1,300×2,000という寸法はそのまま、2ストロークエンジン、4ストロークエンジンともに排気量が360ccに統一された[1]。
この新規格に沿い、大きな資本力をバックに一定以上の完成度を備えて市販された最初の本格的な軽四輪乗用車は、前述のとおり1955年10月に発売された鈴木自動車工業の「スズライトSF」のみであったが、当時の軽乗用車市場はまだ確立されておらず、スズライトですら当初は月販数台というレベルで細々と生産されているにすぎなかった。
その他、何例か市販され、或いは試作された軽乗用車は、技術力の乏しい中小零細メーカーによる未熟な製品か、ある程度の規模がある既存機械メーカーの手になるものでも技術的アプローチにおいて革新性を欠く製品が多かった。乗用車タイプのほとんどすべてが開発の容易な2人乗り車であり、その最高速度は45-65km/h程度の低水準に留まっていた[2]。
しかし富士重工業は、大人4人乗車可能、路線バスの通る道はすべて走れる車というコンセプト[3]の元、大胆な手法をもって軽乗用車の開発に挑んだ。その計画スペックは、軽自動車規格の枠内で大人4人を乗せることができ、空車状態での総重量は350kg、350cc級の15PSエンジンを搭載して最高速度80km/hを想定するもので、もはや従来の既成概念では実現困難な内容であった。
エンジンの設計は三鷹製作所が、また車体・シャーシの設計は当時バスの生産を行っていた伊勢崎製作所が担当し、百瀬晋六を中心とするスバル・1500の設計チームがそのまま新型車の設計チームとなった。三鷹側のチーフは菊地庄治、伊勢崎側のチーフは百瀬晋六で、設計は主に伊勢崎側主導で行われた。
当初はチャンネルフレームで組まれた試作台車にドライブトレーンを装備して試験走行するという手法で、テスト走行を開始している。これはスバル・1500で行われた開発手法を踏襲したものであった。
基本構成
フル・モノコック構造の超軽量車体後部に空冷エンジンを横置きし、後輪を駆動するリアエンジン・リアドライブ方式を採り、サスペンションは日本で初めてトーションバー・スプリング(棒鋼のねじれによる反発を利用したばね)を用いた極めてコンパクトな構造として、車内の客室容積確保を図った。タイヤは当時としては異例の10インチサイズを、これまた新規開発させて日本初採用した。
それまでの軽自動車・オートバイでしばしば見られた、出来合いの汎用部品を仕入れ、組み合わせて製造する(零細町工場式な寄せ集めの)原始的アッセンブリー方式ではなく、目的達成のために部品1つ1つを最適化した形で新たに設計し、個々の部品開発にも人員とコストを応分に投入する、レベルの高い近代的開発手法を用いた。10インチタイヤの新規開発や、トーションバー・スプリングの導入はその最たるものである。ねじまでもスバル360用に独自に設計されており、富士重工業のマークの「フ」の刻印を入れた純正ねじとなっていた。軽量化と客室スペース確保のためには文字通り手段を選ばず金も惜しまず、コストのかかる加工法や、アルミニウム合金、繊維強化プラスチック(FRP)などの高価な新素材も大胆に取り入れている。これらは富士重工と百瀬晋六の卓見であった。
またフル・モノコック構造の採用は、軽量化対策としてスバル・1500での経験を活かしたものであり、元航空技術者を多く擁する富士重工技術陣にとっては自家薬籠中の技術とも言えた。
駆動レイアウトについては議論があった。重量・スペースに制限のある超小型車においてプロペラシャフトは省略した方が有利であり、開発初期段階において技術陣は、前輪駆動車か、リアエンジン方式のいずれかの選択を迫られた。理論上のスペース効率では前輪駆動方式に長があり、車体後部をバンやトラックなど様々な形状にたやすく設計変更できるメリットがあった。この時代、すでに前輪駆動方式は実用化されており、スズキ「スズライト」のように日本での先行市販例も存在した。このため、計画段階で三鷹製作所の菊池庄治らは前輪駆動を主張していた。
だが前輪駆動車の場合、旋回中にも滑らかに前輪への駆動力を伝えられる「等速ジョイント」が必要になる。1950年代中期の時点では、耐久性とスムーズさを両立させた等速ジョイントを低コストに量産できる状況になく、市販されていたヨーロッパの前輪駆動車でも、ジョイントの耐久性不足と、操縦に悪影響を及ぼす旋回時の特有な振動は最大の弱点になっていた。
百瀬晋六は前輪駆動の長所を知悉しつつも、このような等速ジョイントの問題によって開発が難航するであろうことを推察し、1950年代中期におけるより堅実な手法として、すでにフォルクスワーゲンなど多くの類例が見られたリアエンジン方式の採用を決定した[4]。
ボディ構造
2ドア4窓セダンボディ。日本の自動車業界において、独立したフレームを持たないフル・モノコック構造を量産車で実現した先駆的存在である。
当時、自動車ボディを構築するための鋼板は、最低でも0.8mmの厚さが必要と見られていたが、これでは軽量化の支障となると判断された。そこで、それまで通常強度部材には用いられていなかった0.6mm厚の鋼板をボディ素材に採用した。それでも十分な強度を得るため、車体は平面部分を避け、全体に「卵形」と表現される曲面で構成された(ただし、フロアパネルについては強度上の問題もあって1.2mm厚とした)。さらに本体強度に影響のないフード等にはアルミ材も用いている。
屋根については、四辺の枠だけあればモノコック構造の強度は保てる。そこで天井部分は思い切って当時の新素材であったGFRP(ガラス繊維強化プラスチック)製とし、H断面のゴムで車体に固定する方式とした。これによって軽量化できただけでなく、全体の重心が下がり、また車内に響くエンジン騒音を車外に逃せる効用も生じた。もっとも生産形では、H断面ゴムのみで固定したせいで走行中の振動によってプラ屋根が突然に外れる問題も発生し、ネジ止めの補強が加えられている。また必要に応じ、屋根のふちにラジオ用アンテナ線を内蔵することも行われた(つまり自動車で一般的なポール状のアンテナではなく、ワイヤー式アンテナである)。
ガラスは重量がかさむこと、またボディ開口部を小さくする目的もあって、フロントのウインドシールドおよび側面窓は比較的面積が狭く取られている。ユニークなのはリアウインドウで、ここには安全規格上、ガラスを用いる必要がないことから、透明なアクリル樹脂板で代用することにした。軽量化の効果はあったが、長く使用すると経年で変色が生じたという。
ドアは前席側のみの2ドアで、後方ヒンジ・前開きとし、ドア開口面積を前輪直後まで確保して、乗降性を良好にするよう努めている。安全性の面からは前開きは好ましくなく、このレイアウトは後年には廃れたが、1950年代半ばには乗降性の有利さから採用する自動車の例も多く、スバルが特異だったわけではない。
愛嬌のある卵形デザインには、強度確保も兼ねて、フロントフェンダーからサイドに至る波形のキャラクターラインが添えられ、そのままでは腰高過ぎるように見えかねないサイドビューを軽快にまとめる助けになっている。
スタイリングの経緯
ボディ設計の担当者は室田公三であるが、車体のデザインは、社外の工業デザイナーである佐々木達三(ささき たつぞう 1906年-1998年)が当たった。戦前から船舶塗色や建築などのデザインを手がけてきたベテランの佐々木は、バスボディのカラーリングを通じて富士重工業とも関係があり、この縁から1956年に自動車デザインの依頼を受けたのである。
佐々木にとっても初めての自動車デザインであり、彼はデザインと並行して自ら自動車免許を取得、日野自動車がライセンス生産していた当時の代表的小型車「日野ルノー・4CV」を運転するなどして自動車の理解に努めた。フォルクスワーゲン似と言われることの多いスバル360だが、随所のディテールを見るとむしろルノー・4CVとの近似性があるのは、ここにも一因があると思われる。
佐々木は図面を描かず、模型を作るデザイナーだったため、デザインは佐々木の作った1/5倍粘土模型をもとに、これを拡大した等倍粘土模型を修正して石膏型をとるという方式がとられた。デザインベースとして富士重工で木型にボディ外殻の限界目安となる釘を打ったものが作られ、1956年6月1日に佐々木に引き渡された。佐々木はこれに粘土を盛りつけることでデザインの原型作りに着手、わずか3週間後の6月21日には原型模型を完成させている。
もっとも、佐々木の原デザインはやや鈍重なところもあり、等倍模型を製作するまでに、百瀬晋六と富士重工社内デザイナーの永田秀明による手直しがかなりの部分で行われたという。
等倍模型を用いた最終的なボディデザイン形成作業は、富士重工の伊勢崎第二工場内で行われた。佐々木も1956年9月から3か月に渡って伊勢崎に滞在し、百瀬、永田らをも交えたデザイン作業に取り組んだ。石膏模型は乾燥時に発熱するため、晩秋から冬にかけての作業にも関わらず、工場内の関係者は暑さに汗をかきながら製作に当たったという。
こうして完成したボディデザインは、1957年3月完成の試作車で具現化し、量産型にも踏襲された。試作車の鋼製ボディ製作では、中島飛行機出身のベテラン板金職人たちの巧みな手腕が発揮されている。
なお自動車の客室スペースの検討に際して、通常はダミーモデルを用いるのであるが、スバル・360の場合は設計者たち本人が自分の身体でテストした。180cm超の長身で脚も長い百瀬晋六と、百瀬より背は低いが座高の高い室田公三とが、自らシートに座ってレッグスペースやヘッドクリアランスのテストを行ったのである。その結果、1950年代後半のほとんどの日本人が無理なく乗車できるだけのスペースが確保されたのであった。
従前の軽自動車のごとく大きな自動車の滑稽なまでに強引な縮小版ではなく、4人乗りミニカーのためのデザインという大前提のもと、機能と直結したクリーンな形態が実現されたことは画期的であり、スバル・360が日本の工業デザインの歴史において高く評価されている理由でもある。
室内
初期形の車内は、これ以上ないというほどに簡素な車内で、軽量化とコストダウンのためにあらゆる無駄が省かれている。航空機開発の経験を先例として可能な限り軽量化に徹した開発陣の意図によるものである。
ステアリングホイールは強度に問題のないギリギリにまで部材を細身に削られており、計器類はステアリングポスト上に配置されたスピードメーターとその中の積算距離計が唯一である。これまた最小限のスイッチ類が薄い「ダッシュボード」前面に備わる。ダッシュボード下には車体全幅に渡るトレーが設置され、荷物スペースの一助となっている。ドア窓は当初、横引きスライドの引き違い窓だったため、ドアパネル部分は客室内部容積の一部として上手く活用されていた。
フロント・サスペンションにトーションバーとトレーリングアームの組み合わせを用いることで、前席足元のレッグスペースは前車軸中心線より前方にまで及び、前輪のタイヤハウスによって片側を圧迫されはするものの、ともかく大人が足を伸ばせるだけの最大長確保に成功している。運転席足元は右足側をタイヤハウスに取られているため、アクセル・ブレーキ・クラッチの各ペダルは、車体センター寄りにオフセットしている。したがって運転中には、両脚についてオフセット状態を強いられる。
シートは前後席とも、プレスしたアルミ合金の湯たんぽ(コルゲート、リブ形状)状のフレームをベースに、ゴムひもとウレタンフォームでクッションを整えてビニール表皮を張っただけという軽量かつ簡素な構造である。研究用車両として富士重工が購入していたシトロエン・2CVを彷彿とさせる内容で、座り心地は当時としてはまずまずの水準であったという。シートポジションはねじで予め調整する必要があった。リアシート乗車時には、フロントシートはラッチを外して背もたれを前傾できた。
開発当時、スバルに限らず、大衆車には贅沢装備と言えるものは与えられなかった。当初のスバル360の車内設備としては、エンジン廃熱の冷却風を利用したヒーター(簡易で、あまり強くは効かない)と、手動式のベンチレーターがあるのみだった。ラジオはオプションで装備できた。
乗員の激突時に備えると同時に豪華さを演出するためのクラッシュパッド、その他多くの計器類が追加されたのは、エンジン出力が向上し、量産効果でコストダウンも進んで、性能・コスト配分に余裕ができた後年のことである。競合車種並みのデラックスな内容が求められたのが理由である。
パワートレーン
強制空冷2ストローク直列2気筒・356ccエンジンを車体後部のエンジンルームに横置き搭載している。当初のスペックはグロス値で16PS/4,500rpmであった。このエンジンはEK31と名付けられた。富士重工は、汎用小型エンジンでは早くからクランクケース圧縮式の空冷2ストローク方式を採用しており、1955年からはラビットスクーターにも導入して成功を収めていた。軽量かつ簡素で出力も稼ぐことができ、製造コストも安く、当時としては妥当な選択と言える。直列2気筒としたのは出力確保、振動、コストなどを総合的に配慮した結果であった。テスト台車での開発当初は西ドイツ・ボルグワルト(Borgward)製の400cc前輪駆動車「ロイトLP400(Lloyd LP400)」の2ストローク2気筒パワーユニットで代用し、その後完全な新設計の自社製エンジンに移行している。
EK31系は、改良を重ねつつもスバル・360の標準パワーユニットとして一貫して使用され、出力はのち18PS、20PSと増加、最終型では25PSまで出力向上した[5]。
横置き配置としたのは、前後方向の省スペース化に加え、コストダウンの一環でもあった。縦置きエンジンでは駆動系の部品として駆動軸方向を直角に変向するスパイラル・ベベルギア(ねじり傘歯車)が必要になるが、横置きエンジンなら車軸と並行なのでこれを省略できたのである。スパイラル・ベベルギアの歯切り加工は、当時の日本製工作機械では性能が不十分で、アメリカ・グリーソン社製の優良な歯切り装置を必要としたが、これはきわめて高価だったのである。
富士重工はすでに1956年、ラビットスクーターS61型に「スーパーフロー」の愛称で変速機代用のトルクコンバータ仕様車を設定していた(変速ギア等なしでトルクコンバータのみで変速)が、スバル・360については堅実に一般的なマニュアルトランスミッション仕様とし、乾式単板クラッチとノンシンクロメッシュの前進3速・後進1速手動変速機の組み合わせとした。
この変速機もエンジンと並行配置で、当然ながら横置きとなった。シフトレバーはフロア式で、発売当初は横置き変速機を特別なリンケージなしにロッドで遠隔操作する制約から、普通の縦置きエンジン自動車のような縦H形でなく、横H形(エの字型)のシフトパターンとなっていた[6]。しかしさすがに実用面では普通のパターンの方がよいということになり、1960年に変速機のシンクロメッシュ化に際し、動作方向を直角で変えるリンクを加えてノーマルな縦H形パターンに変更された。
変速機と一体構造のディファレンシャル・ギア(デフギア)から出た左右ドライブシャフトは、軽量化のためシャフトチューブなどがない露出状態となっており、外端でトレーリング・アームに吊られる。そのデフギア側、タイヤ側それぞれにカルダンジョイントが備わっているが、簡素化・軽量化のため、シャフト自体には伸縮するスプライン等を備えていない。したがって車輪の揺動によって生ずる横圧はシャフトおよびジョイントに直接掛かることになり、強度面で不安視もあったが、実際にはこの構造自体に起因するトラブルは生じなかった。シャフトの有効長を可能な限り伸ばして実質的な揺動角度を抑えるため、デフギア側のジョイントはギア内にめり込んだような作りになっている。
燃料タンクはエンジンルームの直上に配置している。タンクのフタに小穴を開けてあり、エンジンオイル混合燃料が重力で自然流下する二輪車同様の仕組みで、燃料供給ポンプは不要であった。なお後年、1964年式中途から2ストロークエンジン用オイルを別体タンクに補給してメインタンクは通常ガソリンを補給する「分離給油方式」に移行し、三國工業(現・ミクニ)製のオイル専用ポンプを追加している。
また当初は独立した燃料計がなく、燃料ゲージがタンクのフタに装着してあり、これでタンク内の燃料残量を見る必要があった。やはり二輪車同様に燃料コックにリザーブポジションがあり、燃料残量が少なくなった場合、コックを切り替えて走行するようになっていた。後年のデラックス化過程で、ダッシュボードに燃料計が追加されている。
空冷リアエンジン方式の弱点として、冷却対策が挙げられる。試作車では暑い時期にはオーバーヒートしがちで、冷却風の取り入れ、廃熱の排出などに多々苦労した末、熱気が上昇する流れも配慮して、リアのエンジンフードのルーバーから排気、車体側面に設けたグリルから吸気という冷却風レイアウトを決定した。
キャブレターへのエア吸入は、車体後部からだとほこりを吸い込みかねないという危惧から、前期型では車体先端にダクトを伸ばしてここから吸入していたが、フロント吸入になると今度は先行車の立てる砂塵を吸い込む事態も生じることや、1960年代中期になると道路整備が進んでほこり問題が改善されてきたため、1965年型から車体後部吸入に変更されている。
開発中、エンジンの排気ポートには、オイルの燃えカスであるスラッジやススが恒常的に詰まり、パワーを低下させた。ポート形状変更など様々な工夫が為されたが根本的解決にはならなかった。最終的にオイル添加剤「ペンタルーブ」の採用で数千kmにわたりススの付着を抑制できるようになり、ようやく長期間オーバーホールを要しなくなった(同時期のラビット・スクーターの2ストローク車開発中にも同様な事態が起こり、やはりペンタルーブによって解消している)。このため、スバル・360は純正添加剤としてペンタルーブを指定していた[7]。
サスペンション
懸架装置は前後ともトレーリングアームに横置きトーションバーとセンターコイルスプリングを組み合わせた、きわめて軽量・省スペースでサスペンションストロークの大きな4輪独立懸架構造である。ポルシェタイプのリアサスペンションはスイングアクスル式に分類される。
自動車用トーションバーは、当時の日本に製造しているメーカーがなく、富士重工は大手ばねメーカーの日本発条に新たに開発・製造を要請した。当初の試作品は削り出し加工で作られ、1台分4本が合計4万円にもなる法外さで、車全体の予定価格の1割近くに達した。しかもメーカーの経験不足もあり、歩留まり良く製品を作れず、試験中に破損することもしばしばであった。その後、品質面で改善が進められ、また鍛造での製作が可能になって量産体制が整ったことで、発売時点の価格は4本で数千円レベルに引き下げられた。このトーションバーと連結されて車輪を支えるトレーリングアームも、軽量化と強度確保という相反する課題のため破損続出に悩まされ、高価だが強度の高いクローム・モリブデン鋼を材質に使うことで解決している。
サスペンション方式に前後ともトレーリングアームを採用した背景には、やはり横置きトーションバー・トレーリングアームレイアウトのフォルクスワーゲン・ビートルの影響もかいま見ることができるが、特にフロントサスペンションのコンパクト化という点では普通小型車サイズのビートルに比して格別に徹底されたものがあった(ビートルはトーションバーを二段としたポルシェ式のダブル・トレーリングアームだが、スバルはより簡潔なシングル・トレーリングアームである)。これは後述のとおり、フロントシートのレッグスペース確保に絶大な効果を発揮した。
超軽量車の開発における問題点の一つは、積空差が著しく大きいことである。運転者1名のみの場合と、4人フル乗車の場合とで、車両の総重量は150kg以上の差が生じ、空車での総重量350kgを計画している自動車には大変な重量差である。このような条件で、フル乗車時でも最低限のロード・クリアランスを保障し、サスペンションストロークも確保しながら操縦性と乗り心地を常に良好とすることには、非常な困難があった。
対策として当初考えられたのは、トーションバーの他に補助スプリングとして車体前後中央にエンジン動力で油圧を得て作動する補助スプリングを装備することだった。シトロエンが同時期に実用化していたハイドロニューマチックシステムに近い発想であったが、試験では油圧スプリングユニットのオイル漏れを解決できず、油圧ポンプについても搭載スペース難やこれを駆動するだけのエンジン出力余裕の難など多くの制約があり、コストや開発期間も厳しかったことから、結局実用化は諦められた。
代案として、油圧スプリングを装備予定だった中央位置に補助のコイルスプリング1基を装備することになった。トーションバーに一定以上の大きな荷重がかかれば基部に接続するこのセンタースプリングが働き、ダンピング効果が生じるわけである。これによって実用上の基本的問題はほぼ解決された。
スイングアクスル式サスペンションでは避けて通れない問題として、リアのジャッキアップ現象があるが、後にスバルでも横転事故の事例が多発するようになった。当初、前後輪それぞれにリンクされていたセンタースプリングは、横転対策としてリアサスペンションの剛性を確保するため、後部の接続を止め、後輪はトーションバーのみの支持に変更された。同時に後輪用トーションバーは径を太くし、対ロール抗性が高められた[8]。
またダンパーについては、当初コストの制約から原始的なフリクションダンパーを用いざるを得なかった。これでは定量的なダンパーとしての効果には不満もあり、後に油圧ダンパーの価格低下でそちらに移行した。
当時の日本の自動車業界では、小型車の場合、乗り心地と悪路への耐久性・踏破性はおよそ相反するものと考えられていただけに、悪路をフワフワといなして快適に走行できるスバル・360のサスペンションは感嘆をもって迎えられ、愛好者の間では「スバル・クッション」と称された。
もっともスバルの場合、やはりタイヤの小ささ故にロードクリアランスの限界はあり、スプリングが最も圧縮される4人定員乗車時に悪路の深いわだちにさしかかると、時としてそのままでは乗り越えきれない事例も生じた。この場合、対処は至って単純で、ドライバー以外の1人か2人をいったん路傍に下車させるだけである――即座にスプリングが伸びて車高が上がる。
そして「お荷物」の下車要員たちは、道の行く手でわだちが浅くなるところまで、スバルの後を歩いていくのだった。1960年代、モータリゼーション黎明期の田舎道や山道で時折見られた、牧歌的情景である。
タイヤ・ホイール・ブレーキ
1955年 - 1957年頃、軽自動車のタイヤには既存の規格品が用いられることが多かった。例えばスズキの「スズライト」はダットサン用の大きな14インチタイヤを用いていたが、これは軽自動車用には分不相応で大きくて嵩張り、しかも重いタイヤだった。また住江製作所の「フライングフェザー」はリヤカー用タイヤとワイヤースポーク装備であり、他にもスクーター用9インチタイヤを用いる零細軽自動車メーカーなどもあったが、元々4輪自動車用ではない代用タイヤでは性能面で限界があった。これらの状況は翻っては、できあいのパーツを多用せざるを得ない小規模メーカー、アッセンブリー・メーカーの限界とも言えた。
かように、タイヤが超小型車開発における文字通りの「足かせ」になっていた状況で、富士重工技術陣がスペース効率と軽量化の追求を目指し、必要なタイヤサイズを極めてコンパクトな「10インチ」級と割り出したこと、なおかつ、従来日本で製造されていなかった自動車用10インチタイヤを、新たにブリヂストンに開発依頼したことは、画期的であった。ブリヂストンと富士重工は、これ以前からスクーター用タイヤの納入で少なからぬ取引関係があったので、その方面からのアプローチが活かされたわけである。
軽量化のため、補強コードを通常の4プライでなく半分の2プライにしたが、「2プライで4プライ並みの強度を」という富士重工の要望は厳しいもので、テストではパンクも頻発し、ブリヂストン側も実用域に達するまで苦心を重ねたという。
同時代にイギリスのBMCで開発されていたコンパクト車の「ミニ」も、専用タイヤとしてダンロップで新開発させた10インチタイヤを採用しており、同時期の着想として興味深い事実と言える。
スチール製のタイヤホイールについても、普通車並みの重い「合わせリム」を避け、外枠のみで軽量な「割りリム」とした。これはルノー・4CVなど小型軽量車で多くの先行例があったが、特にバネ下重量軽減策として少なからぬ効果があった。
ステアリングギアはラック&ピニオン式である。当時はウォーム&ローラー式などが主流の時代で、日本で普及していたラック&ピニオン式の実例は日野ルノー・4CVなど少数に限られていたが、スペース効率に優れ、軽量かつ簡潔で操縦性も良いことから採用された。
ブレーキは当時としては一般的な油圧式の4輪ドラムブレーキである。
ネーミング
スバル360という車名は、正式には誰も決定しなかった。デザイナーの佐々木が、以前の試作車の名が「スバル・1500」であったと聞き、勝手に車に「SUBARU 360」のロゴをつけたことから、自然と名称が決定した。佐々木によれば、百瀬晋六をはじめとする富士重工開発陣の間でも「スバル」をペットネームとして用いることは暗黙の了解となっていた模様である。
なお、この車につけられたスバルのエンブレム(六連星マーク)は、富士重工の社内募集案に佐々木が手を加えたもので、何度かのデザイン変更が行われているが、基本モチーフは継承され、現在でも富士重工業のマークとして踏襲されている。
発売までと発売後の経緯
耐久試験と運輸省認定試験
試作1号車は1957年4月20日に完成。その後、試作車は4台まで増産され、それぞれが過酷な試験走行を繰り返し、完成にこぎつけた。
当時の試験走行は、伊勢崎から高崎までの未舗装道路を往復する1日あたり16時間・600kmの長距離連続走行テスト、そして伊勢崎から赤城山山頂付近までエンストなしで往復する登坂テストであった。
試作車のエンジンは酷使されてほぼ毎日故障したため、三鷹製作所から伊勢崎に派遣された技術者が徹夜で修理・調整し、翌朝には再び、試験走行が繰り返された。
当時未舗装であった赤城山登山道路の標高差1000m近い連続急勾配区間[9]は、当時の普通乗用車でもオーバーヒート覚悟の過酷なコースであり、4名を満載してのスバルの登坂も、幾度となくエンジンの過熱に阻まれた。冷却対策をはじめとするこれらの問題も最終的に解決され、試作車は赤城山の上にノンストップで到着可能となった(この赤城山登坂成功の時期には、1957年8月説と、運輸省認定試験を目前に控えた1958年2月説がある)。
従来の軽乗用車の多くが、このような厳しい条件での耐久テストを行っていたかは不明であるが、少なくともここまで徹底したテストを行ったことがスバルの信頼性確保に大きく寄与したことは間違いない。
『マン・マシンの昭和伝説』によれば、この試作車にはプリンス自動車の中川良一やトヨタ自動車の長谷川龍雄といった競合他社の設計者も試乗している。1960年代後半以降は競争激化であり得ないこととなったが、1950年代後半当時の日本では自動車メーカーの枠を超えた技術交流会があり、各社の開発陣が相互に試作車を乗り比べすることもあった[10]。長谷川は製造上の問題として外板の継ぎ目線を指摘したが、生産性をも考慮したトヨタの技術者らしいエピソードであった。
運輸省の公道での認定試験は、1958年2月24日に箱根で行われた。テストドライバーは富士重工業社員の福島時雄が担当した。負担となる重量を僅かでも減らすため、福島は2月の寒い最中でありながら、つなぎの下に薄い下着だけという非常な軽装で運転した。この試験では、運輸省の職員2名が同乗しなければならなかったが、1人の職員はスバルがあまりに小さい車であることにおそれを抱いて乗車を拒み、代わりに1名分55kgの重りが乗せられたという。認定試験でも箱根越えの試験コースを予定以上の快速で登坂するなど、好成績を収めた。
最終的に、発売時のスペックは空車重量385kg、エンジン出力16PS、最高速度83km/hとなり、目標よりやや重量を超過したものの、ほぼ計画した通りの性能を満たした。
発表
スバル・360が市販車両として公式にプレス発表されたのは、1958年3月3日の昼12時、会場は東京都内の千代田区丸の内にあった富士重工業本社であった。
プレス発表というイベントに慣れていなかった富士重工のスタッフは、実車無し、カタログのみで発表を済ませようとしていたが、斬新な新型車を期待して大挙参集した報道陣から「実車はどうした」と催促され、急遽2台のスバル・360がトラックで伊勢崎から東京本社へ届けられることになった。夕方4時まで辛抱強く待った記者たちは、到着したスバルを代わる代わる運転し、その乗り心地と走行性能を体験することになった。
反響は著しいものであった。国内の自動車メーカー各社からも関心を持たれ、日本国内のメディアのみならず、イギリスの老舗自動車雑誌「オートカー」が「これはアジアのフォルクスワーゲンとなるだろう」と好意的に評するなど、欧米の自動車雑誌にも取り上げられ、当初から強く注目される存在となった。販売1号車の顧客が松下幸之助であったことは有名な逸話である。
富士重工業はすでにラビットスクーターの代理店網こそ整備していたが、一般向けに4輪自動車を販売したことはなく、スバル発売に際してはそのディーラー網整備から始めなければならなかった。このため、販売店については既存のスクーター代理店、既存の四輪車ディーラー、商社などを利用して各都道府県に手配された。当初のディーラーは、東京地区では主として伊藤忠商事(1958年5月より販売)、また大阪地区では高木産業(1958年7月より販売)で、全国一斉販売開始ではなかった(販売網整備自体が難しい時代ゆえに、やむを得ないことではあった)。
発売後の経緯
1958年型の販売台数は385台である。この数でも当時の軽乗用車販売数としては大変な実績であったが、実用に堪える性能が市場から評価されて売れ行きを伸ばし、1961年度型は17000台を突破した。
比較的短期間で販売網を整備し、また姉妹車として、新たに開発した本格的軽4輪トラックスバル・サンバーを1961年に発表してこれが大成功を収めたことで、新規参入メーカーにとっての障壁となる販売網の弱さを改善できた。これによって、4輪車メーカーとしての基盤固めができたことは、富士重工業にとって幸運であった。
1960年にはスバル・360と基本構造を共通としつつもデラックス仕様のボディと大型バンパー、423ccエンジンを備える小型車規格の上級モデル「スバル・450」が発売されたが、さしたる実績は収めることができなかった。
1962年に発売されたデラックスな装備のマツダ・キャロル360に攻勢を掛けられたが、重い車体に重い水冷4気筒エンジンを積んで重量の嵩んだキャロルに比し、軽いため動力性能で勝るスバルは、デラックスモデルの導入で巻き返しに成功する。同時期には三菱はミニカ、ダイハツはフェローで軽乗用車市場に参入してきたが、知名度と販売力を高めつつ出力や装備類を増強し、また長期の量産効果によって値下げも進められたスバルの首位は揺るがなかった。
しかし、1967年に本田技研工業から桁外れに高性能で低価格なホンダ・N360が発売されて以降は販売が伸び悩み、軽自動車市場の販売台数首位をホンダに譲らざるを得なかった。このため、通常モデルはN360による馬力ブーム対策として最終的に25PSまで出力向上されたほか、1968年8月には若年層を狙ったスポーツモデルとして36psを発揮するEK32型エンジンを搭載した「ヤングSS」と25psだが内外装をスポーティ仕様とした「ヤングS」を発売したが、基本設計の古さによる陳腐化は否めなかった。1969年8月に後継車スバル・R-2が発売された後もしばらく併売されたが、翌1970年5月に生産を終了した。
輸出仕様
スバル360はごくわずかであるが、左ハンドル仕様も生産され、当時米国統治下にあった沖縄にも輸出された。
また米国本土ではラビットスクーターを輸入していた実業家、マルコム・ブリックリン (w:Malcolm Bricklin) らによって販売されたこともあった。しかし、非常に小型であったことや、折からラルフ・ネーダーによって指摘されていたシボレー・コルヴェア、フォルクスワーゲン・ビートルなどのリアエンジン車の安定性問題にも影響され、大きな実績を上げるには至らなかった。
輸出仕様は、排気量を拡大した「スバル・450」その名前は「スバル・マイア」であったが、「マイア」は後に3代目スバルレオーネの特別仕様車にも使われた。
派生車種
- スバル360コンバーチブル
- 元々FRP製で取り外しても車体強度に影響のなかった屋根部分を、オープンにできるよう、巻き取り式の幌に置き換えたタイプ。シトロエン・2CV、初代と2代目のフィアット・500など、欧州の大衆車に多く見られるタイプ。完全なオープンカーではなく、キャンバストップの一種であり巻き取り量で開口面積の調節が出来る。通常の屋根にはない開放感が得られることはもちろん、閉めた状態でのこもり音が少なくなる利点もある。
- スバル360コマーシャル
- スバル360の屋根部・後席窓側面パネルに手を加え、商用車として使用可能としたモデル。セダンボディのレイアウトのままで屋根は幌とし、ドア直後のBピラー部分直後側面の後席窓回りのパネルを外側に倒し、ベニヤ板張りとした後部スペースへの荷物搭載アクセスを改善した。商用車として無理が多いことは否めず、短期間の生産に終わった。
- スバル360カスタム
- コマーシャルに代わる本格的な商用バンモデル。スバル360の車体後部に折り畳みシートと荷室を設け、使いやすいバンボディとした。エンジン周りの補機類のレイアウトをサンバーと共通とすることで、荷室の床を低くし、容積の増大と使い勝手の向上を図った。
- スバル450(スバル・マイア)
- エンジンを423ccにボアアップし、大型バンパーを装着した。主に輸出向けモデル(「マイア」の名称で販売)だった。日本国内でも販売されたが、実際には普通小型車扱いになるにもかかわらず、360に比べて70ccほどの排気量増大に過ぎず、居住性にも差がなかったため、360の性能向上に伴って存在意義は薄れ、ほとんど販売実績はなかった。
- スバル・サンバー
- スバル・360のドライブトレーンを強化し、キャブオーバー型車体を架装した梯子形フレームに組み合わせる手法で開発され、1961年に発売された、スバル・360の姉妹車。トラックとバンが製造され、高い耐久性とリアエンジンによるトラクションの高さ、商用車としては異例のソフトな乗り心地で、商工業者や農家から支持を得て、スバル・360の派生モデル中で最大の成功を収めた。富士重工業の隠れたロングセラーとなり、モデルチェンジを繰り返しながらスバルの軽乗用車が前輪駆動となった後もリアエンジン方式を維持。スバルオリジナルの軽自動車としては最後のモデルとなっていたが2012年2月をもって生産を終了した。詳細は当該項目を参照。
- 360Commercial.jpg
スバル360コマーシャル
- Subaru-360Custom.jpg
スバル360カスタム
脚注
関連項目
外部リンク
テンプレート:自動車- ↑ それまでは、2ストロークエンジン=240cc以下、4ストロークエンジン=360cc以下という規格だった。当時は同じ排気量なら4ストロークより2ストロークのほうが高出力であると考えられていたゆえの差別化だったが、これが撤廃されたものである。
- ↑ 一例として、長野県松本市に本社工場を置いていた石川島芝浦機械(現・IHIシバウラ)は1955年にリアエンジン・オープンボディの軽4輪車「芝浦軽四輪MR-2型」を開発した。同社の開発陣で、旧制松本高校(現・信州大学)で百瀬晋六と同窓生だった者が、スバル・360の開発初期、太田工場にMR-2型を運転して訪れ、百瀬の評を乞うた。しかし、芝浦軽四輪を実見した百瀬は、自動車としての水準の低さを見て取り、率直に酷評したという。全長×全幅×全高(mm)=2830×1210×1200というサイズで完全2座のMR-2型は、空冷4ストローク単気筒325ccのサイドバルブエンジン搭載で、出力は僅か8PS/4000rpm、最高速度60km/hに留まっていた。そのデザインもダミーグリル付のゴーカートもどきで、市販には至らなかった。大手企業の系列会社であっても、一般にはこの程度の軽自動車しか開発できなかったのである。
- ↑ モータリゼーションが本格化する前の1950年代当時、日本国内には地方の山間部に至るまで緻密な路線バス網が形成されていた。道路整備以前の時代で、未舗装で凹凸の続く泥濘路や極端な狭隘路も少なくなかったが、当時の路線バス車両は、小回りが利くボンネット型車体や、大きなタイヤによる十分なロードクリアランス、頑丈なリーフスプリング支持固定車軸を備え、かろうじて車道と言える程度の悪路でも幅員さえクリアできれば、低速ではあるが踏破することができたのである。当時の日本での道路状況を考慮すれば、同時代の路線バスに比肩する悪路踏破性能達成は、市販乗用車としても十分に意味のある目標ラインであった。
- ↑ 実際、先行した前輪駆動のスズライトは旧式な不等速ジョイントがドライバビリティのネックとなっており、またほぼ同時期に開発作業が進められていたトヨタ・パブリカは、当初前輪駆動を計画していたものの、技術的克服を成し得ず、開発中途でコンベンショナルなフロントエンジン+後輪駆動に設計変更されている。
- ↑ これにより通常タイプの最終型スバル・360は最高速度110km/h・連続巡航速度100km/hを公称した。またスポーツモデルのヤングSS用には36PSを捻出する派生版の高出力型EK32が搭載されている。
- ↑ これを活かしてユーザー間に「左膝でシフトレバーを押し、手を使わずに2→3速のシフトアップをやってのける」横着な操作法が編み出されたことは初期スバルの有名なエピソードとなっている。
- ↑ 発売当時の自動車雑誌からはこの指定について「ペンタルーブを置いていない給油所ではどうするのか」という批判も見られ、ガソリンスタンドや自動車関連の小売店など周辺インフラが未熟だった、日本のモータリゼーション黎明期の実情がうかがえる。
- ↑ なおスバル・360は極端に軽量であったため、たとえ大きく横転して仰向け状態になっても、大人2、3人がかりで元通りに引き起こしてしまうことができた。これまた超軽量車ならではである。
- ↑ 赤城山南側の登山道路は関東平野北端の海抜150m付近から続く長い片勾配ルートであるが、海抜500m付近から勾配が著しく急峻となり、ここから10km以上に渡って、山頂近くの外輪山の峠である新坂平(海抜1400m付近)まで過酷な片勾配が続く。
- ↑ 中川と百瀬は共に戦前・戦中は中島飛行機の社員であった。中川は戦闘機用エンジン誉を設計、百瀬は同エンジンの高高度用の改造を担当している。また、長谷川と百瀬は同じ旧東京帝国大学航空学科の卒業生であり、長谷川は立川飛行機に入社してB29迎撃用戦闘機キ94の設計を担当している。