イスラム帝国

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イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة、caliphate)は、イスラム教イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。

定義

この用語は、イスラム帝国と呼ばれる政権自身の用いた呼び名に基づいたものではなく、現代の歴史叙述の上で便宜的に用いているものである。現代日本の用例では、おおよそ3つの使い方がある。

  1. イスラム国家の帝国的な支配体制のうち、アッバース朝において実現された、ムスリム(イスラム教徒)であれば平等に支配される国家体制のこと。正統カリフ時代からウマイヤ朝の時代において、ムスリムであっても軍人として俸給(アター)を受け、人頭税(ジズヤ)を免除されるのはアラブ人のみというように、アラブが支配階級として君臨していた体制を指して「アラブ帝国」と呼ぶのに対比する形で用いられる。世界の歴史学者の間では、この理解が一般的である。
  2. ヨーロッパの歴史家が長らく正統カリフからアッバース朝までのイスラム国家に対する呼称として用いてきた「サラセン帝国」を、サラセンは他称で誤りであるという観点から、機械的にイスラムと言い換えたもの。日本の歴史教科書で一般的な用法である。またでは大食(読み方たいしょく、タージ)と呼んでいた政権である。
  3. イスラム世界の中心的な王朝を漠然とイスラム帝国と呼ぶもの。日本において、「イスラム帝国」という用語は一般的にこのように理解されていることが多いようである。

大食

大食(タージ)は、ペルシャ語テンプレート:Interlang (テンプレート:En) の中国語音訳である。元来はアラブ人のことであるが、拡大してイスラム教徒全体や、その国家を表すようになった。

فارسی (テンプレート:En) は、アラブの有力部族だったタイイ族 (テンプレート:Interlang) の名から来ている。タジク人と同語源という説もある。

イスラム帝国(サラセン帝国・大食)と呼ばれる政権

正統カリフ時代のイスラム国家

イスラム教の開祖ムハンマドの死後、ムハンマドの代理人としてイスラム共同体の後継指導者となった4人のカリフたちが構築した国家。首都はムハンマド以来のイスラム共同体の所在地であるマディーナ(メディナ)がそのまま使われた。

初代カリフのアブー=バクルのときアラビア半島のアラブ人を統一、第2代カリフのウマル・イブン・ハッターブのときにはシリア地方エジプトイラクイランにまで兵を進めてアラブ人が多民族を支配する帝国を築き上げた。

第4代カリフのアリー・イブン・アビー・ターリブのとき、首都をイラクのクーファに移したが、同じころ内部対立による不満が高まり、反乱が続発。第3代カリフのウスマーン・イブン・アッファーンおよび第4代アリーは反対派による暗殺に倒れた。

イスラム帝国~ウマイヤ朝~

アリーの暗殺後、アリーの政敵であったシリア総督ムアーウィヤが自らカリフに就任して建設した政権。就任に至る経緯、およびムアーウィヤがカリフ位の世襲化を始めたことから、これまでの4人の正統カリフに比べて合法性で劣るとみなされたが、大多数のムスリム(スンナ派)はウマイヤ朝の支配を承認したので、イスラム帝国最初の世襲王朝となった。

ウマイヤ朝は正統カリフ時代末期の内紛を収めて安定した支配を構築すると、西では北アフリカアンダルスイベリア半島)、東ではホラーサーンまで勢力を広げ、アラブ人が異民族を支配する『大世界帝国』へと発展した。

ファイル:Map of expansion of Caliphate.svg
預言者ムハンマドの時代はアラビア半島のみがイスラーム勢力の範囲内であったが、正統カリフ時代にはシリアエジプトペルシャが、ウマイヤ朝時代には東はトランスオクシアナ、西はモロッコ・イベリア半島が勢力下に入った
ファイル:Omayyad mosque.jpg
ダマスカスのウマイヤド・モスク 現在でも利用されているモスクとしては最も古いものの一つであり、規模も最大級である

イスラム帝国~アッバース朝~

ファイル:Abbasids850.png
東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは当時、世界最大の都市だった。アッバース朝では、エジプトバビロニアの伝統文化を基礎にして、インドアラビアペルシア中華ギリシア、などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。

8世紀半ば、ウマイヤ家よりもムハンマドの家系に近いアッバース家を指導者として行われた革命によって成立した政権。ホラーサーンを王朝発祥の基盤とする東向きの帝国で、イラクのバグダードを首都とした。アンダルスではウマイヤ朝の残党が後ウマイヤ朝を建設してアッバース朝の支配から離れたが、それを除いた帝国のほとんどを継承し、さらにタラス河畔の戦い唐軍を撃退すると中央アジアインドまで勢力を広げてイスラム国家としては過去最大の版図を実現した。

王朝の初期にはアッバース革命に参加したイランのペルシア人たちが政権において官僚として活躍し、地方でもアラブ人の絶対支配体制が解消されてムスリムの原則的な平等が実現した。このため、非アラブ人はイスラムに改宗することによる税制上のメリットが得られるようになり、かえってアラブ化・イスラム化が進むことになる。

しかし、9世紀に入ると地方が次第に自立し始め、早くも統一が失われていった。10世紀には北アフリカで興ったファーティマ朝シーア派を奉じ、アッバース朝に対抗してカリフを称した。さらにアンダルスの後ウマイヤ朝もファーティマ朝との対抗上カリフを自称し、イスラム世界に3人のカリフが並存する本格的な分裂時代に入った。

また、バグダードのアッバース朝中央ではマムルーク(奴隷身分出身の軍人)がカリフにかわって実権を握り、アッバース朝の支配は弱体化した。946年にはイランのシーア派王朝ブワイフ朝がバグダードの支配権を握ってカリフ政権は形骸化し、1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝がカリフからスルターンの称号を与えられて世俗の支配権を譲られ、カリフは名目的な支配者となっていった。

セルジューク朝の衰亡後、バグダード周辺の支配力を回復しつつ、イスラム帝国の支配者カリフとして各地のスンナ派諸王朝に名目的な宗主権を認めさせていたアッバース朝モンゴル帝国によって完全に滅ぼされるのは1258年のことである。以後もカリフを主張するものはあらわれたが、イスラム帝国の全域を覆う帝国はついに生まれなかった。

関連項目