島根県立松江北高等学校
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島根県立松江北高等学校(しまねけんりつ まつえきたこうとうがっこう, Shimane Prefectural Matsue Kita High School)は、島根県松江市奥谷町に所在する公立高等学校。通称は「北高」(きたこう)、「松北」(まつきた)。
目次
概要
- 歴史
- 1876年(明治9年)に開設された「教員伝習校内変則中学科」(旧制中学校)を前身とし、「島根県立第一中学校」、「島根県立松江中学校」など数回の改称を経た後、1948年(昭和23年)の学制改革で新制高等学校「島根県立松江第一高等学校」(男子校)となる。翌1949年(昭和24年)に高等女学校を前身とする島根県立松江第二高等学校・松江市立高等学校(女子校)と統合され、男女共学の「島根県立松江高等学校」が発足。その後1961年(昭和36年)に南北の2校に分離され、「島根県立松江北高等学校」(現校名)となった。旧制中学校時代を含めれば、島根県内で一番長い歴史を持つ公立の高等学校である。2011年(平成23年)に創立135周年を迎えた。
- 設置課程・学科
- 全日制課程 2学科
- モットー
- 「質実剛健・文武両道」
- 校章
- 1948年(昭和23年)に発足した「島根県立松江第一中学校」(男子校)の校章を継承している。松葉を図案化したものを背景にして「高」の文字を置いている。
- 校歌
- タイトルは「さんみゃくうかびて」。1953年(昭和28年)に制定。作詞は土岐義麿、作曲は高田三郎による。歌詞は3番まであり、校名の「松江北高」が登場する[1]。
- 授業
- 学校生活では1 - 7限目までの授業が基本。3年生になると時には0限授業や8限授業、18:20まで「放課後学習」という自主学習が実施される。3年生になると、夏休みはお盆休みの3日間を除きほぼすべてが補習授業に当てられ、年末年始も3日間程度の休みがあるのみで補習授業やセンター模試が行われる。
- 同窓会
- かつてのシンボルツリーである二本松にちなみ、「双松会」と称している。県外では東京、近畿(大阪)、広島、鳥取米子、県内では大田市、東部などに支部を置いている。
沿革
旧制中学校・新制高等学校(男子校)時代
- 1876年(明治9年)3月 - 「教員伝習校内変則中学[2]科」を設置。
- 1877年(明治10年)11月 - 「松江中学」として独立。
- 1884年(明治17年) - 「島根県第一中学校」と改称[3]。
- 1886年(明治19年)8月 - 中学校令の施行により「島根県尋常中学校」に改称[4]。修業年限を5年とする。
- 1893年(明治26年)- 「島根県第一尋常中学校」に改称[5]。
- 1899年(明治32年)- 中学校令の改正により「島根県第一中学校」に改称(「尋常」が除かれる)。
- 1901年(明治34年)- 「島根県立第一中学校」に改称。
- 1907年(明治40年)4月 - 「島根県立松江中学校」と改称。
- 1920年(大正9年)11月 - (旧制)松江高等学校(島根大学の前身の1つ)が併設される。
- 1921年(大正11年)12月 - (旧制)松江高等学校の校舎が完成したため、移転を完了し、併設を解消。
- 1923年(大正12年)8月 - 野球部が第9回全国中等学校優勝野球大会(全国高等学校野球選手権大会、夏の甲子園大会の前身)に初出場。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 中等学校令の施行により、この時の入学生から修業年限が4年に短縮される。
- 1944年(昭和19年)4月1日 - 前年に閣議決定された教育ニ関スル戦時非常措置方策により、修業年限4年施行[6]の前倒しが行われることとなる。
- この時の4年生(1941年(昭和16年)入学生)から適用し、4年を修了する1945年(昭和20年)3月の施行となる。
- 1945年(昭和20年)
- 1946年(昭和21年)4月1日 - 修業年限が5年に戻る(4年で卒業することもできた)。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
- 旧制中学校の生徒募集を停止。
- 新制中学校を併設し(名称・島根県立松江中学校併設中学校、以下・併設中学校)、旧制中学校の1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置として暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 旧制中学校3・4年修了者はそのまま旧制中学校に在籍し、4・5年生となる(4年で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)
- 1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
県立高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
- 1897年(明治30年)5月 - 「松江市立高等女学校」が開校。
- 1907年(明治40年)4月1日 - 県立移管により「島根県立松江高等女学校」に改称。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
- 高等女学校の生徒募集を停止。
- 新制中学校を併設(島根県立松江高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)し、高等女学校1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、高等女学校4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
- 高等女学校が廃止され、新制高等学校「島根県立松江第二高等学校」(女子校)が発足する。私立松操高等女学校(1923年(大正12年)創立)を統合。
- 高等女学校卒業生(希望者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称・島根県立松江第二高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
市立高等女学校・新制高等学校(女子校)時代
- 1911年(明治44年)4月1日 - 「松江市立女子技芸学校」が開校。
- 1927年(昭和2年)5月 - 「松江市立家政高等女学校」に改称。
- 1941年(昭和16年)4月1日 - 「松江市立高等女学校」に改称。
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 学制改革(六・三制の実施、新制中学校の発足)
- 高等女学校の生徒募集を停止。
- 新制中学校を併設(松江市立高等女学校併設中学校、以下・併設中学校)し、高等女学校1・2年修了者を新制中学2・3年生として収容。
- 併設中学校は経過措置としてあくまで暫定的に設置されたため、新たに生徒募集は行われず、在校生が2・3年生のみの中学校であった。
- 高等女学校3・4年修了者はそのまま高等女学校に在籍し、高等女学校4・5年生となった(4年で卒業することもできた)。
- 1948年(昭和23年)4月1日 - 学制改革(六・三・三制の実施、新制高等学校の発足)
- 高等女学校が廃止され、新制高等学校「松江市立高等学校」(女子校)が発足する。
- 高等女学校卒業生(希望者)を新制高校3年生、高等女学校4年修了者を新制高校2年生、併設中学校卒業生を新制高校1年生として収容。
- 併設中学校は新制高校に継承され(名称・松江市立高等学校併設中学校)、在校生が1946年(昭和21年)に高等女学校へ最後に入学した3年生のみとなる。
- 1949年(昭和24年)3月31日 - 最後の卒業生を送り出し、併設中学校を廃止。
新制高等学校(男女共学)
- 1949年(昭和24年)
- 1950年(昭和25年)11月20日 - 増築校舎の完成により北校舎への移転・統合を完了。
- 1951年(昭和26年)2月28日 - 増築校舎と体育館が完成。
- 1953年(昭和28年)10月10日 - 校歌を制定。
- 1954年(昭和29年)4月1日 - 定時制宍道(しんじ)分校(家庭科1学級、修業年限4年、午前・午後の昼間二部制)を設置。
- 1955年(昭和30年)4月1日 - 島根県立松江工業高等学校より通信教育部が移管される。
- 1961年(昭和36年)
- 4月1日
- 「島根県立松江北高等学校」(現校名)と「島根県立松江南高等学校」に分割される。
- 通信教育部を通信制課程と改称。被服科を廃止。定時制宍道分校を松江南高等学校に移管。
- 7月 - 通信教育課程協力校(大田・浜田・益田・隠岐)を設置。
- 4月1日
- 1962年(昭和37年)4月1日 - 島根県立浜田高等学校の通信制課程を統合。
- 1966年(昭和41年)- PTAにより補習科が併設される。
- 1968年(昭和43年)4月1日 - 理数科を設置。全日制課程が2学科体制となる。
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)12月25日 - 赤山(現在地)に管理棟・特別教室棟が完成。
- 1978年(昭和53年)
- 1979年(昭和54年)5月22日 - 旧制中学校同窓会「双松会」と「松江北高校同窓会」が統合され、新「双松会」が発足。
- 1980年(昭和55年)
- 1988年(昭和63年)2月 - シンボルツリーの二本松(双松)のうちの1本に斧入れ(伐採)を行う。
- 1991年(平成3年)3月31日 - 体育館南側中庭の改修を完了。
- 1994年(平成6年)
- 4月1日 - 通信制課程が単位制となる。
- 6月26日 - 通信制の体育館が完成。
- 1997年(平成9年)
- 3月31日 - 通信制課程、普通科家政コースを廃止。
- 4月28日 - 通信制黒田校舎の開校式を挙行。
- 1999年(平成11年)3月31日 - 通信制課程、衛生看護科を廃止。
- 2000年(平成12年)3月31日 - 通信制課程、普通科建築コースおよび機械科を廃止。
- 2001年(平成13年)10月 - シンボルツリーの二本松(双松)の残る1本に斧入れ(伐採)を行う。
- 2002年(平成14年)3月 - 野球部が第74回選抜高等学校野球大会に21世紀枠で出場。
- 2010年(平成22年)3月31日 - 通信制課程の募集を停止し、通信制課程の在校生を松江北高在籍のまま新設の島根県立宍道高等学校に移管。
- 2013年(平成25年)3月31日 - 最後の卒業生(2009年度(平成21年度)入学生)を送り出し、通信制課程を廃止。
学校行事
- 修学旅行は実施されない。
クラブ活動(全日制課程)
運動部
- 野球部 - 2002年(平成14年)の第74回選抜高等学校野球大会へ21世紀枠で出場した。
- バスケットボール部
- バレーボール部
- バドミントン部
- 新体操部
- 体操部
- 卓球部
- サッカー部
- 陸上部
- ボート部
- 弓道部
- 剣道部
- 柔道部
- テニス部
- ソフトテニス部
- 水泳部
- 登山部
文化部
- ESS部(English Speaking Society)
- 演劇部
- 合唱部
- 華道部
- 箏曲部
- 茶道部
- JRC部(Junior Red Cross)
- 写真部
- 生活科学部
- 書道部
- 新聞部
- 美術部
- 文芸部
- 放送部
- 吹奏楽部
- パソコンサイエンス部
- 百人一首かるた部
- 将棋囲碁部
- 弦楽同好会
関連する作品
小説
- 法月綸太郎『密閉教室』 - 「湖山北高校」(ノーカット版では「毬江北高校」)のモデルである。
ドラマ
著名な関係者
出身者
旧制中学校
- 若槻礼次郎 - 第25代、第28代内閣総理大臣(退学)
- 竹下登 - 第74代内閣総理大臣
- 竹下勇造 - 掛合村長、島根県議会議員、竹下登の父親
- 細田吉蔵 - 運輸大臣
- 恒藤恭 - 法哲学者
- 永井隆 - 医師、医学博士
- 足立正 - 実業家(日本商工会議所第12代会頭)
- 松本肇 - 英文学者
- 河井寛次郎 - 陶芸家、エッセイスト
- 山内以九士 - 戦前の東京六大学野球・慶大野球部選手、野球殿堂
- 田中隆吉 - 陸軍少将、東京裁判で検事側証人として被告側に不利な証言をしたことで知られる
- 田部長右衛門 (23代)(実業家) 奥出雲の山林大地主
- 芦田伸介 - 俳優
- 岸清一 - IOC委員、政治家、弁護士 代々木にある岸記念体育会館に名を残す
- 山田定義 - 海軍中将
- 門脇季光 - 外務事務次官
- 津田晴一郎 - マラソン選手。アムステルダムオリンピック・ロサンゼルスオリンピック連続入賞。
- 井上赳-『サクラ読本』の父
- 恒藤恭-大阪市立大学名誉教授
- 小原うめ女-俳人
新制高校以後
- 井原勝美 - ソニー(株)代表取締役 副社長 、ソニーエリクソンモバイルコミュニケーションズ 社長
- 景山俊太郎 - 政治家
- 芦田昭充 - 商船三井社長
- 法月綸太郎 - 推理作家
- 園山俊二 -漫画家
- 谷岡弘規 -俳優
- サウダージ横山 - 音楽プロデューサー
- 柏木登 - バップ社長、元日本テレビチーフプロデューサー
- 上山博之 - バスケットボール・日立サンロッカーズ選手
- 辰巳悦加 - 陸上選手
- 楠井一騰 - 野球選手。東京大学野球部21年ぶりの甲子園経験者(現:東大大学院)
- 前田秀幸 - 大学受験予備校講師
- 御秒奈々 - タレント
- 曳野康久 - バスケットボール選手
- 奈良原一高 - 写真家
- 上田裕三-三栄電機社長
- 内藤順也-弁護士
- 岡田定久-東京電機大学教授
- 塚田公彦-鹿児島大学教授
- 岩崎輝雄-健康評論家
- 畑一夫-東京都立大学名誉教授
- 間瀬節蔵-茨城大学名誉教授
- 石川武男-岩手大学名誉教授
- 出口典雅-演出家
- 東條加寿子-九州女子大学教授
- 米澤宣美-工学院大学教授
- 野崎健輔-映画監督
- 国原俊明-映画監督
- 田中寿子-ピアノニスト
教職員など
交通アクセス
最寄りの鉄道駅
脚注
関連項目
- 島根県高等学校一覧
- 日本の理数科設置高等学校一覧
- 旧制中学校
- ナンバースクール
- 島根県立宍道高等学校 - 通信制課程を移行