貴族院 (日本)
テンプレート:議会 貴族院(きぞくいん)は、大日本帝国憲法下の日本における帝国議会の上院である。1890年(明治23年)11月29日から1947年(昭和22年)5月2日まで存在した。貴院と略称された。衆議院とは同格の関係にあったが、予算先議権は衆議院が持っていた[1]。
非公選の皇族議員・華族議員・勅任議員によって構成され、解散はなく[1]、議員の多くが終身任期であった。その一方、有識者が勅任により議員となる制度が存在し、日本国憲法下の参議院のように、良くも悪しくも「衆議院のカーボンコピー」という批判は起きなかった。
目次
概要
議院や議員の権限などについては、議院法、貴族院令(明治22年勅令第11号)[1]、その他の法令に定められた。
議員の任期は原則として7年で、皇族議員、華族議員のうち公爵・侯爵議員、勅任議員のうち、勅選議員については終身議員とされた。華族議員のうち、伯爵・子爵・男爵議員はそれぞれ同爵の者による互選により選出された[2]。
議員の歳費は議院法に定められた。それぞれ、議長7,500円、副議長4,500円、議員3,000円であった(いずれも1920年(大正9年)の法改正から1947年(昭和22年)の法廃止まで、衆議院も同額)。
1890年(明治23年)開会の第1回通常会から、1946年(昭和21年)開会の第92回通常会まで、議員総数は250名から400名程度で推移した。第92回議会停会当時の議員総数は373名であった。
貴族院は概して非政党主義を取ったため政党には厳しかった一方で藩閥・官僚内閣を窮地に陥れることもあり、独自性を発揮した。戦時下においても政党が軍部に迎合していったのに対して総じて冷静であり、絶頂期の東条内閣を議会で批判したのも貴族院であった。[3]
議員資格
皇族議員
満18歳に達した皇太子・皇太孫と、満20歳に達したその他の皇族男子は自動的に議員となった(貴族院令第2条)。定員はなく、歳費もなかった[1]。
貴族院規則4条で「皇族ノ議席ハ議員ノ首班ニ置キ其ノ席次ハ宮中ノ列次ニ依ル」となっていた。ただし、皇族が政争に巻き込まれることは好ましくないという考えから、皇族は議会で催される式典などに参列したり、傍聴することはあっても、議員として日常的に議会内に立ち入ることはなく、登院は帝国議会史上、きわめて稀であった[4]。また男性皇族は原則的に軍人であったので、軍人の政治不関与の建前からも出席は好ましくないとされた[1]。
華族議員
華族議員は華族から選任された。爵位によって、選任方法、任期その他の定めが異なった。なお、朝鮮貴族は朝鮮貴族令5条により華族と同一の礼遇をうけるものとされたが、爵位による華族議員となる資格は与えられず、別途勅任議員として貴族院議員に列した場合があった。
公爵議員・侯爵議員
満25歳に達した公爵・侯爵は自動的に議員となった(貴族院令第3条)。定員はなく、歳費もなかった。
1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢が満30歳に引き上げられた[1]。また、勅許を得て辞職すること及びその後勅命により再び議員となることが認められた。
公侯爵議員も現役軍人たる議員は出席しない慣例になっていた[2]。
伯爵議員・子爵議員・男爵議員
満25歳に達した伯爵・子爵・男爵のうちから同爵の者の互選で選ばれた(貴族院令第4条第1項)。任期は7年。互選の方法などについては貴族院伯子男爵議員選挙規則(明治22年勅令第78号)に定められた[2]。選挙は完全連記制であった[5]。また、委託投票も可能だった[6]。
1890年(明治23年)7月10日、第1回貴族院伯子男爵議員互選選挙が行われた。貴族院令第4条第2項により、伯爵20人以内、子爵と男爵は各73人以内とされ、各爵の議員の定数は各爵位を有する者の総数の5分の1を超えない範囲とされた(第1回帝国議会において伯爵14名、子爵70名、男爵20名。第21回帝国議会において伯爵17名、子爵70名、男爵56名)。
1905年(明治38年)の貴族院令改正(明治38年勅令第58号)により、伯子男爵議員を通して定数143名とし、各爵位を有する者の総数に比例して配分することとなった。これは、日清戦争・日露戦争を経て、華族(戦功華族・新華族)の数が急増したことによる議員数の増加を抑えるための措置である。
1909年(明治42年)の貴族院令改正(明治42年勅令第92号)により、伯爵17名、子爵70名、男爵63名とされた。
1918年(大正7年)の貴族院令改正(大正7年勅令第22号)により、伯爵20名、子爵73名、男爵73名と増員された。
1925年(大正14年)の貴族院令改正(大正14年勅令第174号)により、年齢は満30歳に引き上げられ、定数は150名(伯爵18名、子爵66名、男爵66名)とされた。以後、貴族院廃止まで定数変更はない。
伯爵・子爵・男爵議員は同爵の者による互選とはいえ、選挙がある以上選挙運動もまた存在した。こうした中、1892年(明治25年)発足した「尚友会」は、有爵者・貴族院議員の親睦会を謳っていたが、実質は研究会の選挙運動団体だった。完全連記制であるため、細かい票の割り振りは必要なく、また第一勢力が圧倒的多数を占めることのできる多数代表制であった。そのため、いち早く選挙運動団体を組織した尚友会は、協力した桂太郎内閣の後押しもあって、やがて伯爵・子爵・男爵議員の大半を牛耳る存在になった。
伯子男爵議員選挙一覧
- 第1回伯子男爵議員選挙 - 1890年(明治23年)7月10日投票
- 第2回伯子男爵議員選挙 - 1897年(明治30年)7月10日投票
- 第3回伯子男爵議員選挙 - 1904年(明治37年)7月10日投票
- 第4回伯子男爵議員選挙 - 1911年(明治44年)7月10日投票
- 第5回伯子男爵議員選挙 - 1918年(大正7年)7月10日投票
- 第6回伯子男爵議員選挙 - 1925年(大正14年)7月10日投票
- 第7回伯子男爵議員選挙 - 1932年(昭和7年)7月10日投票
- 第8回伯子男爵議員選挙 - 1939年(昭和14年)7月10日投票
なお第9回伯子男爵議員選挙は、本来ならば1946年(昭和21年)7月10日に投票が行われるはずだった。しかし同年5月に召集された第90回帝国議会ですでに日本国憲法の審議が始まっており、この時点で貴族院はせいぜい向う1年以内に廃止となることが分かっていた。そのため敢えてこの選挙は実施せず、代わりに現職の伯子男爵議員の任期を1年間延長することで対応した。
勅任議員
勅選議員
国家に勲労ある、または学識ある30歳以上の男子の中から、内閣の輔弼により天皇が任命した(貴族院令第5条)[2]。勅選議員は終身議員となる(貴族院令第5条)。
1890年(明治23年)の帝国議会創設時には61名が選出された(元老院議官27名、各省官吏10名、民間人9名、帝国大学代表6名、宮中顧問官6名、内閣法制局3名)。
なお、当初、勅選議員と多額納税者議員の総数は華族議員の総数以下とされた(貴族院令第7条、1925年(大正14年)にこの規定は廃止)。1905年(明治38年)以後は定員125人以内に固定された。
帝国学士院会員議員
1925年(大正14年)に新設された。帝国学士院会員で30歳以上の男子から互選。任期は7年。定員は4(帝国学士院は、分野ごとに2部に分けられたため、各部ごとに2名ずつ選出された)。互選の方法その他は貴族院帝国学士院会員議員互選規則(大正14年勅令第233号)に定められた[2]。
多額納税者議員
土地あるいは工業・商業につき多額の直接国税[7]を納める30歳以上の者の中から互選(貴族院令第6条)。任期は7年。互選の方法その他は、貴族院多額納税者議員互選規則(大正14年勅令第234号)に定められた[8]。
当初は各府県ごとに直接国税納付者15名より1名が互選され、北海道庁と沖縄県は対象外とされたので定員は45名であった。1918年(大正7年)に北海道・沖縄にも適用され、1925年(大正14年)には庁府県ごとに多額納付者100名につき1名または200名につき2名に改められて定員は66人以内となった。1944年(昭和19年)には樺太庁からも1名選出されることになり、定員67人以内と改められたが、敗戦による樺太喪失によって一度も選出は行われなかった。
朝鮮勅選議員・台湾勅選議員
朝鮮または台湾に在住する満30歳以上の男子にして名望ある者より特に勅任した。定員は10人以内[9]。
1945年(昭和20年)4月に創設されたが、戦争末期のためほとんど機能せず、1946年(昭和21年)に朝鮮・台湾の統治権を失ったことにより廃止された[9]。
朝鮮選出議員[10] | 宋鍾憲(野田鍾憲/伯爵) | 李埼鎔(子爵) | 尹致昊(伊東致昊) | 金明濬(金田明) |
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韓相龍 | 朴相駿(朴澤相駿) | 李軫鎬(李家軫鎬) | 朴重陽(朴忠重陽) | |
台湾選出議員[10] | 許丙 | 簡朗山(緑野竹二郎) | 林献堂 |
歴史
伊藤博文は天皇を中心とした君主制を維持するためにも、天皇を補佐する世襲貴族(華族)の必要性があると認識していた。したがって、選挙による選出である衆議院とは対照的に、貴族院は世襲貴族をその中心に据えた。河野敏鎌は議員の地位を世襲とせず、華族による互選を主張したが、伊藤は「今世襲議員を貴族院より除くは取も直さず世襲貴族を廃するに同じ」と拒絶した。ただし、伯爵以下の貴族は数が多く、全員を議員にすることはできなかったため、同じ爵位の華族による互選となった。
貴族院関係法令の起草は金子堅太郎が担当した。金子は、当初、「元老院」と仮称していたが、伊藤博文は外国の元老院は選挙による選出だから今回の議院とは性質が異なると否定し、その結果「貴族院」に決定した。これは貴族中心の議院であることを積極的に表現し、皇室の藩屏として純粋な君主主義の立場を取り、民主主義に対抗する役割を期待されていた。また、当初の伊藤は政党内閣は事実上主権(国体)が天皇から政党に移るから認められないと考えていた(もっとも、伊藤は後に立憲政友会を結党)。そこで、貴族院は衆議院の政党勢力と対抗する存在と位置付けられた。
第二次世界大戦前にも婦人参政権の導入、労働組合の容認、帝国大学の増設などの法案が議会に提出され、衆議院では可決されているが、こうした「進歩的内容」の法案が貴族院を通ることは少なかった(裏を返せば、帝国憲法下でも貴族院で可決されていればこれらの法案が実現していたことになる)。
ただし、藩閥政権に対してもある程度の自立性を持ち、衆議院とその地位を競った結果、藩閥政権を幾度となく窮地に陥れてもいる。逆に、政権が政党に妥協した時には反政党の立場から政権と対立したこともある。1900年、伊藤の増税案に対して、貴族院は政友会の党利党略を理由にこれを否決した。手を焼いた伊藤は明治天皇に貴族院が法案成立に協力するよう求める勅語を出させ、従わせたことがある(貴族院はその性質上、勅語には従わざるを得ないのである)。したがって、保守的であるが単純に藩閥政権の手先ともいえなかった。
大正デモクラシーの時代には政治運営において衆議院が強力な力を持ち、貴族院の威信が低下した。貴族院は枢密院とともにしばしば批判にさらされ、その改革案が常に論点となっていた[2]。
第二次世界大戦後、日本国憲法の審議にも参加した。最末期には公職追放により貴族院でも多数の議員が追放されており(戦犯となったり爵位を返上したりした議員もいた)、華族議員は補充されたものの、院の廃止を控えて影響力は低下し、審議では主に学識者を中心とした勅任議員が存在感を見せた。
自らの存在を否定することになる日本国憲法の審議では、下手に否決して天皇制廃止を連合国に持ち出される事態を恐れたため、次善の策として消極的な賛成論が大勢を占めた。天皇の権限を強める修正案も出され、GHQの根回しを済ませていたともいわれたが、修正案は否決された。
研究会所属の多額納税議員である秋田三一は1946年8月30日の貴族院本会議で、過去に政府攻撃を行ったのは第4次伊藤内閣の増税案反対、シーメンス事件の八角に伴う第1次山本内閣弾劾、田中義一内閣における水野文相優諚問題批判など数度に留まると貴族院の活動を統括している[11]。
1947年(昭和22年)、大日本帝国憲法の廃止と日本国憲法の施行により、貴族院と華族制度は廃止された。貴族院の議場は新設された参議院が受け継いだ。貴族院出身者の多くは、憲法への賛成は占領下の便宜的な態度であるとして、のちに日本国憲法改憲論者となっていった。
院内会派
貴族院は衆議院における政党政治の防波堤となり、国権主義の保持に寄与するという建前上、院内に政党を置くことはなく、政党に参加した議員は不文律として貴族院議員を辞職することになっていた。したがって、公式には貴族院議員はほとんどが無所属である(政党の党籍を持ったまま、貴族院では無所属として活動した例はある)。ただし、議会活動の上での親睦や情報交換を目的とする院内会派は設置された。
大正末年から昭和初期にかけての政党政治の成熟期には、これらの会派の一部が衆議院における政党と結び、政党色を強めることもあった。もっとも、貴族院議員の性質上、再選を目指す必要がない議員も多く、大半の場合、院内会派の拘束力は弱かった。具体的には、大半の会派において、不偏不党と「一人一党」主義を謳い、党議拘束を行わなかった。そのため、衆議院における政党とは明らかな差異が認められる[12]。
第1回から第42回までの帝国議会まで貴族院各会派は所属議員を明らかにしなかったため、構成については明らかにすることは出来ない[13]。主な院内会派は次のとおり。
- 火曜会
- 研究会
- 公正会
- 1919年(大正8年)に男爵議員を中心に結成。
- 茶話会
- 交友倶楽部
- 同成会
- 土曜会の後継会派で官僚系勅撰議員が中心となった。親民政党議員が多く、貴族院における民政党の別働隊として活動した。
- 三曜会
- 貴族院議長の近衛篤麿も所属した。
- 同和会
- 茶話会の後継会派で旧茶話会と無所属議員を中心として結成された。反研究会・反政友会色が近く、同成会とともに貴族院における民政党の別働隊として活動した。
- 無所属倶楽部
1920年(大正9年)7月における各会派の所属者数は次のとおり:
研究会 143
公正会 テンプレート:065
茶話会 テンプレート:048
交友倶楽部 テンプレート:044
同成会 テンプレート:030
無会派 テンプレート:067
計 397
1940年(昭和15年)に新体制運動により衆議院の既成政党が解消され無党派時代をむかえた。更に10月に大政翼賛会が結成されると、貴族院でも会派存続が問題となった。しかし院内会派は政党ではないことを根拠に解消されることなく、貴族院の会派は憲法改正による貴族院の廃止まで存続した。大政翼賛会への参加は任意となったため、当時の二大会派である研究会と公正会からは多くの参加が見られたものの、同成会などでは2割ほどの参加に留まった。その後、1940年(昭和15年)5月20日に結成された翼賛政治会への参加状況は、衆議院議員が大半だったのに対して、貴族院議員は8割ほどだった[15]。
1947年(昭和22年)3月、最後の帝国議会終了時における各会派の所属者数は次のとおり:
研究会 142
公正会 テンプレート:064
交友倶楽部 テンプレート:041*
同成会 テンプレート:033
火曜会 テンプレート:032
同和会 テンプレート:030
無所属倶楽部 テンプレート:022
無会派 テンプレート:0テンプレート:08
計 373(*ただし4月に交友倶楽部所属議員1名が死去)
貴族院に替わって第二次世界大戦後の国会を構成した参議院には、当初旧貴族院議員の多くが転身して立候補し当選しているが、彼らはやはり不偏不党を謳った院内会派である緑風会を構成、一時は参議院最大会派として国政に大きな影響力を持った。しかしやがて所属議員の多くは自由民主党などの保守政党に吸収されていった。
内閣総理大臣を輩出
大日本帝国憲法下では、内閣総理大臣は国会議員でいる必要はなかった。現役の衆議院議員で首相となったのは原敬が初めてであり、大日本帝国憲法下の33人の首相の中では、濱口雄幸、犬養毅を併せた3人に留まっている。
一方で、現役の貴族院議員の首相は伊藤博文を始め、松方正義、大隈重信、桂太郎、西園寺公望、高橋是清[16]、清浦奎吾、加藤高明[17]、若槻禮次郎、田中義一、近衛文麿、東久邇宮稔彦王、幣原喜重郎[16]、吉田茂[18]などかなりの数に上った。なお、日本国憲法下では、首相は現在のところすべて衆議院議員である。
脚注
参考文献
- 内藤一成 『貴族院』 同成社、2008年2月10日。ISBN 978-4-88621-418-8。
- テンプレート:Cite book
- テンプレート:Cite journal
関連項目
外部リンク
テンプレート:日本の旧華族- ↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『事典 昭和戦前期の日本』 37頁。
- ↑ 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 『事典 昭和戦前期の日本』 38頁。
- ↑ 内藤一成『貴族院』2008年、同成社Pⅱ
- ↑ 例外として、第1議会(明治23年12月1日)に山階宮晃親王が登院し、第88議会(昭和20年9月1日召集、同4日開会、会期2日間、ただし、閉院式は同6日)に東久邇宮稔彦王が内閣総理大臣として登院している。
- ↑ 古屋哲夫 第五五回帝国議会 貴族院・衆議院解説
- ↑ 内藤一成『貴族院』 p72
- ↑ 事業を法人化して役員報酬を得たり、配当を受けたりする資本家は含まれなかった。『事典 昭和戦前期の日本』 39頁。
- ↑ 『事典 昭和戦前期の日本』 38-39頁。
- ↑ 9.0 9.1 『事典 昭和戦前期の日本』 39頁。
- ↑ 10.0 10.1 尹徳栄子爵(朝鮮貴族)、朴泳孝侯爵(朝鮮貴族)と辜顕栄(台湾出身)はこの枠ではなく、一般の勅選議員として貴族院議員になった。
- ↑ 内藤一成『貴族院』2008年、同成社、p246
- ↑ ただし、最大会派の研究会の会派拘束は厳格で、政党の党議拘束以上の厳しさがあり、会派の内外から批判の対象となっていた。
- ↑ 『議会制度百年史 院内会派編 貴族院・参議院の部』1996年、編集衆議院・参議院、p1
- ↑ 『事典 昭和戦前期の日本』 224頁。
- ↑ 内藤一成『貴族院』2008年、同成社、pp198-200
- ↑ 16.0 16.1 ただし、首相辞任後衆議院に転出し当選。
- ↑ ただし、以前に衆議院議員歴あり。
- ↑ 在任中貴族院の廃止により、衆議院に転出し当選した。