サクラチヨノオー
テンプレート:Infobox サクラチヨノオーとは日本の競走馬、種牡馬である。1988年の日本ダービー、1987年の朝日杯3歳ステークス優勝。
誕生背景
母・サクラセダンは重賞になる前の中山牝馬ステークスに勝った馬である。1981年にマルゼンスキーとの間に生まれた兄・サクラトウコウは1983年の函館3歳ステークスに優勝。兄が「クラシック候補」と呼ばれた1984年の春、谷岡牧場でふたたびサクラセダンとマルゼンスキーの交配が行われ、翌年誕生したのがサクラチヨノオーである。馬名は小島太騎手と親交があり、当時絶頂期を迎えていた横綱・千代の富士貢から取られた。
競走馬時代
3歳
1987年夏、函館開催の最初の新馬戦でデビュー。鞍上は長年、全演植の専属騎手として名を馳せてきた小島太だった。小島はこの年、全演植と仲違いをしてサクラ軍団の競走馬すべての騎乗から外されていたが、この新馬戦からふたたびコンビを組むことになった。単勝1.0倍の本命に支持されたサクラチヨノオーは、直線だけで3馬身半差をつけて勝利した。このレースにより「サクラトウコウの弟は走る」と評判になった。
兄が制した函館3歳ステークスを見送り[1]出走した中山競馬の芙蓉特別も1倍台の本命で勝利した。3戦目のいちょう特別でも1.3倍の支持を受けたが、不良馬場に加え、直線で包まれる不利[1]の影響で逃げたマイネルロジックを捕まえられず2着に敗れた。
陣営は次走に関東3歳馬No.1を決める朝日杯3歳ステークスを選択した。この年、関東地方は雪に見舞われ、12月6日の中山競馬は中止となって翌週の11日に振替となり、13日も雪のため2レースで打ち切りとなった。小島のもとには北海道の実家から「父が危篤」の知らせが入り、小島は実家に帰り父の最期を看取り、葬式を出して水曜日には美浦に戻っての騎乗となった。
2週続きの日程変更、それに有力馬の故障の影響で、朝日杯3歳ステークスの出走馬は6頭にまで減っていた。少頭数で行われたレースはスタートから内のサクラチヨノオーと外のツジノショウグンが並走する形で淡々と進み、そのまま最後の直線に向くと、サクラチヨノオーがツジノショウグンをクビ差振り切って優勝した。しかし『全日本フリーハンデ』では「それだけの強さを持っているが、やはりそれ以上のプラスアルファを感じさせない」「これ以上大きく育つという馬でもない」と評された。この年のJRA賞最優秀3歳牡馬には、阪神3歳ステークスで優勝したサッカーボーイが選出された。同賞の記者投票ではサッカーボーイの127票に対して15票を得るにとどまった[2]。
4歳
1988年初戦の共同通信杯4歳ステークスでは、出走馬中唯一の重賞勝ちの実績から1番人気に支持されたが、序盤からミュゲロワイヤルに先手を奪われ、そのまま2番手で最後の直線に入ると、後ろから来た馬にもかわされて4着に敗れた。管理調教師の境勝太郎は調整不足を敗因に挙げている[1]。
次に出走した弥生賞でサッカーボーイと初対決となった。スタートから先頭を奪うと、1000メートル通過1分1秒8[1]のスローペースで逃げ、そのまま後続を寄せ付けず2着トウショウマリオに2馬身の差を付け逃げ切った[1]。一方のサッカーボーイは3着だった。
皐月賞では、スプリングステークスを勝ったモガミナインに次ぐ2番人気に支持された。レースはアイビートウコウとキョウシンムサシが競り合ってハイペースになり、直線入り口で早めに仕掛けたが、後方で待機していた伏兵のヤエノムテキ、ディクターランドに交わされて3着に敗れた。
その後、5月12日、治療中のサクラスターオーが、傷めていなかったほうの右前脚も脱臼して安楽死処分となった。サクラチヨノオーは関係者たちの期待を背負ってダービーに挑むこととなった。
日本ダービーでは混戦模様の中、サッカーボーイ、ヤエノムテキに次ぐ3番人気に推された。レースはアドバンスモアが超ハイペースで逃げる中、大きく離れた2、3番手を進み、3コーナーでいったん5、6番手に控えたあと、ふたたび進出を開始して最後の直線を迎えて先頭に立った。いったんは内から強襲してきたメジロアルダンに交わされかけ、外からコクサイトリプルにも迫られたものの、クビ差差し返して優勝。勝ちタイム2分26秒3は当時のレースレコードであった。小島、岡部幸雄(メジロアルダン)、柴田政人(コクサイトリプル)と関東のベテランジョッキーによるこの激しい叩き合いは名勝負のひとつに数えられている。
故障とその後
日本ダービー後に右前脚浅屈腱炎を発症、療養は丸1年におよんだ。その間、1歳下の半弟・サクラホクトオーが朝日杯3歳ステークスに優勝し、兄弟制覇を遂げている。
1989年5月、安田記念で復帰した。長期療養明けにもかかわらず3番人気に支持されたが、まったくよいところがなくブービーの16着に惨敗した。続く宝塚記念でも人気となったが、ブービーからさらに大差のついた最下位に敗れ、競走後に屈腱炎の再発が確認されたことから引退が決まった。1989年6月25日に札幌競馬場で引退式が行われた[3]。
種牡馬として
1993年にデビューした初年度産駒からサクラスーパーオーが第54回皐月賞で2着になって期待を集めたが、怪我で大成しなかった。1997年にはサクラエキスパートが愛知杯を勝ち、中央競馬の重賞を制覇。1998年から2001年にかけては、マイターンがダートのGIIクラスの重賞を3勝した。2002年から2003年にかけてはホッカイドウ競馬でツギタテヒカリが重賞を制覇した。
マルゼンスキーの後継種牡馬として期待を集めたが、天皇賞(秋)優勝のネーハイシーザーを出した全兄・サクラトウコウに比べると物足りない結果に終わった。
2001年に種牡馬を引退。去勢され、功労馬として新和牧場にて余生を送っていた。死の前日から立ち上がることができなくなり、2012年1月7日に老衰のため死亡した[4]。
おもな産駒
- 1991年産
- サクラスーパーオー(皐月賞2着)
- 1993年産
- サクラエキスパート(愛知杯)
- アドマイヤビゴール(神戸新聞杯2着)
- 1994年産
- コウチエラミー(札幌日刊スポーツ杯)
- 1995年産
- マイターン(東海ウインターステークス、オグリキャップ記念、ダイオライト記念)
血統表
サクラチヨノオーの血統(マルゼンスキー系(ニジンスキー系) / Prince Rose 5×4=9.38%、Nearco 5x5=6.25%、Menow 5×5=6.25%(父内)) | |||
父 マルゼンスキー 1974 鹿毛 |
Nijinsky 1967 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Flaming Page | Bull Page | ||
Flaring Top | |||
*シル Shill 1970 鹿毛 |
Buckpasser | Tom Fool | |
Busanda | |||
Quill | Princequillo | ||
Quick Touch | |||
母 サクラセダン 1972 鹿毛 |
*セダン Sedan 1955 鹿毛 |
Prince Bio | Prince Rose |
Biologie | |||
Sraffa | Oresenigo | ||
Signa | |||
*スワンズウッドグローヴ Swanswood Grove 1960 黒鹿毛 |
Grey Sovereign | Nasrullah | |
Kong | |||
Fakhry | Mahmoud | ||
Fille de Salut F-No.16-a |
サクラプレジデントの母、セダンフォーエバーはサクラチヨノオーの全妹である。