博多華丸・大吉

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2014年5月20日 (火) 13:42時点におけるAkane7up (トーク)による版 (来歴)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox お笑いコンビ 博多華丸・大吉(はかたはなまる・だいきち)は、吉本興業東京本社(東京吉本、厳密には子会社のよしもとクリエイティブ・エージェンシー)に所属する日本の漫才コンビ1990年5月にコンビ結成し、吉本興業福岡事務所(福岡吉本)からデビュー。福岡で活動した後、2005年に上京し、吉本興業東京本社の所属となる。博多弁漫才を全国展開し活躍している。略称は華大(はなだい)。

メンバー

博多華丸(はかた はなまる、本名 岡崎 光輝(おかざき みつてる))

1970年4月8日生まれ。福岡市早良区出身。ボケ担当。

博多大吉(はかた だいきち、本名 吉岡 廣憲(よしおか ひろのり))

1971年3月10日生まれ。福岡県古賀市出身(生まれは兵庫県神戸市[1])。ツッコミ、ネタ作り担当。

来歴

1989年、ともに福岡大学に進学し、落語研究会に所属したことにより知り合う(後に2人とも大学を中退)。地元のタウン誌に活動が紹介され、それを見た別のプロダクションにコンビ名「ヨッチャン・オカチャン」を付けられ東京でやらないかと誘われる[2]が、怪しいプロダクションだったためそこはやめる。その後、1990年4月、地元で開催されたオーディション番組『激辛!?お笑いめんたい子』(テレビ西日本)に「岡崎君と吉岡君」の名で漫才コンビとして出場、それがきっかけとなり、同5月吉本興業福岡事務所の1期生のオーディションに合格。初代吉本福岡事務所長の「芸人は本名ではなく芸名で」という方針で、当初「華丸・大吉」としてデビュー、その後、「芸名(平仮名で)7文字が売れる」ので「さらにめでたい名前をつけよう」という意向で、「鶴屋華丸・亀屋大吉」(つるやはなまる・かめやだいきち)と改名する[1]

デビュー翌年から地元テレビ番組『どっちもどっち博多っ子倶楽部』(TVQ九州放送)にレギュラー出演(但し大吉はフロアディレクター)、1993年には冠番組「とことんサンデー」の司会となり、福岡県をはじめとする九州・山口地方ではトップクラスの人気を獲得[1]、全国デビューする前の1995年フジテレビめちゃ²モテたいッ!」』(『めちゃ²イケてるッ!』の前身番組)で「福岡の人気芸人」として紹介され、福岡に来たナインティナインらとの共演も果たしている。1997年より1年間、トラブルにより大吉が休業。活動再開を期にネタづくりは華丸から大吉中心に移行した[3][4]1999年から2003年まで『爆笑オンエアバトル』に出演した(ゴールドバトラー)。

2001年の第1回M-1グランプリでは11位となり決勝進出はならなかった。結成11年だったが吉本興業の社員から「ええねん、ええねん」と言われ出場の要請を受け出場、しかし準決勝の時点で主催者側から「10年を超えているのはやはり駄目」となり実質失格の扱いだった。当時は敗者復活枠が無くこの時点で結成10年を超えていた為、次年度以降は出場出来ず、これが最初で最後の出場となった。

2004年4月、屋号を博多に変更した現在の芸名へ改名する。改名のきっかけは、姓名判断に詳しい福岡事務所の女性パート職員が退職する際「『鶴屋』と『亀屋』は運気的に最低の名前」「『鶴屋』がほぼ0点に近い。『亀屋』は口に出せない(ほど最悪)」と判断され、「ずっと気になっていた」「お願いだから改名して欲しい」と頼まれた事である。その女性職員から「いい名前がある」と勧められたのが、現在の『博多』の屋号である。またその女性職員から「屋号を博多に変えて2年以内に2人が東に向かうと運気が上がる」ともアドバイスされる[1]。尚、改名に際し同じ「博多」の屋号であった木村進(三代目博多淡海)にも報告し、改名を快く認めてもらったという。

2005年4月に、華丸曰く、先述の元女性職員のアドバイスに「背中を押していただいた」形で[1]、3年越しの念願であった東京本社へ移籍。移籍後はルミネtheよしもとでの舞台などが主な活動の場となっている。また、月に数回は福岡での仕事も出張として行っている。しかし移籍当初、テレビ局や制作会社には新人とみなされたため、東京進出直後はテレビ出演一本あたりのギャランティは福岡時代より断然減っており、出演数をこなしているのでそれなりの生活が出来ている状態であった。東京進出のきっかけはかつての後輩のヒロシが方言でネタが受けているのテレビで見て自分たちもやっていけるのではと思い決意した。

2005年10月、『とんねるずのみなさんのおかげでした』内のコーナー、博士と助手〜細かすぎて伝わらないモノマネ選手権〜の第6回大会に華丸が出場、児玉清モノマネで優勝し、注目を浴びる(その後、第7回大会も優勝し、連覇する)。

2006年2月、『R-1ぐらんぷり』の決勝に進出。上記の児玉清のモノマネのネタで、華丸が優勝。なお、この大会で披露したネタを作ったのは相方の大吉であり、裏方に回って華丸を支えていた。

2006年5月19日にはなかやまきんに君からの紹介で『笑っていいとも!』のテレフォンショッキング出演を果たす。

2011年、コンテスト形式としては第1回となる『THE MANZAI』にて認定漫才師50組に選抜され、本戦サーキットを13位で通過し決勝大会に進出する。「(大会最高顧問ビートたけしに)“あんちゃん達面白いね”と一言頂けるように頑張ります」と臨んだが、一回戦で福岡吉本の後輩であり自らも評価していたパンクブーブーに大差で敗れる。獲得したのは関根勤からの一票のみだったが、ビートたけしが「華丸・大吉もっと(票が)入ってもよかったんじゃないか」とコメントし、「泣きそうです」と応えた。

エピソード

福岡吉本出身の芸人の兄貴分的存在で、多くの後輩から慕われており、飲み会での乾杯の音頭は常に華丸が取る[5]。特にパンクブーブーとは交流が深く、彼らの実力と才能をいち早く見抜いた芸人の一人でもある。確かな実力を有しながらもなかなか売れなかった彼らを不憫に思い、大吉は七夕の短冊に「パンクブーブーに光が当たりますように」と書いたことがある。その年にパンクブーブーはM-1王者に輝いた。 一方、パンクブーブーも、華丸・大吉が東京進出して間もない頃は、二人が早く東京や東京の芸人に馴染めるように色々と売り込んだり、心を砕いたりしていたという。黒瀬は華丸のことを「お父さん」と呼んでいる[6]

他の芸人が忙しければ断りそうな細かい仕事や、スケジュール上無理と思われるような仕事も断らず受けてしまうため、自嘲気味に「よしもとの犬芸人」と自称している[5][7]。ただでさえ「東京と博多の滞在が半分ずつくらい」のため、東京と福岡を往復するのに、年間で約250回も飛行機に乗るという状況に加え[8]、仕事で東京→長崎→長野→福岡や、福岡→浅草→下関、新潟→大阪→新潟など、「日本地図をもう一度見直して〜」と思うような移動になることも多々あり[9]、「マイレージは常に20万マイル以上持っている」とのこと[8]

出演作品

メンバー単独での出演は、博多華丸博多大吉の項を参照。

現在の出演作品

テレビ番組

レギュラー出演

準レギュラー・不定期出演

ゲスト出演

CM

  • うまかっちゃん(ハウス食品) 九州地区限定
  • JAバンク福岡 九州地区限定
  • エイチ・アイ・エス 九州地区限定

過去の出演作品

テレビ番組

ラジオ番組

CM

脚注

テンプレート:Reflist

関連項目

外部リンク

テンプレート:PON! テンプレート:THE MANZAI 2011

テンプレート:爆笑オンエアバトルゴールドバトラー
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』2012年5月17日付放送分。同番組DVD Vol.24収録
  2. 博多華丸 これぞ 十九の春! - ||| 博多華丸・大吉私信電心 |||
  3. テンプレート:Cite book
  4. テンプレート:Cite news
  5. 5.0 5.1 『雨上がり決死隊のトーク番組アメトーーク!』2012年5月24日付放送分。同番組DVD Vol.24収録
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. 8.0 8.1 テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web