社会党右派
テンプレート:出典の明記 社会党右派(しゃかいとううは)とは、一般的に、旧日本社会党にあって、ソ連・中国型の社会主義を志向せず、西欧型の社会民主主義を模範とした勢力を指す。
時代によって、定義は異なり、結党から1960年代までは社会民衆党・日本労農党の系譜に連なる政治家・活動家を指した。構造改革論争以後は、構造改革論を支持する江田三郎派・和田博雄派・河上丈太郎派に連なる政治家・活動家を指すようになった。村山富市政権誕生以後は、便宜的に久保亘をはじめとする反村山グループを指す。
結党から左右分裂まで
日本労農党系の政治家の多くが公職追放によって政界から追放されたため、社会民衆党系主導で、結党当初の日本社会党を運営した。
しかし、中心人物であった西尾末広と平野力三が公職追放をめぐって対立したり、西尾献金事件や昭和電工疑獄事件(後にともに西尾の無罪が確定)などによるダーティーなイメージがもたれるようになり、党内外で急速に支持を失っていった。
この時期の主な政治家は以下のとおり。
- 片山哲 - 初代委員長。キリスト教社会主義の立場をとった。首相経験者でもある。再軍備反対で憲法擁護を訴えた。
- 西尾末広 - 片山哲時代の書記長。1942年(昭和17年)の翼賛選挙では、「お国のためには血を流せ」と訴えたが、非推薦を貫き、翼賛政治に反対し続けた。1960年、日米安全保障条約に賛成し、民主社会党(民社党の前身)を結成、初代委員長を務めた。
- 平野力三 - 戦前は農民運動で活躍し、一時期は在郷軍人会と協力するなど独自の活動で知られた。戦後片山内閣で農林大臣を務めるが、公職追放の取り扱いをめぐって農相を罷免される。この影響で平野系が社会党を脱党し、社会革新党を結成した。
- 松岡駒吉 - 日本労働総同盟・全日本労働総同盟会長を歴任。戦後政界に転じて衆議院議長を務めた。
- 鈴木善幸 - 社革党から民主自由党に転じ、後に自民党総裁・首相となった。
右派社会党(1951-55年)
1951年(昭和26年)、サンフランシスコ講和条約および(旧)日米安全保障条約の賛否をめぐり、社会党は分裂し、講和条約賛成・安保条約反対派を便宜的に「右派社会党」と呼んだ(略して“右社”)。左右両派ともに、「日本社会党」と名乗ったためである。委員長は当初、空席とされ、書記長に浅沼稲次郎が就任した。後に、公職追放を解除された河上丈太郎が委員長に就任した。
当時、もっとも重大な問題とされていた「再軍備問題」に対しては、党内に積極的に再軍備を主張する西尾派と再軍備に慎重な河上派の対立があり、明確な主張を訴えることは出来なかった。党組織の整備も不十分で知名度の高い各地の政治家が個人的に勝手に選挙活動をしているというのが実情だった。そのため、「顔の右社」などと呼ばれた。
分裂直後29議席であったが、1952年(昭和27年)の総選挙で57議席に増え、1953年(昭和28年)の総選挙ではさらに66議席に増え、1955年(昭和30年)の総選挙では67議席となった。1955年(昭和30年)10月13日、左右社会党は再統一した(社会党再統一)。右社委員長の河上は社会党顧問となり、浅沼は統一した社会党の書記長となった。
この時期の主な政治家は以下のとおり。
- 河上丈太郎 - キリスト教社会主義の立場をとる。再軍備には消極的で、自らの戦争責任を認めた上で、平和運動に邁進した。
- 浅沼稲次郎 - 党内融和のため、左派的な発言をすることも多く、日本共産党との連携にも積極的だった。中国に対しては加害者意識が強かった。
構造改革論争以後
1959年(昭和34年)、社会党右派のうち、西尾派など一部は民社党を結成し、社会党から去っていった。 1960年代の構造改革論争以後、構造改革論を支持する江田派・和田派・河上派が右派と呼ばれるようになった。江田派と和田派はかつては社会党左派と呼ばれていた。河上派以外は、西欧型の社会民主主義ではなく、あくまでの日本型の社会主義の実現を目指していたが、江田三郎など世論の動向に敏感な者たちはアメリカとも友好な関係を築くことの必要性やアメリカ型生活様式を政策目標に入れることを忘れなかった。
1969年(昭和44年)の総選挙で社会党が大敗すると、江田は公明党や民社党と共闘することにより議会を通じて非自民政権を目指すようになるが、一方、勝間田清一派となった旧和田派は左派寄りになっていった。一時、江田派・公明党・民社党による新党結成の動きもあったが、江田が決断出来ず頓挫した。
1977年(昭和52年)、江田の急死をきっかけに、それまで執拗に江田を攻撃し、挙句に社会党から石もて追うが如き扱いをした社会主義協会に対する不満が党内外から噴出し、その結果として右派の発言権が強化され、以後、かつて江田が主張した社公民連合による政権獲得が目指されるようになった。
イデオロギーと理想の実現よりも現実の政権獲得を第一の目標とする傾向があり、自衛隊の存在を事実上容認した。しかし、江田三郎ら一部を除いて、自民党政権に代わる新たな政権(社公民政権)の青写真を示すだけの力量を持った政治家が登場しなかった事は、組織の発展にとって少なからぬネックとなった(これは左派にもいえることであるが)。しかし、外交・安全保障問題で前述の様なスタンスを取るようになった事から、社会党右派を「保守でも革新でもない中途半端なイメージ」と評する声もあった。
この時期の主な政治家は以下のとおり。
- 江田三郎 - 戦前は地方議員で、社会大衆党にあっては反戦姿勢が強かった。社共共闘に反対し、社公民路線を主張したことから、側近の大柴滋夫らと共に離党を余儀なくされ、婦人有権者同盟のシンボル、市川房枝を担いだ市民運動のホープ、菅直人と共に社会市民連合を結成した。しかし、立候補を予定した参院選を目前に急死。子息の江田五月が裁判官を退官して代役となって当選。翌年、社会党右派で江田側近だった阿部昭吾、やはり右派の新しい流れの会から、田英夫、楢崎弥之助、秦豊らが離党してこれに合流。社会民主連合となった。
- 田邊誠 - 江田三郎離党後の右派の中心人物。河上丈太郎委員長以来、26年ぶりに右派出身の委員長となる。金丸信と親交を持ち、自民党と協調する一方で、中道政党との連携も推し進めた。しかし、PKO法案採決の際には左派の強硬姿勢を抑えられなかった。
- 畑和 - 元埼玉県知事。1992年(平成4年)の県知事選挙で続投を辞退し、自由民主党所属の土屋義彦・参議院議長に事実上の禅譲を果たした。「地方自治に保守も革新もない」という「新・現実主義」なる比較的現実的な県政運営を行い、県民からの強い支持を背景に5期20年の長期在任となった。
- 横路孝弘 - 元北海道知事。動燃建設に反対してくれることを期待し、多数の勝手連の支援の下に当選を果たしたが、現実対応と称して動燃建設に賛成した。民主党には率先して参加し、小沢一郎と自衛隊海外派遣で合意した。
- 田英夫 - 元ニュースキャスターで「新しい流れの会」出身。社民連の代表となった。細川内閣以後は國弘正雄らとともに新党護憲リベラルを結党。平和:市民を経て社会民主党へ合流。
- 上田哲 - NHK労組出身で中間右派「火曜会」所属。社会主義協会と対立する一方、護憲派として活動。田邊や土井たか子の対抗馬として社会党委員長選挙に出馬した。1993年(平成5年)の落選後は離党し、護憲新党あかつき、スポーツ平和党、社会党 (2000年)、老人党東京などで活動し、各種選挙に多数出馬。
- 安恒良一 - 日本私鉄労働組合総連合会(私鉄総連)書記長、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)常任執行委員、日本労働組合総評議会(総評)副議長などを歴任するが、東京佐川急便事件により失脚。
- 上田卓三 - ソ連派の日本共産党(日本のこえ)出身。部落解放同盟活動家、KGBスパイとして暗躍。リクルート事件に関与。後にティグレを設立。
村山政権以後
村山政権が誕生していたころには、ソ連が崩壊して、ソ連型社会主義を賛美していたかつての左派の政治家たちも穏健な社会民主主義の考え方を取り入れていたため、党内においては特にイデオロギー的な対立はなかった。マスコミでは便宜的に、小沢一郎と協力してでも、自民党を倒すことを優先し、民主・リベラル新党の結成も辞さない覚悟の政治家たちを右派と呼んだ。
民主党結成後は多くは民主党に移っていった。
この時期の主な政治家は以下のとおり。
- 久保亘 - 村山時代の書記長。内心では自社さ政権に反対しながらも、書記長として村山を支える。民主・リベラル新党の結成を模索。
- 山花貞夫 - 父親の代から左派だったが、委員長就任後は自民党反主流派と組んでの政権交代を実現させ、次第に右派の代表者とみなされるようになる。党内反村山グループの代表格として、反村山グループの国会議員の離党届を提出するが、阪神・淡路大震災のために、集団離党戦術が宙に浮き、責任をとって1人で離党。
- 小林正 - 日本教職員組合(日教組)出身。新生党・新進党・自由党で活動。後に新しい歴史教科書をつくる会会長、教科書改善の会賛同者等を歴任。
- 谷畑孝 - 上田卓三秘書出身、元部落解放同盟大阪府連副委員長。後に自民党に転じ、清和政策研究会所属。現在は日本維新の会所属。