松田竹千代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2013年12月15日 (日) 23:13時点におけるBggh9999 (トーク)による版
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)
移動先: 案内検索

松田 竹千代(まつだ たけちよ、明治21年(1888年2月2日 - 昭和55年(1980年12月1日)は、大阪府泉南郡出身の日本政治家男性)である。衆議院議員選挙に通算12回当選した。ニックネームはテキサス無宿

来歴・人物

14歳でアメリカ西部の荒野を夢見て単身渡米し、各地を放浪した果てにニューヨーク大学に入学。卒業後に帰国すると、日本の近代スポーツの先駆者・大森兵蔵の妻・安仁子(旧名・Annie Shepley、日本に帰化し安仁子と名乗る[1])の運営する社会福祉施設・有隣園の事業を手伝う[2]

最初の普通選挙だった第16回衆議院議員総選挙立憲民政党公認で立候補し当選。民政党では町田忠治直系の政治家として知られ、一方で同じ民政党所属の三木武吉の知遇を得た。元来リベラルな政治家だったが戦時中は軍部と妥協し、昭和18年(1943年6月17日の翼賛政治会の代議士会で鳩山一郎中野正剛の演説に対し「それではまるで反戦演説じゃないか。やるなら鳩山先生の如くやれ」と鳩山は支持しながら中野には反感をむき出しにして叫んだ。

そのため戦後は公職追放。追放解除後は三木と共に自由党に復帰、鳩山派の一員として活動。自由民主党結成後は河野派 → 森清派 → 園田グループに所属したが、その後中曽根派に入った。

ハト派野党との話し合いを重視する姿勢をとり、温厚そのものの外見だったが、思想や見た目とは裏腹に無類のきかん気で、妥協を拒む性格でもあった。また文部大臣時代は日教組の集会に出席するなど、自民党の立場にとらわれない姿勢をとった。

妻は大森兵蔵の姪・澄江[2]。次女の妙子は社会福祉事業家。孫娘の佐藤玖美(妙子の次女)は実業家

略歴

脚注・出典

テンプレート:Reflist

外部リンク


  1. 転送 Template:S-start


テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
石井光次郎 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院議長
第55代:1969年 |style="width:30%"|次代:
船田中 テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
橋本龍伍 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 文部大臣
第79代:1959年 - 1960年 |style="width:30%"|次代:
荒木万寿夫 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
武知勇記 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 郵政大臣
第7代:1955年 |style="width:30%"|次代:
村上勇

  1. 転送 Template:End


テンプレート:衆議院議長 テンプレート:文部科学大臣

テンプレート:総務大臣
  1. 上田正昭西澤潤一平山郁夫三浦朱門 監修 『講談社 日本人名大事典』 講談社平成13年(2001年12月6日第1刷発行、ISBN 4-06-210800-3、384頁。
  2. 2.0 2.1 『講談社 日本人名大事典』、1778頁。