今川氏真

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今川 氏真(いまがわ うじざね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将江戸時代の文化人。駿河国戦国大名。駿河今川氏10代当主[注釈 1]

義元桶狭間の戦い織田信長によって討たれ、その後、武田信玄徳川家康の侵攻を受けて敗れ、戦国大名としての今川家は滅亡した。その後は北条氏を頼り、最終的には徳川家康の庇護を受けた。今川家は江戸幕府のもとで高家として家名を残した。

生涯

家督相続

天文7年(1538年)、義元と定恵院武田信虎の娘)との間に嫡子として生まれる。天文23年(1554年)、北条氏康の長女・早川殿と結婚し、甲相駿三国同盟が成立した。

弘治2年(1556年)から翌年にかけて駿河国を訪問した山科言継の日記『言継卿記』には、青年期の氏真も登場している。言継は、弘治3年(1557年)正月に氏真が自邸で開いた和歌始に出席したり、氏真に書や鞠を送ったりしたことを記録している。

氏真は永禄元年(1558年)より駿河・遠江に文書を発給しており[注釈 2]、この前後に義元から氏真に家督が譲られたとするのが、研究上の主流の見解である(#研究)。

この時期の三河国への文書発給は義元の名で行われていることから、義元が新領土である三河国の掌握と尾張国からさらに西方への軍事行動に専念するため、氏真に家督を譲り形式上隠居し本国である駿河・遠江の経営を委ねたとする見方が提示されている[1]

永禄3年(1560年)5月19日、尾張国に侵攻した義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれたため、氏真は名実ともに今川家の領国を継承することとなった。

相次ぐ離反

桶狭間の戦いでは、今川家の重臣(由比正信一宮宗是など)や国人松井宗信井伊直盛など)が多く討死した。三河遠江の国人の中には、今川家の統治に対する不満や当主死亡を契機とする紛争が広がり、今川家からの離反の動きとなって現れた。

三河国の国人は、義元の対織田戦の陣頭に動員されており、その犠牲も大きかった。氏真は三河国の寺社・国人・商人に多数の安堵状を発給し、動揺を防ぐことを試みている。

しかし、西三河地域は桶狭間の合戦後旧領岡崎城に入った松平元康(1563年家康に改名)の勢力下に入った。永禄4年(1561年)正月には足利義輝が氏真と元康との和解を促しており、北条氏康が仲介に入ったこともあるが、元康は今川家と断交し、信長と結ぶことを選ぶ。

東三河でも、国人領主たちは氏真が新たな人質を要求したことにより不満を強め、今川家を離反して松平方につく国人と今川方に残る国人との間での抗争が広がる(三州錯乱)。永禄4年(1561年)、今川家から離反した菅沼定盈野田城攻めに先立って、小原鎮実は人質十数名を龍拈寺で処刑するが、この措置は多くの東三河勢の離反を決定的なものにした。

元康は永禄5年(1562年)正月には信長と清洲同盟を結び、今川氏の傘下から独立する姿勢を明らかにする。永禄5年(1562年)2月、氏真は自ら兵を率いて牛久保城に出兵し一宮砦を攻撃したが、「一宮の後詰」と呼ばれる元康の奮戦で撃退されている。このとき、駿府に滞在していた外祖父・武田信虎の動きが不穏であり、氏真は途中で軍を返したともいう[2][注釈 3]。 永禄7年(1564年)6月には東三河の拠点である吉田城が開城し、今川氏の勢力は三河から駆逐される。

遠江国においても家臣団・国人の混乱が広がり、井伊谷井伊直親曳馬城主・飯尾連竜、見付の堀越氏延、犬居の天野景泰らによる離反の動きが広がった(遠州忩劇、遠州錯乱)。永禄5年(1562年)には謀反が疑われた井伊直親を重臣の朝比奈泰朝に誅殺させている。ついで永禄7年(1564年)には飯尾連竜が家康と内通して反旗を翻した。氏真は、重臣・三浦正俊らに命じて曳馬城を攻撃させるが陥落させることができず、逆に正俊が戦死してしまう。その後、和議に応じて降った連竜を永禄8年(1565年)12月に謀殺した。飯尾氏家臣たちが籠城する曳馬城には再び攻撃がかけられ、翌9年(1566年)4月に開城することによって反乱は終息をみた[3]

氏真は祖母・寿桂尼の後見を受けて政治を行っていたと見られる。永禄3年(1560年)後半から永禄5年(1562年)にかけて氏真は活発な文書発給を行い、寺社・被官・国人のつなぎ止めを図っている。外交面では北条氏との連携を維持し、永禄4年(1561年)3月には長尾景虎(後の上杉謙信)の関東侵攻に対して北条家に援兵を送り、川越城での籠城戦に加わらせている。また、永禄4年(1561年)に室町幕府相伴衆の格式に列しており、幕府の権威によって領国の混乱に対処しようとしたと考えられる[4][注釈 4]

内政面では、永禄9年(1566年)4月に富士大宮六斎市楽市とすることを富士信忠に命じ[5]徳政の実施を命じたり[6]、役の免除などを行ったりした[注釈 5]。 楽市は有名な織田信長より先んじた政策であった。しかし、これらの政策も、衰退をとどめることはできなかった。

甲陽軍鑑』など後世に記された諸書には、氏真が遊興に耽るようになり、家臣の三浦義鎮(右衛門佐、小原鎮実の子)を寵愛して政務を任せっきりにしたとする。また、政権末期にはこうした特定家臣の寵用や重臣の腐敗などの問題が表面化しつつあったと指摘されている[7]

里村紹巴が永禄10年(1567年)5月に駿河を訪問した際に記した『富士見道記』では、氏真をはじめ領内の寺社や公家宅で盛んに連歌の会や茶会を興行していることが記録されている。この時期も三条西実澄冷泉為益が駿府に滞在しており、氏真政権末期にも歌壇は盛んであった。『校訂松平記』によると、永禄10年7月には駿河に風流踊が流行し、翌年の夏にも再発した。この際、氏真はみずから太鼓を叩いて興じたという。同書は三浦右衛門佐が氏真に勧めて風流踊を流行させたとし、亡国の兆しとして描いている。

戦国大名今川氏の滅亡

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今川氏の同盟国である甲斐国では永禄4年の川中島の戦いを契機に北信地域における越後上杉氏との抗争が収束し、外交方針の変化を迎える。桶狭間の後に氏真は駿河国に隣接する甲斐国河内領主の穴山信友を介して甲駿同盟の確認を行なっているが、永禄8年(1565年)には氏真妹・嶺松院を室とする武田家嫡男の武田義信が廃嫡される事件が発生し[注釈 6]、同年11月に嶺松院は今川家に還され、甲駿関係においては婚姻が解消された。

同時期に武田家では世子・諏訪勝頼の正室に信長養女を迎え、さらに徳川家康とも盟約を結んだ。これにより甲駿関係は緊迫し、氏真は越後国の上杉謙信と和睦し、相模国の北条氏康とともに甲斐国への塩止めを行ったという[8]が、武田信玄は徳川家康や織田信長と同盟を結んで対抗したため、これは決定的なものにはならなかった。

永禄11年(1568年)末に甲駿同盟は手切に至り、12月6日に信玄は甲府を発して駿河への侵攻を開始した(駿河侵攻)。12月12日、で武田軍を迎撃するため氏真も興津清見寺に出陣したが、瀬名信輝葛山氏元朝比奈政貞三浦義鏡など駿河の有力国人21人が信玄に通じたため、12月13日に今川軍は潰走し、駿府もたちまち占領された。氏真は朝比奈泰朝の居城・掛川城へ逃れた。早川殿のための乗り物も用意できず、また代々の判形も途中で紛失するというあわただしい逃亡であった。しかし、遠江国にも今川領分割を信玄と約していた徳川家康が侵攻し、その大半が制圧される。12月27日には徳川軍によって掛川城が包囲されたが、泰朝をはじめとした家臣たちの奮闘で半年近くの籠城戦となった。

早川殿の父・氏康は救援軍を差し向け、薩峠に布陣。戦力で勝る北条軍が優勢に展開するものの、武田軍の撃破には至らず戦況は膠着した。徳川軍による掛川包囲戦が長期化する中で、信玄は約定を破って遠江への圧迫を強めたため、家康は氏真との和睦を模索する。永禄12年(1569年)5月17日、氏真は家臣たちの助命と引き換えに掛川城を開城した。この時に氏真・家康・氏康の間で、武田勢力を駿河から追い払った後は、氏真を再び駿河の国主とするという盟約が成立する。

しかし、この盟約は結果的に履行されることはなく、氏真およびその子孫が領主の座に戻らなかったことから、一般的には、この掛川城の開城をもって戦国大名としての今川氏の滅亡(統治権の喪失)と解釈されている。

同年、今川家家臣の堀江城城主大沢基胤が、徳川家康の攻撃に耐えきれず降伏しているが、その際基胤は氏真に「奮戦してきたが、最早耐えきれない。城を枕に討死しても良いが、それは誠の主家への奉公にはならないでしょう」[9]と、氏真に降伏を許可して貰うための書状を送っている[10]。氏真は今川家の逼迫した情勢を考慮して基胤の意見を受け入れ、「随意にして構わない、これまでの忠誠には感謝している」と、家康の軍門へ下ることを許可しており、また基胤のこれまでの働きをねぎらっている[11]。基胤は家康に降伏し、堀江城城主としての地位は容認され、徳川家臣となった。

流転

掛川城の開城後、氏真は妻早川殿の実家である北条氏を頼り、蒲原を経て伊豆戸倉城に入った(大平城との見解もある[12])。のち小田原に移り、早川に屋敷を与えられる[13]。 永禄12年(1569年)5月23日、氏真は北条氏政の嫡男・国王丸(後の氏直)を猶子とし、国王丸の成長後に駿河国を譲ることを約した(この時点で嫡男の範以はまだ生まれていない)。また、武田氏への共闘を目的に上杉謙信のもとに使者を送り、今川・北条・上杉三国同盟を結ぶ(実態は越相同盟)。駿河国では岡部正綱が一時駿府を奪回し、花沢城の小原鎮実が武田氏への抗戦を継続するなど今川勢力の活動はなお残っており、氏真を後援する北条氏による出兵も行われた。抗争中の駿河に対して氏真は多くの安堵状や感状を発給している。これらの書状の実効性を疑問視する見解もあるが、氏真が駿河国に若干の直轄領を持ち、国王丸の代行者・補佐役として北条氏の駿河統治の一翼を担ったとの見方もある[14]。 しかし、蒲原城の戦いなどで北条軍は敗れ、今川家臣も順次武田氏の軍門に降るなどしたため、元亀2年(1571年)頃には大勢が決し、氏真は駿河国の支配を回復することはできなかった。

元亀2年(1571年)10月に氏康が死ぬと、後を継いだ氏政は外交方針を転換して武田氏と和睦した(甲相一和)。12月に氏真は相模国を離れ、家康の庇護下に入った[注釈 7]。 掛川城開城の際の講和条件を頼りにしたと見られるが、家康にとっても旧国主の保護は駿河統治の大義名分を得るものであった。元亀3年(1572年)に入ると、氏真は興津清見寺に文書を下すなど、若干の動きを見せている。天正元年(1573年)には伊勢大湊の商人に預けていた氏真の茶道具を信長が買い上げようとしたことがあり、その際に信長家臣と大湊商人の間で交わされた文書から、氏真が浜松に滞在していたことがわかる。

天正3年(1575年)の行動は、この年1月から9月頃までに詠んだ歌428首を収めた私歌集『今川氏真詠草』(内閣文庫蔵)に書き残されている。氏真は1月に(おそらく浜松から)吉田・岡崎などを経て上洛の旅に出、京都到着後は社寺を参詣したり三条西実澄ら旧知の公家を訪問したりしている[15]。 『信長公記』によると、3月16日に家康の同盟者にして「父の仇」でもある織田信長と京都相国寺で会見した。信長は氏真に蹴鞠を所望し、同20日に相国寺において公家たちとともに信長に蹴鞠を披露している[注釈 8]。 『今川氏真詠草』にはこの会見に関する感慨は記されていない。4月、武田勝頼が三河国長篠に侵入したことを聞くと(長篠の戦い)京都を出立して三河国に戻り、5月15日から牛久保で後詰を務めている[16]。 氏真に仕えていた朝比奈泰勝は、家康の許に使者に訪れた際に設楽原での戦闘に参加し、内藤昌豊を討ち取り、家康の直臣になったという[17]

長篠の合戦後、氏真も残敵掃討に従事したのち、5月末からは数日間旧領駿河国にも進入し、各地に放火している[15]。 7月中旬には諏訪原城(現在の静岡県島田市)攻撃に従った。諏訪原城は8月に落城して牧野城と改名する。天正4年(1576年)3月17日、家康は牧野城主に氏真を置き、松平家忠松平康親に補佐させた[8]。 しかし、天正5年(1577年)3月1日に氏真は浜松に召還されている。1年足らずでの城主解任であった。また、城主時代に剃髪したらしく、牧野城主解任時に家臣・海老江弥三郎に暇を与えた文書では宗誾(そうぎん)と号している[8]。 この文書が、今川家当主として氏真が発給した現存最後の文書となる。

後半生

牧野城主解任後の動向は不明であるが、松平家忠の『家忠日記』に断続的に登場しており、氏真は浜松周辺にいたのではないかと推測される。天正7年(1579年)10月には浜松城の家忠の詰所を氏真が訪問しており、その後に家康の饗応も受けている。また「氏真衆」と呼ばれる家臣がおり、『家忠日記』には彼らとの交際も記されている。天正11年(1583年)7月、近衛前久が浜松を訪れ、家康が饗応した際には、氏真も陪席している[18]。 この後しばらくの消息は再びわからなくなる。

天正19年(1591年)9月、山科言経の日記『言経卿記』に氏真は姿を現す。この頃までには京都に移り住んだと推測される。仙巌斎(仙岩斎)という斎号を持つようになった氏真は、言経はじめ冷泉為満冷泉為将ら旧知・姻戚の公家などの文化人と往来し、冷泉家の月例和歌会や連歌の会などにしきりに参加したり、古典の借覧・書写などを行っていたことが記されている。文禄4年(1595年)の『言経卿記』には言経が氏真と共に石川家成を訪問するなど、この時期にも徳川家と何らかのつながりがあることが推測される[19]

京都在住時代の氏真は、豊臣秀吉あるいは家康から与えられた所領からの収入によって生活をしていたと推測されている[注釈 9]。 のちの慶長17年(1612年)に、家康から近江国野洲郡長島村(現在の滋賀県野洲市長島)の「旧地」500石を安堵されているが[20]、この「旧地」の由来や性格ははっきりしていない[注釈 10]

慶長3年(1598年)、氏真の次男・品川高久徳川秀忠に出仕している。慶長12年(1607年)には長男の範以が京都で没する。慶長16年(1611年)には、範以の遺児・範英(直房)が徳川秀忠に出仕した。

『言経卿記』の氏真記事は、慶長17年(1612年)正月、冷泉為満邸で行われた連歌会に出席した記事が最後となる。4月に氏真は、郷里の駿府で大御所家康と面会している[21]。『寛政重修諸家譜』によれば、氏真の「旧地」が安堵されたのはこの時であり、また家康は氏真に対して品川に屋敷を与えたという。氏真はそのまま子や孫のいる江戸に移住したものと思われ、慶長18年(1613年)に長年連れ添った早川殿と死別した。

慶長19年(1614年12月28日、江戸で死去。享年77。葬儀は氏真の弟の一月長得が江戸市谷萬昌院で行い、同寺に葬られた。寛文2年(1662年)、萬昌院が牛込に移転するのに際し、氏真の墓は早川殿の墓とともに、今川家知行地である武蔵国多摩郡井草村(現在の東京都杉並区今川二丁目)にある宝珠山観泉寺に移された。

研究

氏真の家督継承時期について、米原正義は弘治3年(1557年)正月の氏真邸の歌会始を今川家の歌会始とし、義元生前の家督譲渡の可能性をはじめて指摘した[22]有光友學は「如律令」朱印の文書発給から永禄2年(1559年)5月段階で家督が継承されていたとする[23]長谷川弘道は『言継卿記』弘治3年(1557年)正月の記載を「屋形五郎殿」と解釈し、この時点で家督継承がなされていたとする[24]。 ただし、時期を確定する上ではいずれも決定的とはいえない。

人物

後世の評価

松平定信が随筆『閑なるあまり』の中で「日本治りたりとても、油断するは東山義政の茶湯、大内義隆の学問、今川氏真の歌道ぞ」と記しているように、江戸時代中期以降に書かれた文献の中では、和歌蹴鞠といった娯楽に溺れ国を滅ぼした人物として描かれていることが多い。19世紀前半に編集された『徳川実紀』は、今川家の凋落について、桶狭間の合戦後に氏真が「父の讐とて信長にうらみを報ずべきてだてもなさず」、三河の国人たちが「氏真の柔弱をうとみ今川家を去りて当家〔徳川家〕に帰順」したと描写している。こうした文弱な暗君のイメージは、今日の歴史小説やドラマにおいてもしばしば踏襲されている。

江戸時代初期に成立した『甲陽軍鑑』品第十一では、「我が国を亡し我が家を破る大将」の一種として「鈍過たる大将(馬嫁なる大将)」が挙げられており、氏真が今川家を滅ぼした顛末が述べられている。氏真は心は剛勇であったと描かれているが[25]、譜代の賢臣を重んじず、三浦義鎮のような「佞人」を重用して失政を行ったという点に重点を置いて批判されている[26]

文化人としての氏真

和歌・連歌・蹴鞠などの技芸に通じた文化人であったという。

和歌

氏真は生涯に多くの和歌を詠んだ。観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』には1658首が収録されている。

氏真の少年時の文化的な環境から、駿河国に下向していた権大納言・冷泉為和や、詩歌に通じていた太原雪斎などから指導を受けたとも考えられるが、具体的なことは知られていない[27]。 里村紹巴の『富士見道記』には、氏真が冷泉為益(為和の子)から作法の伝授を受けたと記されている[22]

『今川氏と観泉寺』を編纂した一人であり、中古・中世和歌史の研究者である井上宗雄は、氏真の作品を優美平明を旨とする中世和歌の伝統的手法に則った作品と評している。「その作品は、すべてが勝れたものでなく、全体的に当時の水準を抜くものではなかったにしろ、時には水準に迫り、また少数ながら新しみのある歌、個性的な歌が存することは注目される。なお多くの平凡な歌が全く無駄だったとは思われない。常に歌に精神の中心を置いていればこそ、緊張感のみなぎった時には、調べの張った、個性的な歌を生んだのである」[27]。氏真は、後水尾天皇選と伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている(集外三十六歌仙は連歌師や武家歌人が多いことが特徴であり、ほかに武田信玄や北条氏康・氏政も数えられている)。

蹴鞠

織田信長の前で蹴鞠を披露した逸話で知られる。『信長公記』の記載では、氏真が蹴鞠をすることを聞き及んでいた信長が所望したという[28]。 同時代の史料で確認できる氏真と蹴鞠との関わりは、この『信長公記』の記載と、青年期の氏真に山科言継が鞠を贈ったという『言継卿記』の記載程度しかない。

駿河に下向していた飛鳥井流宗家飛鳥井雅綱から手ほどきを受けたとされる。江戸時代初期に成立した笑話集『醒睡笑』には、氏真が賀茂神社神官の松下述久に師事したことが記されている。

剣術

塚原卜伝新当流剣術を学んだ[29]

なお、江戸時代の剣・居合・棒術の流派に、駿河の今川越前守義真(義直、吉道とも)を始祖と称する「今川流」、仙台藩に伝わる剣・居合の流派に今川越前守重家(吉道とも)を始祖と称する「今川兼流」がある。綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)は、義真を氏真と同一人物と推測しているが、根拠は示されていない。笹間良彦『図説日本武道辞典』(普及版:柏書房、2003年)が引く『撃剣叢談』によると、今川越前守義真は駿河今川氏庶流の人物といい、氏真とは別人である。

交友関係

言継の義母(山科言綱の正室)・黒木の方が寿桂尼の姉という関係で、黒木の方は妹を頼って駿河に下向していた。弘治2年(1556年)から翌年にかけての駿河下向の際の『言継卿記』は、貴重な史料となっている。言継の子・言経との交友も深かった。
永禄10年(1567年)に駿河を訪問した際の『富士見道記』では、氏真が連歌を興行していることが記録されている。
長善寺住持。武田信虎の庶子あるいは猶子とも伝える。
深溝松平氏当主。『家忠日記』には「氏真様」と敬称付きで記されている。
交友があったらしく、『明暗双々記』に氏真の死を悼む詩を残している。

逸話

氏真に関しては、以下のような逸話が伝えられている。

  • 続武家閑談』は、天正10年(1582年)に武田氏が滅ぼされた際、家康が信長に「駿河を氏真に与えたらどうか」と言ったと記す。信長は「役にも立たない氏真に駿河を与えられようか、不要な人を生かすよりは腹を切らせたらいい」と答えた。これを伝え聞いて氏真は驚き、いずれかへ逃げ去っていたが、そのうちに本能寺の変が発生したという。
  • 及聞秘録』には、晩年家康を頼った氏真が江戸城をたびたび訪れては長話をしたために家康が辟易し、江戸城から離れた品川に屋敷を与えたと記されている。
  • 故老諸談』には、氏真と家康が和歌について談じたことが記される。氏真が和歌の道の奥深さや言葉選びの難しさを語るのに対して、家康は技法にこだわるよりも思いのままに詠むのがよいと返している。

肖像画

妻の早川殿と対になった肖像画(遺像)があり、現在米国の個人が所蔵している。元和4年(1618年)2月に著された雲屋祖泰(妙心寺107世)の讃から、没後間もない時期に遺族によって供養・追慕のために描かれたものとみられる[30]。『静岡県史研究』9(1993年)に口絵として大型の図版(モノクロ)が掲載されているほか、『図説静岡県史(静岡県史別編3)』(1998年)が夫妻の肖像をカラーで載せている。近年発行された入手しやすい書籍では有光(2008年)が氏真像のみを図版として載せている。

偏諱を与えた人物

脚注

注釈

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出典

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参考文献

  • 観泉寺史編纂刊行委員会編『今川氏と観泉寺』(吉川弘文館、1974年)
  • 米原正義『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)
  • 『静岡県史 通史編2 中世』(静岡県、1997年)
  • 有光友學『今川義元』(吉川弘文館、2008年)
  • 佐藤正英校訂・訳『甲陽軍鑑』(ちくま学芸文庫、2006年)

関連作品

小説
テレビドラマ

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  1. 有光(2008年)273~275ページ。
  2. 『校訂松平記』による。
  3. 小和田哲男「今川家臣団崩壊過程の一齣」『静岡大学教育学部研究報告』39.
  4. 平野明夫「今川氏真と室町将軍」『戦国史研究』40(2000年8月)
  5. 大宮司富士家文書
  6. 久保田昌希「戦国大名今川氏の徳政について」『日本文化の社会的基盤』(1976年).
  7. 若林淳之「今川氏真の苦悶」
  8. 8.0 8.1 8.2 『史料綜覧』。
  9. 山田邦明「日本史のなかの戦国時代」(山川出版社) ISBN 978-4-634-54695-0 54頁
  10. 山田邦明「日本史のなかの戦国時代」(山川出版社) ISBN 978-4-634-54695-0 55頁、山田邦明はこれを「降伏許可状」と呼称している
  11. 山田邦明「日本史のなかの戦国時代」(山川出版社) ISBN 978-4-634-54695-0 54-55頁
  12. 黒田基樹「北条氏の駿河防衛と諸城」『武田氏研究』17
  13. 『校訂松平記』
  14. 久保田昌希「懸川開城後の今川氏真と後北条氏」『駒沢史学』39・40合併号(1988年9月)、酒入陽子「懸川開城後の今川氏真について」『戦国史研究』39(2000年2月)。
  15. 15.0 15.1 『今川氏真詠草』
  16. 『今川氏真詠草』。おそらく家康に従ったものと思われる。『続武家閑談』『紀伊国物語』にも氏真が家康に同道していたことが記されている。
  17. 『校訂松平記』
  18. 『景憲家伝』、『明良洪範』
  19. 井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』p.671
  20. 『寛政重修諸家譜』、『略譜』(大日本史料所収)
  21. 駿府記』慶長17年4月14日条
  22. 22.0 22.1 米原正義「今川氏の文芸」、同著『戦国武士と文芸の研究』(桜楓社、1976年)所収。
  23. 有光友學「今川義元-氏真の代替りについて」『戦国史研究』3(1982年)、「今川義元の生涯」『静岡県史研究』9(1993年)。
  24. 「今川氏真の家督継承について」『戦国史研究』23(1992年)。
  25. 永禄6年、三河出陣中の飯尾連龍の反乱について「さすがに氏真公心は剛にてまします故、少しも騒ぎ給はず」(ちくま学芸文庫版、p.217)。
  26. 「子息氏真公代になり、猶もって作法悪しくして、家に伝はる家老朝比奈兵衛太夫その外よき者四、五人ありといへども、氏真公その四、五人の衆を崇敬ましまさず、三浦右衛門と申す者のまゝになり給ひ、三浦右衛門が身よりの者、あるいは三浦右衛門が気に合ふたる衆ばかり仕合わせよく、左道なる仕置故、三河国大形敵となる」(ちくま学芸文庫版、p.217)、「氏真公心は剛にてましませど、ちと我がまゝに御座候故、目利なさるゝ衆みな不賢とははじめより見えつれども、後に全く知るゝなり」(ちくま学芸文庫版、p.218)。
  27. 27.0 27.1 井上宗雄「今川氏とその学芸」、『今川氏と観泉寺』
  28. 「今川殿鞠を遊ばさるゝの由聞食及ばれ、三月廿日、相国寺において御所望」。
  29. 綿谷雪・山田忠史編『武芸流派大事典』(新人物往来社、1969年)。
  30. 小林明「紙本著色今川氏真・同夫人像について」『静岡県史研究』9(1993年)