秋田美人
秋田美人(あきたびじん)とは、秋田県出身の美女を指す。京美人、博多美人と並び、「日本三大美人」といわれる。
日本海美人
秋田県を含む日本海側の女性は肌が白いので美人に見えるという説がある。日本海側は全国的に見て日照時間が少ないことから、紫外線による影響が少ない。その上、冬季は積雪が多く、屋内にこもりがちになることも「雪国の人は肌が白い」ことの原因として考えられる。類似例として[1]、津軽美人、庄内美人、越後美人、京都美人、出雲美人が挙げられる。
秋田美人についての研究
1966年(昭和41年)、秋田県湯沢市の医師である杉本が、女性の色の白さの計測結果を文藝春秋 (雑誌)8月号で発表した。
さらに、杉本は秋田美人を「混血が生んだ奇跡的美の産物、日本海沿岸地帯共通の日照時間の少なさ、表日本や他県との交流をさまたげる山岳の存在」とする[2]。
『秋田美人の謎』の著者である新野直吉は、あとがきで秋田美人は「地理的環境による形質的素因、風土の持つ気象的条件、それらに加えるに歴史的刺激などの恩恵を享けて、形成されてきたもの」としている。以下に秋田における特徴的な事柄を挙げる。
- 727年に最初の渤海使が出羽国北部に到着、746年には、渤海人や鉄利人、千百余人が帰化を求めてきたが還したと続日本紀に記されている。771年、渤海使17隻325人が野代湊(能代港)に到着。777年、日本の舞女11人が渤海から唐に献上されたと旧唐書に記されている[5]。
ロシアとの関連について
東北の人の色の白さから、秋田美人や秋田県民はロシア人がルーツであると言う主張も一部にあるが、白人のスラブ人がロシアの西シベリアに到達したのは17世紀半ばである[8]。また、秋田県民にコーカソイドの遺伝子が確認された例はなく、科学的に一切証明されていない。白人のスラブ人は17世紀半ばまではユーラシア大陸のヨーロッパの部分、つまり現在のモスクワ周辺にしか住んでいなかった。したがって近世以前に「白人がロシアから流れ着いて秋田に住みついた」可能性はほぼ皆無である。シベリア入植以降に、白人のロシア人が1~2人あるいは団体で日本に流れ着いていた場合、当時日本はすでに江戸時代に入っており、出島に象徴される外国人とキリスト教への幕府の強い警戒感から、日本で生活することは困難であり、当時の日本人が幕府に逆らってそれらの人たちと結婚し、家庭を築いた可能性は極めて低い。中国のオロス族(ロシア族)[9]を見れば明らかなように、白人のロシア人が居住し、混血した場合は、肌の白さ以外の身体的特徴や、文化的影響が認められたりするのが一般的である。秋田県で突出した身体的特徴を有する住民や、ロシア正教やスラブ語などを始めとする、スラブ圏の文化的影響や遺産は確認されていない。比較的「がっしりとした」秋田美人は、そもそものイメージにも合わない。白人のロシア人と秋田美人の関連性について出ている話は、日本史、ロシア史、郷土史などを無視した憶測である。現ロシア領のシベリアから極東までの地域には、古代からモンゴロイドのブリヤート人、ヤクート人、エヴェンキ人、ツングース人などの先住民族が居住しているため、その人々と日本人との関連性は遺伝子学的に証明可能である。
秋田美人にまつわる俗説
- 関ヶ原の戦いの結果、常陸国(現在の茨城県)の大名佐竹義宣が江戸幕府から秋田への転封を命じられた腹いせに、旧領内の美人全員を秋田に連れて行ってしまい、その後水戸に入府した徳川頼房が佐竹氏へ抗議したところ、秋田藩領内の美しくない女性全員を水戸に送りつけてきた為、秋田の女性は美人で水戸はブスの3大産地の1つ(他の2つは仙台と名古屋)になった、というもの。実際は、佐竹義宣は財政上の問題から随行人数を制限し、かつ旧領の常陸へは立ち寄らずに秋田へ向かったので、ありえない俗説である。
- 秋田県で多い苗字として佐々木氏・京極氏・工藤氏などがあるがこれらの源流は近江や山城などの日本の文化中心地であることが多い。江戸時代の新田開発により投資をして後に移住してきたとされる。
- 急激に人口の増えた秋田での需要を当て込んだ女衒が新潟から多くの遊女や女郎を連れてきた、または秋田出身の娘が少しでも高く売れるよう秋田美人というキャッチコピーを作った、などの説もある。
出典
文献
関連項目
外部リンク
- 秋田美人の里・湯沢(湯沢市)
- 秋田美人のルーツ・小野小町(秋田県)