山崎片家
テンプレート:基礎情報 武士 山崎 片家(やまざき かたいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。官位は志摩守。諱は初め賢家、のち片家。別名に堅家(読み同じ)、秀家(ひでいえ)とも。父は山崎宗家(むねいえ)。子に家盛・宮城頼久ら。
生涯
六角家臣時代
六角義賢より偏諱を賜い山崎賢家(読み同じ)と称する。義賢の子である六角義治に仕えていたが、義治と不和であったため、永禄6年(1563年)の観音寺騒動では六角氏と敵対。永禄11年(1568年)9月に織田信長が六角領内へ侵攻すると、六角家を見限りいち早く降り信長の家臣となった[1]。そのとき、片家と名を改める。
織田家臣時代
信長に仕えて以後、近江衆として元亀元年(1570年)の姉川の戦いに参加した。
元亀4年(1573年)4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加した[2]。天正元年(1573年)7月、信長に従って将軍・足利義昭の槇島城を攻めた[1][3]。同年の浅井氏攻めにも参加した。天正9年(1581年)9月の伊賀攻めでは信楽口からの侵入を務めた[1]。天正10年(1582年)4月、武田征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応する[1]。
本能寺の変から最期まで
天正10年(1582年)6月、本能寺の変が起きた際は、安土の自邸を焼き払い、居城の山崎城へ籠もった[4][註 1]。しかし明智光秀の圧力を受けて降伏。一時は佐和山城の占拠などに協力したが、光秀が羽柴秀吉によって討たれると、すぐに秀吉に降って所領を安堵され、同年冬に山崎より摂津三田城主2万3000石に移封された。天正11年(1583年)8月1日には近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵されている[4]。
清洲会議後、しばらくは織田信雄の家臣となっていたが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いで信雄と秀吉が対立するようになると、再び秀吉に属して750の兵を率い[4]、信雄方の城を攻めている。
この後、従五位下志摩守に叙任され、以後は秀吉家臣として天正15年(1587年)の九州征伐に参加し、秀吉本陣の脇備として1000人を動員し、3月1日に大坂城を発っている[4][註 2]。九州征伐の終了時には、石田三成・長束正家・小西行長らとともに、荒廃した博多の復興を担当する奉行として任命されている。天正16年(1588年)4月、聚楽第行幸の際には関白諸大夫として秀吉の牛車に供奉した[4]。天正18年(1590年)の小田原征伐にも1000騎を率いて従軍する[4]。
天正19年(1591年)3月28日[1]に伏見の自邸で死去[4]。享年45[1]。
人物
片家は甲斐武田氏を攻め滅ぼして凱旋した信長を居城に招いて茶屋を立てたり[1]、津田宗及主催の茶会にも度々招かれていることなどから、茶道にも造詣が深い人物であったと思われる。
家系
近江山崎氏は、宇多源氏佐々木氏の支族の一つ。佐々木憲家が源頼朝に近江国犬上郡山崎の地頭に補せられ山崎を称したのが始まりとされる。
片家には三田藩2代となる嫡男家盛、郷高(本庄秀国養子)、頼久(宮城豊盛養子)、女子(加藤清正室)、百助(加藤清正養子のち離縁)、女子(別所吉治養子)4男2女、6人の子がいる[註 3]。
加藤清正との関係
豊臣秀吉朱印状の分析により、天正16年(1588)に加藤清正が肥後国北半国の大名に任ぜられて入国した時に妻子があったことが判明している。この妻が『山崎家譜』に記載されている山崎片家の女と推量されている。また、片家の子の百助が清正の養子になっているなど、両家に密接な関係があることは、複数の清正書状や『続撰清正記』などの古文献にも合致している。山崎氏の産んだ、清正嫡男と想定される虎熊の名は、文禄の役の際に「虎熊に2千の兵をつけて送るように」などの、朝鮮からの清正書状6通に現われているが、その中には虎熊の母が煩っていることを知った清正が動揺しているものもある。なお、虎熊の母子ともに文禄の役以後の消息が不明なことから、この頃に前後して死去したものと推測される。
脚注
註釈
出典
参考文献
- 書籍
- 史料
- 『寛政重修諸家譜』
- 『続撰清正記』
- 『山崎家譜』
- 『信長公記』
- 『久野保心氏所蔵文書』
関連項目
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