「吉見氏」の版間の差分

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2014年6月29日 (日) 23:20時点における最新版

テンプレート:日本の氏族

吉見氏(よしみし)は、日本氏族武家の姓で本姓源氏家系清和源氏河内源氏)の棟梁源義朝の六男で、鎌倉幕府初代将軍源頼朝の庶弟にあたる三河守蒲冠者範頼を祖とする。通字として「」(より)のほか、範頼の「」(のり)や源氏の通字である「」(よし)などがつく人名も見られる。

概要

範頼は横見郡吉見郷を領して吉見御所と尊称されていた。範頼は謀叛の疑いで伊豆修禅寺にて攻撃され自害するが、その次男の範圓(はんえん)・三男源昭(げんしょう)が外曾祖母である比企尼から、武蔵国横見郡吉見庄を分与された。範圓の子である吉見為頼に至って吉見を名字とした。子孫は御家人として存続し吉見氏と称した。子孫の一人である吉見頼行は能登吉見氏の庶家で、石見吉賀郡の地頭職を得て下向したものである。石見吉見氏は木部・津和野・吉賀地方の在地領主を被官化しつつ次第に勢力を拡張し、隣接する強豪益田氏と拮抗する有力領主に成長した。戦国時代には大内氏毛利氏の影響下におかれ、江戸時代には毛利氏の家臣として組み込まれたがまもなく粛清された。

吉見氏嫡流の隆盛と衰亡

頼朝は平家の滅亡後、源氏一門の多くを謀叛の罪として処刑し、吉見氏の祖である範頼もその例に漏れなかったが、子孫は源氏の名門として存続。執権北条氏が幕府の実権を握った後も命脈を保っていた。しかし、北条氏が武蔵国の在地勢力を冷遇したためか、為頼三代の子孫義世は謀叛をたくらみ事前に発覚したため、処刑される。その弟である義成通任(通経)らも義世の与党として流刑となり、義世の子である尊頼渋川氏に養子入りしていたため、吉見氏嫡流の命脈は絶え、宗家の家督と武蔵国の所領は二代義春の弟で能登国の住人となっていた吉見頼宗の子、即ち義春の甥である頼隆の系統に引き継がれた。これらは能登吉見氏、武蔵吉見氏とよばれる。

石見吉見氏

石見吉見氏は源範圓の庶子の系統だが、頼円に至るまでの系譜は明らかでない。吉見氏は後醍醐天皇の挙兵に際し、朝廷方について戦った。この時の家督は吉見頼直であったと思われる。しかし、後醍醐天皇と足利尊氏との間に亀裂が生じ、南北朝時代に入ると吉見頼直は北朝・足利方につき、備後の国人に兵を送る様に要請したところから、源氏の一門として、一定の地位にあったのではないかといわれる。

代々、石見国津和野を領して益田氏とともに石見国の二大国人として名を馳せた。吉見頼興足利義稙義澄による家督争いにおいては義稙方である大内義興に従い、京都船岡山合戦において活躍した。しかし、戦国時代における吉見氏の中で最も著名なのは頼興の子である吉見正頼広頼親子であろう。吉見氏としては庶流の系統であるが、有力国人として大内義興の娘婿となる。その関係もあり、大内義隆が守護代陶隆房の謀叛によって死亡し、大内氏を大内義長が継ぐと、これに反発して反陶の兵を挙げ、陶軍と戦っている。

その後、毛利氏に従ったが、江戸時代初めに謀反の疑いで当主の吉見広長が誅殺された。その後の吉見氏は吉川広家の子の就頼が継承したが、やがて就頼は毛利姓に復し大野毛利家を興したため、吉見氏は断絶した。

吉見氏系譜

系譜

  • 吉見氏嫡流

源範頼-源範圓-吉見為頼-吉見義春-吉見義世-吉見尊頼(渋川義宗)渋川直頼の養子となり断絶)

  • 武蔵吉見氏

吉見為頼-吉見頼宗-吉見頼有-吉見頼継-吉見範義-吉見頼代-吉見義永-吉見頼久

  • 能登吉見氏

吉見為頼-吉見頼宗-吉見頼隆-吉見氏頼-吉見詮頼=吉見義範(詮頼弟)-吉見満隆-吉見家貞-吉見家仲-吉見元家-吉見義隆

  • 石見吉見氏

  源範圓---吉見頼円-吉見為忠-吉見頼忠-吉見頼行-吉見頼直-吉見直頼-吉見弘信-吉見頼弘-吉見成頼-吉見頼興-吉見正頼-吉見広頼-吉見広長


吉見一族の実名と偏諱

人名 偏諱を与えた人物 備考欄
武蔵 吉見 後醍醐天皇:尊治) のち渋川直頼の養子となって義宗に改名。
能登 吉見頼 執権・北条時宗または能登守護・名越宗長 頼宗の息女は名越宗長室。
能登 吉見 将軍・足利尊氏 南北朝動乱期の能登守護。
能登 吉見 将軍・足利義詮 室町幕府奉公衆の一員。
能登 吉見 将軍・足利義満
能登 吉見 能登守護・畠山基国 国頼は氏頼の甥(弟・義頼の子)。
能登 吉見 管領・畠山満家 満家は基国の子。満家の弟・満慶能登畠山氏の祖。
能登 吉見 鎌倉公方・足利持氏またはその子で古河公方の成氏 氏範は家貞の弟。また、娘が足利成氏室と伝わる。
能登 吉見 能登守護・畠山義統 統頼の父は、国頼の子・頼経とされる。
能登 吉見 能登守護・畠山義統 父・統頼と親子二代で義統から偏諱を賜る。
因幡 吉見 将軍・足利義政 政家は家貞の次男・家朝の子。室町幕府奉公衆の一員。
石見 吉見 石見守護・大内弘世
石見 吉見 将軍・足利義成(義政)
石見 吉見頼 石見守護・大内義興(?)
石見 吉見 石見守護・大内義興または父・吉見頼興 興成は頼興の子。一説に「成興」とも。
石見 吉見 石見守護・大内義隆 興成の弟。妻は義隆の姉・大宮姫(隆頼早世後はその弟・正頼に再嫁)。
石見 吉見 毛利氏 隆頼の弟・正頼の子。毛利氏(元就か)よりその祖先・大江広元の「広」の字を与えられる。
石見 吉見 毛利輝元 広頼の子。
石見 吉見 毛利秀就 吉川広家の子で一時期広頼の婿養子。初名は政春。大野毛利家の祖。

(*吉見一族の実名と偏諱(外部リンク)に基づいて作成。)

関連項目

外部リンク