大野毛利家
大野毛利家(おおのもうりけ)は、江戸時代の毛利氏の一門家老のひとつ。吉川広家の次男・毛利就頼を祖とする(三男説もあり)。
概要
石見国の吉見氏は、毛利元就の防長経略後は毛利氏に従っていたが、当主吉見広長が出奔する。そこで、当時6歳とされる吉川広家の次男が、先代当主・吉見広頼の五女と婚約して婿養子となり、家督を継承して吉見政春と名乗った。出奔していた広長は、毛利輝元に謝罪して毛利家に戻っていたが、1618年(元和4年)に謀反の疑いで討たれており、吉見氏嫡流は断絶した。1637年(寛永14年)になり、長州藩主毛利秀就より周防熊毛郡(現在の山口県熊毛郡)で約8,600石を与えられ、熊毛郡大野(現在の山口県熊毛郡平生町)に屋敷を構えた。この時、毛利姓を名乗ることを許されたため、以降は大野毛利と言われた。
大野毛利家の家紋は、毛利氏の「一文字に三つ星」ではなく、吉見氏の「丸に二つ引(引両紋)」に類似する紋である。
経済・建築
就頼の代より行った平生湾の干拓(平生開作)により、平生は防長塩の一大生産地のひとつとなるなど、その発展に貢献した。開作にあたり、排水のために作られた樋門は、オランダから導入された技術を使ったもので「南蛮樋」と呼ばれ、現存する南蛮樋(移設を含む)は山口県もしくは平生町の有形民俗文化財となっている。
1814年(文化11年)に7代藩主親頼が、居館に隣接して郷校「弘道館」を創立し、家臣・子弟の教育を奨励している。居館・弘道館及び一門の邸宅はいずれも現存していないが、萩城下町にある大野毛利家萩屋敷跡に萩博物館が2004年にオープンしており、萩城三の丸の一部を成していた同屋敷の隅矢倉が再現されている[1]。
歴代藩主の墓所は、平生町沼の海前寺跡にある[2](同寺は明治元年に廃寺)。また、その近くにある秀巌寺は大野毛利氏の女性方の菩提寺である。秀巌寺は吉見広頼の菩提のために創建された寺であり、吉見氏の家系図が保存されている。
歴代当主
脚注
外部リンク
- 平生町の歴史 - 平生町観光協会
- テンプレート:PDFlink つわぶき第34号(平成17年7月号) - 津和野の自然と歴史を守る会
- ↑ 萩城三の丸の"中の総門"にある大野毛利家の隅矢倉が萩博物館の一角に復元されている。旧益田家物見矢倉 (旧益田家老長屋) - ぶらり萩あるき(萩市観光協会)
- ↑ 大野毛利家墓所(海前寺跡) - おいでませ山口へ(山口県観光連盟)