「益子町」の版間の差分

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テンプレート:Infobox 益子町(ましこまち)は、栃木県南東部に位置する芳賀郡益子焼の産地として知られる。町の花はヤマユリ、町の木はアカマツ、町の鳥はウグイス。それぞれ1977年に制定された。真岡市への通勤率は21.3%、宇都宮市への通勤率は12.0%(いずれも平成22年国勢調査)。

地理

ファイル:Mashiko town city center area Aerial photograph.1974.jpg
益子町中心部周辺の空中写真。画像左下方に益子駅。駅から東方向に益子の町並みが続く。更に東の画像右側中央付近が、益子大陶器市の開催される陶芸店や窯の集中するエリアである。1974年撮影の2枚を合成作成。
国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)を基に作成。

関東平野の北に位置する。小貝川が町西側を北から南へと流れ、その河岸の平野部が町の大部分を占める。町の南部は茨城県と県境を接し、丘陵地となっている。町内最高点は標高533mの雨巻山である。

隣接する自治体

歴史

益子の古刹西明寺の伝承は、西明寺は737年天平9年)行基の創建になり、紀有麻呂が建立したとする。10世紀には、宇都宮氏の郎党益子氏が勢力を張った。益子氏は紀氏を称し、西明寺城を本拠とした。平安末期から室町初期にかけて、建立された寺社が益子町にはよく残っている。源頼朝が奥州藤原氏討伐の兵を起こすと、益子正重は宇都宮氏の郎党として戦功を上げ、もう一人の宇都宮氏の郎党とともに、頼朝から源氏の旗である白旗一流を下賜された。鎌倉から南北朝時代にかけて、益子氏は宇都宮氏の郎党としてよく活躍した。益子には西明寺城を始め、七井城など、益子氏の城・砦が築かれた。南北朝の動乱のとき宇都宮氏が北朝につくと、南朝方の将軍春日顕時は常陸国を本拠として、1339年益子を攻めた。これは後に撃退されたが、1351年再び益子は戦場となり、西明寺の伽藍が焼失した。1394年益子勝直は西明寺の堂宇を再建した。ついで1492年には楼門、1538年天文7年)には仏塔が益子家宗により再建された。しかし戦国期には益子氏は宇都宮氏と対立することが多くなった。家宗が家督を継いだ後は、隣接する領主と益子氏との争いが増し、1583年益子重綱(一伝によれば家宗弟)は宇都宮氏に背き、結果、1589年に宇都宮氏によって益子氏と西明寺城が滅びることとなった。

江戸期には那須黒羽藩大関氏に飛び領として加領され、幕末に到った。「下之庄」といわれ、陣屋が置かれた。1871年7月廃藩置県の後は、黒羽県から11月に宇都宮県に統合され、1873年に宇都宮県が栃木県に統合されるとともに、栃木県に帰属した。また1895年には益子町が設置され、のちには七井村田野村が置かれた。

1911年明治43年)軽便鉄道法が交付されると、鉄道院は幾つかの新規軽便線着工計画のなかに下館七井を結ぶ真岡線を含めた。翌年には工事が開始され、1912年4月1日に下館・真岡間が部分開業した。ついで1913年7月11日には真岡・七井間も開業し、計画された全線が開通した。後に、烏山町(現那須烏山市)と茂木町の二つから、七井からそれぞれの町への延伸が請願され、誘致合戦は政党の政治の具となった。茂木町を地盤とする政友会議員が衆議院に当選したため、最終的に七井から茂木への延伸が行われた。

1954年昭和29年)6月1日には、益子町と七井村田野村が合併し、益子町となった。

いわゆる「平成の大合併」で益子町も芳賀地区合併協議会に参加し近隣自治体との合併を協議していた。しかし2004年6月、住民から反対の強かった茂木町が離脱を表明、これを機に合併協議自体が不調となり、8月初頭には協議会廃止の合意を見た。8月24日町議会は合併協議会の廃止を議決し、知事への届け出を経て、同月31日、合併協議会は廃止された。

益子焼

益子焼はいわゆる御家焼のひとつであり、1852年嘉永五年)大塚啓三郎によって始められた。笠間の久野窯で修行し、益子の土を用いて瀬戸物を焼こうとした大塚啓三郎に、藩主大関増昭は、益子陣屋の裏山のふもと、根古屋に土地を与えた。生産量は着実に増し、1855年御用窯となった。作られたのは主に台所用の雑器であり、鬼怒川の水運を利用して江戸で販売された。藩は財政再建のため、益子焼を奨励した。

藩の庇護を失った後、益子では積極的に益子焼を窯が経営し、需要に応えつつ販路を拡大しようとする。当時、土瓶の売れ行きが盛んであり、輸出土瓶の製作が好評だったと伝えられる。1894年に益子陶器協同組合が結成され、また後には益子陶器伝習所もおかれた。

実用品を主にした益子焼に転機が訪れるのは大正期である。民芸運動の陶芸家、浜田庄司が益子に住み、益子の土を生かした独特な作品を作り出していった。浜田は後に国の重要無形文化財保持者(いわゆる人間国宝)に認定された。

年表

行政区域変遷

  • 変遷の年表
  • 変遷表

祇園祭

  • 益子祇園祭は、毎年7月23日-7月25日の三日間、町内の5地区(新町田町内町城内道祖土)と田野地区の山本を入れる6地区の山車が町内を練り歩く。(但しルートは新町-道祖土まで)
  • 初日の23日には共販センター南駐車場で手筒花火が披露される。
  • 最終日の25日の22時から町内の鹿島神社で御上覧が行われる。

2009年度から塙地区山車が参入。

2010年度の祇園祭から山本地区の山車は撤退する予定。 テンプレート:節stub

文化財

  • 西明寺 - 楼門・三重塔・本堂内厨子(いずれも国の重要文化財)
なお西明寺は坂東三十三箇所の一(20番札所)であり、その堂塔は関東三大仏塔の一といわれる。また、珍しい「笑い閻魔」像がある。
  • 地蔵院 - 本堂(国の重要文化財)
  • 円通寺 - 表門(国の重要文化財)のほか、多くの文化財を有する。

人口

テンプレート:人口統計

行政

2006年、4名の立候補者より2位と500票の僅差にて選出。 投票率は75%だった。2010年再選。

地域

町名・大字

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益子地区

  • 大字上大羽(かみおおば)
  • 大字下大羽(しもおおば)
  • 城内坂(じょうないざか)
  • 大字生田目(なばため)
  • 大字塙(はなわ)
  • 大字益子(ましこ)

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七井地区

  • 大字芦沼(あしぬま)
  • 大字大沢(おおさわ)
  • 大字大平(おおひら)
  • 大字小宅(おやけ)
  • 大字北中(きたなか)
  • 大字七井(なない)
  • 七井中央(なないちゅうおう)

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田野地区

  • 大字梅ケ内(うめがうち)
  • 大字大郷戸(おおごうど)
  • 大字上山(かみやま)
  • 大字小泉(こいずみ)
  • 大字長堤(ながつつみ)
  • 大字東田井(ひがしだい)
  • 大字前沢(まえざわ)
  • 大字本沼(もとぬま)
  • 大字山本(やまもと)

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教育

高等学校

中学校

小学校

  • 益子町立益子小学校
  • 益子町立益子西小学校
  • 益子町立七井小学校
  • 益子町立田野小学校

かつて存在した学校

  • 益子町立大羽小学校(2007年3月24日閉校)
  • 益子町立小宅小学校(2007年3月24日閉校)
  • 益子町立山本小学校(2007年3月24日閉校)

通信

郵便

郵便番号は以下が該当する。2集配局が集配を担当する。

郵便局

  • 益子郵便局(07023)
  • 七井郵便局(07070)
  • 田野郵便局(07132)

電話

町内全域が真岡MAの管轄となり、市外局番は「0285」。収容局は以下のビルが該当し、市内局番は以下の通り。

  • 益子局:70、72

交通

真岡鐵道の駅が二つあり、益子駅が中心となる駅である。他、七井駅が町内にある。真岡駅経由で下館駅、また茂木駅へと通じる。道路は栃木県、茨城県の県庁所在地を結ぶ国道123号が町の北部を東西に横断し、会津若松市へと通じる国道294号が南北を縦断する。米沢市を起点とする国道121号は、益子町を終点とする唯一の国道で、国道123号交点のある町域内を終点とする。また茨城県桜川市へと通じる道路がある。

鉄道

路線バス

高速バス

道路

産業

姉妹都市

北海道紋別郡雄武町と姉妹都市関係にある。

チャレンジデーへの参加

益子町は2008年からチャレンジデーに参加している。 2008年5月28日に岩手県軽米町との対戦で圧倒的な差で初出場ながら勝利を収めた。 また2009年5月27日に2度目チャレンジデーに参加。 相手は広島県竹原市埼玉県小鹿野町との対戦で、2度目の勝利を果たした。

ましこ花の博覧会

  • 2009年4月24日からましこ花の博覧会が開催された。

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主な著名人

関連項目

脚注

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外部リンク

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  1. 角川日本地名大辞典編纂委員会『角川日本地名大辞典 9 栃木県』、角川書店、1984年 ISBN 4040010906より
  2. 日本加除出版株式会社編集部『全国市町村名変遷総覧』、日本加除出版、2006年、ISBN 4817813180より