新京阪鉄道P-6形電車
新京阪鉄道P-6形電車(しんけいはんてつどうP-6がたでんしゃ)は、阪急京都本線などの前身となる新京阪鉄道が1927年から1929年にかけて、3期に分けて合計73両を製造し、以後の変遷によって最終的に京阪神急行電鉄に帰属した電車のグループである。
「100系」とも呼ばれ、また新京阪鉄道時代前半(1927 - 1929)の形式称号である「P-6」(Passenger car 6の略)、もしくは代表車種である電動車(100番台の番号を付与)の京阪電気鉄道時代(1930 - 1943)の形式称号である「デイ100」の名でも知られる。
概要
京阪電気鉄道傘下の新京阪鉄道は、その社名が「鉄道」であって「電鉄」では無いことが示す通り、高速運転を前提として地方鉄道法に基づき建設された、淀川西岸経由で京阪間をバイパスする高規格電気鉄道であった。本形式はその高規格新線(重軌条と直線主体のルート、立体交差化)を前提として設計・製造され、完成当初は「東洋一の電車」と豪語されたほどに先進的メカニズム満載のハイスペックを誇った。当時日本の電車では最大の19m級車体を備え、やはり当時の電車用としては日本初かつ最強の200馬力(150kW)級主電動機を装架、最高速度120km/hでの運転が可能[1]という画期的な大型高速電車である。
基本的には、同時代のアメリカ合衆国におけるインターアーバン(都市間連絡電車)の流儀を全面的に持ち込んで設計された典型的なアメリカン・スタイルの車両である。しかし一方で電装品には親会社である京阪電気鉄道で実績のあったイギリス系技術に由来する東洋電機製造製品が採用されており、その設計は必ずしも米国流一辺倒ではない。
なお、本形式は比較的路線長の短い新京阪線でのみ使用するにはいささかオーバースペックな長距離運転仕様となっていた。これは、京阪系の計画路線であったが実現せずに終わった名古屋急行電鉄(馬場(大津) - 草津 - 太郎坊 - 八日市 - 永源寺 - 菰野 - 熱田)への乗り入れを想定していたことが一因である。
戦前、大阪・京都府境の大山崎付近における新京阪線と国鉄東海道本線の並行区間において、当時の国鉄を代表する特急列車「燕」を追撃し抜き去ったというエピソードで、鉄道ファンからは伝説視される電車である。
本形式に続いて関西の有力私鉄各社が設計・製造した阪和電気鉄道モタ300・モヨ100形電車や参宮急行電鉄2200系電車などと並び、第二次世界大戦以前における日本の都市間高速電車を代表する傑作として、後世においても高く評価されている。
車体
19m[2]級広幅[3]2扉の両運転台車体である。電動車のみならず、制御車も両運転台、かつパンタグラフ装備車であった。
外観
インチ寸法で設計された直線基調デザインのボディは、溶接構造が普及する以前のリベット組立車体であり、速度感と重量感に溢れるその強烈な個性的スタイルから「装甲車」とも評された。
もっとも、やや浅めの屋根と上下寸法の大きな窓によって軽快感を漂わせてもおり、後発の重量級大型電車である大阪鉄道デニ500形・阪和電鉄モタ300・モヨ100形等の各車と比較すると、重さを感じさせないデザインにまとまっている。なお、新造時の扉配置は電動車・制御車共にd1(1)D 10 D(1)1d(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で車体はほぼ完全に共通設計であった。
なお、前照灯は独立した灯具に格納して屋根中央に1灯搭載され、尾灯は必要に応じてフィルタを回転させて切り替えることで赤・青(緑)・無色(白色)に変更可能な小糸式尾灯が1基、妻面の車掌台側前面窓下に取り付けられていた[4]。
超重量級車体
本形式は製造時期により全鋼製車と半鋼製車が混在しており、同一発注ロットでも担当メーカーによる微妙な仕様・形状差が見られた。全鋼製車は屋根までリベット打ちの鋼板張り、半鋼製車は屋根が木製防水キャンバス張りに変更されている。
車体の構造面では台枠の上に柱を立てる、以後の鋼製車で一般化した設計ではなく、台枠の側面に柱をリベットと金具で打ち付けて固定する、木造車時代の構成をそのまま継承しており、木造車から鋼製車へ移行する時期の過渡的な設計であったことをうかがわせる。この設計により、ガセットプレートと呼ばれる柱の固定用隅当金具を大量に使用する分だけ自重が増大する結果ともなった。
台枠は全鋼車・半鋼車の双方共に強度重視で台車心皿間の梁を太くして剛性の確保を図った「魚腹台枠」を用いており、特に重装備の全鋼製電動車は、実に自重52tという超重量級車であった。公式には全鋼製・半鋼製車共に自重41.66t(=46英t)として当局に申請、認可されているが、構造・材質の違う両車が全く同じ重量である筈はなく、またそれを裏付けるようにメーカーカタログに掲載されていた実測値はいずれもこれらを超過していた。
これは当時の国鉄東海道本線と同等の100-RE型レール[5]を敷設した新京阪線ならではの仕様であったが、その一方でこの大きな自重は運用上の制約も生んだ。北大阪電鉄時代に施工された低規格区間の走行に制約が生じたのである。
特に木造かつ小型で軽量のP-4・5形を前提に架設された天神橋 - 淡路間の淀川橋梁(後の新淀川橋梁)では速度制限が課せられ、後年千里線での運用が主体となってからも、水害で同線の橋梁に損傷が発生した際にはその過大重量故に仮復旧された橋脚では耐えられず入線が不可能となり、復旧までの間、やむを得ず本線運用に充当する措置がとられるというケースも発生した。その一方で、戦後の高架化工事や千里山線延長などの際には、新線の試運転・習熟運転用として自重の重い本形式が起用される機会が多く見られた。
19m車体
本形式で初採用された19m級車体は17・18m級車体ほどラッシュ時に輸送力不足で問題を出さず、それでいて20m級車体のように閑散時に極端な非効率とならない、というその中庸ぶりから、輸送需要が高密度ではあるが中規模の都市が沿線に連続的に分散する近畿圏の私鉄、特に軌道法準拠で開業し20m級車体を備える車両の導入が困難な各社[6][7]に普及した。なお、第二次世界大戦後に京阪神急行電鉄が3線統一車体寸法としてこの値を採用したことから、阪急電鉄では現在も標準寸法として採用され続けているほか、同じ神戸高速鉄道へ乗り入れる阪神電気鉄道と山陽電気鉄道の2社でも心皿間距離や車体幅などに相違が見られるものの、概ね同様の寸法が採用されている[8][9]。また、それ以外でも京阪電気鉄道・神戸市交通局・北神急行電鉄等の京阪神間に存在する各社局ならびに名古屋鉄道においても、既存地上施設の制約などからこの値が現在も新造車に用いられている[10]。
電装品
電装品には、主として東洋電機製造製の国産機器が装備された。
東洋電機製造は第一次世界大戦中に鉄道用電気機器の国産化を企図して設立された企業で、イングリッシュ・エレクトリック社(EE社:English Electric Co.)と提携してイギリス系の技術を積極的に導入し、特に電車・電気機関車用電装品の国産化を進めた。その創設に際してはEE社製機器のユーザーであった京阪電鉄からの出資や役員派遣を受けるなど関わりが深く、1920年代中期の時点で、既に京阪向けとしてEE社製品のデッドコピー品を中心に様々な機器を納入していた。
本形式に搭載された機器は、いずれも東洋電機製造のカタログラインナップとしては当時の最上位に位置づけられる高級品揃いで、それゆえ本形式は同社製品のデモンストレータ的な役割を果たすことともなった。
主電動機
本形式の高性能を実現した主電動機は東洋電機TDK-527-A[11]で、歯数比は2.346であった。後に制御車の一部を追加で電装して電動車化した際には、同一出力ながら定格回転数を引き下げたTDK-537-A[12]を使用したが、歯数比を2.103に変更することで既存車との走行性能の整合性を保ち、混用を可能としていた。
この主電動機の変更は、制御車の電装の段階で既にTDK-527-Aがスペック的に陳腐化していたことと、歯数比変更というリスクを含めてなお、TDK-537-Aへの機種変更を受け入れるメリットが京阪側にあったこと[13]を示唆している。
制御器
制御器は東洋電機製造製ES-504-Aで、同社が提携していたEE社系技術の流れを汲む当時最新鋭の多段電動カム軸式自動加速制御器である。この系統の電動カム軸制御器は、EE社が吸収合併した本来の開発元であるデッカー社(Dick Kerr Works,Preston, Lancs.)の名を取って「デッカー・システム(DICK KERR SYSTEM)」の通称で知られる。
ES-504系は、同時期における京阪本線の最新型車であった1500形[14]が搭載したEE社製ES-155制御器を改良・スケールアップの上で国産化したものである。
特徴としては高速走行に備え、界磁接触器を制御器に搭載、主電動機の界磁に立てられたタップを利用して弱め界磁制御機能を実現したことで、これは1922年に製造された大阪電気軌道(現、近畿日本鉄道)奈良線用デボ61形電車搭載のゼネラル・エレクトリック(GE)社製MK制御器や阪神急行電鉄51形電車搭載のGE社製PC-5制御器に続き、日本の電車では3例目、100馬力超の電動機4基制御に対応する鋼製高速電車用としては日本初の弱め界磁付制御器となった。この弱め界磁制御は以後高速運転に不可欠の機能として広く普及した。
しかし、200馬力級モーターと弱め界磁機能の組み合わせによる重量級車の超高速運転は、経験豊富な京阪の技術陣にとっても未知の領域であった。このため、本形式の運行初期においてはフラッシュオーバーと、これに伴うモーターの焼損事故が頻発している。この課題に取り組んでいた時期に、京阪技術陣は1928年に本場米国のインターアーバンの視察と研究を行っている。なお、1934年に京阪電鉄が日本初の連接電車として開発した60形電車「びわこ号」は、この視察に伴う見聞からの副産物とされる。
この時期の東洋電機製品は、EE社のライセンス製作でない自社オリジナル設計のものについて500番台以降のナンバリングを与えていた。「ES-504-A」はその若番から、同社が独自設計に踏み出して間もない時期の挑戦的な製品であったことが窺われる。
なお、1937年に電装されたグループについては改良型である東洋電機製造ES-516-Aが採用されている。こちらは一部部品が当時の国鉄制式品と同等となって保守や部品調達の容易化が図られているものの、機能的にはES-504-Aと同等である。
台車
台車は複数種類が用いられた。主力となったのは、当時の日本の私鉄電車において主流であった、アメリカ・ボールドウィン社製ボールドウィンA・AA形台車類似のビルドアップ・イコライザー台車(帯鋼リベット組立構造)である。その設計・製造は汽車製造会社が担当し、大別するとA・Bの2種、細分するとA形が2種に区分され合計3種が存在した。これらのうち、2両分についてはスウェーデン・SKF社製のローラーベアリングを試験装備する[15]など、高速運転に当たって安全性や信頼性を高めるため、様々な工夫や試行錯誤が行われていた。
ブリル製鍛造台車の試験導入
試験的ではあったが、アメリカのJ.G.ブリル社設計になる鍛造台車枠イコライザー台車である「Brill 27-MCB-4X」が、日本製鋼所のライセンス製作によって2両分導入された。
これは日本に導入された電車用ブリル社製台車としては最大のもの[16]で、極めて大型の鍛造台車枠や「トラニオン・タイロッド」と呼ばれる、現在のボルスタアンカーに相当する機構の内蔵など、技術的に特徴の多い台車であった。さらに納入に際しては原型の片押し式ブレーキから、より強力な両抱き式にブレーキを変更しているが、端梁の位置が低いブリル台車故に構造上かなり難しい改造であったらしく、同じく両抱き式のブレーキワークを採るアメリカ本国の同系台車と比しても変則的なブレーキテコのレイアウトとなっていた。しかもこの改造の際には上下揺れ枕が新製され、枕ばねの重ね板ばね上のコイルばねを単列式から複列式[17]に変更、さらに側受も通常の摺動式からころ式に変更されるなど、本国の正規仕様とは一味異なる独特の形状を呈していた。
このBrill 27-MCB-4Xは当初122・501の2両に装着され、これらはペアを組んで運用された。これらの台車は戦後も1950年代半ばまでは両車に装着されていたが、晩年は122の分が電装解除されて1502に転用され、その後は同車の廃車までそのまま使用された。この内1台は現在も正雀工場に保存されている。
ブレーキ
自動空気ブレーキには、アメリカ・ウェスティングハウス・エアブレーキ社(WABCO)製のU-5自在弁(Universal Valve)を使用する「Uブレーキ」[18]が採用された。U自在弁は従来日本の電気鉄道で主流であった同じWABCO製M三動弁[19]の上位互換機種に当たり、これを搭載するUブレーキは長大編成対応と高速度域での応答特性改善を実現した、当時における最新かつ最高級のブレーキシステムであった。
このUブレーキは、階段緩め制御などの高度かつ複雑な動作を空気圧だけでコントロールでき、しかも常用部と非常部が完全に分離していて緊急時には非常部で常用部のフォローも可能、と機能面で前世代のM弁(Mブレーキ)から長足の進歩を遂げており、さらに6両から12両の長大編成においても100km/h超の高速度域から迅速かつ確実に制動系を機能させ得る、という高性能を備えていた。
しかしその反面、システムの中核をなすU-5自在弁はその動作の代償として極めて複雑精緻な機構を備えていた。
この装置は自重が132kgと非常に重く大型で、純粋に空気圧だけで多岐にわたる弁制御を遅滞なく実現するために、複雑な形状の真鍮製スライドバルブをはじめ、加工も精度維持も難しい摩耗部品を多数用いており、機能維持には高度な技術力が要求された。
第二次世界大戦前の段階ではWABCOの提携先である三菱電機や三菱造船所といった三菱財閥傘下の各企業が総力を結集してようやく国産化が実現されていた[20]が、その保守作業は1950年代以前の日本では旋盤などの保守に必要な工作機械が充分行き渡っていなかった[21]こともあって、難渋を極めた。
ブレーキ機構に空気圧を供給するエアコンプレッサーは、新造時にはU弁にとっての純正部品であるウェスティングハウス・エレクトリック(WH)社製D-3-Fが採用された。戦後は部品の入手難や梅田乗り入れ対応などの事情から、一部が日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)製のD-3-FやD-3-N[22]、あるいは東芝製RCP-78B/D[23]などに交換されている。
集電装置
東洋電機製造D形と称する空気圧上昇・重力下降式の機関車並の菱枠パンタグラフが制御車を含む各車(貴賓車500を除く)に搭載された。
絶縁碍子は竣工当初、横型を採用していたことが当時の写真と図面で確認できるが、これは早い時期[24]に縦型に変更されている。
その他の特徴
この時期、日本の技術分野では、既にメートル法への本格的な移行が始まりつつあったが、本形式の設計は川崎車輌が担当した貴賓車を例外として全面的にヤード・ポンド法に準拠する形で行われており、そればかりか初期の組み立て図の書き込みはすべて英語で行われていたことが、残された図面類から確認できる[25]。全般にアメリカのインタアーバン風の装備類が多いのは、本形式の特徴の一つである。
バネによる緩衝装置内蔵の押し合い式貫通幌はその一つで、幌枠の結合作業が不要であることから、新京阪では特に淡路駅における優等列車の増解結作業のロスタイム削減に威力を発揮した。
また、新造後しばらくして実施された屋根上への直流1,500V高圧引き通し線及び高圧単芯電気連結器の取り付けもアメリカ的であった。これは「バス引き通し」と呼ばれる装備で、当時のアメリカでは電車のみならず電気機関車の総括制御にも活用されるなど、一般的な装備であったが、日本では他にアメリカ製の国鉄ED10形電気機関車が輸入当初装備していた以外では、直流600V電化かつポール集電の京都電燈系各線[26]で連結運転時のポール取り扱いの簡略化を目的に採用された程度であった[27]。これにより例えばMc-Tc-Mcの3両編成でも、パンタグラフは1両分1基のみを上げておくだけで済んだ。それは電動車のものとは限らず、非電装の制御車のものが使われることも多々あった。
さらに、全車両にドアエンジン駆動の自動扉を完備したことは、同年に登場した東京地下鉄道1000形と並び、当時としては非常に進んだ安全性確保の勇断であった。
個別グループ
製造は、当時の主要車両メーカー4社(汽車製造、日本車輌製造、川崎造船所、田中車輌)で行われた。貴賓車500号を除いた72両は、2グループに大別される。
101 - 120・501 - 510の計30両が製造された初期車をP-6Aと称する。
製造は101 - 110が名古屋の日本車輌製造本店、111 - 120が汽車製造東京支店、501 - 510は神戸の川崎造船所がそれぞれ担当した。
未成に終わった名古屋急行電鉄への乗り入れを前提とした重装備・長距離運行仕様の全鋼製車で、座席も全車セミクロスシートを設置した。また当初は防寒・防音の目的で、2重窓を設置していた。窓枠の一番外側と一番内側のそれぞれ上部に細長い固定窓があるため外観は2段窓に見えるが、実は1段上昇式の窓が2枚重ねられた2重窓である。
増備車の121 - 133・511 - 539の計42両はP-6Bと呼ぶ。これらは各部の設計が簡略化され、タイムスケジュールと予算の都合からか2段上昇式の1重窓を備えた半鋼製車体にスペックダウンした。また、座席も制御車・付随車である511 - 539についてはロングシートとされた。
製造は121 - 126・511 - 519が日本車輌製造本店、127 - 129・520 - 522が汽車製造東京支店、130 - 133・523 - 526を大阪の田中車輌がそれぞれ担当した。
500号貴賓車
1928年の「昭和のご大典」に合わせ、神戸の川崎車輛で500号ただ1両のみが製造された半鋼製の中間付随車である。
この車両のみは基本的なデザインは他の各車に準じるが、設計・製造を担当したメーカーの違いからか例外的にヤード・ポンド法ではなくメートル規格で設計されていた。外観は黄褐色に塗装された特異なもので、内装もゆったりとしたソファーが並びスコッチウールの絨毯が敷き詰められ、ダミーの大理石製マントルピース上に黒田清輝の描いた「嵐峡」を掲げた貴賓室のほか、随員室やトイレ(洋式)、電気コンロ完備の調理室まで備えた、本格的な貴賓車であった。
京都御所のある京都市内を一方のターミナルとし、石清水八幡宮の所在する八幡(現・八幡市駅)を沿線に持つ関係で開業以来皇族の利用が多かった親会社の京阪も伝統的に貴賓車を準備しており、同時期(1928年)に2代目16号として1550形(後の600形(初代))を基本とする貴賓車を製造しているが、この16号は500号とその内部仕様が酷似していた。恐らくは京阪技術陣が米国で実見したインタアーバンのプライベートカーやインスペクションカーを強く意識して、両線に同コンセプトで貴賓車を用意したことがうかがわれる。
しかしこれらは共に実際の運用機会に乏しく、500号もその例に漏れず、記録の残る1933年(昭和8年)以降、運転されたのは20数回に留まり、通常は正雀車庫にてカバーをかぶせた状態で保管されていた。
この500号は新造時には形式P-6であったが、新京阪時代後半の1929年6月の形式称号改正で貴賓車を示す「フキ」が形式称号として与えられ、さらに京阪との合併後は車号と組み合わせてフキ500が形式称号となった[28]。
500号の貴賓車としての最後の使用は、戦時中の1944年11月3日に、当時の駐日ドイツ大使であったハインリヒ・ゲオルク・スターマー乗車の際の特別列車であった。
戦後は、桂車庫に移動してそのまま保管が続けられたが、貴賓車として使用する機会が無い事から一般車への格下げが決定し、ナニワ工機で格下げ改造を受けて1949年2月に出場した。この際、車内はクロスシート化されたが、車内装飾には、貴賓車時代の名残を留めていた。1950年のアメリカ博覧会開催の際には、黄色とマルーンの2色塗り特別塗装が施されている。また同年4月1日付けで1500号に改番された。
1959年、車体更新工事が実施され、貴賓車時代から残っていた乗務員扉の撤去、妻窓設置の他、車内は全金属化およびロングシートに改造され、車内放送装置も取り付けられた。この結果、貴賓車時代の名残は、広窓や車体下部の飾り帯に残るのみとなった。
廃車は1971年11月で、110号車とともに最初の解体車両となった。なお、車内装飾や椅子など、貴賓車時代の部品の一部は保管され、宝塚電車館で一時期展示されていた。
改造
本形式の保有数は総数73両に達し、新京阪線開業以来主力車として本線運用をほぼすべて賄っていた。そのため戦中・戦後に至るまで酷使が続き、特に台車や主電動機、あるいはブレーキ弁等の摺動部品には、消耗によるトラブルが続出した。特に主電動機は、ベアリングの整備が充分でない状態で高速運転を繰り返した結果、ケースに変形や歪みが生じたという。
戦時中はクロスシート車のロングシート化改造が行われたが、戦後の特急復活に際しては6両がクロスシートに再改造の上で充当されている。
制御車の電動車化改造
最初に登場した30両のうち制御車として竣工した501 - 510の10両は、竣工後1年で両運転台付きの電動車に改造されることとなり、この時点で121 - 133が竣工していたため、追番で134 - 143に改番された。一方、空番となった501 - 510については、530 - 539が改番されて整理された。
それからしばらくは101 - 143・501 - 529及び貴賓車500の73両で推移したが、輸送量が増加せず通常は単行運転で十分であったことと、名古屋急行電鉄計画の頓挫でそれらの開業に備えて用意されていた増結用車両が完全に不要となったため、制御車を中心に遊休状態となる車両が発生した。そこで、片運転台の電動車(128 - 133)を両運転台化する工事が1933年に実施された。制御車の運転台機器を電動車に転用して施工されたため、運転台機器を供出した制御車(524 - 529)は付随車化され、実質的には休車となった。
その後1937年に、制御車の522・523と付随車化されていた524 - 529が電装され、144 - 151に改造された。このグループは裝架された主電動機と制御器の形式が異なり歯数比も変更されたため、京阪の部内ではP-6Cと呼ばれた[29]。この結果、電動車は(デイ)101 - 151、制御車が(フイ)501 - 521、貴賓車(フキ)500の体制となって、京阪神急行電鉄の発足を迎えることとなる。
梅田駅乗り入れ改造
京阪電鉄時代より、十三駅での阪神急行電鉄線との連絡輸送は行われていたが、直通乗客の増加による利用客の便を図るため、梅田駅への直通運転を検討していた。この案は1943年の京阪神急行電鉄の発足によって急速に具体化し、1944年4月8日より梅田駅への直通運転が開始された。ただし、十三 - 梅田間は宝塚線の線路に乗り入れたため架線電圧が直流600Vであり、そのままでは直通運転できなかった。
通常であれば本形式の主制御器や電動発電機などの補機を改造あるいは交換して複電圧対応とするところであるが、戦時中の資材不足もあって、参宮急行電鉄デ2200形が布施以西で奈良線の600V区間に乗り入れていたのと同様に、600V区間を運転するための最低限の改造しか行われず、また一部車両のみ乗り入れ可能であった。主回路構成は1,500V仕様のままとされたため、600V区間では極端な電圧低下状態[30]となって加速性能が著しく低下し、また補機も規定電圧の半分以下で動作したためブレーキの操作に制約が生じるなど、保安上の不安も大きかった。
しかしながら、こうして資材難を克服してようやく開始された直通運転も、空襲による車両や駅施設の被災、車両故障の続出により、1945年6月には中断を余儀なくされた。
戦後になり、資材不足が次第に解消されてきたこともあって、再び梅田駅への直通運転を再開することになった。この時は、600V区間での運転を安定させるため、電動発電機と空気圧縮機を複電圧化対応のものに交換するとともに電圧転換器を装備して、600V区間と1,500V区間で補助電源回路を切り替えるように変更された。この結果、戦時中の直通運転時と比較して安定した運転が可能となったが、主回路は主制御器のカム軸を改造あるいは交換して直並列切り替えを行う必要があったため1,500V仕様のままとされ、十三 - 梅田間では主電動機の端子電圧が定格の半分以下となったためやはり速度が上がらず、苦しい運転であったという。
梅田乗り入れ改造は、当時在籍した電動車[31]のうち101 - 144にのみ施工されたため、未施工のままの145 - 151の7両については、電動車としては梅田乗り入れができなくなった。
台車・電装品の改造
開業以来の酷使が祟って振動などで問題が続出した電動車の台車については、戦後製造元の一つである汽車製造会社の手で、新しい防振技術を導入した様々な改良・改修工事が実施された。このうち改造工事を施された汽車製台車、特に汽車改造2次と呼ばれたグループは、ボルスタアンカの追加と揺れ枕の全面的な設計変更により、大幅な乗り心地の向上を実現した。他に、阪急とは縁の深い住友金属工業の手によるオーソドックスな構成の鋳鋼イコライザー台車(KS-33E)も新製導入された。
主電動機については大規模な補修工事が台車改造と同時期に実施されているが、この他酷使で痛みの著しかった制御器についても、700系のES-551-A、あるいは710系のES-552を改良したES-553[32]への変更が順次実施された。その他、ES-559[33]を装備した車両も9両あり、最終的にはES-553とES-559の2機種が混在することとなった。なお主制御器の換装は、梅田乗り入れ可能な101-144[34]と147[35]に実施され、残りの車両は換装されなかった。
戦後しばらくして長編成化が進み単行運転の機会が消滅し、制御車が不足してきたことから、1953年より、600V区間への乗り入れ工事を行わなかった車両を対象に制御車化が開始され、1960年の144[36]を最後に制御車化を終了した。結果的にP-6Cのグループは、147を除いて制御車に戻った形になる。なお、1529のパンタグラフは、霜取り用としてしばらく残されていたが、のち撤去された。
制御車化によって捻出された電動車の電装品の一部は、車体新造車の1600系向けに流用されている。
車体更新
車体については20年更新工事と呼ばれる全面的なリフレッシュ工事が、まず1948年から1953年にかけて特に痛みの激しい電動車を対象として施工された。これに伴い、奇数番号車の方向転換[37]</ref>が行われて偶数番号車と取り扱いが統一された。また、これと前後して、混雑時の換気能力改善を目的に通風器のグローブベンチレーター化が行われ、外観の印象がかなり変化している。
さらに、制御車についても1954年から1958年にかけて同様の工事が実施されたが、戦後の京都本線における列車の長大編成化に伴い、制御車全車を京都側にのみ運転台を備える片運転台車へ改造する工事が同時に施工されている[38]。またこの頃、車内照明の蛍光灯化も行われた。
ブレーキのA弁化・長大編成対応化
本形式の足回りにおける特徴の一つであったU-5自在弁による「Uブレーキ」は、戦後次第に補修部品の入手が困難となりつつあった。唯一例外的に多量の部品ストックを抱えた大阪市電気局→大阪市交通局は、既に長大編成での運用を実施していたこともあって戦後も1952年に新造された600形までこのブレーキを継続採用しているものの、戦前にU弁を導入したその他各社は、戦後はU弁を新規採用しなくなっていた。
一方、1928年に開発されて以後、日本の一般の電車に広く普及した「Aブレーキ」[39]でも、実際の運用では特に差し支えないことが戦後同ブレーキを装着して新造された700系や710系の導入に伴って明らかとなってきた。しかも関係者の証言によれば、長大編成で高速域から減速する際のブレーキの効きでは見劣りしたものの、通常使用の範囲では機構部がコンパクトで応答速度の速いA弁の方がU弁よりも扱いやすかったという。
適正に整備・調整されたU弁の機械的信頼性や基本性能は、A弁を大きく凌駕するものであったが、その調整に当たってはマイクロメートル単位の鏡面加工を要求された。工業水準が高く古くから精密加工技術が発達していた同時期のアメリカであればともかく、民間向け工作機械、特に旋盤の精度が著しく低く、しかもその普及度も低かった当時の日本では、U弁のメンテナンス条件はあまりにもシビアであった。整備の神様と呼ばれるような熟練技術者でさえ、各部の摩耗状況次第ではブレーキ弁一組を調整するのに10日以上かかることもあったという。
このように、当時の日本のインフラではU弁は得られる効果に比して手間の掛かりすぎるブレーキシステムであった。そのため阪急をはじめU弁を採用した全社[40]とも、最終的にその継続使用を断念しており、本形式については1950年から1965年にかけて、全車ともA弁に交換された。ただし運転台の制動弁は互換性があるため、新造以来のM23弁[41]のまま存置された。なお同時期に、大阪市交通局は同じくU自在弁を搭載する地下鉄旧型車全車について、高速化と長大編成化に伴う応答性能向上の必要性もあってUブレーキから電磁直通ブレーキに改造している。
さらに、32両については、1968年までにA弁に電磁同期弁[42]を追加し、運転台のブレーキ制御弁にも電気接点を付加して応答性能の良い電磁自動空気ブレーキである「AEブレーキ」化を実施した。これは7両編成での急行運用への充当を可能とする措置であるが、車齢を考慮してHSC電磁直通ブレーキ化は見送られた。
操作の容易なセルフラップ式のブレーキ制御弁を備え、しかも応答性の良いHSCブレーキを採用する1300系以後の高性能車と比較すると、応答性こそ改善されたものの操作は煩雑なままのAEブレーキを備える本形式は見劣りしたが、収容力の大きさと両数が揃っていて代替新車の導入までには時間を要する為、7両編成での運転を実施した。[43]
その他の各種改造
このほか本形式は、1960年代以降も、機会を捉えて以下のような改修の手が入れられ続けた。運用の末期に至るまで性能向上・機能改善が追求され続けたことは特筆に値しよう。
- 前面標識灯の埋め込み化
- 幌枠の通常型(着脱式)への変更[44]
- パンタグラフのばね上昇式化
- 屋根上高圧引き通し線及び電気連結器の撤去[45]
- 一部車両の運転台撤去[46]
- 屋上機器からの電気配線の車体外側への露出化
- 一部車両への列車無線・自動列車停止装置(ATS)等の取り付け[47]
- 電動車への主抵抗器余熱暖房装置の設置(のち撤去)
- 屋根ダクト取り付け(一部車両は未施工)及び鋼板化
100形延命の背景
もっとも、本形式を代替すべき京都本線用新造車増備は1960年代中期に至っても遅々として進んでいなかった。1967年の段階では、100形グループ以外の京都線用大型車は1950年代製造の片開き扉車[48]42両、高性能通勤車2300系78両、特急車2800系42両という陣容であった。しかもそのキャパシティ増加分は、宅地開発に伴う沿線人口の増加により乗客数が激増しつつあった京都本線および千里山線の列車増発や増結に振り向けられていた。
さらに、京阪神急行電鉄全体を見渡すと、梅田駅移設工事を代表する輸送力増強工事、神戸高速鉄道開業(1968年)を控え、1967年と1969年に段階的に実施された神戸・宝塚線の架線電圧1,500V昇圧に伴う車両新造や改造工事に巨額の費用を要する状態でもあった。
一方京都線系統においては、千里丘陵での日本万国博覧会(大阪万博)の開催(1970年)が決定し、これに伴って大阪市交通局6号線(地下鉄堺筋線)と千里線(千里山線を改称)の相互乗り入れ開始[49]が決定した。これに備えて相互乗り入れ対応車である3300系が一挙に120両製造されることになり、一部は本線運用にも充当されるようになった。これに伴い車両需給調整のために2300系の一部が神戸線に転属となったが、本来淘汰されるべき本形式はそのまま維持された。老朽化は進んでいたものの、万国博では臨時列車増発により多数の車両が必要となることが予想され、19m級で収容能力の大きい本形式は会期終了までそのまま使用する方針となったためである。
かくして、100形の廃車置換え計画は万国博終了後の1970年10月まで持ち越されることとなった。
1550形
1550形は、京都線の輸送力増強用として1949年に増備された中間付随車で、5両が創業間もないナニワ工機で製造された。登場時は550形と称したが、のちに宝塚線在籍車との番号の競合を回避すべく1550形となった。
車体寸法は、併結相手となる100形とほぼ同寸であるが、車体長がやや短くなった。車体は所謂阪急タイプの1段降下窓を採用しており、大きな二段上昇窓を備える100形編成の中では違和感が強く、編成美を損ねていた。もっとも台車シリンダー式ブレーキ[50]や住友金属製FS3ウィングバネ鋳鋼台車を採用するなど、当時の最新トレンドを取り入れた意欲的な設計で、内容的には100形と併用するに相応しい車両であった。
なお、1550形の廃車後、FS3台車は1250形1253 - 1257に流用されている。
変遷
戦前・戦中
従前、最大でも17m級車体・100kW級主電動機で充足されていた1920年代中期の日本の電車界に、新京阪100形はかつて例のない19m車体と150kW主電動機を搭載したいわば「モンスター・カー」として登場し、電車大型化・高速化の範となった。日本の電車の性能水準を格段にレベルアップさせる契機となった、エポックメイキングな車両であったと言える。
P-6が出現した翌年の1928年以降、1930年代中期までに、大阪鉄道・阪和電気鉄道・南海鉄道・大阪電気軌道・参宮急行電鉄・大阪市電気局等の関西鉄道事業者各社局に、多数の大出力大型電車群が輩出したことでも、その影響力の強さが伺われる。さらには鉄道省が大阪地区の東海道・山陽本線の電化に際して投入したモハ42系電車(1933年)の設計にも多大な影響を与えた。
しかし当時の京阪間における輸送需要に比して「第三の新線」は過剰な存在であり、沿線人口の少なさもあって新京阪鉄道は開業以来慢性的な営業不振に苦しんだ。また、親会社の京阪電気鉄道も昭和の大恐慌による拡大政策の破綻から、事業の縮小再編を迫られた。この結果、新京阪鉄道は再編により1930年に京阪電鉄本体に吸収合併されて、同社の新京阪線となった。
なお、本形式は1931年の京阪京都駅(現・阪急大宮駅)地下線開業に際して、関西で最初に地下線直通を実施した電車となった。1933年の大阪市営地下鉄開業に先立つ事例で、パンタグラフ装備の大型電車が地下線入りしたことでも特筆に値しよう。
「燕」追い抜き伝説の真偽
開業当初、沿線人口の少ない未開発地域であった淀川西岸を走り、しかも至近に東海道本線も併走する新京阪線では、乗客の少なさから大型の100形が1両で往来するような有様であった。そのような状況下、同線は必然的に大阪 - 京都間の直通需要獲得に傾倒せざるを得ず、高規格路線と100形電車の駿足を生かした高速運転を売り物とした[51]。
大山崎付近で国鉄特急「燕」を追い抜いたという「伝説」も、これに伴う逸話である。
実際に高田隆雄[52]や西尾克三郎[53]といった複数の撮影者によって、新京阪の急行が同区間で国鉄特急「櫻」を追撃し追い越してゆく光景が記録写真に収められており、本形式が国鉄特急を追い抜くに十分な速度性能を有していたことが証明されている。
「追い抜き」の逸話で、「燕」を抜いたのは新京阪の最速列車「超特急」であるという説が一部で語られており、また時期は不詳ながら13時大阪発の上り「燕」を後発の新京阪特急が追い越した、という証言が残されているが、これには疑念がつく。1930年と1934年当時の「汽車時間表」[54]では、新京阪の「超特急」は「燕」の運転時間帯に走行しておらず[55]、「燕」の走行時間帯に新京阪線を走っていたのは、天神橋(現、天神橋筋六丁目) - 京阪京都間所要38分の「急行」(「超特急」は34分)であった。
従って大阪 - 京都間を所定34分から36分で走破する「燕」より実際の所要は遅く、大山崎で抜き去ったのち両線の線路が離れた後は「燕」より遅いスピードで走行していたよう[56]である。あくまで偶然国鉄列車と並行した場合に臨機応変のデモンストレーションとして「追い抜き」を見せていたとおぼしい。また東海道本線大阪 - 京都間の距離は、新京阪線の天神橋 - 京阪京都間よりも若干長いため、京阪間の平均速度を見ても1934年改正以降の「燕」[57]は新京阪線の「超特急」を上回っていたことが判明している。[58]
とはいえ本形式の性能そのものは非常に高く、1928年の試運転時には死重を搭載した状態で40kmほどの距離がある天神橋 - 西院間を27分で走破した、という驚くべき証言も残されている。ここから、恐らくは各列車種別とも車両性能に比して相当な余裕を持たせたダイヤ編成であり、作為的に「追い越し」を演出することが容易な状況にあったことが推察される。
これらの事実から、この逸話は史実と見て差し支えないと思われる。
いずれにせよこの100形の俊足ぶりは、当時の鉄道ファンや一般利用者に強烈な印象を与え、後世まで長く語り継がれることになったのである。
増備車を欠いた背景
新京阪線系統については、名古屋急行電鉄線開業を睨み、100形を上回る大型の車両が計画されていた。計画図によれば、この長距離仕様車は参宮急行電鉄デ2200系にも比肩する66フィート(20.108m)級車で、車端部には便所も設置される予定だった。また、本形式におけるBrill 27-MCB-4X台車の試験採用は本来この66フィート車への本格採用を想定してのものであったが、この大型電車は名古屋延長線の頓挫で計画のみに終わっている。
100形が比較的短期間に大量増備をされた背景にも、開業時に名古屋延長線開業を見込んで車両数に余裕を持たせていた、という事情[59]がある。しかし名古屋延長は実現せず、72両(貴賓車除く)の保有は、路線長に比して明らかに過剰な各駅の待避線設備などと合わせ、新京阪線自体の輸送需要に比してあまりに過大な投資となった。
1930年代を通じ、新京阪線系統での新造車は、火災によって焼失したP-5形(デロ10形)2両の代替として1937年に千里山線用に製造された200形201-601の1編成2両[60]のみに留まった。本線については1943年まで実に15年近く新造車投入が途絶し、戦中に至るまで100系は一貫して新京阪線の主力車として運用され続けた。
この後、戦時体制を背景に電動車が増備されることになったものの、1943年に完成した張り上げ屋根・半流線型車体を備える久々の新車となった300形301 - 305は千里山線や本線における各停運用などを主目的とした中型車であり、車体幅こそ100形と同等であったが車体長は16m級と短く抑えられていた[61]。しかも、資材不足から未電装で出場、制御付随車として本形式との併結で運用された[62]。なお、300形の台車は汽車製造製K-18、自動空気ブレーキはACAブレーキで、新京阪線系統では初のA動作弁使用車となっている。
1300形の電装計画が頓挫したまま、戦後もしばらく新京阪線→京都本線用電動車の新造は行われなかった。100形に比肩しうる水準の大出力電動車を含む京都本線用後続車は、1950年の710系第1次車出現を待たねばならなかった。
戦後
新京阪線は、戦時中の1943年、京阪と阪神急行電鉄との合併で京阪神急行電鉄(阪急)の路線となった[63]。
戦後1949年に京阪神急行から京阪本線系統が京阪電気鉄道として再分離された際、旧新京阪線は阪急の路線として残った。その後も本形式は後続の各形式に互して阪急京都本線の主力として運用され、前述の通り1960年代に至っても7両編成対応化などアップデートが図られ続けた。
車両番号の重複を避けるため1950年付随車の車両番号が500番台から1500番台に改番された。
終焉
1960年代末期までに速度の高い2300系以降の高性能車の増備が進んだものの、1970年の大阪万博開催に伴う観客輸送では、これらの高性能車とともに主力車両として充当された。
万博終了後も、しばらくはそのまま運用されていたが、1971年4月に発生した事故によって被災車の105が休車となり、運用離脱が始まった。続く6月には、試作の5200系に続く初の量産冷房車である5100系の京都線への配置により、本線急行運用から基本的に離脱した。そこで発生した7両編成2本を組み替えて各駅停車運用に転用した結果、AEブレーキ化改造工事の未施工車両にさらに休車が発生した。
1971年11月28日の梅田駅の移設工事完成に伴うダイヤ改正で、高性能車での運用を前提とした急行のスピードアップが実施されるのに際し、惜別急行運転が11月21・23日に実施された。この時使用されたのは半鋼製車である132を先頭とする7両編成であったが、わざわざ中間に入っていた全鋼製の108を先頭に出して運転することになった。
以後、本線普通運用や千里線で運用されたが、1972年秋の台風によって京都本線の一部が不通になったのを契機に本線運用からも撤退して[64]、以後は千里線のみの運用になった。最終的には、5300系と交代する形で1973年までに1550形5両を含む全車が廃車となった。
各車の廃車時期は以下の通りである。
- 1971年12月13日除籍:105・106・110 - 113・118・125・126・135 - 137・1500・1503・1509・1515・1518・1521・1523・1526・1528・1529・1552・1553
- 1972年4月17日除籍:102・104・107・116・122・130・131・1501・1505・1507・1516・1519・1525
- 1972年10月20日除籍:101・117・120・123・128・139・140・142・1504・1508・1517・1520・1522・1527・1551・1554・1555
- 1972年12月5日除籍:119・127・133・134・1512・1524
- 1973年3月23日除籍:103・108・109・114・115・121・124・129・132・138・141・143・1502・1506・1510・1511・1513・1514
保存車
阪急部内では、100形の長年の功績を記念して、1両を永久保存することを決定した。保存車の選定には、貴賓車であった1500やトップナンバーの101などが候補に挙がったが、両運転台車で、車体が原型に近い状態を維持していた全鋼製車の116が選ばれ、しばらく正雀工場で休車留置ののち、1974年に復元工事が実施された。
保存に際しては、極力20年更新工事直後の姿に復元することとし[65]、部品は部内各所や能勢電気軌道などから集められ、当時の幌や屋根上の高圧引き通しは、図面を参考に復元している[66]。
当初は、現役当時の機器を生かして動態保存されていたが、その後静態保存となり、車体の手入れもされないまま正雀工場で留置され、塗装も色褪せてやや荒廃しつつあった。
しかし、1988年の900号車復元に合わせて、大規模な車体修繕[67]を行い、静態保存ではあるが綺麗な状態に再整備された。さらに1997年には、一旦取り外されていた主電動機を再び台車に取り付け、電装機器の整備を行って動態保存に再復元された。その後は、普段は屋根付きの車庫で保管され、毎年春と秋に開催される正雀工場でのイベントで走行展示を行い、正雀工場内のみではあるが実際に乗車体験もできる。
また、1511の車体が千里ニュータウンカトリック教会に引き取られ集会所として使用されていたが、こちらは1988年4月に用地難から解体処分された。このほか台車が正雀工場にBrill27-MCB-4X、大阪市都島の上田佐鋳造所にP-6Aが保存されている。
その他、宝塚ファミリーランドのりもの館(旧・電車館)にトップナンバーである101の前頭部が戦前の姿に復元の上で保存・展示されていたが、2003年4月7日のファミリーランド閉園に伴い同館が閉館となったため、現在は他の収蔵品の多くと共に正雀工場に保管されている。
100形電車登場作品
1988年公開のスタジオジブリ作品である「火垂るの墓」(1945年の神戸市が舞台)に、主人公が夜間に電車に乗るシーンで、乗車しているのがこの100形である。ただしその場面は阪急神戸線が舞台であり、制作協力として阪急の社名もクレジットされているにもかかわらず、実際に神戸線を走行していた900形や920系を使わなかった理由は不明である。ただし、劇中では扉間の窓が8個になっており、100形と900形を折衷したスタイルとなっている。
2003年から2004年にかけて放送されたNHK連続テレビ小説「てるてる家族」(設定は1950年代から1970年代)において、保存車の116を利用した撮影が正雀車庫内の留置線にロケ用の仮設ホームを設置して行われた。車両の全体像は登場しないが、特徴ある二段窓や車内の様子は画面で確認することができる。なおこのドラマの舞台も大阪府池田市であり、厳密に言えば阪急宝塚線の旧型車が登場の部分であるが、同年代で撮影に使用できる宝塚線用車の保存車も皆無[68]であることから116が使用されたものと思われる。
脚注
参考文献
- 『日本車輛製品案内 昭和三年』、日本車輛製造株式會社、1928年
- 『P-6 --デイ100物語--』、プレス・アイゼンバーン、1974年
- 『鉄道ピクトリアル No.348 '78・5月増刊号 <阪急電鉄特集>』、電気車研究会、1978年
- 『新京阪車輛構造図集』、鉄道史資料保存会、1984年
- 『鉄道ピクトリアル No.521 '89・12月増刊号 <特集>阪急電鉄』、電気車研究会、1989年
- 藤井信夫『車両発達史シリーズ4 阪急電鉄 京都線』、関西鉄道研究会、1995年
- 『鉄道ピクトリアル No.663 '98・12月増刊号 <特集>阪急電鉄』、電気車研究会、1998年
- 吉岡照雄『RM LIBRARY 110 阪急P-6 -つばめを抜いた韋駄天-』、ネコ・パブリッシング、2008年
- 『鉄道ファン』1974年12月号 No.164 「よみがえる116 阪急P6復元される」、交友社
外部リンク
- 阪急100系電車(模型店の株式会社北総レール倶楽部のサイト、1963年(昭和38年)撮影の写真 のアーカイブ)
- ↑ 『鉄道ピクトリアル』通巻348号 p.13
- ↑ 当時のアメリカの文献に掲載されていた手法に従って強度計算などが行われたためか、貴賓車を除きヤード・ポンド法に従って設計されており、車体長18.288m≒60フィート、全長19.53m≒64フィート1インチとなる。
- ↑ 車体長と同様、ヤードポンド法に従うため、車体幅2.79m≒9フィート2インチとなる。
- ↑ なお、この内青(緑)は十三 - 淡路 - 千里山間の区間運用時の識別用として長く使用され、戦後、法改正で前部標識灯として(無色)白色以外の灯具点灯が禁じられたことで廃止されている。
- ↑ AREA(American Railway Engineering Association:アメリカ鉄道技術協会)が制定した断面形状による、100ポンド/1ヤード=50kg/m相当の重軌条。当時の日本では製造されておらず、全てアメリカの製鋼メーカーから輸入された。
- ↑ 特に阪急の場合、元々66フィート車の導入計画のあった京都線と京都線同様に直線主体の線形である神戸線については20m級車導入について大きな障害は存在しなかった。だが、神崎川を渡河する三国の前後に、普通鉄道構造規則で定められた最小曲線半径160mを大きく下回る半径100mの急曲線が存在し、しかもその曲線上にホームまで設置され、さらに多くの駅の前後に移設が困難な踏切が存在していた宝塚線については、高架化で該当区間が別線切り替えとなった2000年まで20m級車導入は物理的に不可能な状況にあった。この区間を含む宝塚線の急曲線区間の高架化などによる線形改良は戦前から徐々に進められていたが、沿線は住宅や工場の密集地であり、さらには古墳まで隣接するなどしていて阪急単独での用地買収・線形改良は困難であった。そのため線形改良は難渋を極め、大阪府や豊中市などの沿線自治体の都市計画・土地区画整理事業、それに建設省→国土交通省などによる治水事業などと連携する形で、半世紀以上の時間と膨大な資金を投下してようやく実現を見ている。また、京阪では18m級から19m級への車体延長が、線形改良と車両設計で工夫して連結面間間隔のミリ単位での切り詰めを行うことでかろうじて実現されており、これら京阪・阪急をはじめとする低規格の電気軌道が出自の各社では、いずれも線形改良と車両の大型化に大変な苦労を強いられている。例外として、山陽電気鉄道は戦後運輸省から割り当てを受けたモハ63形を1970年代まで運用したが、これとて元々明石以西が高規格であったことと、明石以東についても戦前・戦中の平行する国道の改良などの際に線形改良・軌道移設が順次進められていて、追加工事が必要な区間が限定されていた、という幸運あればこその話で、それでさえ軌道強化や曲線緩和、そして変電所の大幅増強など大工事を強いられている。
- ↑ 阪急電鉄(株)鉄道本部鉄道技術第一部「宝塚線における高架化事業について」『鉄道ピクトリアルNo.663 1998年12月臨時増刊号』、電気車研究会、1998年、pp.85-90。
- ↑ ただしこれは完全に同一ではない。そのため、後年の阪神と山陽の梅田 - 姫路間直通特急運転の際には、心皿間距離が短く両端のオーバーハング部の長い山陽車の車体中央部が御影駅2番線ホームと干渉、直通特急に限り入線するホームを1番線に振り替えて対応している。
- ↑ 阪神電車鉄道同好会「阪神~山陽直通特急の運転をめぐって」『鉄道ピクトリアルNo.711 2001年12月臨時増刊号』、電気車研究会、2001年、pp.54-60。
- ↑ 私設鉄道法あるいは地方鉄道法の下で建設された関西圏の一部の私鉄、ならびに電化後の省線区間では更に長大な車体長19 - 20m(全長約20 - 21m)級車体を戦前から導入しており、その流れをくむ各社では現在もそのサイズを新造車に適用している。京阪神間の各社局においても、現代ではラッシュ時の混雑緩和、閑散時のゆとりならびにバリアフリー対応の車内空間確保などの観点から19m級車体は若干長さ不足であると指摘されているが、上述の通り過去の地上設備の制約や乗り入れ先各社局との乗り入れ協定などの事情に起因する寸法であり、変更は困難である。
- ↑ 端子電圧750V時定格出力149kW(≒200馬力)、805rpm。
- ↑ 定格回転数720rpm。なお、本形式とシステム面での共通点が多く姉妹車と呼ぶべき阪和電鉄モタ300・モヨ100形向けTDK-529-Aの定格回転数は、同一端子電圧・同一定格出力の条件下でさらに低く710rpmに設定されていた。
- ↑ 約10%の定格回転数引き下げは、高速運転を実施し初期にはフラッシュオーバーによる主電動機故障が多発していたと伝えられる新京阪線の運用実態からすると信頼性確保の点で望ましい改善であったと見られる。
- ↑ 後の500形。華やかな話題の多かった「ロマンスカー」や「流線型電車」、あるいは「びわこ号」の陰に隠れて目立たないが、システム面では戦前戦中の京阪電車の標準を確立した重要な形式である。
- ↑ これは当時は普及に至らず、本形式の大半は平軸受のまま廃車の日を迎えている。
- ↑ 客車用としては車体とセットでブリル社より輸入された、いわゆる「或る列車」の3軸ボギー式台車が最大である。
- ↑ 外見上左右各1本から2本へ変更。ただし、いずれも径の異なるコイルばねを2本組み合わせて使用しており、実際には左右各2本から各4本へ変更されたことになる。
- ↑ AMU/ACU/ATUブレーキとも。それぞれ順に電動車・制御車・付随車用を示す。
- ↑ M-1・M-2-A/B/Cなど幾つかの型番が存在した。
- ↑ それゆえU弁は日本国内生産品としては三菱製のみ存在する。
- ↑ 第二次世界大戦前には、十分な精度の工作機械が完備している民間工場は少数派であった。
- ↑ D-3-Fの600/1500V複電圧対応バージョン。神戸線で多用されていた。
- ↑ ゼネラル・エレクトリック社製コンプレッサーのスケッチ生産品。同じく複電圧対応で元は神戸線用。
- ↑ 1930年7月17日付の縦型碍子図面が残されており、この時期に変更されたものと見られる。
- ↑ 現在は阪急正雀工場に保管されており、その一部は『新京阪車輛構造図集』(鉄道史資料保存会)として1984年に公刊されている。
- ↑ 嵐山・叡山・鞍馬の各社。のちの京福電気鉄道系路線。
- ↑ 1990年代以降、この高圧引き通し方式はATき電化された新幹線電車においてパンタグラフ数削減=騒音減少を目的に本格導入されている。
- ↑ 1929年6月の形式称号改正の際、P-6系一般車については一律に、電動車には「デイ」、制御車および付随車には「フイ」の形式称号が付され、さらに京阪合併後はそれぞれ「デイ100」と「フイ500」の形式称号が与えられた。
- ↑ 運転台の主幹制御器も異なり、弱め界磁段が追加され、従来並列最終段まで進段した後に自動で弱め界磁段へ進段していたものを明示的に弱め界磁段へ進段可能とした。
- ↑ 主回路の直並列切替の構成が変更されなかったため、直列動作時には端子電圧750Vが300Vと公称値でさえ本来の定格値の半分以下となった。
- ↑ 101 - 151の51両。
- ↑ 共に内部の制御段数がES-504-Aの9段から13段に増えており、特に起動加速時の衝撃が減少することによる乗り心地改善が顕著であった。
- ↑ 制御段数が、直列11段・並列10段(他に弱界磁起動1段)を持つ多段式制御器で、さらにこの制御器を装備した車両はES-553装備車と比較して主電動機の限流値が引き上げられたため、車両性能が向上している。
- ↑ 131を除く。131は後に制御車化されて1525となった。
- ↑ ES-559を装備。後に欠番を埋める形で131に改番された。
- ↑ 1529へ改造。車番から明らかなように、この車両は電動車として梅田乗り入れ可能であった。
- ↑ 神戸線西宮北口まで回送し、同駅の今津線との平面交差に付随するわたり線を利用して方向転換が行われたほか、心皿部が360°旋回可能な特殊構造の仮台車を装着して十三まで回送後、同駅構内の分岐線に片方の台車だけ押し込んでもう一方は別線に進入させ、逆順で引き出すことで方向転換を行ったが、後には正雀工場内での作業に変更された。これらの作業により、所要全車の方向転換を完了している。なお最初に20年更新工事が行われたのは、動態保存されている116である。
- ↑ 最初に片運転台化されたのは、戦災復旧車の1509であった。
- ↑ 日本エヤーブレーキ社で開発されたA動作弁を使用する、自動空気ブレーキの一種。従来一般に用いられていたWABCO設計のM弁によるMブレーキの欠点であった、常用ブレーキの連続使用後に非常ブレーキが動作不良を引き起こす問題点を改善し、かつ階段緩め動作などU自在弁の利点の一部を巧妙に取り込んだもの。ただし、応答性能の問題により通常の使用状態では、空気圧指令のみでは最長で6両編成までしか組成できない(それ以上の編成両数では後部車のブレーキ動作遅延が過大となる)。
- ↑ 南海鉄道山手線の戦時買収で旧阪和電気鉄道の車両を承継した日本国有鉄道を含む。
- ↑ ATS設置時あるいは後述のAEブレーキ化に際し、接点箱を追加してME23相当に改造。
- ↑ あるいは電磁給排弁とも称する。これ自体は元来1920年代に主としてM弁やP弁搭載車で長大編成化を実現するため、アメリカでWABCOによって開発されたものである。日本では第二次世界大戦前に鉄道省の手で台車シリンダー方式と併せて試験が行われたがこの時は試験に留まり、戦後国鉄80系電車で16両編成化を実現する切り札としてこれが導入され、以後急速に普及した。
- ↑ プレス・アイゼンバーン社発行「P-6 デイ100物語」によれば、現場ではHSC方式と比べてAEブレーキの効きが良くないことは承知の上で、長年苦楽を共にした100形という事で、7両編成としての運用に踏み切ったという。
- ↑ 自動車との衝突事故をきっかけに、運転台の視界確保と、連結部の雨漏り対策を目的に実施された。
- ↑ 高圧引き通し線はいつしか使用されなくなっており、無用の長物と化していたという。
- ↑ ATS整備に伴う改造費用の節減を目的として、両運転台車の片運転台化や、7両編成化に伴う中間電動車・付随車化工事が複数の車両に対して施工された。
- ↑ 取り付けを見送られた車両は営業運転では運転台が使用できず、実質的に中間車扱いとなった。保存車の116も、晩年は中間車扱いで使用されていた。
- ↑ 710系・1300系・1600系の各系列。
- ↑ これに伴い高架駅であった千里線天神橋駅が廃止され、地下の大阪市交通局天神橋筋六丁目駅で代替されることとなったため、不燃化基準に適合しない本形式は千里線淡路以南への乗り入れが不可能となった。
- ↑ これにより自動空気ブレーキは中継弁(Relay valve)付きのATA-Rブレーキとなった。
- ↑ 『株式年鑑. 昭和9年度』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
- ↑ 特急「櫻」の車内から追い越してゆく新京阪線急行を撮影。
- ↑ 新京阪線急行から特急「櫻」の編成後部から順に先頭の機関車まで追い越してゆく光景を撮影。
- ↑ 現在のJTB時刻表の前身。
- ↑ 超特急はその運行された全期間を通じて朝夕混雑時のみ6往復運転であった。
- ↑ 当時の新京阪線急行は支線との接続がある淡路と桂に停車した。また、新京阪線では天神橋 - 淡路間の新淀川橋梁において荷重制限により速度制限が課されていた。
- ↑ 京阪間を新京阪線の超特急と同じ34分で走行していた。
- ↑ なお、先に挙げられた西尾克三郎は1935年に新京阪線急行と並走する「燕」の写真を撮影しているが、この一連の写真でも「燕」を追い越すには至っていない。
- ↑ 例えば、同時期にやはり沿線人口の少ない阪和間の山の手に路線を敷設した阪和電気鉄道は、路線長61.2kmに対して全通時には合計40両の車両を用意している。新京阪線が京阪京都まで開通した時点で千里山線や十三連絡線を含めて路線長が56kmしかなく、しかも千里山線用に別途P-4・5形36両が在籍していたことを考慮すると、これは新京阪線のみで使用するには明らかに過剰な新造数であった。
- ↑ なお、この2両以降に製造された新京阪線向け車両の形式称号には「デイ」や「デロ」といった称号は付されていない。
- ↑ 当初は本形式と同等の19m級で計画されていたという説も存在する。
- ↑ のち全車が1300形に改番された後、中間付随車に改造され750形となり、700系の中間車に転用されている。
- ↑ 阪急の正式社名が「阪急電鉄」に改められたのは本形式全廃後の1973年である。
- ↑ 9月16日、豪雨により上安威川橋梁(茨木市駅 - 総持寺駅間)の橋台が傾き、19日に復旧したものの重量制限が付けられたためP-6形の京都本線の使用が中止となった。
- ↑ なお、116は20年更新工事最初の対象車でもあった。
- ↑ 一例として、空気上昇式パンタグラフは宝塚ファミリーランド電車館の屋外に保管してあったものを、クロスシートはP-6形のものはすでに存在しないことから各駅の備品として使用されていた阪急710系電車の物を使用。屋上の主回路引通線(ダミー)のジャンパー栓は床下用を流用したため、原型よりもサイズが小さく栓の開き方も異なっている。
- ↑ 腐食していた屋根板や痛みのあった車内内装を取り外し、骨組みの状態にした上で補修した。
- ↑ この時期既に能勢電鉄で保存されていた320形328は解体処分済みであった。