阪急5200系電車

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テンプレート:鉄道車両 テンプレート:Sound 阪急5200系電車(はんきゅう5200けいでんしゃ)は、阪急電鉄がかつて所有していた通勤形電車で、阪急初の新製冷房車として1970年から1971年にかけて25両が製造された。

通勤冷房車時代の到来

1960年代後半に入ると、従来は特別なものであった冷房装置が、職場百貨店などの大規模商業施設から一般の家庭にも普及するようになっていった。鉄道車両においても例外ではなく、日本国有鉄道(国鉄)や私鉄の有料特急車両では冷房装置の搭載が一般化しており、関西大手私鉄でも1969年12月京阪電気鉄道2400系が初の通勤冷房車として登場、引き続いて翌1970年4 - 7月にかけて阪神電気鉄道に急行系車両の7001形7801形3次車、普通系車両の5261形5271 - 5274が登場、同年6月には南海電気鉄道南海本線の優等列車向けに7100系の新製冷房車が登場して、近畿日本鉄道を除く各社で冷房サービスが開始された[1]

阪急においても冷房車を導入することとなり、1970年中には神戸線の輸送力増強の一環として、ラッシュ時山陽電気鉄道本線須磨浦公園駅乗り入れ運用で6両+2両の増解結運用を行うことが予定されていたことから、先に増結車も含めて製造されていた5000系の増備を兼ねて本系列が製造されることとなった。このため、当初車番は5000系の続番で新製される予定であったが、試作要素が強かったために別系列とされた。

概要

本系列は1970年6月に5200-5240+5230-5700-5740-5710-5750-5250の8連1本が竣工、12月には5201-5241+5231-5701-5741-5711-5251の7連1本と5202-5242+5232-5702-5252の5連1本が、翌1971年5月には5203-5243,5233-5244の2連×2本とT車の5751が竣工した。メーカーはいずれもアルナ工機である。前述のとおり5000系の冷房化増備車といえる存在であり、性能は5000系に準じているが、車体形状をはじめ細部に差異が見受けられる。

車体は2000系以来の標準である、側面窓配置先頭車d1D3D3D2、中間車2D3D3D2(D:客用扉、d:乗務員扉)を継承しているが、車体形状は冷房用ダクトを通しているため、屋根上面が従来より70mm高くなり、屋根のRは従来の4600mmから3600mmと小さくなったことから、5000系より屋根が深く、屋根の中央部分だけが盛り上がった。以降の5100系などの車両ではダクトを通した分側面の肩も上げたため、他形式に比べると深く、中央部が高くなった屋根回りは本系列の特徴となった。

冷房装置は、分散式集中式の利点を取り入れた集約分散式を採用し、これが以後の阪急の標準方式となった。本系列は8000kcal/hのRPU2202形冷房装置を、第1編成(5200F)ではパンタグラフ設置車は4基、他は5基搭載したが、運用の結果冷房装置の搭載基数は4基で十分なことが判明したことから、第2編成(5201F)以後は全車4基搭載に変更された。ただ、全編成ともパンタグラフのない車両にクーラーカバーを5基分取り付けたことから、どの車両にもクーラーが5基載っているように見えるが、1つはケースのみのダミーで、その部分にはダクトが延長されている。

台車及び電装品については、台車は5000系以降阪急標準となった住友金属工業製造のS型ミンデン式空気ばね台車であるFS-369(M車)、FS-069(T車)を、冷房装置が搭載されたことによって重量が増加したことから、車輪のジャーナル径を110mmから120mmに太くし、空気ばね容量も増加させた改良型のFS-369A(M車)、FS-069A(T車)を履いたが、5200×8では予備台車削減のために全車FS-369Aを履いた。モーターは東芝製のSE542(170kw/h)、制御器も同じく東芝製のMM28Cと、5000系と同じものを搭載している。補助電源装置(MG)はCLG-326M(60kVA)を5200,5740,5250の各形式に2両に1両の割合で搭載、いずれのMGが故障した場合でも冷房以外の負荷に対して自動的に切り替えて給電できるよう、送受電切替装置が開発された。連結器は常時編成の先頭に出る5200形と5250形は通常の自動連結器を装備したが、増解結運用に従事する5240形のうち5240 - 5243と、5200形のうち5230 - 5233については、電気連結器付き密着連結器を装備した。ただ、この密着連結器は後年6000系以降の各形式が装備した廻り子式密着連結器と形の異なる、円錐形の密着連結器を装備していた。なお5244については、当初より増解結運用に入らない予定で、自動連結器を装備して登場している。

神戸線連解運用の主力

ファイル:Hankyu 5200 limitedexpress 5241 sonoda.jpg
神戸線特急 5241ほか8両
園田駅 1988年

本系列は製造当初より神戸線用として西宮車庫に配属され、神戸線及びその支線において運用されることとなった。ただし、登場直後の一時期に冷房車お披露目のために宝塚線に入線したことがある。当初は8両編成で運行されることが多かったが、1970年12月から当初の目的どおり山陽電鉄乗り入れ運用において三宮で大阪側2両を分割併合して朝夕ラッシュ時の阪急線内では8両編成、昼間時の阪急線内及び三宮以西の神戸高速鉄道東西線 - 山陽電鉄本線内では6両編成となる運行を開始した。このため、5000系も含めた編成替えが右表のとおり行われた(5000系はオレンジ色で記載)。

5000,5200系編成表
(1970.12)
テンプレート:TrainDirection
M'c Mc M'c M M' M T Tc
5200 5240 5230 5700 5740 5710 5750 5250
M'c Mc M'c M Tc M'c M Tc
5201 5241 5231 5701 5251 5004 5504 5054
5202 5242 5232 5702 5252 5005 5505 5055
M'c M M' M Tc M'c M Tc
5006 5506 5741 5711 5056 5007 5507 5057

5201Fのうち中間M'-Mユニットの5741-5711を5000系の5006Fに組み込んでいるのをはじめ、5201Fや5202Fに5000系を組み込んでいるなど、冷房車と非冷房車を混結している編成が多く見受けられる。ただ、この編成は翌1971年5月に増備車が竣工したことから、今度は一度宝塚線に転属していた5012×8を神戸線に再配置、5012×3と5013×4に分解して再度組みかえられた。その時の編成表は下表のとおり。

5000,5200系編成表
(1971.5)
テンプレート:TrainDirection
M'c Mc M'c M M' M T Tc
5200 5240 5230 5700 5740 5710 5750 5250
5201 5241 5231 5701 5741 5711 5751 5251
M'c Mc M'c M Tc M'c M Tc
5202 5242 5232 5702 5252 5012 5512 5062
M'c Mc M'c Mc M'c T M Tc
5203 5243 5233 5244 5013 5563 5513 5063

この時点で、先の5006Fのように非冷房車の中に冷房車が2両だけ組み込まれていた暫定的な編成は解消されたがなお、5012×3,5013×4のどちらも非冷房であった。冷房・非冷房混結編成は1973年4月に両編成が5000系のトップを切って冷房改造が行われるまで存在した。なお、冷房改造の関係で、5203Fが4両編成で今津線に入線していたことがあり、支線区における最初の冷房車となっている。また、当初の連解運用は5000系が非冷房だったために1972年までは全車冷房編成2本、冷房・非冷房混結編成2本、非冷房編成2本と冷房車と非冷房車が混じったものであったが、1973年には5012×3,5013×4の冷房改造が実施されたのをはじめ、京都線より5142×2が転入して5140*6に組み込まれ、8連となって連解運用に加わったことにより全車冷房編成が5本に増加、残った5000系2本の冷房改造も1974年1月と4月に実施されたことによって連解運用の冷房化が達成された。

連解運用を含めた山陽電鉄直通の須磨浦公園駅行き特急運用は当時の神戸線優等列車の花形運用であり、1970年代前半には本系列に5000,5100の各系列のほか、当時6両編成での運用のあった2000,2300,3000系の各系列も充当されていた[2]。中でも神戸線では2021系以来となる6両貫通編成を持つ本系列は、朝夕ラッシュ時の連解運用から昼間時の6両編成での運用まで幅広く山陽直通の特急運用に充当され、円板の縦中央に赤地白抜き文字で「特急」、左右の行先表示位置に須磨海岸をイメージした水色をあしらった運行標識板を掲げて、神戸高速鉄道 - 山陽電鉄本線内で同時期に登場した阪神7001形や山陽3050系といった3社を代表する新製冷房車と邂逅したほか、梅田 - 十三間の3複線区間では、当時の京都線特急の主力で、特急の運行標識板を左右に掲げた2800系に新鋭の5100系から戦前の神戸線の主力であった920系まであらゆる形式が見られる宝塚線急行と同時発車、並走を繰り広げることでファンや利用者の注目を集めた。

ファイル:19761019hankyu5200bw.jpg
阪急5200系トップナンバー5200 西宮北口駅 1976年10月19日

なお、5200Fと5201Fは、1973年から4年弱の長期間、下記のように編成が変更されていた。そのため、この期間5200Fは連解運用に入ることはなかった。また、この時先頭に立っていた5241と5230の連結器も、密着連結器のままであった。

5000,5200系編成表
(1973.7 - 1977.3)
テンプレート:TrainDirection
M'c M M' M T Tc Mc M'c
5200 5700 5740 5710 5750 5250 5201 5241
Mc M'c M'c M M' M T Tc
5230 5240 5231 5701 5741 5711 5751 5251
M'c Mc M'c M Tc M'c M Tc
5202 5242 5232 5702 5252 5012 5512 5062
M'c Mc M'c Mc M'c T M Tc
5203 5243 5233 5244 5013 5563 5513 5063

度重なる編成替え

5200系編成表
(1980.4)
テンプレート:TrainDirection
M'c Mc M'c M M' M T Tc
5200 5240 5230 5700 5740 5710 5750 5250
5201 5241 5231 5701 5741 5711 5751 5251
M'c Mc M'c M T Tc  
5202 5242 5232 5702 5563 5252
M'c Mc M'c T T Mc
5203 5243 5233 5671 5682 5244

1977年12月のダイヤ改正で、連解運用を6000系に譲った本系列は、中間に2021系を組み込んだ5000系とともに神戸線の8両編成運用に充当されたが、6M2Tではやや出力過剰のきらいがあり、1979年に編成の組み換えを実施、5012×3,5013×3を切り離した代わりに5013Fに組み込んでいた5563を5202×5に編入、残った5203×2+5233×2には5233と5244の中間に、宝塚線所属の5132×8を神戸線に転入させて6連化した際に捻出した5671と5682を組み込み、右表のとおり8両編成×2本と6両編成×2本に再編成された(5100系は黄緑色で記載)。

8両編成は神戸線の特急から普通まで幅広く充当され、6両編成は、連解運用を伴わない須磨浦公園乗り入れ運用に充当されたが、6000系の増加と本線での6両編成の運用が減少してきたこともあって、同じく6両編成を組む5000系や5100系とともに今津線に入線するようになり[3]、同線の冷房化率向上に寄与した。 テンプレート:-

5200系編成表
(1984.8)
テンプレート:TrainDirection
M'c Mc M'c M M' M T Tc
5200 5240 5230 5700 5740 5710 5750 5250
M'c M M' Mc M'c M T Tc
5201 5701 5741 5241 5231 5711 5751 5251
M'c T T Mc M'c T T Mc
5203 2881 2887 5243 5233 5671 5682 5244
M'c Mc M'c M T Tc  
5202 5242 5232 5702 5563 5252

その後しばらくは、8両編成は神戸線で、6両編成は今津線を中心に、減ったとはいえ5000・5100・6000・7000系[4]に混じって本線で須磨浦公園乗り入れ運用につくなど、従来と大きな変化なく運用されていたが、1984年3月のダイヤ改正で休日の須磨浦公園乗り入れが特急から普通に変更となり、本線における6両編成の運用が減少したことと[5]、同年5月に発生した六甲駅での衝突事故の影響で、2000系2050Fの8両編成が長期間運用離脱して本線の8両編成が不足したことから、8月に5203×6の5203-5243の中間に京都線で7両編成に短縮された 2800系のT車のうち2881と2887の2両を組み込んで、右表のとおり8両編成×3本と6両編成×1本に再編成された(2800系は黄色で記載)。この際、当時の2両単位の給電方式からMGが不足したため、2887に新たにMGを搭載している。蛇足ながら5201×8は、1984年六甲事故の際に付近を走行していたが、事故車の2000系運転士の必死の努力により難を逃れた。 テンプレート:-


5200系編成表
(1989.8)
テンプレート:TrainDirection
M'c T To Mc M'c T To Mc
5230 2882 2091 5240 5231 2057 2052 5241
M'c T T Mc M'c T T Mc
5203 2881 2887 5243 5233 5671 5682 5244
M'c M M' M T Tc  
5200 5700 5740 5710 5750 5250
5201 5701 5741 5711 5751 5251
M'c Mc M'c M T Tc
5202 5242 5232 5702 2886 5252

これより先の1983年、5201×8で5201と5241の中間に5701-5741を組み込む編成替えを実施している。ただしこの2両は、集電装置などを除いて電装解除されており、実質的にはT車扱いとなっていた[6]。一方、5200×8はそのままの6M2Tの強力編成を組んでいたが、本系列は当時の神戸線内では最強力の170kw/hのSE542形モーターを搭載し6M2Tでは出力面で余裕があったことから、編成の見直しが行われ、1989年までに2000系の短編成化で捻出された2000・2071系のT車、To車を組み込んだり、5202×6に組み込まれていた5563と5010×8に組み込まれていた2886を交換するなど5000系に組み込まれていた2880形を組み込むことで、右表のとおり8両編成×2本と6両編成×3本に再組成された。なおこの時、5701-5741は再電装されている(2000系は赤色で記載)。

この編成替えによって、1977年以来、久々に先頭に立つことになった5230と5241は、連結器を自動連結器に換装している。

6両編成になった2本は、元々6両編成だった5202Fとともに今津線を中心に使用され、1987年12月のダイヤ改正までは、5100系6連とともに、時折須磨浦公園直通運用に充当されることもあったが、ダイヤ改正以降は平日昼間の須磨浦公園行きも普通運用となり、6000・7000系だけで充分余裕が出来たこともあって、本系列の6両編成が須磨浦公園まで直通することはほぼなくなった。 テンプレート:-

少数派試作車ゆえの早期廃車

5200系編成表
(1991.4)
テンプレート:TrainDirection
M'c M M' M T Tc
5200 5700 5740 5710 5750 5250
5201 5701 5741 5711 5751 5251
M'c Mc M'c M T Tc
5202 5242 5232 5702 2886 5252
M'c To Mc M'c To Mc
5230 2091 5240 5231 2052 5241
M'c T T Mc M'c Mc
5203 2881 2887 5243 5233 5244

この時点で本系列は登場から20年近く経過していたが、同時期に5000系や5100系、あるいはこれらの系列より先に製造されていた3000系などで実施されていた、種別・行先表示幕設置や車内化粧板張替えなどの更新工事対象から外された。また、本線使用から標識板使用車両を除外する方針もあって、1991年までに全編成が6両編成化されて今津線に集結した。この関係で、本系列に組み込まれていた5671と5682が、元々組み込まれていた5132Fに戻されている。

その後は今津線の主力車両として引き続き使用されていたが、8000系の増備に伴って、2000系に引き続き1992年の5711・5741および5200Fより廃車が開始された。廃車の過程で、5201Fは4両編成化の上伊丹線に転属した。また、履いていたFS-369A台車の一部は、8000系増備車に流用されている[7]

1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災においては5201Fが伊丹駅で被災したものの修復された。この編成は、1996年の8月に数日間のみ箕面線に転属し、3100系の代走として運用されるなど、話題を振りまいた。その後も5230Fと5201Fが残っていたが、1998年秋の今津南線及び甲陽線のワンマン化に伴う車両移動によって両編成ともに休車となり、1年ほど平井車庫に疎開留置されたのち、1999年12月から2000年1月にかけて正雀工場回送ののち廃車され、姿を消した。5200系の廃車体は、5251前頭部以外はすべて解体処分されている。

ファイル:Hankyu 5251.JPG
5251の前頭部。どういう理由からか乗務員扉はない(2009.10.25正雀工場にて撮影)

この5251の前頭部カットボディは正雀工場内で保存され、レールウェイフェスティバル時に公開されている。 テンプレート:-

脚注

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関連記事

参考文献

  • 高橋正雄、諸河久、『日本の私鉄3 阪急』 カラーブックスNo.512 保育社 1980年10月
  • 飯島巌、高田寛、諸河久、『阪急電鉄』 私鉄の車両5 保育社 1985年
  • 藤井信夫、『阪急電鉄 神戸・宝塚線』 車両発達史シリーズ3 関西鉄道研究会 1994年
  • 『鉄道ピクトリアル』各号 1978年5月臨時増刊 No.348、1989年12月臨時増刊 No.521、1998年12月臨時増刊 No.663 特集 阪急電鉄
  • 『関西の鉄道』各号 No,25 特集 阪急電鉄PartIII 神戸線 宝塚線 1991年、No,39 特集 阪急電鉄PartIVI 神戸線・宝塚線 2000年
  • 『レイル』 No,47 特集 阪急神戸・宝塚線特急史 2004年 
テンプレート:阪急電鉄の車両
  1. 近鉄初の通勤冷房車は1971年登場の2680系
  2. 2300系の神戸線運用は1971年まで。2000系は1972年から1977年まで7両編成化の上京都線に戻った。
  3. それまでにも前述の冷房改造時における5203Fの4両編成のほか、8両編成で阪神競馬場でのレース開催時に運転される臨時急行や朝ラッシュ時の準急などで今津線に入線したことはある。
  4. この時期の7000系6両編成運用は1983年6月に製造された7020Fのみが連解運用対応で、1981年から1982年にかけて製造された7001F・7003F・7006Fの6両編成×3本は8両編成から付随車2両を抜いて暫定的に6両編成として運用していたものであった。
  5. このダイヤ改正で本形式ともども神戸本線及び今津線で運用されていた5000系6両編成×3本が、中間に2880形や2000・2021系付随車を組み込んで8両編成となり、代わりに本線で運用されていた2000系8両編成×2本が3両編成×4本と6両編成×2本に分割されて南北分断後の今津線運用に就いた。
  6. 制御器の故障により、暫定的に編成を変更したという説がある。
  7. 早期廃車となった車両の台車は8000系に流用され、後期(8000系全車竣工後)に廃車された車両の台車は2008年7000系7012Fに換装された。