寛永通宝

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寛永通宝。上:裏面に波形が刻まれているもの(4文)、中:文銭、下:一般的なもの(1文)

寛永通宝(かんえいつうほう)は、日本の江戸時代を通じて広く流通した銭貨寛永13年(1636年)に創鋳、幕末まで鋳造された。

概要

形状は、円形で中心部に正方形の穴が開けられ、表面には「寛永通寳」の文字が上下右左の順に刻印されている。材質は、製の他、、精鉄、真鍮製のものがあった。貨幣価値は、裏面に波形が刻まれているものが4、刻まれていないものが1文として通用した。当時96文を銭通しに通してまとめると100文として通用(短陌)し、通し100文と呼ばれていた。

略史

寛永通宝のうち、万治2年(1659年)までに鋳造されたものを古寛永(こかんえい)と呼ぶ。その後しばらく鋳造されない期間があり、寛文8年(1668年)以降に鋳造されたものを新寛永(しんかんえい)と呼ぶ[1]。この古寛永と新寛永は、製法が異なり、銭文(貨幣に表された文字)の書体も顕かな違いがある。

元文4年(1739年)頃、鉄製1文銭が出現する。

明和5年(1768年)、真鍮製4文銭制定。

万延元年(1860年)頃、鉄製4文銭が出現する。

銅または真鍮製の寛永通宝は、明治維新以後も貨幣としての効力が認められ続け、昭和28年(1953年)末まで、真鍮4文銭は2厘、銅貨1文銭は1厘硬貨として法的に通用していた(通貨として実際的に使用されたのは明治中期頃までと推定される)。

また、中国各地での大量の出土例や記録文献などから、代の中国でも寛永通宝が流通していたことが判っている。清に先立つ明では、銅銭使用を禁じ、紙幣に切り替えていたが、清代になってから銭貨の使用が復活した。しかし銭貨の流通量が少なかったため、銭貨需要に応えるべく、日本から寛永通宝が輸出された。

銅一文銭

二水永

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寛永通寳(二水永背三)

寛永3年(1626年)に常陸水戸の富商・佐藤新助が、江戸幕府水戸藩の許可を得て鋳造したのが始まりだが、この時はまだ、正式な官銭ではなかった。

このとき鋳造されたとされるものが、いわゆる二水永(にすいえい)と呼ばれる「永」字が「二」と「水」字を組み合わせたように見えるものであり、背(裏面)下部には「三」と鋳込まれ、鋳造年の「寛永三年」を意味するといわれる。

新助はやがて病死し鋳造は途絶えるが、九年後の寛永12年(1635年)に新助の息子、佐藤庄兵衛が後を継ぎ再び鋳銭を願い出、翌寛永13年(1636年)に鋳造を再開した。このときの鋳銭が背面に「十三」と鋳込まれたものであるとされる[2]

古寛永

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寛永13年6月(1636年)、幕府が江戸橋場と近江坂本に銭座を設置。公鋳銭として寛永通宝の製造を開始。

主な鋳造所は幕府の江戸と近江坂本銭座であった。しかし水戸藩仙台藩松本藩三河吉田藩高田藩岡山藩長州藩岡藩等でも幕府の許可を得て銭座を設けて鋳造していた。

やがて銭が普及したことから寛永14年(1637年)に1貫文=銀24匁前後であった銭相場が前年までに1貫文=銀16匁まで下落したため、寛永17年8月(1640年)に一旦銭座を停止する。その後銀12匁まで下落していたが、承応から明暦年間にかけて再び銭相場が銀18匁前後まで高騰したため[3]、承応2年(1653年)、明暦2年(1656年)に銭座を設けて鋳銭を再開する。

これらの古寛永は大局的には以下のように分類される[4][5]。鋳銭地は古銭収集界で現存するものを当てはめたものであり、これらの内発掘などで銭籍が確定しているものは長門銭、水戸銭の一部、および松本銭である。

寛永13年(1636年)銭座設置
  • 浅草銭/御蔵銭(あさくさせん/おくらせん):江戸浅草橋場の銭座で鋳造。
  • 芝銭(しばせん):網縄手で鋳造。「通」字の之繞および「永」字などの点が草書体となった「草点」のものが多い。
  • 坂本銭(さかもとせん):近江坂本で鋳造。「永」字が撥ねるものが多い。
寛永14年(1637年)銭座設置
  • 水戸銭(みとせん):常陸水戸で鋳造。
  • 仙台銭(せんだいせん):陸奥仙台で鋳造。
  • 吉田銭(よしだせん):三河吉田で鋳造。
  • 松本銭(まつもとせん):信濃松本で鋳造。「寳」が仰いでおり「斜寳」と呼ばれる。鋳銭を請負った今井家に書状と未仕上げの枝銭が残されており、(現在は松本市に寄贈され、松本市立博物館で展示されている。)その書体(「斜寶縮寶」)より、松本銭が確定した。               
  • 高田銭(たかだせん):越後高田で鋳造。
  • 萩銭/長門銭(はぎせん/ながとせん):長門美弥郡赤村で鋳造。
  • 岡山銭(おかやません):備前岡山で鋳造。
  • 竹田銭(たけだせん):豊後竹田で鋳造。従来「斜寳」が充てられていたが、松本銭であることが確定した。
寛永16年(1639年)銭座設置
  • 井之宮銭(いのみやせん):駿河井之宮で鋳造。井之宮銭とされていたものは発掘事実により岡山銭に変更される。「寛」字が小さく「縮寛」と呼ばれる。
承応2年(1653年)銭座設置
  • 建仁寺銭(けんにんじせん):京都建仁寺で鋳造。建仁寺銭とされているものは長崎鋳造との説もあり。
明暦2年(1656年)銭座設置
  • 沓谷銭(くつのやせん):駿河沓谷で鋳造。
  • 鳥越銭(とりごえせん):浅草鳥越で鋳造。

古寛永の総鋳造高については詳しい記録が見当たらず不明であるが、鋳銭目標などから推定した数値では325万貫文(32億5千万枚)とされ、この内、鳥越銭が30万貫文(3億枚)、沓谷銭は20万貫文(2億枚)との記録もある[6]

新寛永

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寛永通寳亀戸銭(文銭)

幕藩体制の確立と共に全国に普及、創鋳から30年ほど経った寛文年間頃には、永楽通宝をはじめとする渡来銭をほぼ完全に駆逐し、貨幣の純国産化を実現した。寛文8年5月(1668年)、江戸亀戸で発行されたものは、京都・方広寺大仏を鋳潰して鋳造したという噂が流布したこともあり、俗に「大仏銭」と呼ばれていた。また、裏に「文」の字があることから、文銭(ぶんせん)とも呼ばれていた。(表の「寛」の字とあわせて「寛文」となり、寛文年間の鋳造であることを表している。)

江戸亀戸に設立された銭座で、後藤縫殿助茶屋四郎次郎呉服師六軒仲間が請負って大規模に鋳造が行われ、発行された銭は良質で均質なものとなった。

新井白石は寛文8年(1668年)から天和3年(1683年)までの鋳造高を197万貫文(19億7千万枚)[7]と推測しているが、『尾州茶屋家記録』では213万8710貫文(21億3871万枚)としている[8]

新寛永

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品位の低下した元禄金の発行により銭相場が高騰し、元禄7年(1694年)に金一=4800文前後であったものが元禄13年(1700年)には一両=3700文前後となった[3] 。加えて経済発展により銭不足も目立ち始めたため、勘定奉行荻原重秀は銅一文銭についても量目を減ずることとし、量目がこれまでの一(3.7グラム)程度から七〜八分(2.6〜3.0グラム)程度とされた。元禄11年(1698年)からは江戸亀戸で、元禄13年からは長崎屋忠七、菱屋五兵衛ら五人の糸割符仲間が請負って京都七条川原の銭座で鋳造を行った。このときの銭貨は俗称荻原銭(おぎわらせん)と呼ばれる。荻原重秀はこのとき「貨幣は国家の造る所、瓦礫を以て之にかえるといえども行うべし。今鋳るところの銅は悪薄といえども、なお紙鈔に勝れり。之を行ひとぐべし。」と述べたとされる。

京都七条における元禄13年3月より宝永5年1月(1708年)までの鋳造高は1,736,684貫文(1,736,684,000枚)に上り、主に伊予立川銅山(別子銅山)の産銅が用いられた[9]

宝永5年(1708年)、江戸亀戸で鋳造されたものも小型のもので、四ツ宝銀のように質が悪いという意味から四ツ宝銭(よつほうせん)と呼ばれる[2]。(ただし、従来荻原銭および四ツ宝銭とされてきたものは別の時代の鋳造であるとの説も浮上している。)

正徳4年(1714年)、品位を慶長のものへ復帰した正徳金の発行を踏まえ、一文銭も文銭と同様の良質なものに復帰することとなった。このとき再び呉服師六軒仲間が請け負って亀戸で鋳造したとされるものが丸屋銭(まるやせん)、あるいは耳白銭(みみしろせん)であり、50万貫文(5億枚)が鋳造されたとされる。享保2年(1717年)には佐渡相川(背面に「佐」字)、享保11年(1726年)に江戸深川十万坪、京都七条、享保13年(1728年)に大坂難波、石巻、また詳細は不明であるが享保年間に下総猿江で鋳造が行われている。

元文2年(1737年)には前年(1736年)の品位を低下させた元文金の発行により、銭相場が一両=2800文前後まで急騰したのを受け銭貨の増産が図られ、これらの銭貨の背面には鋳造地を示す文字が鋳込まれるようになる。元文元年には深川十万坪、鳥羽横大路、京都伏見、元文2年には江戸亀戸、江戸本所小梅(背面に「小」字)、下野日光紀伊宇津、元文3年(1737年)には秋田銅山、元文4年(1738年)には深川平田新田、相模藤沢、相模吉田島、下野足尾(「足」字)、長崎一ノ瀬(「一」字)、明和4年(1767年)には肥前長崎(「長」字)、など各地に銭座が設置され、小型の銭貨が大量に発行された[1]。寛保元年(1741年)には摂津天王寺村の銀座役人徳倉長右衛門、平野屋六郎兵衛の請負った大坂高津銭座で元字銭(「元」字)が大規模に鋳造された。寛保2年(1742年)に勘定所は別子・立川両銅山の出銅の銅座分の五歩ほどずつを天王寺の銭座に渡すことを命じた。

江戸時代を通じた銅一文銭の総鋳造高は知る由も無いが、明治時代の大蔵省による流通高の調査では2,114,246,283枚としている[10]。しかしこの数値は鉄銭などとの引換に回収され安政年間に幕府庫に集積された数であり、既に述べたように鋳造高はこの程度にとどまるものではない。

鉄一文銭

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寛永通寳鉄一文亀戸銭

元文4年(1738年)には銭相場の高値是正および材料の銅の供給不足などから、江戸深川十万坪、仙台石巻、江戸本所押上などの銭座で鉄一文銭の鋳造が始まり、さらに明和2年(1765年)から金座監督の下、江戸亀戸、明和4年(1767年)から京都伏見、明和5年(1768年)からは仙台石巻(「千」字)、常陸太田(「久、久二」字)などの銭座で鉄一文銭が大量に鋳造され、銭相場は下落し安永7年(1778年)頃には一両=6000文前後を付けるに至った。

鉄銭は鍋銭(なべせん)とも呼ばれ製作も悪く不評であった。伏見鉄銭以降の鉄銭について「コレヨリ後出ル所ノ鉄銭皆其質悪シ、茶碗ノ欠ヲ入ルコトハ、寶永ノ大銭ヨリ初マリ、土ヲ入ル事ハ此銭ヨリ初ルトイヘリ[11]」、さらに「故ニカネノ音ハナシ」と揶揄されるほどであった。

天保6年(1835年)12月より天保通寳と同時に江戸深川で鋳造された鉄銭は洲崎銭と呼ばれたが、天保通寳が広く流通したため58,100貫271文(58,100,271枚)[6]と小額にとどまった。「寛」の字の「廾」部分が「十」となっている「十字寛」と呼ばれるものが洲崎銭であるとされる。

日米修好通商条約において日本の銅銭輸出の禁止が明文化されていたが、日本国内では洋銀1ドル=銅銭4,976文替の相場であったのに対し、中国では800〜1,000文であったため、安政6年(1859年)の開港に伴い、外商らは競って日本の銅銭を中国に輸出した。これに対抗して幕府は銅一文銭を回収し、銅一文銭一貫文に対し鉄一文銭および天保通寳を差交えて一貫五百四十八文と引換え、四十八文は両替屋に手数料として与えた[12]。このときの引き換え用に安政6年(1859年)9月より小菅において鉄一文銭520,000貫文(520,000,000枚)が吹立てられた。

鉄一文銭の総鋳造高は明治時代の大蔵省による流通高の調査により、6,332,619,404枚とされ[10]、中でも明和年間以降の鋳造高が特に多く、亀戸では2,262,589貫文(2,262,589,000枚)、伏見1,422,782貫文(1,422,782,000枚)、常陸太田690,500貫文(690,500,000枚)などとなっている[12][13]

真鍮四文銭

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鉄一文銭は見栄えも悪く不評であったことから川井久敬の建議により真鍮四文銭が制定され、明和5年(1768年)に江戸深川千田新田に銀座監督の下銭座が設けられ、四文銭が鋳造された。川井久敬が銀座に真鍮四文銭の鋳造を請負わせたのは、当時銀座にはおびただしい上納滞銀があり、これを幕府に返済させる手段としての理由があった[14]

背面に川井家の家紋である波を描きウコン色に輝くこの銭貨は波銭(なみせん)とも呼ばれ好評であった。量目は一匁四分(5.2グラム)、規定品位は銅68%、亜鉛24%、など8%であった。発行初年は二十一波のものであったが、鋳造に困難を来したため、翌年(1769年)からは簡略化した十一波に変更された。

文政4年(1821年)11月からは浅草橋場で四文銭の増産が行われた。このときのものは規定品位が銅75%、亜鉛15%、鉛など10%へ変更となり、赤みを帯びることから赤銭(あかせん)と呼ばれる。

安政4年(1857年)11月には江戸東大工町で四文銭の鋳造が始まり、規定品位が銅65%、亜鉛15%、鉛など20%となった。黒味を帯び、穿内にやすりがかけられ文久永寳に製作が類似するものがこれであるとされる。

真鍮四文銭の総鋳造高は157,425,360枚[10]、あるいは22,145,520貫文[6][13](何枚を一貫文とするか不明)と文献により大きく異なり、明和年間における吹高は一ヵ年に55,000貫文と定められ安永3年(1774年)9月には吹高を半減し、その後も随時減じたとの記録もあり、また文政年間の鋳造高は79,700貫文との記録もある[12]

安政年間に入ると當百銭、真鍮銭、一文小銭などの相場にはそれぞれ差異が生じ、幕府はたびたび額面通り滞りなく通用するよう触書を出すが市場において差別通用が止まず、慶應元年(1865年5月、ついに天然相場を容認し江戸市中両替屋で銅小銭、真鍮銭に対し増歩通用を認めるに至った[12]。このとき鉄一文銭を基準として以下のような相場となった。天保通寳については従来通り100文で通用するよう申し渡した。

  • 文銭および耳白銭:6文
  • その他寛永通寳銅一文銭:4文
  • 寛永通寳真鍮當四文銭:12文
  • 文久永寳當四文銭:8文

慶應3年(1867年)、幕府はすべての銭貨を天然相場に委ねることとしたが、銅銭および真鍮銭の相場はさらに上昇した。

鉄四文銭

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寛永通寳精鉄四文銭

万延元年12月(1861年)から四文銭も鉄銭として発行されるようになった。幕府は特に精錬した鉄地金を用いた精鉄四文銭(せいてつしもんせん)であることを強調したが、評判は悪く、鋳銭に関して損失が出るなどしたため発行は少数にとどまった。このときの銀座による鉄四文銭の鋳造高は101,887,062枚とされる[10]

万延元年からは東大工町、慶應元年(1865年)からは水戸(「ト」字)、慶應2年(1866年)からは陸奥大迫(「盛」字)、石巻(「千」字)、深川十万坪(「ノ」字)、慶應3年(1867年)からは安芸広島(「ア」字)でも鋳造された。

明治以降

以上のように江戸幕府が発行した寛永通宝であるが、明治以降も補助貨幣として引き続き通用した。

倒幕後、慶應4年閏4月14日(1868年)、新政府は銅銭の海外流出、銅地金の高騰、さらに市場での相場の実態を踏まえて、太政官布告第306号により鉄一文銭に対する銅銭および真鍮銭の増歩をさらに引き上げ以下のよう定めた。

  • 寛永通寳銅一文銭:12文
  • 寛永通寳真鍮當四文銭:24文
  • 文久永寳當四文銭:16文
  • 天保通寳當百文銭:96文

精鉄四文銭については2文程度の通用価値となった。明治2年7月10日太政官布告第633号では金1両は銭10貫文と定められた。

明治4年には新貨条例が制定され、円・銭・厘の通貨体制に移行したが、以降は次の額で通用した。

明治4年12月19日太政官布告第658号
  • 寛永通寳銅一文銭:1厘
  • 寛永通寳真鍮四文銭:2厘
明治5年9月24日太政官布告第283号
  • 寛永通寳鉄一文銭:1/16厘
  • 寛永通寳鉄四文銭:1/8厘

このうち銅銭・真鍮銭は引き続き通用した。特に明治政府は1厘貨幣をあまり発行しなかったため、1厘単位の貨幣として主な役割を果たしたのは寛永通宝であった。鉄銭については、明治6年12月に太政官からの指令で、勝手に鋳潰しても差し支えないとされ、事実上の貨幣の資格を失った(法的には明治30年9月末まで通用)。インフレーションにつれて利用頻度は下がっていったものと思われるが、法的には昭和28年末に小額通貨の整理及び支払金の端数計算に関する法律が施行されるまでは通用した。以降はコイン収集家による収集対象となるのみである。

香川県観音寺市には銭形砂絵があることから寛永通宝が観光資源として位置づけられており、2010年(平成22年)年4月4日から市内の地域通貨として寛永通宝(銅一文銭)を使用できるようになった。市内の使用可能店で1枚30円で使用でき、商店は市の町おこしグループ「ドピカーン観音寺実行委員会」に持ち込めば1枚30円で換金できる[15][16]。ただし、寛永通宝は本物であれば多く出回っているものでも一枚10円程度、珍品なら数百万円するといわれており(下記外部リンク参照)、一枚30円として使用してしまうには注意が必要である。

その他

常陸国飯塚伊賀七は、寛永通宝を用いたそろばんを発明した[17]

参考文献

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琴弾公園の銭形砂絵

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関連項目

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外部リンク

  • 1.0 1.1 小川吉儀 『新寛永銭鑑識と手引き』 万国貨幣研究会、1966年
  • 2.0 2.1 『新訂 貨幣手帳・日本コインの歴史と収集ガイド』 ボナンザ、1982年
  • 3.0 3.1 三井高維編 『新稿 両替年代記関鍵 巻二考証篇』 岩波書店、1933年
  • 増尾富房 『古寛永泉志』 穴銭堂、1971年
  • 青寳楼小川浩 『寛永通寳銭譜』 日本古銭研究会、1967年
  • 6.0 6.1 6.2 『図録 日本の貨幣・第2巻』 東洋経済新報社、1973年
  • 新井白石 『折たく柴の記
  • 滝沢武雄 『日本の貨幣の歴史』 吉川弘文館、1996年
  • 小葉田淳 『貨幣と鉱山』 思文閣出版、1999年
  • 10.0 10.1 10.2 10.3 『新旧金銀貨幣鋳造高并流通年度取調書』 大蔵省、1875年
  • 草間直方 『三貨図彙』
  • 12.0 12.1 12.2 12.3 小葉田淳 『日本の貨幣』 至文堂、1958年
  • 13.0 13.1 『日本の貨幣-収集の手引き-』 日本貨幣商協同組合、1998年
  • 田谷博吉 『近世銀座の研究』 吉川弘文館、1963年
  • 「寛永通宝」で買い物楽しむ/観音寺お宝市 四国新聞社 2010年4月6日午前9時26分
  • 「寛永通宝」でお買い物/観音寺、地域通貨に 四国新聞社 2012年2月16日午前9時35分
  • 茨城地方史研究会 編『茨城の史跡は語る』瀬谷義彦・佐久間好雄 監修、茨城新聞社、平成元年12月30日、317pp.