大砲

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大砲(たいほう)は、火薬の燃焼力を用いて大型の弾丸を高速で発射し、弾丸の運動量または弾丸自体の化学的な爆発によって敵および構造物を破壊・殺傷する兵器武器)の総称。火砲(かほう)、とも称す。

概要

これに分類される火器は重火器であり、よりも口径が大きい物とされる。ただし、このと砲との境界となる口径のサイズは軍や時代によって異なる。数える際の単位は挺ではなく"門"である。一般的には「銃よりも威力(殺傷力や破壊力)の大きく、個人では扱えない大きな火器」と認識される。大砲の弾を砲弾といい、大砲を専門に扱う兵を砲兵、特に発射する人を砲手という。

大砲の役割は敵を容赦なく攻撃し、防御の壁を打ち砕くことにある。こういった大砲の威力を決定づける要素とは、『射程』『精度』『発射速度』『機動性』の4つである。

歴史

前史

テンプレート:Seealso カタパルトトレビュシェットバリスタのように、機械的な力によって弾丸を放出する兵器は古代から存在した。それらは射程を伸ばすために「捻れ」や「回転」といった物理の法則原理を応用していた。「捻れ」によって得たエネルギーをロープに伝えることが重要だったのだ。初期の大型兵器は石などを遠くに飛ばす為この力を利用した。アームの部分を引くとロープが捻れて力が加わりエネルギーを蓄えられ、あとは金具を外すだけでその瞬間に力が解放される。2m近い巨大な矢、そして石の塊が、遠く離れた敵を容赦なく襲った。その為バリスタやカタパルトが戦場に姿を現すと、敵は恐れおののき、震え上がったという。

中世

中国では1259年南宋テンプレート:仮リンクで開発された実火槍と呼ばれる木製火砲が最も早い時期の物とみられる、また1332年には大元統治下で、青銅鋳造の砲身長35.3cm口径10.5cmの火砲が製造され、元末に起きた農民蜂起でも多数使用された。中央アジア西アジアでもティムール軍がイランイラク地域の征服、オスマン帝国バヤズィト1世ジョチ・ウルスのトクタミシュとの戦役において攻城用の重砲と野戦用の小口径火砲を用いている。

ファイル:EarlyCannonDeNobilitatibusSapientiiEtPrudentiisRegumManuscriptWalterdeMilemete1326.jpg
西洋最古の大砲の記録図, De nobilitatibus sapientii et prudentiis regum, Walter de Milemete, 1326

西欧世界で現存する最古の火砲的な物の記録図は、14世紀(1326年)[1]イギリススコラ学en:Walter de Milemeteの手稿にあるスケッチには、細長い矢のような物を打ち出す砲のようなものが描かれている。ただし、これは実際に作られたかどうかも、実戦で使われたかどうかも不明である。その後西欧では一世紀以上を経て東方の技術が伝わり、現在のような形へ改良される。つまり、矢状の投射物ではなく球形の砲丸を発射するための、太さが均一な管の形をした大砲は、西欧では15世紀の初頭ごろから見られるようになったという事だ。この時代の大砲は射石砲またはボンバード砲と呼ばれ、石の砲丸を発射するものだった。15世紀半ば頃までには、西欧にも火砲の革新が伝わった。砲丸を大きく、射出速度を速くして投射物に巨大な運動量を与えるためには、多量の装薬の爆発に耐えうる強靭な砲身が必要であるが、その強度を得るために鋳造によって一体成型された大砲が、この時期に一般的に作られるようになった[2]

高い破壊力を持った重砲の発達によってそれまで難攻不落であった防衛設備を短時間のうちに陥落させることができるようになり、防衛側と攻撃側の力関係の変化を生じさせた。1453年にオスマン帝国によるコンスタンティノポリス包囲戦という歴史的出来事が起きたが、それには口径の大きな重砲が決定的な役割を果たしている。また、百年戦争末期のノルマンディーボルドーからのイギリス軍の撤退においても火砲は重要な役割を果たした。

さらに15世紀後半には、石の弾丸に替わる製の弾丸や、燃焼速度の速い粒状の火薬などの新テクノロジーの発達もあり、また小型で軽量ながら馬匹で運搬可能な強力な攻城砲も出現した[3]。ちなみにそれ以前までの攻城砲は巨大なカスタムメイドの兵器であり、たとえばコンスタンティノープルの城壁を打ち破ったウルバン砲は戦場のその場で鋳造されていた。

近代的な意味での大砲は15世紀末までにはほぼ完成を見ており、1840年代までは瑣末な改良を除いて本質的には同じ設計のものが使われつづけた。1494年ナポリの王位継承権を争ってフランスシャルル8世イタリアに侵入したとき、フランス軍は牽引可能な車輪付砲架を備えた大砲を引き連れていた。この大砲は旧来の高い城壁を一日の戦闘で撃ち崩してしまった[4]。それによって、盛り土の土塁によって大砲の撃力を吸収することを目的とした築城術の革命を引き起こした。

また、大砲の発達は海上戦闘に対して、地上戦闘とは違った革命的な変化をもたらした。船舶同士の戦いでは衝角を装備しての敵船体への体当たり攻撃および敵船に乗り移っての白兵戦が古来の戦法であったが、これに大砲が加わる事となった。当時の艦載砲の威力では船体を完全破壊する事は不可能であったが、自立航行が不可能になるまで損傷を負わせる事や、白兵戦の前段階として敵艦の兵を死傷させる事は可能であった。16世紀の西地中海においてオスマン帝国が常に制海権を握り続けたのは、船舶の性能差もあるが、それよりも大砲の性能差による部分が大きかったといえる。また1571年レパントの海戦においても、スペインを中心とした連合軍による、地中海の覇者オスマン帝国の撃破には大砲の火力が大きく貢献していた。

こういった兵器は仕組みは原始的だが、敵に対して心理的にもダメージを与える事が出来る事を、古代や中世の砲兵達は十分に知っていたようだ。その凄まじい威力のために、その砲火にさらされた兵士達は敗北を予測してしまい、精神面で負けて絶望感を抱いてしまうだろう。ただでさえ精神的にかなりのダメージを負った兵士にとって、弾が飛んでくる音は、恐怖の象徴であり、それは古代の石も現代の砲弾も同じであった。狙われたら抵抗する術はない、正に最強の兵器と想像せざるを得ない状況にあったものも居ただろう。勇敢な兵士達の気力を抉いて戦うことを諦めさせてしまう、大砲にはそれほどまでに恐ろしい破壊的な威力があるのだ。

近世

近世では大砲は野戦での活用も行なわれるようになる。性能を敢えて抑えるという設計指針に基いて砲身の軽量化や砲架の改良がなされ、また榴弾ぶどう弾といった軟目標に有効な砲弾も用いられ始めた。なにより中央集権化による富と権力の集中は、それまで高価で数を揃えられなかった大砲の配備数を大きく増やすことに繋がり、大砲は戦場における重要な地位を占めることになる。18世紀にはグリボーバル・システムにより、大砲の規格化と工業化が更に推し進められた。

近代

近代に入り、産業革命が起こる。製鉄技術の向上によって、鋳鉄製大砲の出現や、砲身のライフル穿孔、後装式の実用化が行なわれた。

以前の大砲は、砲撃を行なう度に反動によって砲全体が後退してしまうために、再び狙いをつけて砲撃するためには元の位置へ戻す必要があり、そのため近代以前の大砲は連続した砲撃を行うことができなかった。また大砲自体が動いてしまっては精度は保証されず、いくら狙いを定めても砲弾は別の場所へ飛んでしまう、といった欠点も長らく存在していた。ところが、1840年代ごろから研究され実用化された駐退機の登場によって、砲身だけを後退させることによって発射の反動を吸収し、砲自体の位置を後退させずに済むようになり、砲撃のプロセスをより高速に遂行可能になった。また銃の精度を高める技術の進歩には、銃身のライフリング技術が大きな転機となった。銃身内部に施された螺旋状の溝に沿って銃弾が回転することにより発射後の軌道は格段に安定した。この原理は大砲にも用いられ、砲身にライフリングを施すことで精度、速度、射程は飛躍的に向上した。こういったタイプの大砲が戦場に登場したのは南北戦争からであった。産業革命がもたらした革新的技術を引っさげた大砲は、それまでのものとは比べものにならない位の精度を見せ、敵を駆逐した。

例を挙げると、3インチオードナンス砲は1km以上先の納屋も狙えたという。それよりも古い前装式の12ポンドナポレオン砲でも納屋自体は破壊できるが、3インチオードナンス砲は納屋の窓まで狙えるのだ。これは当時驚愕の性能であっただろう事は、疑いようがない。

その後ライフリングを施した大砲が大量生産された。大量に生産された鋼の兵器は以前のカスタムメイドのものとは違い規格が統一されている事も大きな特徴だ。その分砲兵の腕前への依存度は減り、大砲の精度も高まった事で集中的な攻撃もより安易に可能となった。

また以前の前装式に代わって、後装式の大砲が実用化された事によって、装填する為の時間が短縮された。火薬→砲弾と分けて装填せず、それらを一気に装填することが可能となった為、後装式大砲の装填速度は前装式のそれとは比較にならないものだ。実は後装式は新しい発明ではなく、15世紀には既に登場していた。問題は当時の後装砲の砲尾は気密性に欠けていた。初期の後装砲は砲尾で燃焼ガスが漏れて砲兵の傍で爆発する事があった。敵ではなく自分達の大砲に殺されるとは、ひどい話である。

後装式の大砲が登場したのは、南北戦争の頃で、主流はイギリス製のホイットワース砲である。ホイットワースのデザインは素晴らしく、前装式でも後装式でも使用に耐えうるデザインだった。砕いて言えば、砲身の後部にスクリューがあり、それを回して砲尾を開け、装填し、スクリューを逆に回して閉める、といった仕組みである。改良された後装砲によって安全性が向上した。その後様々なデザインが考案され後装砲が次々に世に出されることとなる。ガス漏れ対策も確立され、砲兵は以前よりよっぽど安全な物となった。テンプレート:Seealso テンプレート:節stub

第一次世界大戦~第二次世界大戦

第一次世界大戦の犠牲者のおよそ7割はは大砲による死者であった。この大戦中大砲は更に破壊力を増していく。大砲は第一次世界大戦でその威力を世界に知らしめていった。正に大砲のぶつかり合いだった。どの陣営も容赦ない攻撃を繰り返していた。大砲が攻撃の主流になり、火力が勝敗を左右する。兵士個人の能力は皆無だった。

速射砲が用いられたのはこの頃でM1897 75mm野砲18ポンド野砲77mm野砲、何れも破壊力十分だが、特に注目すべき大砲がある。その誕生以来全ての大砲のデザインに影響を与え続けてきた兵器、それは、フランスのM1897 75mm野砲。新世紀の兵器である。

第一次世界大戦の泥沼の膠着戦が続く中、圧倒的な火力が何よりも求められていた。標的を徹底的に破壊する力だ。75mm野砲も他の速射砲も、抜きん出た決定力とはならなかった。強迫観念の様に、とにかく大砲は大きくなっていった。やがて軍艦に16インチ砲が搭載されるようになっていく。包囲戦ではとにかく、ただひたすら敵への攻撃を続けなければならない。相手が音を上げれば勝利できるからだ。相手を凌ぐには大きな大砲が必要だった。より大きな榴弾砲は包囲戦でも強力な火力をもたらした。榴弾砲はより高い位置から、より鋭い角度で敵地に砲弾を落とすことが出来た。容赦ない攻撃を受ける中、兵士たちの心にも疲れが見え始める。イギリス人は戦闘ストレス反応(シェルショック=砲弾によるショック)という言葉で表した。近くで砲弾が破裂したからだ、と信じているからだ。心理的ダメージかなり大きく激しい砲撃を受けたのが原因で、シェルショックはその体験の現れだった。


第二次世界大戦では、砲撃は更に激しさを増し、動きも速くなった。塹壕戦に対処するための戦術は、この時代においては過去のものとなっていった。各国で第一次世界大戦の教訓を生かされ、あらゆる種類の火器が進化していった。

大砲はタイヤ付きとなり、精度も、速度も増した。大きさを増した大砲の反動にも対応した。こういった中、伝説的な大砲が生まれる。何キロも離れた場所から激しい攻撃が出来る凄まじい兵器だ。ドイツ軍の電撃戦を支えてきたものに、88mm高射砲があった。元々は航空機を狙うための兵器である。狙う標的は、およそ10,000m上空、重さ9kgの砲弾を秒速およそ800m発射可能だった。戦車も相手に戦える大砲で2km先からでも厚さ7cm以上ある装甲を突き破る力があった。真の「タンクキラー」と言えよう。

第一次世界大戦のフランスの大砲をベースに米軍も強力な大砲を開発、155mmカノン砲M2である。

これらの兵器が直面したのは、常に戦況が変わっていく中でどの様に対応していくか、という問題だった。この大戦では「移動」が重要だった。第二次世界大戦の大砲の多くは牽引車で運ばれていた。その際、車輪が付けられているものは、戦場でも楽に移動ができた。しかし状況が目まぐるしく変わる戦場に、牽引による移動では限界がある。そこで高い機動性を実現した大砲が登場した。自走式の大砲である。第二次世界大戦の象徴となるものであり、その先駆けとなるものは第一次世界大戦末期に少数ながら登場していた。それまで牽引していた大砲が独力で移動するようになった。エンジンが付いた車体に乗せられて動き出す。これで起動性が高くなり、戦車にも追いつくので機動戦にも十分対応出来る様になった。代表的な自走砲は米国のM7自走砲(プリースト)英国のセクストン自走砲がある。標準的な大砲を装備して、道を進んだ。戦車とも一緒に行動出来る様になった。

第二次世界大戦開戦当時、ドイツの大砲を引いていたのは馬だった。戦車に追いつけないのは言うまでもない。ドイツは自走式の大砲が必要と考え、実際に造ってみた。フランスの戦車に、ロシアの大砲を付けてみるというアイデアがそこで生まれた。つまり改造して自走砲を造っていたということ。無謀なようであるが、これが結構うまくいった。1.5cm程の装甲板を繋ぎ合わせ、囲いを作った。砲兵を保護するためである。溶接は大雑把で、見た目はそれほど重視していない。前の部分はボルトで締めてある。作るのは比較的簡単だったのであろう。即席で作られた自走砲だが、ノルマンディー上陸作戦後のフランスでの戦いに使われていた。激しい戦いだった。

また移動においても陸上を進むだけではなく、空を行くことも可能になった。大砲は空輸が可能となり、敵地に乗り込む空挺部隊で運用されるようになる。大砲は応用の利く兵器で、第二次世界大戦でも時代の要請に応えた。1944年ノルマンディー上陸作戦マーケットガーデン作戦を通して、連合軍の空挺部隊は敵陣へと空から降り立った。輸送機で空挺部隊を空へ運ぶことが出来るのだから、大砲も輸送機で運べる大きさにすれば良い。必要な場所に直接送る方法を採用した。6ポンド砲、17ポンド砲、40mm対空機関砲、更に75mm榴弾砲も送った。これらの大砲は敵地で孤立している空挺部隊にとって心強い味方となった。敵に囲まれた空挺部隊の為、あらゆる種類の大砲が必要な場所に送られた。抑えら耳をつんざくような轟音を放つ戦場の王者・大砲は、陸上だけで戦っているわけでは無い。発射の反動をれるものは土台として役に立つ。また攻守の要として、少数だが輸送機に大砲を装着するようになった。輸送機の強度が十分であれば、大砲を搭載することも難しいことではない。とは言え、やはり動く標的を狙うのは難しく大砲の出番は特別な作戦のみに限られていた。しかし敵に気づかれることなく30km以上の距離から30秒ごとに何度も攻撃するとしたら話は変わっていくかもしれない。

戦艦の艦砲射撃は海での戦いを制するために発達してきた。第二次世界大戦までに海に浮かぶ火力として戦艦用の大砲の数々が無数の砲弾を発射、強烈な攻撃を繰り返しその強さを見せつけていた。海における砲撃は陸での砲撃とは異なっていた。陸より海での砲撃が複雑な問題を抱えている。発射台自体が動いている戦艦であり、標的も常に動いていて照準が定めにくい。また、何もない大海原では敵との位置関係が把握しづらいのだ。第二次世界大戦期、アイオワ級戦艦による攻撃は群を抜いて激しいものだった。アイオワ級戦艦の中で武勲誉れ高いのは戦艦ニュージャージーだ。大きな艦砲が付けられたのは第一次世界大戦の頃からで、水平線の敵も攻撃できるようになり、標的を見定め、狙いを付け、弾着点を見極めることが生死を決する。遥か彼方の敵を見定めるため、兵士たちは時に高性能の測定器を使い、時に航空機を使う。観測用の航空機を利用することでより正確な砲撃を行えた。強烈な破壊力をもつ艦砲は、戦いの行方を十分左右するものだった。

一方陸で使用される巨砲には問題があった。第一次世界大戦では鉄道を利用した巨大な列車砲がぶつかり合った。考え方としては理解できる。より大きな大砲を使えば、膠着状態の打破が期待できるからだ。ドイツ軍が作った当時最大の長距離砲「パリ砲」効果はさほどではなく、「恐怖の象徴」ともいうべきだった。第二次世界大戦でも巨砲は進化し続けていた。ヒトラーとその側近たちは、政治的宣伝効果を重視してどこまでも巨大な大砲のデザインを追求していった。中でもクルップK5 80cm列車砲(名称:ドーラ/グスタフ)は高性能の列車砲の一つである。

ベトナム戦争

ベトナム戦争でも大砲を運ぶことが望まれ、ヘリコプターの開発が進むと、従来では運搬が困難だった場所も運べるようになった。この時も大砲と砲兵のチームが、激戦地で戦う兵士たちの支援戦闘のため、空から降り立った。ケサンの戦いにおいても、正確な対砲兵射撃を行い味方の部隊を守る活躍をみせる。敵から味方を守る「鉄の壁」を作ってくれたのは大砲だった。こういった大砲を時に大陸を越えてまで戦場へ輸送出来るか否かは、今日の戦闘においても勝敗に大きな影響を与える。抑えら耳をつんざくような轟音を放つ戦場の王者・大砲は、陸上だけで戦っているわけでは無い。発射の反動をれるものは土台として役に立つ。

日本での歴史

ファイル:Shinagawa Baidai cannon.jpg
幕末期、外国勢を迎え撃つために、品川台場に設置されていた80ポンド青銅製カノン砲(口径250mm、砲身長3830mm)

1576年(天正4年)、大友宗麟ポルトガル宣教師より石火矢フランキ砲)を入手し「国崩し」と名付けたのが日本における最初の大砲とされる。以後、石火矢は火縄銃を大型化した大筒大鉄砲)と共に海戦・攻城戦において構造物破壊に用いられる。なお日本では快速機動の重視や起伏の多い地形の為、重量がかさばる大砲の野戦における運用は殆どなされていない。

1614年(慶長19年)には大坂の陣に備えて、徳川家康イギリスオランダより大口径の前装式青銅砲カルバリン砲等)を購入している。これらは後に国産化され、和製大砲となる。

1639年(寛永16年)には江戸幕府が前年の島原の乱における戦訓から、榴弾とそれを運用する臼砲の供与をオランダ商館に求める。ハンス・ヴォルフガング・ブラウンが平戸で臼砲を製造して江戸にて試射を行っている。1650年(慶安3年)にもユリアン・スヘーデルによる臼砲射撃が江戸で行なわれている。

これ以降、日本では大規模な戦乱がなくなり、大砲の発展も停滞する。

幕末に高島秋帆徳丸ヶ原(現高島平)で日本最初の近代砲術訓練を行ったとされる。 テンプレート:See also テンプレート:節stub

大砲の分類

大砲はその形状・構造や用途・歴史的経緯等によって様々な分類がある。なお、やや銃との口径の差異が不明確な機関銃でも「砲」と名の付く種類の物も、他の大口径の機関砲に分類される事もあるため便宜的に記載する。

用途等による分類

テンプレート:Multiple image 用途、歴史的分類による種別は以下の通り

テンプレート:-

射程と弾道による分類

テンプレート:射程と弾道による大砲の分類

構造による分類

  • ライフル砲
    砲身の内側の螺旋条により、砲弾の飛翔時に回転を加えることによって、弾道の安定を図る方式の砲
  • 滑腔砲
    砲身の内側が滑らかになっている砲、初速が高いのが特徴
  • ゲルリッヒ砲
    砲尾から砲口にかけて口径が小さくなってゆく砲。口径漸減砲とも呼ばれる
  • 多薬室砲(その形状からムカデ砲とも呼ばれる)
    通常は尾栓側に入れられた装薬の力によって砲弾を発射する所を、複数の薬室を設け段階的に加速する事で射程の延長などを目指した砲

砲兵

テンプレート:Main 大砲を専門に運用するための軍隊兵科を砲兵と呼ぶ。

砲弾

テンプレート:Main 大砲に使われる弾を砲弾と呼ぶ。大砲自体の発展に加え、改良が望まれた砲弾も殺傷力を高めるために進化していく。初期の砲弾は固い石が使われていた。そして徐々に殺傷力を向上させ、金属の砲弾や中に爆薬を仕込んだ砲弾が登場した。カノン砲の砲弾は主に実体弾を使用していた。実体弾は標的や要塞に対して、破壊力を十分に発揮する。砲弾には炸薬が詰められていて、時限信管が付いている。砲身から発射されると、その時に点火される。発射された後、爆発して粉々になる。1784年イギリスの砲兵ヘンリー・シュラプネルが榴散弾という画期的な砲弾を生み出した。殺傷能力が桁違いでシュラプネルの名が榴散弾の別名になっている程である。更にアルフレッド・ノーベルの爆薬の開発により、砲弾は飛躍的に進化する。これにより砲弾が爆発する際の殺傷能力が高まった。軍でも爆薬の開発に勤しみ、コルダイトなどの爆薬が誕生した。爆発物としての性能が実に高く、破壊力も著しく向上した。

この様に砲弾は、発射される際に得た運動エネルギーによって破壊、殺傷効果を及ぼす運動エネルギー弾と、命中時に爆発することで被害をもたらす化学エネルギー弾に大別される。

逸話

  • ガリレオ・ガリレイは、大砲の弾道学を研究した。
  • 世界最初のコンピュータのひとつであるENIACは火砲の弾道計算の目的で製作された。
  • 大砲を製造する技術・資材のない土地では、木砲を製作して利用することがあった。木砲とは、砲身を一つの丸木からくりぬくか、または複数の木材を組み立てて形成し、周囲をのたがやロープで幾重にも巻いて補強したものである。金属製の大砲と比べ使用できる発射薬の量も砲身命数も当然大きく劣る。砲身を英語でと同じbarrelと呼ぶのは、木砲作りに樽作りの技術を応用した名残といわれる。有名な話としては、日露戦争の際旅順の戦いにおいて日本軍は木砲を造り使用したという話も残っている[注 1]
  • 「弾丸(球)を遠くに運ぶ」というイメージから野球において頻繁に本塁打を打つ打者又は強打者のことを表す言葉としても用いられる。日本人の強打者は和製大砲とも呼ばれる。
  • 楽器として用いられることもある。よく知られているものはチャイコフスキー作曲の「序曲1812年」だが[5]、それ以前にベートーヴェンの「ウェリントンの勝利」にも使われている。どちらの曲にも、楽譜上に“Cannon”等のように楽器指定されている。
陸上自衛隊の音楽隊が観閲式などで「序曲1812年」を演奏する際には、特科部隊が音楽隊へ編入され、本物の大砲により空砲を撃つ。この演奏に使われるのは、旧式のM101 105mm榴弾砲である[6]。2007年の富士総合火力演習では現役装備である155mm口径のFH70を使用したが、発砲音が強力過ぎて演奏者や聴衆の聴覚が麻痺したため、失敗に終わった[7]

脚注

注釈

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出典

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参考資料

関連項目

外部リンク

テンプレート:Sister

  1. マクニール p.114
  2. マクニール p.117
  3. マクニール p.120
  4. マクニール p.121
  5. ダイアプレス P72
  6. PANZER P79
  7. ダイアプレス P73


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