徳丸ヶ原

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徳丸ヶ原(とくまるがはら)は、現在の東京都板橋区高島平及び三園新河岸の大半の地域に相当する江戸幕府天領、及び地域の総称である。東西1.4km、南北0.8km。地名としては、西台、徳丸本、徳丸脇、四ツ葉、下赤塚、上赤塚、成増などがあった[1]

地理

ほぼ現在の高島平に相当する地域であるが、板橋区三園と新河岸の大半を含む。即ち、荒川以南、白子川以東、東京都道447号赤羽西台線以西、西台徳丸以北の全域である。

歴史

徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあり、古くは名族豊島氏の支配下にあったが、その後千葉氏の支配下に置かれた。千葉氏と豊島氏の争いが太田道灌の援助を受けた千葉氏の勝利に帰して後は、間接的に後北条氏の管理下におかれたようである。

江戸時代は志村ヶ原(志村の原、下の原)に続く広大な平原として幕府の鷹狩場に指定されていた。徳丸のふもとに広がる荒原として「徳丸が原」と称された。その後一般に「徳丸ヶ原」と表記されたが、公式文書には「徳丸原」と記されたようである。そもそもが荒川の後背湿地であり、腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒原だったことから耕作にも適さず、おもに幕府の鷹狩場や砲術訓練所として利用されていた。

1841年高島秋帆による砲術訓練が行われたことから、以降全国的に「徳丸ヶ原」の名称が定着した。明治に入り、豊富な荒川の水資源を頼りに耕地化が進み、「赤塚田んぼ」「徳丸田んぼ」と称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割を生産するなど、東京屈指の米どころに発展した[2]

転換点

23区内で最後まで残った水田地帯も、付近の住宅化による家庭排水の流入や地下水の枯渇などにより耕作に不適な状況となってきた。1956年に日本住宅公団(後の独立行政法人都市再生機構)が大規模団地・徳丸ヶ原ニュータウンテンプレート:要出典(後の高島平団地)を計画し、土地区画整理事業が施行された。従前の居住者が僅少だったことから順調に進み、また都営地下鉄6号線(後の都営三田線)が建設された。1969年には高島秋帆にちなんで一帯を高島平と改称し、現在に至る。高島平駅の北に「徳丸ヶ原公園」があり、公園名にその名を残している。

脚注

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関連項目

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  1. 板橋区教育委員会発行『いたばしの地名』1995年
  2. 板橋区郷土資料館発行『高島平』1998年