大友義鎮

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九州旅客鉄道(JR九州)大分駅府内中央口ロータリーにある大友宗麟像
ファイル:Oita otomo sorin at jingujiura.jpg
神宮寺浦公園(大分県大分市)にある大友宗麟像
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大友宗麟公像(大分県津久見市)
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臼杵城跡(大分県臼杵市)にある大友宗麟公像(レリーフ)

大友 義鎮 / 大友 宗麟(おおとも よししげ / おおとも そうりん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将豊後戦国大名キリシタン大名大友氏第21代当主。宗麟法号で知られている。

大友氏は鎌倉時代から南北朝時代にかけて少弐氏島津氏とともに幕府御家人衆の束ね役として権勢を振るい、室町時代に入ってからは大内氏の進出に対し少弐氏と結び抗争している。

父は大友家第20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘とされるが、周防大内氏家督を継いだ大内義長と異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か家臣の娘が母とする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。弟に大内義長、大友塩市丸大友親貞など[1]。子に大友義統(吉統)、親家親盛など。

海外貿易による経済力と優れた武将陣、巧みな外交[2][3]により版図を拡げ、大内氏や毛利氏をはじめとする土豪・守護大名などの勢力が錯綜する戦国の北九州東部を平定した。

当初は禅宗に帰依していたが後にキリスト教への関心を強め、ついに自ら洗礼を受けた。最盛期には九州六ヶ国に版図を拡げた。しかし「キリシタン王国」建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉傘下の一大名に甘んじて豊後一国までに衰退した。

生涯

家督相続

享禄3年(1530年)1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国府内に生まれる。守役は重臣・入田親誠が務めた。

父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して、守役の入田親誠と共に義鎮の廃嫡を企んだ。天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派の粛清を計画したものの逆にそれを察知した義鎮派重臣、津久見、田口らが謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し義鑑も負傷して2月12日に死去するという政変(二階崩れの変)が起こる。そのため義鎮が義鑑の遺言により大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は「義鑑暗殺」の首謀者として粛清された。

勢力拡大

天文20年(1551年)に周防国大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符を打つと共に北九州における大内家に服属する国人が同時に大友家にも服属することになり、周防・長門方面にも影響力を確保した。特に博多を得たことは、大友家に多大な利益をもたらした。

また復権を目論む叔父の菊池義武の反乱をしりぞけ、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後の勢力も確保した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したためこれが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年(1553年)に一萬田鑑相(のちに側室となる一萬田夫人や一萬田鑑実の父)、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど(姓氏対立事件)義鎮の治世は当初から苦難の多いものであった。

さらに弘治3年(1557年)、大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失ってしまう。元就が北九州に進出してくると義鎮は毛利氏との対立を決意し、これと内通した筑前の秋月文種を滅ぼすなど北九州における旧大内領は確保することに成功した。天文23年(1554年)に室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化していた義鎮だが、永禄2年(1559年)には義輝に多大な献金運動をして、同年6月には豊前国筑前国守護に任ぜられ同年11月には九州探題に補任された。永禄3年(1560年)には、左衛門督に任官する[4]。このように義鎮は名実共に九州における最大版図を築き上げ、大友氏の全盛期を創出したのである。しかし、永禄5年(1562年)には、門司城の戦いで毛利元就に敗れた。同年に出家し休庵宗麟と号す。その後も足利将軍家には多大な援助を続け、永禄6年(1563年)には足利義輝の相伴衆に任ぜられ、永禄7年(1564年)には義輝に毛利との和睦の調停を依頼して実現するなど関係は密であった。

敗戦

毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、和睦は破れる。永禄10年(1567年)、豊前国や筑前国で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起しこれに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させた。また、この毛利氏との戦闘の中で宗麟は宣教師に鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請し、その理由として「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出している。永禄12年(1569年)、肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため自ら軍勢を率いて侵攻するが元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして多々良浜の戦い (戦国時代)で毛利軍に打撃を与える一方で、重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘に水軍衆の若林鎮興を付け周防国に上陸させて毛利氏の後方を脅かし、元就を安芸国に撤退へと追い込んだ(大内輝弘の乱)。

元亀元年(1570年)、再度肥前国に侵攻するが今山の戦いで龍造寺隆信に弟の大友親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。その後も筑後国や肥前国の反龍造寺勢力を扇動するも、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことはできなかった。

天正4年(1576年)、家督を長男の大友義統に譲って丹生島城(臼杵城)へ隠居する。このときから義統と二元政治を開始した。

天正5年(1577年)、薩摩国島津義久日向侵攻を開始すると、宗麟も大軍を率いて出陣した[5]。 しかし天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。さらに天正7年(1579年)頃からは、蒲池氏草野氏黒木氏などの筑後の諸勢力が大友氏の影響下から離れ、また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗り、正式にキリスト教徒となった。以後、家臣へ宛てた書状の中などでは自身の署名として「府蘭」を用いている。

衰退から最期へ

耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎさらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。宗麟は本州で大勢力となった織田信長に接近し、島津氏との和睦を斡旋してもらう。さらに信長の毛利攻めに協力することなどを約束していたが、本能寺の変で信長が倒れたことによりこの和睦も立ち消えとなった[6]

天正12年(1584年)に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が義久の弟の島津家久に大敗北を喫し戦死すると、立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回に成功した。しかし天正13年(1585年)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。家臣の高橋紹運立花宗茂父子の奮戦で島津軍の侵攻を遅らせたが(岩屋城の戦い)、もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなっていた。

このため天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉大坂城で謁見して、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願する。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年(1586年)12月には島津家久軍が戸次川の戦いで、大友氏救援に赴いた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。この時、臼杵城に籠城していた宗麟は大砲・国崩し(フランキ砲のこと。その大きな威力からこのように名づけられた)を使って臼杵城を死守し戦国大名としての意地を見せた[7]。しかし大友氏はもはや数ヶ月すら持ち堪えられないところまできており、島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められた。

天正15年(1587年)、大友氏滅亡寸前のところで豊臣秀長率いる豊臣軍10万が九州に到着。さらに遅れて秀吉自身も10万の兵を率いて九州征伐に出陣、各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した。58歳。死因はチフスが有力とされる。

九州征伐後、秀吉の命令で大友義統には豊後一国を安堵された。秀吉は宗麟に日向国を与えようとしていたが統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。

墓は大分県津久見市内と京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院にある。さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌がある。肖像画は瑞峯院に所蔵されている。宗麟の死の直後はキリスト教式の葬儀が行われ墓は自邸に設けられたが、後に嫡男・義統が改めて府内の大知寺で仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。その後、墓は荒廃したが寛政年間(17891801年)に宗麟の家臣の末裔である臼杵城豊が自費で改葬した。津久見市内の現在の墓所は昭和52年(1977年)に当時の大分市長・上田保によって新たにキリスト教式の墓として、従来の場所から移されたものである。

人物・逸話

人物

文化人としてもその活動は活発で書画茶道蹴鞠などの諸芸に通じ、古くから中央の文化人を招くなどしている。例を挙げると、永禄12年(1569年狩野松栄を、元亀2年(1571年)には狩野永徳を豊後に呼び寄せ、障壁画を制作させている。特に蹴鞠には長じていたようで幼時より飛鳥井雅綱を師範とし伝授を受けており、息子の義統にも習わせている。時の将軍・義輝も義鎮の蹴鞠好きを知り、蹴鞠の際に着用する専用の衣服などを送っている。また、このような多趣味の傾向からか収集癖も持ち合わせていたようで、隠居後も博多の商人を通じて書画や茶器を大量に購入、収集している。さらに楢柴肩衝初花肩衝と共に天下三肩衝といわれる新田肩衝も所有していた。この収集癖が財政を圧迫するので自重するようにとの義統の書状も残る程であった。

キリスト教と信仰、南蛮文化

  • キリシタン大名としても知られる義鎮だが、天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルを引見したことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また博多商人の島井宗室神谷宗湛らと交友し、日明貿易日朝貿易も行った。しかし実際に明国や朝鮮などとの貿易が利益をもたらしていたのは15世紀後半辺りまでで、三浦の乱を契機に少なくとも明・朝鮮との貿易関係は衰退し、名義上大友氏の看板を利用した対馬の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまった。また輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく、多くは所謂「奢侈品」であったとされ、それ程実質的な利益は上げていなかったことが外山幹夫の著作などで指摘されている。むしろ義鎮時代は有力家臣へ恩賞として与える領土が不足し、寺社領の没収や領地の代わりに杏葉紋(大友氏の使用した家紋)の使用権を与えるなどして代用するなど経済状況は決して良くはなかった。
  • キリシタンとなったのは従来の仏教を見限りキリスト教に帰依した為であるが、キリシタンになったことが大友家臣団の離反を招き、晩年に国人の反乱多発という形で表面化する事となる。また、宗麟はキリスト教信仰の為に、神社仏閣を徹底的に破壊する(「住吉大明神破却」「彦山焼き討ち」「万寿寺炎上」など)、金曜日・土曜日には断食をする、それまで家に伝わっていただるまをも破壊する等の破壊行為も行なっている。義鎮がキリスト教の為に徹底した神社仏閣破の破壊解体を行ったのは、主にキリスト教国建設を夢見たとされる侵略先の日向国に於いてであり、本拠である豊後国内や筑後国内で行われた神社仏閣の徹底的な破壊は、次期当主義統が行っており義鎮が主導したという資料は見当たらない。これは当然に宗教心が発した行動であり、仏僧の奢侈を嫌い寺社領を取り上げる政治的意図があったにせよ、単に寺社を破壊するだけでなく仏像や経典の類まで徹底して破壊されている。
  • 若い頃、南蛮人が持ってきた鉄砲が試し撃ちの際に暴発して弟が手に怪我をしたが、その時に西洋医学による応急処置を見ている。また、弘治3年(1557年)に府内(現在の大分県庁舎本館のある場所)で日本初の西洋外科手術をポルトガル人医師1名と、助手に日本人医師2名の計3名で手術を行わせた。当時の豊後はらい病が風土病になっており、らい病の手術と大分県史に記されている。日本人医師2名は杏葉紋・苗字・太刀を宗麟から賜っている。現在、大分県庁舎本館前には「日本における西洋外科手術発祥の地」の記念碑が立っている。加えて宗麟は領内に、宣教師が伝えた西洋医学の診療所を作り、領民は無料で診察を受けることが出来た。
  • 臼杵城に篭城する際に、宗麟はキリスト教徒もそうでない者も城に避難させ、自ら握り飯等を配った。宣教師はそうした行いを記録にまとめ、その中で宗麟のことは「王」と記している。キリスト教には「汝、殺すなかれ」という教えがあるが、宣教師はキリスト教信仰に基づく宗麟の質問に対して、戦の上で殺生は何の問題も無いと返答している。
  • 天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。ただし、この件を義鎮本人が関知していなかった可能性が高いという説もある。詳しくは伊東マンショの項を参照。

政道十九条

「大友興廃記」によると、宗麟は家督をついで3年あまり後、「大友家政道条々」という19箇条よりなる分国法を制定発布したとしている。これは「政道十九条」と呼ばれている。

それまでの大友氏の分国法としては大友義長が制定した「大友義長条々」、大友義鑑が制定した「新大友義長条々」がある。この「政道十九条」には重臣宛に発した私信があり、分国法と断定するには問題があるともされている。また、梅木俊次らはこれを確かに宗麟の制定したものと主張しているが、外山幹夫らは偽作だと主張している。

系譜

主な家臣および偏諱を与えられた人物

以下、義鎮から偏諱を賜った人物を中心に、義鎮期の主な家臣を掲載する。太字の字を含む人物は義鎮から偏諱を賜った人物である[11]。( )内に血縁関係や別名、通称、役職などを掲載しているが、長文になる場合は脚注に掲載している。

近親者およびその一族

家臣および臣従者

新田

上記以外

上記以外の近隣勢力および義鎮亡き後に「鎮」の字を祖先から取って用いた人物を以下に示す。

脚注

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参考文献

  • 外山幹夫『大友宗麟』(昭和50年(1975年)、吉川弘文館、ISBN 978-4642051392)
  • ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈6〉ザビエル来日と初期の布教活動―大友宗麟篇(1)』(中公文庫)
  • ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈7〉宗麟の改宗と島津侵攻―大友宗麟篇(2) 』(中公文庫)
  • ルイス・フロイス『完訳フロイス日本史〈8〉宗麟の死と嫡子吉統の背教―大友宗麟篇(3) 』(中公文庫)
  • 芥川竜男『大友宗麟のすべて』(新人物往来社)1986年
  • 『世界人物逸話大事典』(角川書店

関連作品

小説
映画
テレビドラマ

関連項目

テンプレート:Sister

テンプレート:豊後大友氏当主
  1. 親貞に関しては甥ともいわれる
  2. 宗麟は今山・耳川の戦いで敗北し、戦略家としては二流と見られている。しかし政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出して守護職・九州探題職を得、九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に義久と和睦するなど外交手腕には特に秀でていた。
  3. 発給文書が非常に多い人物としても知られる。現存する書状だけでも1000通を越えており、家臣団の統率や中央政権との繋がり、果ては諸外国との通信など義鎮が非常に外交に長けた人物であったことを裏づけている。
  4. これは従来の大友氏家督の「修理大夫」より上位の官位であり、当時公家以外では畠山氏以外には任官されていなかった高官である。この事から足利将軍家に多大な献金を行っていた事と、その信頼を受けていた事が察する事ができる
  5. 耳川の戦いは、宗麟主導のもとでキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争とされることが多い。しかし天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて宗麟は領国経営に関する文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、耳川の戦いは宗麟ではなく義統主導によるものだったのではないかとも言われている。また、宗麟の姻戚であった総大将、田原親賢臼杵鑑速などの重臣達の反発を招いた結果だという説もある。親賢はキリスト教を嫌悪していたので、信徒や宣教師の支援が得られなかったことが原因という説もある。
  6. 歴史読本2011年7月号「島津義久 熱く冷めた信長へのまなざし」
  7. 日本で初めて大砲(当時は国崩しと呼んだ)を使ったのは、宗麟であったとされる。
  8. 家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。
  9. 八幡奈多宮大宮司の家系であり、宗麟のキリスト教入信が原因で離婚。
  10. 洗礼名「ジュリア」、イエズス会関係の史料によると元・奈多夫人の女中頭であったとされる。
  11. 義鎮から偏諱を賜った蒲池鎮漣の子孫が代々「鎮」を通字として用いるようになった例など、一部の人物が義鎮亡き後に「鎮」の字を名前に用いているケースもあるが、こちらも別項に掲載する。
  12. 姓は「うちくが」と読む。この家では元々「鎮」の字が用いられていたため、義鎮から賜っていない可能性もある。こちら()も参照のこと。
  13. 名の読みは「しげたか/しげのり」。河崎鑑実の従兄弟・能堯(よしたか)の子。豊臣秀吉九州征伐に際して参礼せずに除封処分を受けた。子孫は佐賀藩鍋島氏の家臣として続く。
  14. 子の鎮直は二階崩れの変前に殺害された小佐井大和守と同一人物とされているが、この当時の大友氏当主は義鑑なので鑑直の間違いではないかと思われる。また、1580年の龍造寺氏との戦いで鑑直が一旦捕虜となったという史実もある。
  15. 高橋氏、戸次氏時代は統虎(「統」は宗麟の子・義統から賜った字)を名乗る。立花道雪の養子となり鎮虎に改名(父・鎮種または隠居後の宗麟から賜っているものと考えられる)。以後幾度も改名し最終的には宗茂となる。