八王子市の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:出典の明記 八王子市の歴史(はちおうじしのれきし)では、現在の東京都八王子市に属する地域の歴史を解説する。

歴史

古代

現在の八王子市域に人々が住み着き始めたのは有史以前の時代のことで、市域には先史時代の遺跡が数多く点在している。代表的なものとして国の史跡に指定されている椚田遺跡のほか、船田、北野などの各遺跡があり、八王子市域のこの時代の遺跡は主に浅川およびその支流付近の段丘面に位置している。縄文時代中期から平安時代に至るまでの集落が同一の遺跡から発見されており、先史時代からかなり後の時代まで、人々は河川付近の段丘面にのみ集住して暮らしていたことがわかる。

1964年に発掘された宇津木向原遺跡では、ムラの住居跡ともに方形周溝墓が発見された。特定の個人を葬った方形周溝墓は弥生時代のムラにおける身分格差を示すとされている。

この地が倭王権の支配下に組み入れられると、市域は武蔵国の多麻郡(現代の用字では多摩郡)に編入された。古代に八王子市域に存在した名などははっきりしないが、931年に勅旨に指定された小野牧(おののまき)を八王子市由木付近に求めようとする説がある。

律令制が崩壊し荘園制が発達して関東各地で武士団が形成された平安時代後期には、武蔵七党のひとつ、横山党(武蔵七党系図筆頭)がこの地方に興った。横山党は古代氏族小野氏の末裔である小野義隆が武蔵権守となり、現在の八王子市横山町に名を残す横山荘に居館を構えて横山氏を称したのに由来する。横山党の一族には由木氏・田名氏・海老名氏・平山氏など八王子近辺の地名を名字とする武士がおり、その勢力が八王子市域一帯に広がっていたことがわかる。

中世

横山党の勢力は鎌倉時代に入ると和田合戦以降衰退し、13世紀にはかわって鎌倉幕府の重臣大江氏の一族である長井氏や、執権北条氏の一族の支配が浸透した。室町時代に入り、15世紀になると関東管領を世襲した山内上杉家被官で武蔵など関東数カ国の守護代を歴任した大石氏が武蔵西部に地盤を築き、八王子市域一帯を支配するようになった。片倉城高月城滝山城などの八王子市域の中世城館の多くはこの時期に建てられたものである。

戦国時代に入ると、16世紀前半に南の相模国から北上してきた後北条氏が多摩地域から武蔵全域に向かって勢力を伸張し、大石氏もその圧力を受けた。1546年、山内・扇谷両上杉家が河越夜戦で敗れると大石氏は後北条氏に屈服することになり、北条氏康の次男氏照を養子に迎えることで、完全に後北条氏に取り込まれることになった。

氏照は、はじめ大石氏の地盤をそのまま受け継いで滝山城に拠っていたが、1584年ごろ、滝山城の西南にあって甲州街道筋の敵軍を監視することができる深沢山(現在の城山)に新城を築城した。この城は、山麓に牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現(はちおうじごんげん)」が祀られている八王子神社があり、八王子権現を城の鎮守とし八王子城と名づけ、城名が市名の由来である。山の南麓を流れる北浅川の支流、城山川の谷筋に沿って設けられた城下町が八王子の町のもとになった。これが現在の元八王子町である。

八王子城遺構の調査、発掘と遺跡の整備は近年急速に進んでおり、この城が畿内で発展した安土桃山時代の新式の城の影響を受け、広い大手道や大きな城門を備えた大がかりなものであったことが明らかになってきた。遺跡からは発掘により五彩磁器皿などの磁器や茶道具、香炉、ベネチアンガラス、などが出土し、城内の生活をしのばせる。

近世

1590年、後北条氏が豊臣秀吉と敵対し、秀吉の小田原征伐が始まると、城主氏照以下、八王子城衆の主力は小田原城に入った。このため八王子城は家老以下わずかな兵で守らざるを得なくなり、さしもの巨城も上杉景勝前田利家らの北陸勢の猛攻を受けて落城した。

その後小田原城が降伏し、氏照が兄の北条氏政とともに敗戦の責任をとって切腹すると、没収されたこの地方は後北条氏の旧領全域とともに徳川家康に与えられた。家康もまた後北条氏と同じく、家康の居城が置かれる江戸を甲州口から守るための軍事拠点として八王子を位置付けた。

しかし徳川氏は八王子に支城を置かず、八王子城を廃城とした上で八王子を直轄領とした。八王子には関東各地の直轄領(御料)を支配する代官18人が駐在することとなり、武田家旧臣の大久保長安が代官頭をつとめてこの地方の開発を担当した。長安は甲州街道を整備し、八王子城下より東の浅川南岸の街道沿いに新たに八王子町を設けて旧八王子城城下の住民を街道沿いに移住させた。

徳川氏による八王子の開発の結果、1650年代までに現在の八王子の中心市街(八王子駅の北)には甲州街道に沿って何町も連なる大きな宿場町が完成し、八王子十五宿八王子横山十五宿)とよばれるようになる。この宿は街道中最大の宿となった。八日市・横山・八幡などの地名は滝山城の城下町から八王子城の城下町へ、そして八王子町へと受け継がれたものである。また徳川氏は武田氏や後北条氏の遺臣を取り立てて八王子宿周辺の農村に住まわせ、普段は百姓として田畑を耕し、日光警護など特別な軍事目的の場合には下級の武士として軍役を課す八王子千人同心とした。

八王子宿への代官の駐在は1704年に廃され、関東御料の代官は江戸に移住する。なお、八王子宿は幕府直轄の天領であったが、江戸近郊の常として周辺の村には旗本や小大名の相給地も多く、一元的領域支配は行われていない。

近世後半には全国的に生産力の増大がみられ、なかでもなどの貢納用作物のほかに商品作物の栽培が増加するが、八王子宿を中心とする周辺の村々では主に、の原料となるやその飼料となる、あるいはなど商品作物の生産がさかんになった。しかし、生産力の増大は一方で農民の間に経済力の格差の拡大をもたらし、結果として治安も悪化することになる。その改善を目指した幕府の文政の改革により、関東地方では組合村(寄場組合村・改革組合村ともいう)が結成される。このとき八王子宿近辺では八王子宿組合村が成立した。これにより八王子宿とその周辺の村々の間では治安面などでの広域的な連携がみられるようになった。この八王子宿組合と、小仏関を中心とする小仏駒木野組合の構成は、ほぼ現在の八王子市の行政区域と重なっており、現在の市域に地域自治的なまとまりがこの頃生まれていたことがわかる。

ファイル:Kinunomichi ent.JPG
八王子と横浜を結んだ絹の道

幕末期、横浜開港により絹が主要な輸出産品となると、八王子は生糸・絹の一次生産地として、また関東各地から横浜へ送り出す輸送の中継地として栄えた。慶応年間、武州一揆長州戦争など社会情勢の不穏さが増すと、幕府は八王子陣屋の再設置を計画する。すなわち、幕府は、相給地の私領を整理して多摩郡の宿村をすべて幕領とし、村落支配を一元化することを試みたが、陣屋の設置による代官の交代と、引き継ぎに伴う混乱を嫌った八王子宿その他多摩の村々の反対により、実現せずに明治維新を迎えた。

近代

維新後も、八王子は引き続き生糸貿易の中継地として隆盛した。1873年には「生糸改会社」が、1886年には織物仲買商により織物組合が結成された。織物組合は1899年に機業家を加えて織物業同業組合に発展改組され、現在の八王子織物工業組合の起源となっている。繊維産業の隆盛は、製糸業者萩原彦七が私財を投じて架橋した萩原橋(浅川)の名からも窺い知れる。

1889年には甲武鉄道が開通し、東京との間を結んだ。現在のJR中央本線である。1917年には、多摩地域で初、東京府内では東京市に次ぎ2番目に市制を施行(当時、豊多摩郡(現、牛込を除く新宿区・渋谷区・中野区・杉並区)、荏原郡(現、品川区・大田区・世田谷区・目黒区)、北豊島郡(現、豊島区・北区・荒川区・板橋区・練馬区)、南足立郡(現、足立区)、南葛飾郡(現、本所を除く墨田区・深川を除く江東区・葛飾区・江戸川区)は東京市編入前であり郡制を敷いていた。)するなど、多摩地域の中心都市として位置づけられた。この時期にあった「多摩県」(多摩3郡のみで県を構成する案)、「武蔵県」(多摩3郡と豊多摩郡・荏原郡・北豊島郡・南足立郡・南葛飾郡を含めて県を構成する案)構想では、その構成単位の中で唯一市制を敷く八王子市に県庁を置く案があった[1]

1926年大正天皇が崩御すると、翌年初め、陵墓の地が横山村に選定され、多摩御陵と名づけられた。これに伴い、近接する甲州街道の改修などが進んだ。御陵参拝の玄関口となる皇室専用駅の東浅川駅および省線浅川駅(現・高尾駅)前と追分の間の甲州街道にイチョウ並木が整備されたのもこのときである。拡幅された甲州街道には、1929年路面電車である武蔵中央電気鉄道が開通、また、陵墓への参拝客の輸送のため、京王電気軌道1931年御陵線を開通させた(路面電車は1939年に廃止、御陵線は1945年不要不急線として廃止された)。

昭和初期の不況や、1937年にはじまる日中戦争期のいわゆる戦時体制により、繊維産業も徐々に衰退した。とくに戦時中には繊維業でも軍需工場への転換が進み、また、従業員の徴兵などによる人手不足や企業統合により休業・廃業する工場も現れた。

太平洋戦争末期には多摩地域の中心都市であることや、軍需工場の存在により、八王子は米軍の攻撃目標とされた。1945年8月2日未明の空襲では、B-29の編隊170機により約67万発の焼夷弾が投下され、当時の市街地の面積比で80%、戸数にして14,000戸以上が焼失し、450名余が死亡、2,000名以上が負傷した。同月5日昼には、高尾山にほど近い中央本線の湯ノ花(別称:猪鼻・亥ノ鼻)トンネル出口で、長野方面の疎開地に向かう人々を乗せた下り列車が米軍機P51機銃掃射を受けた。一部をトンネル内に残したまま停止した列車は炎上し、死者53名・重軽傷者133名の被害を受けた(死傷者数を900名以上とする説もある)。終戦間近に起きた八王子大空襲湯ノ花トンネルの事件は、戦争の悲劇として市民に記憶されており、現在でも慰霊祭が行われている。

現代

戦後の1946年、八王子は戦災都市の指定を受け、復興計画が策定された。1950年代からは町村合併法に基づいて周辺町村の編入が進み、1955年には横山村ほか5村と、1959年には浅川町と合併、1964年8月1日の由木村との合併をもって、現在の市域がほぼ定まった。同年10月行われた東京オリンピックでは、自転車競技の会場となっている。

ファイル:Tokyo prefectural road 158 01.jpg
ニュータウンとして開発が進む南大沢

同年暮には多摩ニュータウンの計画がスタートし、1971年に入居が開始した。このほかにも郊外の丘陵地を中心に新たな住宅団地が造成され、八王子市の人口は急増する。規模1千戸以上の代表的な住宅開発として、分譲一戸建て中心の「京王めじろ台」(1967年京王高尾線開業に合わせて開発。入居開始は1970年)、「南陽台」(同1972年)、「東急片倉台」(同1974年)、「西武北野台」(同1977年)などが、また集合住宅を中心とする、都営「中野団地」(同1968年)、「長房団地」(同1974年)や、住宅・都市整備公団による「館ヶ丘」(同1975年)、「グリーンヒル寺田」(同1980年)、「宇津木台」(同1985年)などがある。[2]。合併完了後の1965年に20万人余であったが、9年後の1974年には30万人、さらに9年後の1983年には40万人を超えた。その後1995年に50万人を超え、2010年の国勢調査では579,799人と増え続けている。

新住民の流入の一方、市を代表する産業であった繊維関連業は、戦災の復興を経たものの、産業構造の転換により、1960年代からは次第に衰退した。かわって北八王子工業団地などの工業団地が造成され、精密機械や電子機器の工場や関連工場が誘致されるようになった。また1983年に八王子駅の駅ビルとして百貨店そごう(1983~2012)が開店し、市庁舎が本町から現在地(元本郷町)へ移転したが、この頃から市街地の賑わいが江戸時代の宿場町を基礎とする甲州街道沿い商店街・百貨店から八王子駅・京王八王子駅を中心とする地域に移行していった。

1963年工学院大学の移転を皮切りに、都心の大学の移転が次々と行われ、住宅団地と同様に郊外の丘陵地に各校の新校舎が建設された。現在では約11万人の学生が八王子市および周辺の大学に通学しており、東京近郊における主要な文教都市のひとつとなっている。また、住宅地開発も続けられ、1997年には、南部多摩丘陵地帯を開発した八王子ニュータウン(みなみ野シティ)が街開きしている。

近年は、郊外に「三井アウトレットパーク 多摩南大沢」や「ぐりーんうぉーく多摩」等に代表されるような郊外型大規模ショッピングセンターが出現する一方、中心市街地の再開発も進められ、1994年に京王八王子駅ビル(京王八王子ショッピングセンター)、1997年に八王子駅北口地区再開発ビル(八王子スクエアビル)、2003年には甲州街道沿いの八日町第2地区再開発ビル(ビュータワー八王子)が、2010年には八王子駅南口地区再開発ビル(サザンスカイタワー八王子)とJR東日本による八王子駅南口駅ビル(セレオ八王子南館)が完成した。2012年には、そごう八王子店跡地の八王子駅北口駅ビルがリニューアルし単館としてはJR東日本最大の駅ビル商業施設「セレオ八王子北館」が開業した。今後も八王子駅南口JR貨物の商業施設[3]や八王子駅と京王八王子駅の間にある東京都立産業技術研究センター八王子支所跡地を中心に、東京都八王子合同庁舎、八王子市保健所がある街区を含めた再開発[4]が行われる予定である。

年表

参考文献

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. 『多摩百年のあゆみ』多摩百年史研究会編著 けやき出版
  2. 『おはなし八王子の五千年』 八王子歴史教育者協議会編 かたくら書店
  3. 約20社に事業提案要請/商業施設最大2.4万㎡可能/JR貨物の八王子駅南口開発 建設通信新聞2014年1月15日
  4. 多摩最大の産業展示場 都整備へ 読売新聞2014年3月13日
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite news
  8. テンプレート:Cite news

徳利亀屋 八王子の宿場町で一番有名な宿 日本昔話「徳利亀屋」鼠小僧の伝記などにも登場する