テレビ三面記事 ウィークエンダー

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テンプレート:複数の問題 テンプレート:Redirect テンプレート:基礎情報 テレビ番組テレビ三面記事 ウィークエンダー』(テレビさんめんきじ ウィークエンダー)は、日本テレビ系列局ほかで放送された日本テレビ製作のワイドショーである。全465回。製作局の日本テレビでは1975年4月5日から1984年5月26日まで、毎週土曜 22:00 - 22:55 (1975年9月まで) → 土曜 22:00 - 22:54 (同年10月以降)に生放送されていた。遅れネット局では録画放送。また1978年以降、毎年8月に放送される大型特別番組24時間テレビ 「愛は地球を救う」』編成の際は休止。

概要

全国ニュースで伝えられることがないB級事件について、リポーターフリップボードや再現フィルムを使って解説していた番組である。

常に30%以上の視聴率を獲得し、日本テレビの看板番組の一つになっていた[1]

日本テレビの朝のワイドショー『あなたのワイドショー』の金曜日枠内で類似コーナーとも言える「テレビ三面記事」が放送されており、当番組はそれを週末のプライムタイム枠に持ってきて、夜の放送に向いた(かつ男性向き)事件内容にスライドさせたスピンオフ番組と言える。

番組の流れは、番組タイトル→提供クレジットコマーシャル→ふたたび番組タイトル→出演者・スタッフ紹介→オープニング→最初の記事の順だった。そして番組のラストでは、「来週こそいい週でありますように…おやすみなさい」というメッセージボードが出された。なお、毎年の最終放送では「来週こそいい週」は「来年こそいい年で」と代えられ、さらに毎年一発目の放送では「今年もいい年でありますように…」となっていた。

下世話な事件を泉ピン子や桂朝丸(現・桂ざこば)、青空はるおらが面白おかしく伝え、特に泉はこの番組で飛躍的に知名度を得た。スタジオでレポーターが喋るという極めて低予算の作りで高視聴率を挙げており、プロデューサーの細野邦彦は「最も低予算でヒットをつくる名人」と言われた[2][3]。その一方で「表現が過激」「興味本位すぎる」との批判が常にも寄せられた[4][5]

打ち切りの時点でも視聴率は約20%を確保しており好調だったが、スポンサーが30分番組を2本提供したいという営業上の理由により終了した[6]

取り上げた話題

性犯罪や情欲絡みの殺人事件少女買春などを扱うことが多かったが、当時の番組表によると、震災など通常の事件や殺人などの凶悪事件も多少放送しており、番組終了の1984年にはグリコ森永事件ロス疑惑、当時は原因不明の奇病として世界中で恐れられていたエイズなども報じていた。また当時、その存在が世間に知られるようになり、日本医師会と確執状態にあった医療法人徳洲会」を「24時間いつでも診てくれる」、「患者は廊下の真ん中を歩きスタッフ(Drも含む)は端を歩く」など好意的に紹介するなどもした。

再現フィルム

初期の「再現フィルム」は殺人事件ばかりをリアルに扱っていたためにテンプレート:要出典範囲、いったんコーナーが中止になる。復活に際しては犯人の名前など人名を仮名にし、顔写真フリップは目隠し入りで対応した。同時に殺人事件以外に覗き恐喝トルコ風呂など、殺人以外の「再現フィルム」も放送されるようになった。

出演者

司会は加藤芳郎(加藤が入院した期間は青空はるおが代理)。おもなリポーター陣は青空はるお、桂朝丸(のちの2代目桂ざこば)、泉ピン子横山やすし西川きよし大山のぶ代青空うれしすどうかずみ高見恭子エド山口、加原夏美(有田美春から改名)、芸能リポーター井口成人、スイッチョンらである。桂朝丸が降板後は、桂べかこ(のちの3代目桂南光)→春やすこ桂雀々(最後の1年だけ)と引き継がれていった。のちに政治家に転身した山谷えり子もリポーターを務めていたことがある。なかでもピン子にとっては出世作であり、リポート中の放送コードスレスレのどぎつい発言が受けたテンプレート:誰

クインシー・ジョーンズによる『鬼警部アイアンサイド』のテーマとともに、ナレーターの小早川正昭(元日本テレビアナウンサー)の「新聞によりますと…」で始まる事件解説のイントロダクションと、円山雅也弁護士のコメントも人気があったテンプレート:誰

「再現フィルム」には、柳沢慎吾山口良一大地康雄らが出演した。なかでも笑福亭鶴光のそっくりさんの役者・高嶋洋は常連で、コメディタッチの役柄や変態役でよく出演していた。高嶋は日本テレビ内においてテンプレート:要出典範囲。なお、当番組の性格上、「再現フィルム」へのテンプレート:要出典範囲

特別番組

12月31日(大晦日)には各月のニュースのなかから1つをピックアップしたものが19 - 20時台に総集編『イヤーエンダー』として放送されていた。本放送の終了後となる1984年の大晦日にも『NHK紅白歌合戦』の裏番組として『イヤーエンダー』として放送された。

2005年の大晦日には、メイン司会に泉ピン子司会、サブ司会に羽鳥慎一(当時日本テレビアナウンサー)で『ピン子のウィークエンダーリターンズ2005』として21年ぶりに復活。18:00からの2時間番組であった。奈良騒音傷害事件など2005年に世間を騒がせた事件について取り上げている。番組内容はスタジオ出演者によるリポートはあるもののほとんどピン子のトークバラエティで、当時の画像は辛うじてオープニングに20秒ほど出ただけである。テンプレート:要出典範囲

2006年大晦日にも復活特番を放送したが、テンプレート:要出典範囲と低迷した。この年は番組後半がいじめをテーマとした討論会となっていた。諏訪地方連続放火事件(くまえり)を紹介する時にほしのあきグラビアアイドルの現実を取り上げていた。

評価

NHKで『NHKスペシャル』などを手掛けてドキュメンタリー番組で数々の賞を受賞したディレクターの相田洋は、『ウィークエンダー』の登場をテレビ番組史上の重要な出来事と評価。『ウィークエンダー』の素材はともかく、方法論については学ぶことが多いとし、たとえ動く映像が撮影できなくとも、キャスターは現場に立って一次情報に接し、自分の言葉で視聴者に語ることが大事だと訴えた。1998年にNHKスペシャル『マネー革命』を制作したときは「私たちは首から上の『ウィークエンダー』を目指そう」と檄文に書いた[7]。『BS自動車』から相田がテレビに出演して視聴者に解説するというスタイルを用いて、この方法論を実践している[8]

出演者が容疑者を罵ったり、事件の再現ドラマエロティックレイプシーン・ベッドシーンなど裸の多さが売り物。エログロ低俗化)に表現したことなどから、事件テンプレート:要出典範囲り、警察の取材協力を断られたこともあった。起訴前の容疑者段階での「おもしろおかしくした」報道については、たとえ不起訴になっても一生取り返しのつかない「烙印」を押されたとするテンプレート:要出典範囲となった。

放送当時、『テレビ腐蝕検証』(1977年刊、汐文社)や『テレビよ、驕ることなかれ』(1983年刊、麦秋社)などの書籍で、青少年への悪影響(性描写に関して)や、事件当事者への配慮の欠如、信憑性などが非難された。また、テンプレート:要出典範囲でもこの意味で否定的な意見が強かった。ただし、娯楽性とジャーナリズム的な感覚を評価する見方もあった。

スタッフの報道倫理だが、テンプレート:要出典範囲、円山と相談のうえで放送内容を決めていた。それについても「弁護士協力を免罪符にしている」との批判があり、放送時期にテンプレート:要出典範囲

テンプレート:要出典範囲。司会の加藤は当時、NHK総合の『連想ゲーム』やニッポン放送の『テレフォン人生相談』に出ていたことから、テンプレート:要出典範囲が寄せられた。高見は自身のウェブサイトでは当番組に関してまったく触れておらず、山谷も政治家となったテンプレート:いつ範囲当番組について語っていない。

のちに泉を重用することになる石井ふく子はこの番組を嫌っており、ある場所で偶然泉に声を掛けられ、「先生の番組に出ることが夢です」と言われた際に「あのような低俗な番組に出ている下品な女など誰が出すか」というようなけんもほろろの態度を取ったという[9]

映像の保存状況

当番組が放送された時期(最末期をのぞく)は、放送用VTRの規格が2インチで高価・操作頻雑だったことや、番組の性格上テンプレート:要出典範囲ことなどから、特に1970年代(泉在籍当時を含む)の映像はほとんど現存していないと考えられるテンプレート:誰横浜市にある放送ライブラリーへのビデオ映像の寄贈・保存はされていない。

2003年の『ダウンタウンのバラエティ50年史』において当番組の一部がダイジェストで1分ほど放送され、朝丸、うれし、すどう、はるお、加藤の映像が流された。2008年3月2日の『THE・サンデー』でロス疑惑を伝えた際には「イヤーエンダー」の模様(おもにインタビュー)が放送された。

使用楽曲

ネット局

当時の土曜日22時枠はマストバイ枠でなかったため、ネット局は少なかった。一部の系列局と系列局外で放送された事例もあるが、午前0時台などの深夜帯(当時としては相当遅い)が多かった。大晦日の特別番組のみネットしていた局も多かった。

主なスタッフ

  • 監修:円山法律事務所
  • ナレーター:小早川正昭
  • 構成:池田淳、山崎忠昭
  • 取材:吉田清、林田慎也、渡辺正人、山田哲也、荒井裕晶
  • 演出:萩原雪彦、森岡正彦、油井禧成、小川通仁
  • プロデューサー:細野邦彦
  • 製作:日本テレビ

脚注

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関連作品

1976年6月19日、この番組を連想させるテレビ番組のスタジオを模したセットで、泉ピン子の進行により、大久保清西口彰らの事件をオムニバス形式で再現した映画『戦後猟奇犯罪史』(監督:牧口雄二)が、全国東映系で公開された。

関連項目

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  1. 『大衆とともに25年 沿革史』日本テレビ放送網、1978年、p.241
  2. 荒俣宏『TV博物誌』小学館、1997年、p.256
  3. 岡田晋吉『青春ドラマ夢伝説 あるプロデューサーのテレビ青春日誌』日本テレビ放送網、2003年、p.167
  4. 読売新聞芸能部、『テレビ番組の40年』日本放送出版協会、1994年、p.383
  5. 藤平芳紀『視聴率の正しい使い方』朝日新聞社、2007年、p.137
  6. 『中日新聞』1984年5月4日付夕刊
  7. 相田洋『ドキュメンタリー 私の現場 記録と伝達の40年』日本放送出版協会、2003年、pp.192-193
  8. 川本裕司『ニューメディア「誤算」の構造』リベルタ出版、2007年、p.26
  9. 大下英治著『おんなの学校』より。
  10. 10.0 10.1 10.2 10.3 当時は日本テレビ系列・NET~テレビ朝日系列のクロスネット局だった(山口放送は1978年10月以降)。
  11. 青森放送は『11PM』を1975年3月に日本テレビ系列局で最初に打ち切っていた。
  12. 1981年9月までは日本テレビ系とテレビ朝日系のクロスネットだったため、土曜日の深夜に遅れ放送し、土曜日22時からは土曜ワイド劇場を放送していた。1981年10月より同時ネット
  13. 一時期同時ネットせず、深夜枠での放送とし、代わりにテレビ東京の『大江戸捜査網』を土曜日22時に時差ネットしていた。
  14. 前番組『傷だらけの天使』は広島ホームテレビ(NET~テレビ朝日系列)で火曜日22時から遅れ放送していた。なお、1975年4月以降の広島ホームテレビの火曜日22時台はNET系の『TOKYO DETECTIVE 二人の事件簿』(ABC制作)を同時ネット。
  15. 当時の社長、野村幸祐が教育界出身だった山口放送は当番組の他にも『ミセス&ミセス』・『11PM』・『お昼のワイドショー』のテンプレート:要出典範囲。最終的には、山口放送での当番組と『お昼のワイドショー』のネットは継続されたものの、『11PM』は1978年3月で、『ミセス&ミセス』は同年9月でネット打ち切りになった。