いすゞ・フローリアン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

フローリアンFLORIAN)は、いすゞ自動車1967年から1982年まで生産・販売した中型乗用車である。

概要

テンプレート:Infobox 自動車のスペック表 フローリアンは既存モデルの大衆車であるベレットのやや上級の中型車として企画されたもので、競合モデルにコロナブルーバードを想定した、ミドルクラスのファミリーカーである。

営業力の弱さと個性的なデザインがユーザー受けしなかったこと、更に開発費の不足からモデルチェンジの機会を逸し、根本的な改良のないまま15年間の長期にわたって生産されたことから、商業的には不成功なモデルであった。

形式名は1,600cc車がPA20、1,800cc車がPA30、ディーゼルモデルはPAD30で、バンはそれぞれの数字の後にVがつく。当初の開発コードから、ショー発表時に117サルーンとされたことからもわかるように、117クーペとは姉妹車の関係にあたり、両車はシャシを共有する。また、本車のスタイリングは、イタリアカロッツェリア・ギアに依頼されている。

車体は4ドアセダンと5ドアライトバンの2種類。発表当時は、当時の他車種と比較すれば背が高いロングキャビン型の設計で、流麗なラインを持つ居住性に優れたセダンとして、一定の評価を受けている。ことに、6ライト型の側窓処理は日本車らしからぬ個性があった。これはリアドアウインドウのサッシ上辺をなるべく水平にすることで、後端を高くし、後席の乗降性、特に高島田姿の女性に配慮した設計とするためにも必要であった。しかしドア自体は前後に狭く、開口部はそれほど大きくない。

1982年までの長期に渡り、途中2回のマイナーチェンジのみで製造が続けられたため、末期はモデルとしての陳腐化が著しく、社用車タクシー教習車といった業務用としての需要がほとんどだった。

このため、117クーペの倍近い生産台数がありながら現存稼動車は極端に少ないが、オーバーデコレーションで存在感あるデザインとなったシリーズ2(S-II)については、一時期旧車愛好家の間でそのキッチュさが再評価された。それが若年層にも注目されるきっかけとなり、多くがカスタムカーのベースとなったため一気に現存数を減らしている。

15年間の総生産台数は145,836台(うちバン42,625台、いすゞ自動車ウェブサイトより)。

車名の由来

「フローリアン」とはオーストリア皇帝の純白の愛馬の名前で、さらにその名は聖人フロリアヌスに由来する。この馬は「バンビ」で知られる児童文学作家フェーリクス・ザルテンの作品「白馬フローリアン」にも登場する。派生車種である117クーペが唐獅子のエンブレムをフロントグリルに持つのは、ジウジアーロが東洋を象徴するものとして唐獅子を選択し、エンブレムをデザインしたものであるが、本車の後期型(S-II)の一部が馬のエンブレムを付けるのは車名由来によるものである。

機構

駆動方式は当時一般的な後輪駆動エンジングレード設定についてはいくつかあり、下記を参照。また、各代にはライトバンの設定もある。

サスペンションは、先行するべレットが(Bタイプを除いて)四輪独立懸架であるのに対し、本車は前輪がダブルウィッシュボーン + コイルスプリング、後輪がリジッドアクスル + リーフスプリング 、さらにリサーキュレーテッドボール式ステアリングギアという、非常にコンベンショナルな仕様で、技術的には明らかな後退に見える。

当時ベレットのリアサスペンションに起因する転倒問題は、対症療法ながら一定の実用性を確保するまでには至っていたが、根本的な解決を見ておらず、やむなく後継車では後輪独立懸架の開発を中止したというのが実情である。しかし、フローリアンの前後の接地バランスやロードホールディングはよく煮詰められたものであり、限界時の挙動もわかりやすく好ましいもので、かつ、安全な特性となった。元々スポーツ志向のモデルではないこともあり、ファミリーカーとしての中庸な操縦安定性、および耐久性を企図した、手堅い設計である。

歴史

プロトタイプ

117クーペの母体となった117サルーンが1966年10月の第13回東京モーターショーに117スポーツ(117クーペのプロトタイプ)とともに出品される。

デザインはジウジアーロが移籍してくる以前の「カロッツェリア・ギア」のフィリッポ・ザビーヌが担当。丸型4灯のフロントビューとリアコンビランプなどが生産型と大きく異なる。ギアのオリジナルではリアがファストバックであった。

初期型(1967年~1969年)

1967年11月発表。前後ともに逆スラント形状で、後端の下がったシルエットや、6ライトキャビン、大型の異型角形ヘッドランプなど、欧州車の雰囲気が強い外観で異彩を放った。フロントには当時、いすゞが採用しはじめた新エンブレム「アイマーク(円の中に縦長の楕円を2個配置しする、分銅に似たデザイン)」を採用している。

べレットGTの1,600ccOHVガソリンエンジンを扱いやすくチューンして搭載したが、1969年よりSOHCに変更となる。トランスミッションはデビュー時は3速MTであったが、翌年4速MTに変更されている。

セダンのテールランプはブレーキ(ダブル球による兼用)、バックアップとのコンビランプであるが、ライトバンは、跳ね上げ式のバックドアのためランプ取り付けスペースが狭く、ブレーキランプ兼用の小さな赤いレンズのみで、バックアップランプは左右のテールランプの下に、ボディーから飛び出す形で丸形のランプを別体で装備する。このレンズはワスプエルフのバックアップランプにも使われている。

1969年3月に初めてのマイナーチェンジを実施。フロントグリルのデザインを変更。セダンのリヤコンビランプは横長で立体的なものに変更され、さらに法規に対応させるためターンシグナルランプアンバーに変更された。同時にブルーバードSSSの対抗馬として唯一のホットモデル、TSが投入された。TSは「Touring Sports」の略で、ツインキャブレター装備モデルの区分となる。

当初はベレット用の1,600ccOHVガソリンエンジンがそのまま搭載されていたが、直後にSOHCに変更、1970年の中期モデル移行時に、全面的に117クーペ用1,800ccSOHCガソリンエンジンに切り替えられ、型式(かたしき)がPA30型となる。PA20型のTSはつや消し黒ボンネット(オプション)やフロントデザインなどでベレットGT同様のイメージを持たせ、他グレードとの差別化が計られていたが、1970年のPA30型移行時には全グレードが共通スタイルとなる。

中期型(1970年~1976年)

1970年10月に二度目のマイナーチェンジを受け、全グレードが丸型4ヘッドランプ(規格型)に変更となる。同じ丸型4灯でもTSのマスクとは打って変わり、メリハリのきいた造形となった。

ライトベゼルやグリルを金属のプレス品から大型の樹脂一体成型品へ置き換えて、従来難しかった立体的な造形と部品点数の削減を両立させる手法は、この時代の全メーカーの自動車に見られた。

セダンのリアまわりは初期型の1969年以降のモデルとほとんど変わっていないが、バックアップランプとリフレクター、その脇のガーニッシュの形状が変更される。外板の変更をなるべく避けるため、バックアップランプとリフレクターはともにボディーには埋め込まれていない。

前後ともに、クルマを大きく見せるためのデザインへと変更されたが、オリジナルのままのボディーラインとのマッチングには違和感があり、初期のイタリア車風の上品な雰囲気はここで失われている。

1,600ccSOHCガソリンのPA20型、パワーアップ版の1,800ccSOHCガソリンエンジン車であるPA30型が加わる。他社がモデルチェンジを繰り返す中、手直しで済ませたこの代以降は販売では苦戦が続き、法人需要に頼るのみで先細り状態となる。

1973年11月にもマイナーチェンジを実施。フロントターンシグナルは中期型117クーペと共通のものに変更された。ライトバンも同時に変更されたが、生産台数がセダンより少ないため、新しく金型を起こすことが許されず、テールランプはそのままで、その下に独立していたバックアップランプの色をアンバーに変更のうえターンシグナルランプとした。追い出されたバックアップランプは、バンパー吊り下げの汎用品となってしまった。同時に1,600ccのPA20型が廃止されている。

1975年11月には、昭和50年排出ガス規制により、対策困難な115馬力のスポーティ仕様のTS、1800DXオートマチックがカタログ落ちする。

1976年9月、昭和51年排出ガス規制への適合と同時に、グレードは5速マニュアルでクーラー付の豪華仕様の1800スーパーDXのみ、車体色もマルーンのみという完全1車型の、バリエーションが全くない状態となった。

また、ワスプに替わり生産されることになったピックアップトラックであるファスター / シボレー・LUVも、ベースとなるコンポーネンツがフローリアン以外になかったため、ボディーパネルにいたるまで部品の多くが流用されている。

後期型(1977年~1982年)

1977年11月、マイナーチェンジでシリーズ2(S-II)となる。

フロントグリルを独立させて大型化、メッキ仕上げとし、ヘッドランプを当時の流行にあわせた規格型の角型4灯へ変更、バンパーも大型化された。これらにより、外観は一気に無国籍な雰囲気となった。セダンのリアエンドもそれに対応させて垂直とし、バンパーを大型化、リアコンビランプも横長の大きなものへと変わったが、給油口の位置は変更されていない。一方で、ライトバンのリアまわりは、大型バンパーの装備以外はまったく手がつけられていない。

これらの変更は、大掛かりなボディー外板の金型の変更は一切行われておらず、すべてねじ止め部品を上からかぶせることで行われている。当然、機能上の進化もほとんど見られない。

結果、雰囲気は一変し、技術・品質・デザインの各方面で低迷していた同時代のイギリス車を彷彿とさせる威圧感ある風貌を呈したが、車幅やボンネット高に見合わないそのオーバーデコレーションは「悪趣味」と言われても仕方のないような風体で、「プアマンズ・ロールス」と巷で呼ばれることとなる。車名もフローリアンS-IIに変更される。但しダッシュボードは、初期型からの左右対称型で、クーラーが助手席のグローブボックスに内蔵されたままである。

また、この代よりエルフで好評であった、C190型1951ccディーゼルエンジン搭載モデルが設定された。乗用車用として騒音を下げるため、燃料噴射ポンプの駆動方法がギアトレーンからコグドベルトへ変更されているほか、エンジン停止方法もエルフの燃料カットから、より振動の少ない、電動インテークシャッターによる吸気カットに変更されている。QOS(クイック・オン・システム)という予熱時間がほとんど要らないシステムとあわせ、これらはいずれも、ディーゼルエンジンを知り尽くしたいすゞの面目躍如ともいう出来映えであり、オイルショック以降の省エネルギームードのなか、一定の注目と評価を受けた。

1978年に6195台を販売し、低迷した販売台数の底上げにディーゼルエンジン車が大きな効果を見せたが、同時期のライバル車にもディーゼルエンジン搭載車が追加されるようになり、ローレルが1978年11月、マークII1979年10月に登場した。これら2車は設計が新しいうえ、当初からパワーステアリングとAT車が設定されていた。原設計の古いフローリアンは競争力に欠け、販売台数も再び低迷する。

1979年5月、ディーゼル車の燃料噴射ポンプを、列型(ボッシュA型)から分配型(ボッシュVE型)へ変更。同時に昭和54年排出ガス規制に適合し、型式がK-PAD30となる。

ステアリングホイールをジェミニ(PF50系)の3本スポークのものに変更。ここではダッシュボードの形状は変更されていない。

1980年3月、マイナーチェンジ。特徴的な左右対称のダッシュボードをやめ、先の117クーペと同様のデザインへ変更、ようやく冷暖房と除湿ができるエアコンが設定された。ディーゼルのみATもラインナップされた。商品内容はアップしたものの、1981年には1976年(763台)以来、再び3桁台(490台)の販売にダウン。

1982年10月、生産を終了。不人気ゆえに投資ができず、改良が進まないまま、結果、また不人気が続く、という悪循環の生涯であった。しかし、いすゞディーゼルの美点は広く認められ、以降、ジェミニなどでのディーゼル車のヒットにつながっている。

セダンは1983年2月に発売されたアスカに引き継がれた(当初は「フローリアン・アスカ」と呼ばれていた)。

関連項目

外部リンク

テンプレート:自動車テンプレート:いすゞ車種年表 (初期) テンプレート:いすゞ車種年表