北近畿

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テンプレート:Pathnav 北近畿(きたきんき)は、近畿地方日本海側を指す地域名。

概要

京都府北部と兵庫県北部を指し、令制国では丹波国の北半、丹後国但馬国にあたる。

亀岡市南丹市船井郡京丹波町南丹または口丹と呼ばれる地域)や篠山市など、京阪神との繋がりが強い丹波国の南半にあたる地域[1]は北近畿には含まれない。

北近畿は、山陰海岸国立公園城崎温泉日本三景の一つ天橋立などの名勝を抱えており、夏には海水浴を、冬にはカニ料理を目的とした観光客が多く訪れている。京都府北部と兵庫県北部の自治体は、観光事業の促進のために北近畿広域観光連盟を結成している。

北近畿の開発事業を促進する北近畿開発促進協議会には、福井県南部(嶺南)の自治体も参加している。

地理

気候

日本海に面しており、気候は日本海側気候が見られるが、冬のは山間部を除いて北陸程は多くはなく、の日が比較的多い。このため、「弁当忘れても傘忘れるな」という格言が存在する。

地形

歴史

古代

古代の北近畿には、旦波(丹波)など地方王国が分立していた。これらの地方王国は、北陸越国)や山陰因幡国出雲国など)や北九州筑紫国末盧国など)の地方王国と共に、日本海沿岸の一大勢力を築いていた。その中でも旦波は、のちのヤマト王権に並ぶ独立性を持っていたとする説(丹後王国論)があるように、大陸との交易により力を備えていたと考えられている。伊勢神宮が現在の伊勢市に移る前には、元伊勢大江山の近くに鎮座していた。奈良盆地ヤマト王権が勢力を拡大すると、北近畿の地方王国はヤマト王権に恭順し、北近畿はヤマト王権の北の入口となった。旦波は、丹波国丹後国但馬国に三分割され、丹波国府は元伊勢から離れた場所で、山城国に極めて近い亀岡に置かれた。

戦国時代から江戸時代

戦国時代には、守護の細川氏が弱体化した丹波地方にはかつての細川氏の被官であった国人領主がそれぞれ割拠した。若狭・丹後地方は守護の若狭武田氏と旧守護の一色氏が抗争をつづけたものの共に内紛により弱体化していった。畿内において織田信長が台頭し政治の実権を握るとそれらの勢力は駆逐され、信長の配下の丹羽長秀明智光秀細川藤孝などが北近畿を支配するようになる。本能寺の変で信長が斃れると、代わって台頭した豊臣秀吉により光秀は倒され長秀と藤孝は臣従し、北近畿は豊臣政権の支配の下に再配分された。秀吉没後の関ヶ原の戦いにおいては、北近畿は田辺城の戦いなど激戦地域の一つとなる。

江戸時代に入ると、北近畿には、宮津藩丹後田辺藩福知山藩綾部藩篠山藩豊岡藩出石藩といった小さなが分立した。杞柳(こりやなぎ)製品から始まった豊岡綾部紡績業といった地場産業には、この時期に興った物もある。

明治時代

江戸幕府が倒されて明治政府が誕生すると、廃藩置県によって、豊岡県が誕生する。しかし、1876年8月21日には、豊岡県は廃止され、山陽道沿線や中山道沿線の府県に編入された。

富国強兵政策が執られた明治時代には、いままで寒村であった東舞鶴舞鶴市東部)に舞鶴鎮守府が設置され、日本海沿岸の一大軍事拠点となり、軍都として急速に発展し、日本海側有数の都市圏を形成することとなった。これと前後して、大阪京都敦賀から舞鶴に向けての鉄道が敷設され、北近畿にも鉄道の敷設が進められた。

戦後

第二次世界大戦後には、特に高度経済成長期に太平洋ベルトから漏れたため、北近畿でも過疎化した地域が見られるようになった。しかし、現在では舞鶴若狭自動車道の整備や、京都府が主導する工業団地の建設などが進められている。

産業

工業団地

京都府
兵庫県

特産品


交通

交通の現況

鉄道は山陰本線福知山線舞鶴線及び小浜線のJR線及び北近畿タンゴ鉄道の路線がある。

高速道路は整備が遅れていたが、現在は舞鶴若狭自動車道小浜方面と阪神方面を貫くとともに、鳥取豊岡宮津自動車道京都縦貫自動車道京都方面と鳥取方面を貫くべく建設中である(現在は宮津天橋立ICから京丹波わちICまでが開通)。又、北近畿豊岡自動車道が舞鶴若狭道春日IC・JCTより分岐し、和田山IC播但連絡道路と連絡している。

鉄道

西日本旅客鉄道
北近畿タンゴ鉄道

道路

高速道路

国道

脚注

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関連項目


外部リンク

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  1. これらの地域はおおよそ桂川(大堰川)加古川といった瀬戸内海に注ぐ水系に含まれる。