天龍源一郎

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天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、男性、1950年2月2日 - )は、日本プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重110kg)。

多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、第一線で活躍し続け日本プロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として、一目置かれる存在である。

来歴

角界時代

福井県勝山市に農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで大鵬が嶋田の元へやって来て大相撲へ勧誘した。その結果として入門が内定したことから中学2年の時に墨田区立両国中学校へ転校した。

1963年12月、二所ノ関部屋に入門。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て天龍はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。16歳の時のある巡業では移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も1人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた[1]

「天龍」の四股名1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰めるが、1975年師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の興した押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈したとされる(自身の著書で金剛とはそりが合わなかったと語ったこともある[2])。1976年秋場所に勝ち越したものの(東前頭13枚目、8勝7敗)、同場所を最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。

全日本プロレス

入団と共に渡米しファンク道場で修行、1976年11月13日にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館跡地)においてリング上で断髪式を行う。止め鋏はジャイアント馬場が入れている[3]。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった[4]

大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田のみ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていたとのこと。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれたり、ジャンボ鶴田とタッグを組んだりしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日所属だったときは、戸口よりも格下扱いであった。

1981年7月30日、ビル・ロビンソンとのタッグで馬場・鶴田組の保持するインターナショナル・タッグ王座へ挑戦したことを契機に何かを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている[5]ように、実際この試合以降から天龍の評価も急上昇し全日第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。

この頃から、ライバル団体である新日本プロレスの総帥アントニオ猪木に遠慮して使っていなかった延髄斬り卍固めを使い始め、全日本で異彩を放つようになっていく。それまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黄色の紐のシューズという、現在まで続く天龍のスタイルに変更。鶴田と次期ダブルエースの座を確立し、1984年2月リッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得。

さらに長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田とのタッグ「鶴龍コンビ」で長州・谷津嘉章組と抗争を繰り広げ、人気も得た。

1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日マットの活性化を目指し龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木川田利明小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年1989年プロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでのタッグ対決ながら馬場からパワーボムからのエビ固めで日本人では初めてピンフォールを奪った。試合後に当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾る。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。

SWS、WAR

1990年横浜文化体育館大会において、鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱しSWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWS在籍中には、SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場。北尾光司とタッグを組んでデモリッションと対戦し、天龍がスマッシュパワーボムに沈めて勝利した。

SWS崩壊後、1992年7月WARを設立、新日本との対抗戦に活路を見出した。1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により、1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。

1994年1月4日の東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちしたことのある唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。

1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し、藤原喜明北尾光覇を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得。この試合は天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に、「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。

フリー、WJプロレス

1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年に全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王者に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。

2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したものの、WJは経営が迷走。WJを離脱した。

新日本プロレス、NOAH、ハッスル参戦

2004年1月4日、新日本プロレス東京ドーム大会に参戦し、中西学とシングルで対決し、結果は天龍の敗北。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場。2005年初頭から、元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴仲田龍は三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの、当時は馬場元子が認めなかったとされる。ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕が出来、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では元付き人の小川良成と対戦し勝利を収めた。 他にも、ノア参戦時にはKENTA潮﨑豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。

また、DRAGON GATEにも参戦し、WAR時代の元付き人であるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める[6]。同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。

2006年7月27日には、6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。

2007年10月、に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。

自主興行

ハッスルの活動停止後しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると、4月に「天龍プロジェクト」の名称で自主興行を行い活動を再開させる方針を明らかにした[7]。同興行には百田光雄折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは娘である嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。

2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した[8]

2011年12月から、腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った[9]

獲得タイトル

全日本プロレス

第29代時に最年長戴冠記録を樹立。
第26代の途中からPWFヘビー級王座との2冠王座となる。

新日本プロレス

WAR

ハッスル

  • ハッスル・スーパータッグ王座:1回(w / 安田忠夫

WJ

  • WMGタッグ

天龍プロジェクト

  • 天龍プロジェクト認定世界6人タッグ王座:1回(w / &石井智宏

海外

大相撲時代

主な成績

  • 通算成績:393勝355敗(77場所)
  • 幕内成績:108勝132敗 勝率.450(16場所)
  • 十両成績:94勝71敗(11場所)
  • 優勝:幕下1回(1970年9月場所)、十両1回(1975年7月場所)

土俵歴

  • 初土俵:1964年1月場所
  • 新十両:1971年9月場所
  • 新入幕:1973年1月場所
  • 最終場所:1976年9月場所
  • 最高位:前頭筆頭

場所別成績

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改名歴

  • 島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所
  • 嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所
  • 島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所
  • 天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所

ファイトスタイル

痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。

ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、新日本に参戦した際にも多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも大きな特徴。一方で、アメリカをサーキットした経験もあることから、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーのシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。

50代に入ってからは肉体の衰えもあり、パワーボムの様な大技を使う機会は徐々に減ったが、喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなどの打撃を中心とした、武骨なファイトスタイルを確立している。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。

打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。

得意技

パワーボム
天龍最大の必殺技で、幾多のレスラーをこの技でフォールしてきた。かつては「オレのは他の奴らとフォールの姿勢が違う。ガッチリと押さえ込めば返せる奴はいない」と豪語していた。
全日本時代の1983年4月に来日したルー・テーズに伝授されたが、威力に懐疑的な天龍は使用しなかった。ところが同年、テリー・ファンク引退試合の為に来日したテリー・ゴディに仕掛けられ3カウントを奪われてしまい、あまりの衝撃(技の威力)に「こんなに効く技だったのか」と驚いて天龍自身もこの技を使うようになった。以後この技で、馬場、猪木、鶴田、長州、藤波を始め、若き日の四天王、三銃士らトップどころ全員からピンフォールを奪った。
やがてこの技は川田利明に受け継がれ、天龍自身は53歳を編み出してからほとんど使用していない。
53歳
独特のタイミングで落とす変形の垂直落下式ブレーンバスター。初期はジャックハマーのように体を浴びせる別物の技であったが、徐々に現在の形へと変化していった。パワーボムを使用しなくなってからは、こちらがフィニッシュ・ホールドとして使用されている。53歳は開発当時の年齢。当初は開発以降年齢を重ねるごとに「53歳→52歳→51歳→…」と1年ごとに若返っていく構想であったが、これは実現しなかった。
垂直落下式ブレーンバスター
上記のようにパワーボムが必殺技としての威力、迫力に陰りが見え始めた頃に新たな必殺技を模索していた時期があり、その頃から頻繁に使用し出す。この技と下記ノーザンライトボムを元に上記53歳を開発した。
ノーザンライト・ボム
1999年に佐々木健介を挑発する形で使用し始めた。試合後のマイクパフォーマンスでの「健介、ノーザンは貰ったぞ」という発言は語り草になる。その後、使用し続けることで「53歳」へと発展した。ちなみに、健介は後にテレビ番組のインタビューで「今までこんな酷いことを他人にやって来たのかと思った」と苦笑した。
DDT
日本では天龍本人により「デンジャラス・ドライバー・テンリュウ」の略と発言したため、命名の由来に誤解が生じたことがある。キャリア後期以降も繋ぎ技として時折使用する。
天龍稲妻落とし
天龍が風雲登り龍として最初にブレイクした際の決め技。ジャイアント馬場から直々に指導を受けている。上記DDTと勘違いされることが多いが、フェイスバスターの型を取っておりやや異なる。
逆水平チョップ(天龍チョップ)
チョップの威力を再び世に知らしめた中興の祖で、その鈍い衝撃音は会場に響き渡る。1980年代までは天龍チョップというと、相撲突っ張りを応用したもので「突っ張り連発で相手をコーナーポストやロープ際に追い込む」だけのものを指したが、多様なチョップへ変化し、現在は主に逆水平チョップを天龍チョップと呼ぶことが多い。特に天龍が繰り出すのど笛への逆水平チョップは「最もえげつないチョップ」としばしば評され、かつてジャンボ鶴田をキレさせたことがある。
起き上がりこぼし式逆水平チョップ
上記の逆水平チョップのバリエーションの一つで、左手で相手の手首を掴み、チョップで倒れた相手を引きずり上げ再びチョップを打ち、倒れた相手を再び引きずり上げを繰り返す。全日における天龍同盟時代、観客の心無い野次に怒った天龍が、その怒りを対戦相手にぶつけるために使ったとも言われている。そのためか、現在はほとんど使用していない。この技も川田が引き継いで使用している。
グーパンチ
握り拳で顔面を殴りつける技。いわゆるナックルパートなのだが、天龍が独自の工夫を凝らし長年愛用してきた結果、解説者でさえ「グーパンチ」と呼ぶようになった。腰の回転は利用せず、殴ると同時に同じ側の足を強く踏みしめ、会場に音を響かせて見た目以上のインパクトを与えている。かつての付け人である小川良成も同じようなグーパンチを繰り出している。本来は反則だが、天龍が使用する場合はなぜか反則カウントを取られることは少ない。なお、グーパンチ→逆水平のコンボを繰り返し使用するパターンもある。
顔面蹴り(サッカーボールキック
天龍同盟を結成した頃より多用している。ダメージを受け、うつぶせあるいは四つん這いになっている相手に対し、下から足の甲で思いきり相手の顔面を蹴り上げる強烈な蹴り。レガースやパット付きブーツではなく普通のリングシューズのまま蹴るため、試合によっては相手の顔に靴紐の跡が残ることもある。
延髄斬り
アントニオ猪木の跳躍力を利用するものと違い、左手を相手の左肩に乗せ、体重を下に乗せながら跳び、斜め上から鉈を振り落とすように重く脚を当てる技である。田上明も天龍型の延髄斬りを使用する。
この技を使うようになったきっかけは、アメリカでの修行中に新日本プロレスの興行から帰ってきたレスラーから「猪木が妙なキックを使う」という話を聞き、それを参考にして自分なりの延髄斬りを編み出したためである(マスクド・スーパースターに放った延髄斬りをブラックジャック・マリガンに評価され、使用するようになったという)。
また「風雲昇り龍」としてブレイクし始めた頃は相手の背後から走り込んで蹴る(サッカーのジャンピング・ハイボレーシュートのような形になる)延髄斬りや、相手をロープに振って、戻ってきたところを横から蹴る延髄斬りを使っていた。ただしロープ・リバウンド式はタイミングを誤って相手に当らず空振りとなってしまうことがたまにあった。ジャンピング・ハイボレー式はこれが試合のフィニッシュになるくらい威力は高かった。
ラリアット
天龍のラリアットは左腕で浴びせ倒すスタイル。同じ型のラリアットをマグナムTOKYOが龍魂ラリアットとして受け継いでいる。
ダイビング背面エルボー・ドロップ
リングに背を向けてコーナーにのぼり、そのまま後向きに飛び降りながらエルボー・ドロップを繰り出す。エルボーを落とした後、勢いで一回転することもある。また精度があり、滅多に回避されない稀有な空中技として有名。
NWA王者時代のテリー・ファンクがフィニッシュとして多用していた技であり、テリーから若手の頃直伝されて使用している技。全盛期はリング中央近くまで飛んで行く飛距離を見せていた。
WARスペシャル
尻餅をついた体勢の相手の両腕を背後から抱えるように極めながら相手の後頭部に上体を密着させ、窒息または首関節の圧迫を狙う。もともとはルー・テーズのライバルとして活躍していたルー・キムの必殺技で、「満州固め(マンチュリアン・クラッチ)」と呼ばれていた。隠し技として裏WARスペシャルという技も存在する(変形の羽根折り固め)。
テキサスクローバーホールド
相手の両足を両腕でインディアン・デスロック状に固定して逆エビ固め状態で絞り上げる。テリー・ファンクが元祖。
卍固め
初めてインターナショナルタッグに挑戦した際、控室でパートナーだったビル・ロビンソンが教えた。一時期使用していたが、現在はほとんど使っていない。
ショルダー式ネックブリーカー
いわゆるヨーロッパ式ネックブリーカーで、こちらもインターナショナルタッグに挑戦した際にビル・ロビンソンから教えられたもの。卍固めと違い、こちらは今でも時々使用する。

その他、天龍は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。

雪崩式フランケンシュタイナー
この技を得意とする武藤との対戦で初めて繰り出して以来、時折使うことがあった。ちなみに、初めて使った時には自身も頭を打った。
スパイダー・ジャーマン→ダイビング背面エルボー・ドロップ の連携
ジャーマン・スープレックス・ホールド
1980年代から1990年代前半の一時期多用していた技。
浴びせ蹴り
トペ・スイシーダ
高齢のヘビー級選手かつパワーファイターがこの技を使用するのは非常に珍しい。身体をやや捻りながら飛んで行くためショルダー・スイシーダのような形になる。
凶器攻撃
代表的なものに本物のビール瓶をテープで覆って使用する。
毒霧
毒霧を仕掛ける前にセコンドからペットボトルらしき物を受け取っている。ムタとの三冠戦の時には観客とカメラの真ん前で堂々と水筒?から口に含んでいた。

エピソード

  • 父は大変血気盛んな人物であったといい、自身が小学生の頃の地元の相撲大会で「うちの息子を中学生の部に参加させろ」(毎回源一郎が優勝していたという)と無茶を言うも認められず、源一郎少年に八つ当たりした挙句自宅からバイクで30分かかる会場へ置いて帰ってしまった、という類の出来事がしばしばあったという。夜に家で数学の宿題を行っている際に「てめぇ、こんなのもわからねぇのか!」と殴られたこともしばしばあり、父の時代と解き方も方程式も違っている事を説明しても納得せずさらに殴ったという。このことについて、父が死去した際に週刊ゴングで本人が「厳しい父だった。怖い父だった。でも、俺の心の中で常に英雄だった」と語っていた。一方で礼儀作法や長男としてのあり方を教え込むときは理にかなっていたという。この教育観について天龍は後年「娘が言うことを聞かないことがあれば手を挙げていたがそれが大きな間違いだと気づかされた」と語った一方で「子供は自己判断なんかできないんだから、抑制がなければ誘惑のおもむくまま。今の子供たちが好き勝手やって弊害を生じさせているとしたら、それは親の責任。こういう事を考えるような歳になると、昔ながらの親父のやり方もある意味間違ってなかったかな」と父の教育観に共感する場面も見せた。
  • 東前頭7枚目だった1973年11月場所の千秋楽、横綱輪島が前日に休場した影響で「これより三役」に登場した(横綱琴櫻に負け)。
  • 天龍は二所ノ関部屋で大麒麟と大鵬から特に影響を受けたという。まだ取的であったある年の九州場所中の夜、大麒麟が「じゃあ、俺はこれで帰るから。嶋田、これで遊んで来い!」と財布を手渡したが中に100万円(現在の500万円に相当する)が入っていたという。大鵬も豪快だったようで、天龍には特に奮発して財布ごと渡したという。だがあまりに高額なので使わずに本人達の元へ戻しに行くことも多かったという。そうした出来事に影響を受け、天龍は関取に昇進してから現在にいたるまで飲食は身銭を切る事にしている。大相撲時代もタニマチからの祝儀に一切頼らず飲食は自費で行ったといい、金払いが滞ることも一切無かった。全日時代、天龍の付き人をしていた小川良成は巡業先での食事代はもちろんのこと、全日本の給料(当時は推定5万円)の何倍も天龍から小遣いを貰っていたと公言している。
  • 落語家6代目三遊亭圓楽墨田区立両国中学校の同級生で親友。田上明を紹介され全日本入団に協力した。
  • プロレス転向の話を持ちかけられた際に「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。実際にその通りの結果を残し、晴れてプロレス転向を遂げた。
  • 「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は「風雲昇り龍」として1981年にブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いた。
  • 1980年代後半以降、新日本・全日本の二大団体時代が終焉し多団体時代が到来するとプロレス界は「メジャー系」「UWF・格闘技系」「インディー系」「エンタメ系」「ルチャリブレ系」「女子プロ系」という形に各団体がジャンル分けされていったが、天龍は女子も含めた全てのジャンルのトップレスラーと対戦した。最大の宿敵・鶴田を皮切りに猪木、藤波、長州、谷津、輪島、武藤、ムタ、蝶野、橋本、馳、佐々木健介、川田、小川良成、高田、藤原、北尾、大仁田、ターザン後藤、ハヤブサ、マグナムTOKYO、神取(女)とシングルマッチで対戦しいずれも勝利を収め、タッグマッチながら馬場から日本人初のピンフォールを奪っている。この他にもNOAHの三沢、小橋、田上、秋山、第三世代の天山、小島、永田、中西、西村、新三銃士の中邑、棚橋、柴田、UWF系出身の初代タイガーマスク、山崎、鈴木、高山、インディー系のポーゴ、K・ナガサキ、ハッスルのHG、インリン様、曙、ルチャ系のサスケ、新崎人生、西口プロレスアントニオ小猪木、更にはUFO時代の最も暴走していた頃の小川直也とも対戦している。全く対戦経験がない大物は前田日明くらいであり、日本人レスラーとの対戦経歴の幅広さは業界でも群を抜いている。
    • ちなみに前田は第一次UWFから新日本にUターンしていた1980年代後半に、元横綱・輪島大士に硬いリングシューズで容赦ない蹴りを見舞う天龍を見て「あんな激しい戦いをされたら自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという。2011年に『Versus』において天龍との対談が実現すると、前田は「ご意見番となる人がもういない。天龍さんにはプロレス界全体ににらみをきかせてもらいたい。こうじゃなきゃダメだって」、「リング上でものわかりの良すぎる今の若いレスラーをガツンと痛い思いをさせて欲しい」と、還暦を過ぎてもなおリングに立つ天龍にエールを送った。
  • プロレス界一の豪傑、酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」などと呼ばれ、自分は飲まずに記者などに次々飲ませて潰してしまう。藤原喜明との「酒宴」では、果てしなく飲んだ後にヘッドバット合戦を始めた。またダチョウ倶楽部上島竜兵に、10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいた人全員(見知らぬ人含め)の勘定を払ったりという気前の良さも持ち合わせる。だが、それはあくまでファンや他人の前だけであって、プロレス関係者に対してはその限りではない。レスラーとして見られることをプロとして十分に意識した上での振る舞いとされる。
  • 越中詩郎が全日本を離脱し新日本プロレスに移籍することを決め、ジャイアント馬場に了解をとるため全日本の遠征先の宿に向かった際、そこで偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場の元に向かい、あくまで移籍を認めようとしない馬場に対し、越中の意を汲んであげるよう説得した。そして越中が宿を離れる際、はなむけの言葉とともに、餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという(越中の著書より)。
  • 「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めを使用したことから猪木の亜流と揶揄されたりしていたが、テリー・ファンクは一度目の引退後に雑誌のコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と評し、他の外国人選手も同調したが、天龍自身は「俺がヤツラに勝てないからだろ!」と自嘲したという。
  • 鶴田が返上したUNヘビー級への挑戦が決まった際、最初は親しい記者達に「なんでジャンボの『お下がり』のベルトに俺が挑戦しなきゃいけないんだ」と不満を口にしていたが、やはり本音はかなり欲しかったようで、王者テッド・デビアスとの選手権試合で獲得に失敗した際、試合後のロッカー・ルームで「いくらいい試合をやったって、タイトルが取れなきゃ意味ないよ…」と洩らしたきり、プロレス記者、若手レスラー達も声をかけられない程ガックリと落胆。弟子を滅多に慰めたりしない師匠・ジャイアント馬場が「天龍、ネクスト・トライだ…。(この試合で)終わり、という訳じゃないんだから。な?」と労うほどであった。苦労して手に入れたUNベルトへの天龍の思い入れの深さは、長州力とのUN戦で「俺達の戦いにベルトなんて必要ない」と長州がベルトを投げ捨てた際に凄まじい形相で長州に往復ビンタを張った事、三冠ヘビー級王座を獲得した際も、腰に巻くのは必ずUNベルトである事からも見てとれる。
  • 全日本時代は後輩の面倒見が良く、支持派も多かったという。三沢光晴SWSに関して、「(天龍から)直接声がかかっていれば行っていた」と語っており、また川田利明ノアに関して、「あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った」と語っている。
  • 小橋建太天山広吉と共にチョップ特集で『NANDA!?』に出演した時、プロレスの永遠の疑問である「なぜプロレスラーは技を避けないのですか?」という質問に対し、天龍は「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えている。また、週刊大衆のプロレス特集では「ハンセンのラリアットだろうと、ジャンボ(鶴田)のバックドロップだろうと、全てまともに受け、それでも立ち上がってみせるのがプロレスラーだ。それで負けたら『ああ、俺が弱いから負けたんだな』って思うだけでね」という自身の「受けの哲学」も披露している[10]
  • 前田日明は、1987年頃に天龍が輪島の顔面を普通のリングシューズにもかかわらず容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴っていた天龍の姿に衝撃を受けた。天龍自身はこの行為について「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。また、輪島以外でも石川敬士高木功田上明といった格下の相撲出身レスラーに対しても厳しい洗礼を見舞い続けている。
  • 入場曲『サンダーストーム』について、SWS時代は当初、個人別ではなく部屋単位での入場曲が使用されていたため、会場で流されない時期があった(団体自体は容認してもこの措置には納得のいかないファンの批判が集中したため、後に選手別入場曲は復活する)。
  • 上田馬之助はSWSが失敗した原因として「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。しかしその後、前述通り新日本マットに上がり新日を制覇したといってもおかしくない程の実績を残し、さらにアントニオ猪木までも倒す活躍を果たした。
  • 神取忍と対戦した際、容赦なくグーパンチ逆水平チョップを浴びせボコボコにした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはない」等のコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し、あえて手加減しないことで神取に敬意を示した。
  • 相撲時代は美男子力士として女性人気が高かった。
  • 全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に日焼けをし、褐色ボディへと変貌を遂げた。また近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている。
  • 半面、その悪声は知られるところであり、ある種トレードマークとなっている。
  • 2006年7月に、スポーツ紙上で「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、ジャンボの死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。
  • 天龍は自身のベストバウトとしては、鶴田とのシングルでの最後の戦いとなった鶴龍対決の第7戦目を上げている。また、天龍は「正直、3試合目くらいからジャンボとの地力の差を感じていた。いつも『お客さんにはジャンボよりも1ミリ先を見せよう』って頑張っていたけど、この最後の一騎討ちだけは、試合中に初めて『転んで(負けて)もいいや』って思った。実際、負けてしまったんですが、もう全日本を辞めようって気持ちがあって(この試合を最後に退団)、それと、どこか重なってしまったんです」と語っている[11]
  • 今でも時間を見つけては鶴田の墓参りに赴く姿が週刊プロレスなどで取り上げられている。
  • 2009年6月に三沢光晴が試合中の事故で他界したことについて記者からコメントを求められたとき、「俺とあいつの関係で月並みなことは言いたくない」としてノーコメントを貫いた。
  • 天龍の「リュウ」が、外国人には発音しにくいため、アメリカでの修行時代からアメリカでは「テン・ルー」のリングネームを使用していた(後に全日本のアメリカ遠征に出場する際にもこのリングネームを使用している)。その他、修行時代からの友人でタッグパートナーでもあったスタン・ハンセンロード・ウォリアーズリック・フレアーらも「天龍」ではなく「テンルー」と呼んでいた。
  • また1978年のフロリダ地区での再修行時代には、「テン・ルー」として素顔で闘うだけでなく、白地に鷹をあしらったマスクを被り、パートナーに現地のレスラー(ソニー・ドライバー)、マネージャーにタイガー服部を従え、「ライジング・サンズ」として活動したこともある。
  • インディー団体のリングにもこれまで上がり、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍マンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎打ちでフィニッシュ・ホールドとなった)必殺技である「53歳」を糧とし、「29歳」(佐々木の当時の年齢)を開発している。
  • 2010年5月31日、西口プロレスに出場。前年まで出場していたハッスルから新たに激しいプロレスを魅せる天龍プロジェクトを立ち上げた矢先にアントニオ小猪木と対戦。掌打、グーパンチ、喉笛チョップ、顔面蹴りなどで、小猪木の額には靴紐のアザ、左右の奥歯を2本折るという妥協なきスタイルを貫いた。
  • 2009年12月23日、『ホリデーインタビュー』(NHK総合)という祝日の早朝番組に出演。特にテレビ出演をしない天龍が、しかもNHKの番組に出演するのは意外な一面であった。

入場曲

  • サンダーストーム高中正義。1981年のアルバム「虹伝説」収録曲。なお、ハッスルに出場している時はカバー版を使っている。SWS時代は冒頭にゴジラの鳴き声が入っていた。)

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した。因みに騒動の中心人物である山本順一とは同い年であり初土俵の同期でもあった。
  2. 金剛が二所ノ関部屋を継承してから部屋の力士には稽古相手をしてもらえなくなり、「天龍はもうすぐ廃業する」といううわさを流されてしまったこともあるとされ、その内後者は程無くして実際に起こってしまった。
  3. 同年11月には妹の結婚式があり、父の意向で力士の立場で参加するために髷を残しておかなければならなかった。そのため渡米時代には天龍と同期の元力士である桜田一男が髪結いとしてジャイアント馬場の命で帯同していた。
  4. 2011年12月日テレG+プロレスクラシック』より。なお、当時実況を担当していた松永二三男は「天龍源一郎」とアナウンスしていた。
  5. Gスピリッツ No.10『漢たちの昭和・全日本』(辰巳出版)の天龍源一郎インタビューより。
  6. 2005.10.10 天龍源一郎がDRAGON GATEの顧問に就任! - DRAGON GATE
  7. 4.19天龍プロジェクト旗揚げ、百田光雄も現役最年長記録を目指す - kamipro.com・2010年3月4日
  8. 天龍という強力な助っ人を得た高木が、東郷への挑戦が決まっている石川にフォール勝ち!村上が諸橋を救出!大家は金本戦へ - バトル・ニュース
  9. テンプレート:Cite news
  10. 週刊大衆特別編集『プロレス大事変50の真相』(双葉社
  11. 『週刊大衆』(平成25年11月25日号) 「激闘昭和のブロレス オレの“心の名勝負”」(双葉社