WAR (プロレス)

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WAR(ダブリュー・エー・アール)は、日本プロレス団体。当初はWrestle And Romanceの略とされていたが、後にWrestle Association Rに変更された。

歴史

SWS崩壊後、その一派である「レボリューション」のメンバーが中心となり、1992年7月14日後楽園ホール大会で旗揚げした。SWS時代から友好を保っていたWWF(現:WWE)の選手を招聘したり、SWSの親会社であったメガネスーパーからも期間限定ながら資金援助も受けていたが、旗揚げ後間もなくして、天龍を中心に他団体へ積極的な交流路線に乗り出し、順調な観客動員を記録した。

旗揚げ直後、越中詩郎らの平成維震軍(反選手会同盟)が参戦して来たことを契機に、天龍らWAR勢は新日本プロレスに積極的に参戦、後に長州力との6年ぶりの対決(1993年)やアントニオ猪木との対戦(1994年)を実現させた。

新日本プロレスとの対抗戦をひと段落させた後は、FMWをはじめとしたインディペンデント団体、UWFインターナショナル、女子団体であるLLPWなど幅広く交流を進めた。その中でも天龍は団体の代表として、大仁田厚との電流爆破デスマッチ(1994年)、高田延彦との二度にわたる一騎打ち(1996年)などジャンルを問わず、精力的に参戦した。また、団体内対抗勢力として、それまで天龍の側近的存在であった冬木弘道邪道外道らとともに冬木軍を結成し天龍と対決する構図を作り上げ、冬木は「理不尽大王」の異名を取るなど脚光を浴びた。このほか「相撲軍団」、「反WAR軍」なども活動していた。これ以外にも、LLPWとの男女混合タッグトーナメント開催や、6人タッグのベルト設立、一連の抗争劇による武井正智社長自身の試合出場など幅広い路線で話題を振り撒いた。しかし、これらの路線の全てが成功したわけではなく、徐々に観客動員数は下降線を辿っていった。

もともと天龍源一郎を一枚看板とした団体であり、団体内におけるライバルや後継のエース(荒谷信孝を売り出したが、大成せず)が育たなかったことが、最終的に観客動員の低下につながった。また旗揚げ当初は社長兼エースである天龍を中心として一枚岩を誇っていたが、天龍の義弟である武井正智が社長に就任した頃から団体内部に亀裂が生じ、1994年には石川敬士が離脱し東京プロレスを設立。さらに後に冬木弘道折原昌夫らの退団を招く形となった。

1998年に全選手の解雇を発表。以後は団体ではなく興行会社として2000年7月のWAR8周年記念大会まで活動。団体として余力のある内に経営を停止した。2006年7月27日後楽園ホールで、天龍が最高顧問を務めるDRAGON GATEの支援を受け、6年ぶりとなる興行が行われた。会場は旧来のファンが集い超満員となり、天龍自身も2試合に出場した。これによりWARは団体としてのけじめをつけたとして、活動を停止した。なお、WARではIJ王座というタイトルをシングル・タッグともに有していたが、天龍の意向により団体活動終了後もIJ王座は主にDRAGON GATEを中心として継続することとなった。

「夢の懸け橋」を巡る対応

1995年4月2日東京ドームで開催されたベースボール・マガジン社主催の「夢の懸け橋」興行についてはWARは参加せず、当初より決定していた隣の後楽園ホール大会を優先した。当初は主催者側より参加要請されたものの、SWS時代に「週刊プロレス」編集長であったターザン山本(山本隆司)の編集方針に対して取材拒否をした関係から、参加を拒否した。この日のWAR側の興行には新日本プロレスから長州力越中詩郎らが参加し、こちらも満員を記録。会場に入りきれないファンのために、後楽園ホール内の別の場所でクローズドサーキットによる同時上映も開催されている。武井が後年の発言で、参加要請に難色を示したところ、ターザン山本から「これでWARもマイナーに追い込むしかないね」といった発言をされ、この発言を伝え聞いた天龍も激怒し、参加拒絶となったと語っている。因みに、参加拒否を明確にした直後、天龍は実話雑誌のインタビューで、WAR(天龍)が「週刊プロレス」の取材を解禁した事情について、平成維震軍のWAR参戦により同誌の方から取材させてほしいと依頼してきたと話している。なお、取材解禁後初のターザン山本による天龍へのインタビューは、ぎこちない雰囲気のなかで行われたと武井は証言している。 また、翌1996年に新日本プロレスが起こした『週刊プロレス』に対する取材拒否騒動に対しても、UWFインターナショナルとともに同調して同誌に取材拒否を行った。

「プロレス連合會」の結成

1996年、当時の東京プロレスのオーナーとIWAジャパンを離脱した佐藤昭雄により『日本プロレスリング共同機構(ファイティング・フォー・フューチャー、略称「FFF」の設立が発表された。これは乱立するインディペンデント団体を統一する受け皿として設立したもので、佐藤の動きに呼応する形で、WARを離脱して間もない冬木軍やWARにも参戦していたターザン後藤ら『真FMW』も参加を表明した。これに対し、東京プロレス設立の経緯に加えて、看板選手であった冬木軍を事実上引き抜かれたのも同然と考えたWARはFFFに対抗するべく、交流するインディ諸団体に働きかけてインディ団体の集合体「プロレス連合會」を発足させた。これにはIWAジャパン、武輝道場冴夢来プロジェクトレッスル夢ファクトリー大日本プロレスが加わった。連合會側は、FFFへの不参加を表明した石川敬士ら東京プロレスの残党を参戦させるなど、FFFとの対決姿勢を見せたが、発足わずかで、大日本が方向性の相違から連合會から離脱するなど足並みが乱れ、さらには肝心な対抗相手であったFFFが資金難などから旗揚げ戦も行えずに崩壊したことから、連合會も有名無実化し翌年には自然消滅の形となった。

タイトル

所属選手

スタッフ

レフェリー

リングアナウンサー

その他

来日外国人選手

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