アブドーラ・ザ・ブッチャー

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アブドーラ・ザ・ブッチャーAbdullah the Butcher)は、カナダオンタリオ州ウィンザー出身のプロレスラー。本名はローレンス・ポール・シュリーブLawrence Paul Shreve[1]、一般にはラリー・シュリーブLarry Shreve)。

生年月日は1941年1月11日とされるが[2]1936年の生年説もある[3]ギミック上の出身地はアフリカスーダン。日本でのニックネームは「黒い呪術師」。入場テーマ曲はピンク・フロイドの『吹けよ風、呼べよ嵐』。

プロレス界を代表する悪役レスラーの一人。来日回数は140を超えており、歴代外国人レスラー最多である。親日家としても知られ、現夫人は韓国人日本人のハーフである[4][5]。 

来歴

ネイティブ・アメリカンの父親とアフリカ系アメリカ人の母親の間に生まれる。出生時は4ポンド(約1800グラム)にも満たない小さな新生児だった。少年時代は柔道空手を学んだ。

1961年モントリオール地区のプロモーターであったジャック・ブリットンにスカウトされデビュー。デビュー当時は「プッシーキャット・パイキンスPussycat Pikens)」、「ゼーラス・アマーラZelis Amara)」などを名乗っていたほか、現在の「アブドーラ・ザ・ブッチャーAbdullah the Butcher)」に落ち着くまで何回かリングネームを変えている。また、海外武者修行中のサンダー杉山ともしばしばタッグを組んだ。

1960年代カナダ各地を主戦場に、バンクーバーではドクター・ジェリー・グラハムと組んで1967年にクリス&ジョン・トロスからNWA世界タッグ王座(バンクーバー版)を獲得し[6]、10月から11月にかけてはジン・キニスキーNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[7]。モントリオールでは1969年イワン・コロフからIWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している[8]1970年にはスチュ・ハートの主宰するカルガリースタンピード・レスリングビル・ロビンソンと北米ヘビー級王座を争った[9]

1970年代前半はアメリカ五大湖地区を拠点に活動。1972年6月24日には、オハイオ州アクロンにてアーニー・ラッドを破りNWF世界ヘビー級王座を獲得[10]ザ・シークの牛耳るデトロイトでは、ボボ・ブラジルを相手にNWA世界タッグ王座やUSヘビー級王座を巡る抗争を展開した[1]

南半球にも遠征し、1973年11月にはオーストラリアにおいてNWA世界ヘビー級王座に挑戦。王者ジャック・ブリスコからフォールを奪うも、ラフファイトが反則とみなされ王座は剥奪、幻の戴冠となった[11]ニュージーランドでは、1974年3月12日にジョン・ダ・シルバを破り英連邦ヘビー級王座を獲得している[12]

1970年代半ばからは日本を主戦場としつつ、現在のホームタウンであるアメリカ南部ジョージア地区に進出、ジム・バーネットが主宰するジョージア・チャンピオンシップ・レスリングのトップ・ヒールとなり、1975年2月21日にはロッキー・ジョンソンからNWAジョージア・ヘビー級王座を[13]1977年2月11日にはトニー・アトラスから同TV王座を[14]それぞれ奪取した。

1980年代は日本遠征の合間を縫って、エディ・グラハム主宰のフロリダ地区やジム・クロケット・ジュニア主宰のミッドアトランティック地区など当時のNWAの主要テリトリーにも特別参戦。フロリダではダスティ・ローデスワフー・マクダニエルブラックジャック・マリガンらと遺恨試合を展開した[15]。ミッドアトランティックでは1983年11月24日の『スターケード』、1985年7月6日の『グレート・アメリカン・バッシュ』、それぞれの第1回大会に出場している[1]

また、この時期には日本参戦と並行してプエルトリコWWCにも頻繁に遠征。同地の英雄カルロス・コロンブルーザー・ブロディらと血の抗争を繰り広げた。ブロディ最後の対戦相手はブッチャーである[16]

1991年にはWCWに登場。同年10月27日の『ハロウィン・ヘイボック91』における「チェンバー・オブ・ホラー金網電気椅子デスマッチ」(スティングリック・スタイナースコット・スタイナーエル・ヒガンテ組VSベイダー、ブッチャー、カクタス・ジャックダイヤモンド・スタッド組)では敗者となり、全身に電流を流された[17]

以降はセミリタイア状態となるも、日本やプエルトリコを中心に、北米各地のインディー団体にも単発参戦。1994年にはニュージャージー州アトランティックシティのWWAに出場し、ジェリー・ローラーリック・マーテルと対戦した[18]。プエルトリコでは1996年2月10日、メイブルを破りWWCユニバーサル・ヘビー級王座を獲得[19]。同王座は2004年1月3日にもカーリー・コロンから奪取しており[19]、これが最後のタイトル戴冠となっている[1]

2008年12月にプエルトリコ、2009年4月にはカナダで引退試合を行った(それぞれ地域限定での引退であり、本人は「日本では生涯現役」と語っていたが、2012年1月2日、日本においても現役引退を表明した[20])。

2011年3月、プロレス界における功績をたたえ、ハードコア・レスリングのレジェンドとしてWWE殿堂に迎えられた[21]。インダクター(プレゼンター)は、流血の大抗争を展開した因縁のライバル、テリー・ファンクが務めた[22]

日本での活躍

日本プロレス参戦期(1970-1972年)

1970年日本プロレスの8月興行『サマーシリーズ』で初来日[23]。日本ではほぼ無名の存在であったが、開幕戦のBI砲とのタッグ戦でジャイアント馬場からピンフォールを奪い、東京スタジアム大会での馬場との初シングルでは、それまでにない桁外れの場外戦を繰り広げるなど、シリーズが進むにつれて人気が沸騰。評価もシリーズのエースであったカール・ハイジンガー以上となった。最終戦台東区体育館大会ではハイジンガーに代わって、馬場の持つインターナショナル・ヘビー級王座に挑戦した。

その後1971年1972年と2年連続『ワールドリーグ戦』にアフリカ代表として参戦、1971年大会では優勝決定戦に進出するなど、一躍大物の仲間入りを果たした。

全日本プロレス参戦期(1972-1981年)

1972年にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げすると、同団体の常連となり、悪役として馬場やジャンボ鶴田ザ・デストロイヤーザ・ファンクスをはじめとする強豪レスラーたちと幾多の抗争を繰り広げた。

馬場との対戦は全日本プロレスのドル箱カードとなり、その抗争は延べ20年の長きに渡った。PWFヘビー級王座インターナショナル・タッグ王座などをめぐり、数々の死闘を重ねた。ブッチャー自身、「馬場との闘いはすべてが記憶に残っていて、すべてに満足している」「馬場というライバルがいたからこそ、私は日本の観客がなにを望んでいるか理解でき、彼らを喜ばすための技術を向上させることができた」と語っている[11]

1972年、デストロイヤーが日本陣営に加わると、彼との抗争を開始。初期の全日本プロレスを支える人気カードとなった。1974年の『第2回チャンピオン・カーニバル』では、3回の再試合が行われたが決着がつかず、両者失格。USヘビー級王座をめぐる一連の闘いは、お互いに隠し持った凶器で攻撃する凄惨なものとなり、足4の字固めを狙うデストロイヤーに対し火炎攻撃を繰り出したこともあった。

1975年12月の『オープン選手権』では、ハーリー・レイスの左肩を脱臼させ、途中棄権に追い込んだ。さらに翌日の「力道山十三回忌追善特別大試合」(日本武道館)では、「頭突き世界一決定戦」と題された大木金太郎[24]の試合前、欠場の挨拶をするレイスを急襲し因縁に火がつく形となった。1976年5月、『第4回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で馬場を下し初優勝。このリーグ戦における大木とのシングルマッチ(日大講堂)にレイスが乱入、エキサイトのあまり会場を飛び出してのストリートファイトとなり結果、交通機関を麻痺させる騒ぎを起こし警察沙汰となった。川崎市体育館で行われたレイスとの決着戦は、ブッチャーのキャリアの中でもトップクラスの大流血戦となり、ノーコンテストに終わった[11]

1977年の『世界オープンタッグ選手権』ではザ・シークとの「地上最凶悪コンビ」を実現させ、ザ・ファンクスと抗争を展開。12月15日に蔵前国技館で行われたザ・ファンクスVSブッチャー・シーク組の最終戦は、とりわけ壮絶な試合展開となった。ブッチャーがテリー・ファンクの右腕に凶器のフォークを突き立て、テリーが兄ドリー・ファンク・ジュニアを救出すべく左ストレートを連打する場面は、その模様が日本テレビ全日本プロレス中継(同年12月24日放送分)にて全国に中継された。

1978年10月にはビル・ロビンソンを破り、PWFヘビー級王座を奪取。馬場を相手に1度防衛に成功するが、翌年2月のシカゴにおける再戦で敗れ、馬場に奪還されている。

1979年5月、『第7回チャンピオン・カーニバル』優勝決定戦で鶴田を破り2度目の優勝[25]。同年8月26日、新日本プロレスのトップヒールであったタイガー・ジェット・シンと組み、『プロレス夢のオールスター戦』(日本武道館)で馬場・猪木組と対戦した。同大会を挟んで行われた『ブラック・パワー・シリーズ』ではミル・マスカラスと抗争、執拗に覆面を剥ぎにかかるが、決着戦は両者リングアウトに終わっている。同シリーズで実現したボボ・ブラジルとの「黒人最強コンビ」は馬場、鶴田を苦しめたものの、最終戦で仲間割れした。同年10月にはレイ・キャンディとのコンビでインターナショナル・タッグ王座に就いている。

1979年12月、『世界最強タッグ決定リーグ戦』最終戦で、地獄突き誤爆に怒ったザ・シークの火炎攻撃を受け仲間割れ。以降は1970年代カルガリー地区で流血の抗争を展開したキラー・トーア・カマタとコンビを組み、シークとは幾多の流血戦を繰り広げた。1980年、『第8回チャンピオン・カーニバル』ではレイ・キャンディとミステリアス・アサシンを配下に、テリー、ディック・スレーターテッド・デビアスらファンク・ファミリーと軍団抗争を展開。同年10月には鶴田からUNヘビー級王座を奪取している。

新日本プロレス参戦期(1981-1985年)

1981年5月、新日本プロレスに移籍。新たにアントニオ猪木を標的とする。移籍の名目は「IWGP参戦」であったが、実際にリーグ戦にエントリーされることはなかった。ブッチャーの移籍は全日本と新日本の外人引き抜き戦争の発端となった(全日本は1981年に報復としてタイガー・ジェット・シンスタン・ハンセンを引き抜いた)。

新日本ではバッドニュース・アレンS・D・ジョーンズと「黒い恐怖軍団」を結成し、猪木や坂口征二らとの抗争を開始。タッグながら初代タイガーマスクとも対戦した。1982年1月の猪木とのシングルマッチはアレン乱入による反則負けに終わっている。猪木との試合はかみ合わないことも多く、その後はやや精彩を欠く存在となった。

1982年4月にはハルク・ホーガンとシングルで対戦、両者リングアウトに終わるも、強い印象を残した。さらにはワフー・マクダニエルダスティ・ローデスディック・マードックといった強豪レスラーとも対戦している。ラッシャー木村との共闘、仲間割れによる抗争アングルも組まれた。1985年1月に猪木と3年ぶりのシングル対決が実現するものの蹴りの連打からブレーンバスターで、新日本移籍以来初のフォール負けを喫した。この来日が最後の新日本登場となった。

この当時のことを新日の営業部長であった大塚直樹が回想しているが、「IWGPにエントリーさせなかったのは自分(大塚)の判断」(IWGPの次のシリーズの目玉外人にしたかったから)、「地方興行の際、タニマチとの宴会に嫌がらず参加してくれた」など、プロとしてフロントとの関係が良好であったことが明かされている。その証拠として、移籍時に交わした契約どおりのギャラが契約切れまできちんと支払われたと自著で述べている。

全日本プロレス復帰(1987-1996年)

1987年に全日本プロレス復帰。TNTとのコンビで『世界最強タッグ決定リーグ戦』に参戦した。どの会場でもブッチャー人気が爆発して、全盛期であった1980年頃を彷彿させる大「ブッチャー」コールも起きるようになった。

1988年にはタイガー・ジェット・シンとの「凶悪タッグ」が復活。ブルーザー・ブロディ追悼試合ではスタン・ハンセンと対戦し、ブロディのチェーンで互いの額を叩き割る大流血戦となった。1990年9月30日の「馬場デビュー30周年記念試合」においては馬場と初タッグを結成し、ハンセン、アンドレ・ザ・ジャイアント組と対戦。馬場の左大腿骨骨折からの復帰戦の相手も務めた。その後、鶴田とのタッグも実現した。

1990年代前半にはジャイアント・キマラとのタッグが定着。ベビーフェイスに転向し始め、試合後のお辞儀や空手パフォーマンスで人気を博す。馬場同様に第一線からは退いて「楽しいプロレス」を担当するようになり、前座で観客を暖める役割を担った。

インディペンデント団体参戦期(1996-2000年)

1996年東京プロレス(第二次)に突如移籍すると、かつての凶器攻撃、流血戦が復活。同団体では高田延彦との異次元対決が実現した。1997年には天龍源一郎率いるWARに参戦し、北尾光司と巨漢タッグを結成。1999年から戦場としたグレート小鹿大日本プロレスでは、BJW認定デスマッチヘビー級王座を獲得した他、アブドーラ小林との師弟対決が話題となった。

現在(2001年-)

2001年の『ジャイアント馬場三回忌追悼興行』(東京ドーム)を機に、三度全日本に復帰。同大会ではキマラと組み、テリー・ファンク、大仁田厚組と対戦した。

武藤敬司社長体制になってからも参戦している。2002年にはテリーとのタッグが実現。2003年には武藤やボブ・サップらと「チームW-1」を結成し、RO&Dと闘った。自身と同じくプロレス・格闘技の枠を越えて人気者となったサップを非常に気に入っており[11]、インタビュー等ではしばしば「私の息子だ」と語っている。ファンタジーファイトWRESTLE-1では2度にわたり「SATA...yarn」こと佐竹雅昭と対戦し、いずれもフォール勝ち。2005年のW-1では中嶋勝彦からも勝利を奪い、健在ぶりを見せつけた。

2007年5月9日にハッスルに参戦し、芸人RGと対戦して勝利。12月には『世界最強タッグ決定リーグ戦』に12年ぶりに参戦、鈴木みのるとタッグを組んだが、勝ち点8で優勝決定戦進出はならなかった。同期間中IWA・JAPAN にも出場、ミックスドマッチでダンプ松本とのタッグが実現した。2008年1月2日の『新春シャイニングシリーズ』における恒例のバトルロイヤルでは優勝を果たしている。

2009年7月19日、神戸ワールド記念ホールにて開催されたDRAGON GATEの『真夏の祭典』に登場、ハリウッド・ストーカー市川より2分34秒でピンフォールを奪った。同月26日の『ハッスル・エイド2009』(両国国技館)でタイガー・ジェット・シンとのコンビを20年ぶりに復活させ、HG&RG組と対戦するも仲間割れ。30日の遺恨決着戦(後楽園ホール)では、お互い1度もリングに上がることなく両者反則に終わった。

2010年1月4日、新日本プロレス『レッスルキングダムIV IN 東京ドーム』に参戦。新日本マット登場は25年ぶり。矢野通飯塚高史石井智宏と組み、テリー・ファンク、長州力蝶野正洋中西学組と対戦。飯塚と仲間割れして地獄突きを見舞い、テリー組の勝利をアシストする形になった。2月11日、『大阪ハリケーン2010』で大阪プロレスに初参戦、8人タッグマッチに出場した。3月22日、DRAGON GATE『COMPIRATION GATE 2010』に出場し、オープン・ザ・トライアングル・ゲート選手権と初対戦。望月成晃にフォール負けを喫した。7月11日、DRAGON GATE『KOBEプロレスフェステイバル2010』では曙と初タッグを結成。お笑いサバイバル・ハンディキャップドリームマッチに出場した。同18日には東京愚連隊主催で来日40周年記念興行『BUTCHER FIESTA〜血祭り2010〜』を開催。鈴木みのると組み、藤原喜明NOSAWA論外組と対戦した。

2011年8月27日、東日本大震災復興イベント『INOKI GENOME 〜Super Stars Festival 2011〜』に登場。恒例の猪木劇場において、シンとともにアントニオ猪木を襲撃した。

2012年1月2日、全日本プロレス『新春シャイニング・シリーズ』開幕戦において、現役引退を表明した[20]

リング外での活躍

ヒールでありながら、愛嬌ある独特のキャラクターと憎めない風貌で絶大な人気を集め、CMにも起用された。

1979年、河口仁による漫画『愛しのボッチャー』が講談社週刊少年マガジン』にて連載開始。悪役ながらドジで憎めないブッチャーならぬ「ボッチャー」が、「ジャイアント葉場」「アントニオ猪林」らとドタバタを繰り広げるプロレスギャグ漫画で、ブッチャー人気の火付け役となった。翌1980年には「サントリーレモン」のテレビコマーシャルに出演、モデルの影山真澄と共演した[26]。CMソング『レモンのキッス』(アパッチ)のレコードジャケットにも起用されている。さらにテイチク(Continental)からレコード『ザ・ブッチャー』をリリース。ブッチャーが叫び、『全日本プロレス中継』で実況を担当していた日本テレビの現役アナウンサー、倉持隆夫松永二三男が歌声を披露する異色の内容でジャケットには河口仁のイラストが使用された。

1981年東映映画『吼えろ鉄拳』に出演。真田広之と共演、用心棒・スパルタカスを演じた。翌年には著書『プロレスを10倍楽しく見る方法』『続・プロレスを10倍楽しく見る方法』(訳:ゴジン・カーン)を刊行。いずれもベストセラーとなった。

これら以外にも、多くのテレビ番組やCMに出演している。ブッチャー本人によると、家族を日本に連れてきたことがないため「日本では俺は人気者だ」と言っても全然信用されないという。

エピソード

日本のプロレス界に一大旋風を巻き起こした悪役レスラーの一人である。全盛期のファイトスタイルは、フォークなど隠し持った凶器で相手を流血させ、地獄突きなどの空手殺法から、「毒針エルボー」と表現されたエルボー・ドロップでとどめを刺すというもの。1980年前後はマンネリ防止のためか、クラッシャー・ブラックウェルから伝授された山嵐流バックドロップをフィニッシュに用いていたが、定着はしなかった。空手の有段者であり[27]、ブッチャーが息を吐きながら空手の構えをすると喝采が起きた。

その強烈なインパクトから、当時ゲームやマンガにおいて悪役レスラーが登場する場合、ブッチャーをモデルとしたキャラクターになることが多かった。また、小〜中学生の間で「ブッチャー!」と叫びながら地獄突きをする行為が流行り、当人が全盛期を過ぎてもその行為は根強く残った。そうした理由からか、日本での知名度は今なお幅広い層にわたる。

『全日本プロレス中継』や大会パンフレット等では、しばしば「知名度No1外国人レスラー」と紹介されていた。大日本プロレス参戦時には、社長のグレート小鹿が『週刊プロレス』誌上で「集客力があるから(ブッチャーを)呼ぶんです。特に地方での集客が違いますね」と語っている。

相手を流血させるだけでなく、自らもよく流血した。そのため額は傷を負いすぎて皮膚が弱くなり、少し頭をぶつけただけでも流血するようになってしまった。クラブのホステスから「本物の血か?」と尋ねられた際、ブッチャーはカミソリを手に額を切り刻み、さらに針と糸で自ら縫い合わせたというエピソードがある[28]

ミスター高橋は自身の著書の中で「今日の試合は流血は無しだ」とあらかじめ伝えられていたにもかかわらず、ブッチャーがこっそり隠し持っていた何らかの道具(カッターナイフを加工した物ではないかと解説されている)で自らの額を切り裂き流血、試合を台無しになってしまったことが何度かあったというエピソードを語っている。これについて高橋は、当時のブッチャーは既に全盛期を過ぎており(新日移籍時で40歳、当時の公称年齢では45歳)、その衰えを隠すための彼なりの苦心から出た行為ではなかったかと推測している。

WCWにてタッグを組んでいたミック・フォーリーによれば、ブッチャーは打ち合わせの内容を覚えないので、試合前に打ち合わせすることはなかったという。また、自分で持ち込んだ凶器を入れた場所すら忘れたこともあったとのこと。

私生活ではケチで有名なようで、かつて遠征先でタイガー・ジェット・シンが同部屋に泊まった際、シンが起きる前に宿泊費を払わずホテルを出てシンを激怒させたというエピソードがある。また、食事をおごれば気さくに話してくれるという一面もある。幼少時に貧困にあえぎ、多くの人にお金でだまされた経験による行動と言われている。

プロレススーパースター列伝内にブッチャーが幼少時、「母がアルコール中毒で、父親は愛想を尽かして女を作って蒸発、間もなく母は死んで天涯孤独となった。」と書かれているが、母親はアルコール中毒でなければ夫と別れてもおらず、ブッチャーが幼少時に死んでもいない、完全な創作である。

来日の際にはしばしば老人ホームへ慰問に訪れている。近年の日本向けインタビューでは「親をリスペクト(尊敬)しろ。親を尊敬しない人間の面倒など誰も見てくれないぞ」「日本人はアメリカ風になりすぎて古い日本の良さを忘れている」など、悪役らしからぬ真面目な発言もしている[29][30]

また、米国ジョージア州アトランタで「Abdullah the Butcher's House of Ribs and Chinese Food」というバーベキューレストランを経営するという一面も持つ。

ジャイアント馬場との関係

ジャイアント馬場との関係はブッチャーに言わせると「葉巻仲間」である。葉巻を嗜むレスラーが少ないため、話をできるのは馬場くらいだった。会った時にはお互い手持ちの葉巻を1本ずつ交換して吸っていたという[11]

また、馬場が死去する少し前に、「ジャイアント馬場が自分に何か語りかけてくるが、何を言っているのか分からず声をかけると目が覚める」という夢を何度も見たとのこと。入院したとは聞いていたので、心配からそういう夢を見るのかと思っていたが、死んだと聞いた時には本当に驚いたという。このことについては「俺が死んだら馬場に聞いてみるよ。『あの時何を言いたかったんだ?』って」とコメントしている[31]

岡田彰布との関係

ルーキー時代の阪神タイガース岡田彰布(元オリックス・バファローズ監督)に対し「こいつは、絶対に大物になる」と賛辞を送り、食事を共にするなど交流があった。岡田の後援会・岡田会は当時、ブッチャーの後援会もしていた。岡田は現在でも恩を感じており、2005年の阪神リーグ優勝の際には祝勝会にブッチャーを招待するプランもあったが、実現はしなかった[32]

得意技

地獄突き
ブッチャーの代名詞的な技。バンテージで固めた指先を揃え、相手の喉元を突き上げる(空手における貫手にあたる技)。打撃を防御してのカウンター、ダウンした相手への追撃など、様々な状況で繰り出される。技を出す前後に独特の空手ポーズを見せることも多い。
毒針エルボー・ドロップ
ロープに走りこんで勢いをつけてから喉元に肘を落とし、そのまま覆いかぶさってフォールを奪う。ブッチャーの絶対的なフィニッシュ・ホールドである。全盛期には高くジャンプし、全体重を乗せて落としていた。馬場の弁によれば「まともに食らったらまず返せない」ほどの威力を持つという。
ヘッドバット
通常のヘッドバットの他、サードロープに片足を掛けて、その反動を利用する一本足頭突きも得意とした。
ソバット
巨体を器用に回転させての後ろ蹴り。第一線を退いてからはほとんど使われていない。
凶器攻撃
凶器としてはフォークが有名だが、ほかにも五寸釘、ビール瓶、ハンガーなど、様々な物を使用している。テリー・ファンクの胸を割れたビール瓶で突き刺して絶叫させたこともある。
山嵐
バックドロップに近い形のクラッチから持ち上げる変形のバックフリップ。山嵐投げ、山嵐式バックドロップとも呼ばれる。実況では「柔道流山嵐」と称されていたが、柔道における同名の投げ技とは別物である。

獲得タイトル

全日本プロレス
NWA
WWC
  • WWC世界ヘビー級王座:1回
  • WWCカリビアン・ヘビー級王座:2回
  • WWC北米ヘビー級王座:2回
  • WWCプエルトリコ・ヘビー級王座:3回
  • WWCユニバーサル・ヘビー級王座:3回
  • WWCハードコア王座:1回
その他
  • NWF世界ヘビー級王座:2回
  • スタンピード北米ヘビー級王座:6回
  • カナディアン・インターナショナル・ヘビー級王座(モントリオール版):1回
  • IWAインターナショナル・ヘビー級王座:3回
  • WCWAブラスナックル王座:1回
  • MWWFヘビー級王座:2回
  • TWA認定タッグ王座:1回(w / 大黒坊弁慶
  • BJW認定デスマッチヘビー級王座:1回

入場テーマ曲

「吹けよ風〜」以前に、短期間使用された。
代表的な入場曲。後にザ・シークタイガー・ジェット・シンなど全日本プロレスの悪役外国人全般のテーマ曲となった。オリジナル・アルバム『おせっかい』、コンピレーション・アルバム『時空の舞踏』に収録。

その他

著書

  • プロレスを10倍楽しく見る方法(1982年8月 ワニブックス ISBN 4584200440)
  • 続・プロレスを10倍楽しく見る方法(1982年11月 ワニブックス ISBN 4584200521)
  • ブッチャー 幸福な流血(2003年6月 東邦出版 ISBN 4809403181)

映画

テレビ

音楽

  • ザ・ブッチャー(1980年 EP、Continental)
    • A面 ザ・ブッチャー 作詞/作曲:小田裕一郎 編曲:井上鑑 歌:ザ・スープレックス&アブドーラ・ザ・ブッチャー
    • B面 ブッチャー・ザ・グレイテスト 作詞:倉持隆夫 作曲:小田裕一郎 編曲:井上鑑 歌:ザ・スープレックス&倉持隆夫、松永二三男

CM

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「OWW」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 東京スポーツ』2007年3月21日付「ブッチャー年齢詐称疑惑」にて、本人がIDカードを公開。
  3. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「ajpw」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  4. サンデー毎日』2007年5月27日号
  5. 博士の悪童日記<2004年2月上旬~後編>
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
  8. テンプレート:Cite web
  9. テンプレート:Cite web
  10. テンプレート:Cite web
  11. 11.0 11.1 11.2 11.3 11.4 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「butcher」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
  14. テンプレート:Cite web
  15. テンプレート:Cite web
  16. 1988年7月15日、ブロディ、コロン組VSブッチャー、ダニー・スパイビー
  17. テンプレート:Cite web
  18. テンプレート:Cite web
  19. 19.0 19.1 テンプレート:Cite web
  20. 20.0 20.1 テンプレート:Cite web
  21. 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「WWE_HOF」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  22. テンプレート:Cite web
  23. グレート小鹿著『小鹿注意報!』によれば、ブッチャーが米国遠征中の小鹿に日本マット参戦を志願し、ミスター・モト経由でブッキングが実現したという。
  24. 試合中にリングアナウンサーであった百田義浩を襲撃、百田がレスラーに転向するきっかけをつくった。
  25. 普段は入室困難な外国人用控室にファンを数人招き入れ、一緒に記念撮影に応じた。
  26. 影山が大麻所持で逮捕されたため、CMは打ち切りとなった。
  27. ハッスル通信|アブドーラ・ザ・ブッチャー初インタビュー(前編)「対戦相手を“生かさず殺さず”がオレの信条だ!」
  28. 流血山脈ブッチャー|東スポWeb
  29. ハッスル通信|アブドーラ・ザ・ブッチャー初インタビュー(後編)「親の面倒を見ろ、老人ホームには入れるな!」
  30. 文藝春秋』2008年3月号「リングから見た日本人の品格」
  31. 週刊プロレス』1999年3月23日号「アブドーラ・ザ・ブッチャー インタビュー」
  32. デイリースポーツ』2007年3月9日付「ブッチャー 旧友岡田監督に毒針エール」
  33. 2001年以降は『ブッチャー・ザ・グレイテスト』のイントロ部分「マカラカシトモマカラ、カシトモマラ、マラハ!」の呪文を、曲の頭に被せている。