スタン・ハンセン

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スタン・ハンセンStan Hansen1949年8月29日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラーテキサス州ノックスシティ出身のデンマーク系アメリカ人。本名はジョン・スタンリー・ハンセンII世John Stanley Hansen II)。

日本で最も成功したといわれる外国人レスラーの1人。第32代AWA世界ヘビー級王者。第2代PWF会長。なお、現夫人は日本人である。リングイン時および試合後の「ウィー!!」という雄叫びが挨拶代わりのようになっている。

来歴

ウエスト・テキサス州立大学卒業後、プロフットボール球団のボルティモア・コルツ(現インディアナポリス・コルツ)、サンディエゴ・チャージャーズに入団するが、最終的に解雇され、故郷の中学校で教鞭を執った[1]。その頃、大学のフットボール部の先輩であった旧知のテリー・ファンクから声がかかり、プロレスにスカウトされた(当時ハンセンは教職の収入面に不満を持っており、スカウトに快諾した)。1973年1月1日、アマリロ地区にてプロレスラーとしてデビュー。同地区では若手時代のジャンボ鶴田ボブ・バックランドとも邂逅した。

以降、フロリダ地区などを転戦してキャリアを積んだ後、ミッドサウス地区でフランク・グーディッシュとのタッグチームで活動。1974年10月10日にUSタッグ王座を獲得し、初戴冠を果たす。その後、フリッツ・フォン・エリックが主宰していたダラス地区を経て、1976年上期にニューヨークWWWFに登場。同年4月26日、マディソン・スクエア・ガーデンにて当時のWWWF世界ヘビー級王者ブルーノ・サンマルチノの首を骨折させた事件(実際は後述のとおり、ハンセンがボディスラムを失敗したことによる重度の頸椎捻挫であったが、ウエスタン・ラリアットによるものとして宣伝された)で有名になった。この一件後、ハンセンはサンマルチノとの遺恨劇でWWWFのリングを賑わせるが、以降はクラッシャー(壊し屋)の烙印を押されたために対戦を嫌われ、アメリカでの活躍の機会は少なくなった。

日本初参戦は1975年9月。まだ一介の若手であったが、シリーズ最終戦は蔵前国技館でのダブル・メインを控えたセミファイナル・マッチであった(対戦相手は当時全日本のNo.3だったザ・デストロイヤー)。ジャイアント馬場はギャラを手渡す際「いい試合をしてくれた」と声を掛けたが、実際の評価は「馬力だけの不器用なレスラー」だったという。

サンマルチノ戦後の1977年新春より新日本プロレスと契約し、同年秋の2度目(来日は3度目)の参加からはシリーズエースとしてメイン級の働きをするようになった。1979年MSGシリーズでは、アンドレ・ザ・ジャイアントを抑えてアントニオ猪木と優勝戦を闘い、1980年2月にはウィリー・ウィリアムスが観戦する面前で猪木からNWFヘビー級王座を奪取した。以後も猪木のライバルとして成長し、NWF王座をめぐる名勝負を展開した。「0.X秒差の逆ラリアート」などのドラマを生み、それまでのメイン・イベンターであったタイガー・ジェット・シンを抜いて新日のトップ外国人レスラーとなった。1981年9月には田園コロシアムにおいて、アンドレと伝説として語り継がれる名勝負を産んだ。またハルク・ホーガンとの強力タッグも話題を集めた。その圧倒的な強さは当時の実況アナウンサー古舘伊知郎により、「不沈艦」「ブレーキの壊れたダンプカー」などと形容された。当時のアメリカではジョージア州を主戦場に活躍する一方、1981年には再びニューヨークWWFに参戦。MSG定期戦において旧友ボブ・バックランドのWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦している(3度目の挑戦となる同年4月6日の定期戦では、スチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われた)[2]

1981年初夏にテリー・ファンクの仲介によってテキサス州ダラスで馬場と会談を持ち、新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍を確約、同年12月の世界最強タッグ決定リーグ戦の最終戦にブルーザー・ブロディ&ジミー・スヌーカ組のセコンドとして全日本プロレスに登場した[3]。ただしハンセンの移籍は秘密裏に行われており、当時の関係者やファンを非常に驚かせた(全日本と新日本は有名選手の引き抜き合戦の最中にあり、ハンセンの参戦は最大の事件として記憶されている。12月初旬の段階で馬場夫妻とファンクス以外にはごく限られた関係者しか知らされておらず、盟友ブロディに対してもハンセン本人が直接状況説明をした。そのためブロディは、長くファンクスに対し不信感を持つこととなった)。

全日本プロレスへの公式移籍後は馬場[4]や鶴田、天龍源一郎と闘うが、鶴田との試合は旧知の間柄であることもあって、噛み合わない試合が多かった。また、ブロディと組んだミラクルパワーコンビは圧倒的な強さを誇った[5]。ミラクルパワーコンビと並行してロン・バスとのカウボーイタッグチームラリアット・ライダーズ」を結成し、1983年4月12日にインターナショナル・タッグ王座も獲得している[6]。ブロディとのコンビ解消後はテッド・デビアステリー・ゴディらを新パートナーに、PWF世界タッグ王座世界タッグ王座を数回獲得、最強タッグでも優勝を果たした。また天龍とのコンビでも世界タッグ王座を獲得したほか、史上初の最強タッグ全勝優勝を達成した。

本国では1985年12月29日、ニュージャージー州イーストラザフォードリック・マーテルを破りAWA世界ヘビー級王座を奪取[7]。以後、サージェント・スローターレオン・ホワイトカート・ヘニングデビッド・サンマルチノジェリー・ブラックウェルニック・ボックウィンクル、リック・マーテル、長州力、ジャンボ鶴田らを相手に防衛を果たし[8]、米国での地位も確かなものとした。またAWA王座在位中の1986年3月29日には、自身の保持するAWA世界ヘビー級・PWFヘビー級両王座と、インターナショナル・ヘビー級王座を保持する鶴田との間で、日本初となるトリプル・タイトルマッチが実現した。

1990年2月10日の新日本プロレス主催・東京ドーム大会では、目玉の一つとなった「新日vs全日」の一環として、当時IWGPヘビー級チャンピオンであったベイダーに挑戦。両者リングアウトとなるも、ド迫力の戦いは語り草となった。4月13日の日米レスリングサミットでは、メインイベントでハルク・ホーガンと戦い敗れる。以後6月まで、レンタルという形で再び新日本プロレスのリングに立ち、長州力とタッグを組んだほか、武藤敬司蝶野正洋橋本真也闘魂三銃士とも対戦している。

天龍、鶴田が去った後も、プロレス四天王の壁として強さを見せ続けた。チャンピオン・カーニバルでは1992年1993年で2連覇を達成した(2度とも決勝の相手は三沢光晴。なお、1992年は全勝優勝)。1990年代後半は衰えたと言われながらも、1998年(w / ベイダー)・1999年(w / 田上明)と、世界最強タッグ決定リーグ戦で2年連続準優勝を果たし、不沈艦健在を見せつけた。

両膝の故障が元で2000年11月19日に引退を表明。2001年1月28日、東京ドームでのジャイアント馬場三回忌追悼興行で引退セレモニーが行われた。通常、全日本では選手が亡くなった時にしか10カウントゴングは鳴らさないが、ハンセンの功績を称えセレモニー中に異例の10カウント・ゴングが鳴らされた。新日本・全日本の各選手が参列する引退セレモニーもまた異例のことであった。

引退後はPWF会長を2007年7月15日まで務め(後任は衆議院議員馳浩)、地元の少年たちにスポーツを教えつつ、悠々自適の人生を送っているという。2006年夏、2人の息子が日米親善高校野球大会に出場するのに伴い来日。遊撃手の兄、外野手の弟ともに右投げ両打ちであり、走攻守揃ったオールラウンダーである。ハンセン自身が指導して両打ちを教えた。

2008年にはIGFウィットネスとしてドリー・ファンク・ジュニアと共に来日した。

2009年6月、2006年に来日した息子シェーバー・ハンセンがアメリカMLBシアトル・マリナーズにドラフト6位指名され喜ぶが、数日後、三沢光晴の訃報を聞き「嬉しいことが数日前にあったのに、その直後になんて悲しいことが起こったんだ」と三沢の死を悲しんだ。

2010年3月27日には、アリゾナ州フェニックスにて開催されたWWE殿堂の顕彰セレモニーにおいて、殿堂入りを果たしたアントニオ猪木のインダクター(プレゼンター)を務めた[9]

得意技

ウエスタン・ラリアット
ハンセンの代名詞とも言うべき技。前傾姿勢で突進し、左腕を振りぬいて相手の首を刈り倒す。アメリカンフットボールの古典的テクニックであるハイタックル(現在のルールでは反則行為)からヒントを得て編み出した。以降クローズラインの名で多くのレスラーが使うようになり、代表的なプロレス技の1つに数えられている。なお三沢の弁によれば、ハンセンが放つラリアットは「冗談抜きで目の前に星が飛ぶ」ほどの威力だという。ハンセン本人の談によると「空手出身の選手はキックや打撃を好み、柔道やレスリングの選手は投げ技、相撲選手はタックル(ぶちかまし)と自分の個性を活かしているのに、なぜフットボール出身者は特性を活かさないのだ?」と、今まで誰も使用しなかったことを不思議に思っていたという。「ラリアットの創始者のように思われているが、たまたまプロレスに最初に取り入れたのが私だっただけのことだ」と語っている。
また他選手のラリアット乱発が目立つ中、ハンセンのラリアットは一撃必殺のフィニッシュ・ホールドとして定着しており、相手パートナーのカットやロープブレーク、リング外落下などが無ければ、この技一発でピンフォールを奪えた。相手選手をロープへ振らずにいきなり至近距離で狙い打つ、または試合開始数分で繰り出して終わらせてしまうこともしばしばあった。受けた相手は空中で(受け方にもよるが)一回転してしまうほどで、川田利明が失神してしまいセコンドの力を借りなければ控え室に戻れなかった、歯が折れた等々、破壊力のエピソードは枚挙に暇がない。一撃必殺の威力を保つ秘訣としては、ハンセン曰く「乱発したり序盤で繰り出すのではなく、その技(ラリアット)へつなぐ前の技=試合内容の組み立てをきちんと行うこと」とのこと。
フィニッシュとしてラリアットを繰り出す直前にサポーターをホイップするのは大きな見せ場であり、リング中央でハンセンがサポーターをホイップすると観客から歓声が上がった。
この必殺技の強烈な説得力は、逆に対戦相手にとっても「ハンセンの命綱たる左腕をいかに殺すか」というストーリーを組み立てることが可能となる。対戦相手の左腕殺しがそのままハンセンを押し切るか、あるいは凌ぎきったハンセンがラリアットの一閃で勝利を収めるかは試合の大きな見どころとなった。
エルボー・ドロップ
落とす瞬間、自身の掛け声と共に観客から「ディーヤッ!」と声がかかる。腰を落とした相手の背後から胸元へ叩きつけるエルボー・ドロップは強烈で、新人時代の長州はこの技に苦しめられ連戦連敗だった。それ以降、長州はこの技を好んで使うようになった。また、相手をロープに振ってのエルボーは、ウエスタン・ラリアットの布石として使用することが多かった。
スリーパーホールド(裸絞
一種のヘッドロックであるが相手背面から顎ごと首を腕で締め上げるのが特徴。
ショルダー・ブロック
場外戦での使用頻度の高い技。エプロンから場外の相手にダイビングして放つこともある。かつてはベイダーをも吹っ飛ばしたこともあり、地味だがハンセンのパワーを語る上で欠かせない技。
ショルダー・バスター
ボディスラムの要領で抱え上げ自ら片膝をつき、立てている方の膝に相手の肩を叩きつける。試合中盤の痛め技として使用。
ドロップキック
あまり多用しないが、フォームが美しく相手との距離をしっかり捕らえて打っていたため、確かな威力があった。ブロディとのツープラトン・ドロップキックはタイミングが抜群で、両者共に名手であったため息の合ったタッグが見られた。
逆エビ固め
地味な技ではあるが、ハンセンの逆エビ固めは腰をしっかりと落として決めるため、時には中堅クラスのレスラーからもギブアップを奪うことがあった。リック・マーテルからAWA世界ヘビー級ベルトを奪取した決め技も、ラリアットではなくこの技だった。
抱え式バックドロップ
攻め込まれた際の反撃のきっかけとして使うことが多かったが、1985年7月30日の馬場とのPWFヘビー級選手権では、エプロン上の馬場に対してリング内からトップロープ越しに豪快に引っこ抜いてフォールを奪った。王座から転落した馬場はこの一戦を最後にタイトル戦線から撤退している。この技の第一人者であった鶴田のような威力こそなかったが、力任せで後方へ投げるため三沢や川田のような比較的軽量、小柄な相手に放つと危険な角度で落ちることもあった。
サッカーボール・キック
尻もちをついた相手を背中側から思いきり蹴る技。中盤の痛め技として使用し、若手時代にこの技を多く受けた川田利明も得意技にしている。

若き日のハンセンは持ち前の馬力を利用したファイトスタイルを取っていたが、年齢とともにそれが通用しなくなると徐々にプロレス技のレパートリーを増やしていくようになった。上記の技以外では、高速ブレーンバスターDDTパワーボムなどを好んで使い、卍固めドラゴン・スリーパー回転エビ固め等を繰り出したこともある。 投げ捨て式、エビ固め式と両方使ったパワーボムでは、三沢や秋山準をピンフォールしてしまうこともあった。

首折り事件の真相

ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンを主戦場とするWWWF(現WWE)の帝王サンマルチノが、自分が対戦するメインイベントの相手として、中堅時代のハンセンをとある人物から薦められた。プロモーターはビンス・マクマホンだが、推薦人物は先にサンマルチノにコンタクトをとるようにハンセンに忠告した。ハンセンはその忠告を守り、先にサンマルチノと会談した。サンマルチノによると、マクマホンと自分は円滑な関係ではなく、最も大事なタイトル挑戦者選びはマクマホンが取り仕切っていたというが、「君なら間違いないと思う。全力でブツかってきてくれ」とハンセンを挑戦者として承諾した。ハンセンは続いてマクマホンとコンタクトをとったが、「ブルーノが連れて来たんだ。細かい話はブルーノとしてくれ」と投げ遣りな言葉を返された。頭に来たハンセンだが、せっかくのメインイベンターとしてのチャンスをふいにはできないので、我慢することにした。

結果として、急角度で落下させたボディスラムでサンマルチノの首を負傷させ、しかもラリアットの連発を浴びせたため、以前から首の状態が思わしくなかったサンマルチノは入院、2か月の長期欠場となった。「チャンピオンを怪我させて、どう責任とってくれるんだ!」とマクマホン側の批判は厳しく、ハンセンも顔面蒼白となったが、あらかじめ根回ししていたサンマルチノは、「ハンセンを責めないでくれ。1日も早く回復してみせるから」と擁護したという。結果、WWWFはサンマルチノの穴埋めとしてハンセンを使い続けることになり、事情を知らない観客からは「俺達の英雄を怪我させたハンセンを許すな!」と非難を一身に浴びることとなった。サンマルチノが復帰しハンセンの契約が切れる頃、マクマホンから「契約を延長してやってもいい、その気があるならサインしろ。応じられないなら新日本プロレス行きを考えてやる」と言われ、時間をもらいサンマルチノに相談した。サンマルチノは「現状を考えると新日本行きが一番ベター(良い選択)だろう。マクマホンは君に興行収入の何パーセントの還元も約束してくれていないのだろう?」と新日本行きをハンセンに提案した(スター選手に興行収入の数パーセントの還元が約束されるのはアメリカのプロレス界でよくあった慣習で、WWWFでもサンマルチノらにはその待遇が与えられていた)。事情を知らないマスコミは2人には遺恨があると誤解し、「ハンセンはWWWFから追放された」などと報じた。

ブルーザー・ブロディとの関係

ハンセンが大学のクラブ(アメリカンフットボール)の寮を見学した際、案内してくれた人物のルームメイトがフランク・グーディッシュこと後のブロディだった。これが3つ年上のブロディとの初めての出会いで、案内人側の空間はゴミ一つなくきっちり整理されていたのに対し、ブロディ側は新聞紙やビールの空き缶などが散乱していたという。ブロディは本来授業を受けている筈の午後2時に部屋で寝ており、一旦目覚めて「ハーイ!」と陽気に挨拶してきた後、再び高いびきで寝てしまった。案内人はハンセンへ「見せた部屋が不味かったね。他はこんなんじゃないよ」とバツが悪そうに言った。後年この時のことを話す度に、ブロディはいつも顔を紅潮させ恥ずかしがったという(その後ブロディは問題を起こし、大学を退学)。

デビュー後に再会した際、プロモーターがブロディのことを「彼は真面目で何でも私に相談する、好青年だよ」と話しているのを聞き、ハンセンは「フランクめ、猫被っているな」と吹き出しそうになったという。ハンセンはブロディから「俺の学生時代の愚行はプロモーターには内緒にしてくれよ」と頼まれた。

両者はオクラホマルイジアナなどミッドサウスのトライステート地区でタッグチームとして売り出されたため、グリーンボーイ時代は苦楽を共にしていた。プロモーターや先輩レスラーと衝突することが多かったブロディをハンセンはたしなめていたというが、ハンセン曰く「もし私とブロディが同じ性格なら、こんなに長く一緒に居ることは出来なかっただろう」と語っている。

全日本プロレスへのハンセンの移籍報告をハンセン本人から聞かされたブロディは「スタン、それは喜ぶべきニュースだが、俺が居るのになぜこれ以上全日にタレントが必要なのだ? 俺だけでは不足なのか?」と不服そうに語ったが、オーナーであるジャイアント馬場の意向をブロディに聞かせ納得させた。ハンセンが全日本登場直前にブロディは「スタン、この時点で馬場は俺達に君のことを何も報告していないんだぜ? 俺やスヌーカ(この時のパートナー)はそんなに信用できないのか?」と不審を募らせた。このような事柄を繰り返してきたため、ブロディのプロモーター不信は蓄積され、後の悲劇を招いたとハンセンは痛感することになる。

ブロディは1985年に新日本へ移籍することになるが、実際に新日本にいたハンセンは、ブロディが移籍したとしても新日本との軋轢は避けられないと確信していた。ブロディはギャラに煩いと思われがちだがハンセンによると金銭よりメインイベンターとしてのプライドの方が強かったという。これらに拍車がかかりプエルトリコの惨劇が起こったとハンセンは断定しており、傍に居ながら止めてやれなかったことを嘆いている。ブロディ死亡後、ハンセンは一時ヒールの仮面を脱ぎ棄ててリング上で追悼のスピーチを行った。

ハンセンから視た日米のプロレス界

日本での最初の主戦場は新日本プロレスとなったが、待遇やギャラの面では最終的に満足していると語っている。日本人であるアントニオ猪木が不動のエースであることもヒールを自認していたハンセンにとっては受け入れ易いものであった。それでもなおハンセンが移籍へ到ったのは、新日本に対してプロモート業を新間寿に委託している猪木はリング上の対戦相手でしかなく、ビジネスの話ができなかったからだという。その新間の営業戦争企画でアブドーラ・ザ・ブッチャーを全日本から引き抜いたのだが、当時 新日本の外人エースであるハンセンには事前まで何も知らされず当惑させられた上に、新間から「ブッチャーは太りすぎだから長持ちしない」と言われて「自分のことも他のレスラーには同様に悪く言っているのではないか?」との疑念を抱いた。しかも新間が全権を持っているわけでもなく、猪木・新間・坂口征二などの誰が決定権を持っているのかすこぶるわかりにくかったという。

逆に全日本プロレスジャイアント馬場が試合のプロモートからギャラの支払いまでを管理していたので、すべて相談できて安心だったという。しかし、不満がないわけではなかった。まず、外人選手であるザ・ファンクスが全日本のエースに長く君臨することには疑問を抱いており、馬場の次のエースはジャンボ鶴田でなければならないと強く思っていた。 また、ヒールとしての高いプロ意識も葛藤を生んだ。当時の全日本では選手が皆同じバスで移動していたが、他選手と和やかにしている姿をファンに見られたくないハンセンにとって、このシステムは抵抗が強かったという。 また、日本のファンはヒールながら凶器に頼らないハンセンの姿勢を敬愛したため、ブーイングを当然と考えていたハンセンは戸惑いを感じていた。そうしたファンへは感謝もしていたが、現役時代はこれを素直に表現できず、苦痛だったという。

アメリカでは移動、宿舎の手配まで自身で行わなければならず(一部の団体除く)、いくらギャラが高くても安心できない面があることや一時の人気でトップに上ってもすぐに捨てられる可能性があることをハンセンはこれまでの経験で痛感しており、「一時、新日本は全日本に比べて事務的だと思ったがアメリカの団体と比べれば新日本に対して失礼だ」とも思ったという。長い期間と広い視野でプランを立てる日本プロレス界をハンセンは強く支持していた。

アメリカマットでの活躍

リングネーム全盛期にあって本名でリングに上がり続けたが、アメリカでの正式なリングネームは「"Bad Boy" Stan Hansen」または「Stan "The Lariat" Hansen[10]である。

ニューヨークのWWWF / WWF(現・WWE)にはブルーノ・サンマルチノの首折り事件を起こした1976年と、新日本プロレスの主力外人となってからの1981年の2度に渡って参戦している(マネージャーはいずれもフレッド・ブラッシー)。1976年の参戦時は7月よりブルーザー・ブロディもサンマルチノの挑戦者としてローテーションに加わり、両者は共に東部一帯をサーキットした[11]。1981年には前述の通り、MSG定期戦においてボブ・バックランドWWFヘビー級王座に3か月連続で挑戦、最終的にはスチール・ケージ・マッチによる決着戦が行われている[2](DVD『WWE Bloodbath - The Most Incredible Cage Matches』に収録)。MSGでの金網決着戦までバックランドとの抗争アングルが組まれることは当時のWWFにおける「売れっ子ヒール」の証でもあり、ハンセン以前にはピーター・メイビア1978年)とパット・パターソン1979年[12]、以後にはジミー・スヌーカ1982年)らがいる[2]。また、1981年には前年にカムバックしたサンマルチノとの遺恨マッチも再現された[13]

アメリカ本土においてもヒールに徹しており、WWFや南部NWA圏などメジャーテリトリーでの実績を有していたことから、1980年代前半のアメリカの専門誌や業界誌の不人気レイティング(すなわち悪党人気)では上位にランクされていた[14]

しかし、主戦場としていたジョージア地区(ジム・バーネットが主宰していたGCW)では、1979年以降はベビーフェイスのポジションに回る場合が多く、トミー・リッチワフー・マクダニエルら人気選手のパートナーを務め、アブドーラ・ザ・ブッチャーキラー・カール・コックスマスクド・スーパースターなどのヒール勢と対戦している。1983年クリスマスには、GCWの本拠地アトランタオムニ・コロシアムにおいて、バグジー・マグロー1984年3月に全日本マットでハンセンのPWFヘビー級王座に挑戦)と組んでロード・ウォリアーズとも対戦した[15]。なお、GCWのフラッグシップ・タイトルであるNWAジョージア・ヘビー級王座には、1977年11月にディック・スレーター、1978年2月にミスター・レスリング2号を破り、2回戴冠している[16]

1983年は、9月よりテネシー州メンフィスCWAにもスポット参戦し、ジミー・ハートをマネージャーにジェリー・ローラーオースチン・アイドルと対戦した[17]。9月12日にはアイドルからCWAインターナショナル・ヘビー級王座を奪取している[18]。ジョージアでの盟友であり、後にテッド・デビアスに代わるPWF世界タッグ王座のパートナーに起用したアイドルとは、テキサス・ブルロープ・マッチやバンクハウス・マッチによる抗争アングルが組まれるなど[17]、後のハードコア・レスリングにも通じるメンフィス・スタイル[19]の喧嘩試合にも対応してみせた。また、ジェシー・ベンチュラとタッグを組み、ローラー&アイドルとの "Grudge Tag Team Match Of The Year" と銘打たれたタッグ対決も行われている[17]

日本を主戦場としていたためアメリカでは評価は高くないと思われがちだが、関係者やレスラーからは大変尊敬されている。ハンセンと同じくテキサス出身でフットボール選手でもあったジョン・レイフィールドもその一人で、ジャスティン・ブラッドショー時代のカウボーイ・ギミックやラリアットなどハンセンのスタイルに倣ったものが多い。

全日本に移籍してからも前述のAWA王座奪取の他、1980年代半ばまではジョージア地区を本拠地とし、1990年代初頭には親交があったオレイ・アンダーソンの仲介によりWCWへ短期間参戦しレックス・ルガーからUS王座を奪取するなど、アメリカマット界でも活躍していた。しかしそれ以降はアメリカのプロレス事情の変化(WWFとWCWの2大メジャーの寡占化)などもあり、ほぼ全日本参戦に専念することとなった。

なお、AWAには1979年にも、ウエスト・テキサス大学の先輩であるボビー・ダンカンのパートナーとして短期間サーキットしたことがある(当時のAWA世界タッグ王者チームのバーン・ガニア&マッドドッグ・バションに挑戦し、同年8月15日にカナダマニトバ州ウィニペグにおいてタイトルを奪取したともされている[20])。また、1984年に行われた全日本主力勢のAWA遠征にも同行し、ヒーナン・ファミリーに加入してニック・ボックウィンクルのパートナーを務めた[21]

エピソード

  • 現役時代はテンガロンハットにドクロマークを縫い込んだベストチャップス、ウエスタンブーツをモチーフにしたリングシューズ、手にはブルロープ(後年はカウベル付のものを使用)というカウボーイスタイルのコスチュームで、入場時には手にしたブルロープで近くの観客を手当たり次第に殴りつけ、「怖いガイジン」のイメージを通し続けたが、右手で牛の角の形を作り(テキサス・ロングホーン)「ウィー!!」という雄叫びで会場人気を集め、ブルロープで殴られることを求めてハンセンに近づくファンもいた。近づきすぎて軽いけがをしてしまうファンもいたが、ハンセンは試合後そのファンを控え室へ呼び、侘びの言葉とともにサインをくれたという逸話もある。テンガロンハットは新日本プロレスから全日本プロレスへの移籍前や全日本移籍直後の馬場とのシングル戦、1982、1983、1988年の最強タッグ最終戦や現役最後の試合などで観客席に投げ込んだことがある。
  • ブルロープ所持のアイデアは新日本プロレス時代のタイガー・ジェット・シンサーベルにヒントを得たとされる。タイガー・ジェット・シンとは、新日本・全日本を合わせ10年以上もツアーを同行したことになる。その間の両者の絡みは多くはなかったが、決して不仲というわけではなく、ハンセンはシンを来日常連レスラーの先輩と見て接していた。大暴れしながら入場するスタイルなど、シンからはヒールとしてのギミックをいろいろ盗み、手本にしたという。
  • 極度の近視のため、リング外では厚いレンズのメガネをかけている。リング上で手当たりしだいに暴れまわっていたのは、目の前がよく見えなかったためだと複数のレスラーが述懐している。ある試合でロープを振り回しながら入場していた所、高齢の女性にロープが直撃してしまった。後にその事へ気付いたハンセンが、小声でひたすら「ソーリー」と謝っていたという。入退場を含め常に動き回る本当の理由は、アメリカ本土において狂人的なファンから銃器や刃物で生命を狙われた経験が元で、自分を守るための苦肉の策だったという。
  • 防戦一方となるシーンを滅多に見せなかった。つまり、攻め込まれてどんなにダメージを負っていても、そのままリングに倒れ込むことなく、必ず立ち上がって反撃した。馬場はこのファイトスタイルを「むちゃくちゃなリズムで読めない」と評しながらも、絶賛していた。本人は、「(近視のため)痛がってるとか苦しんでるとか、相手の表情までは見えないから、お構いなしに攻めた」と語っているが、同時にブロディと共に「俺達の体格でこれほど動けて、ガス(スタミナ)を持っているレスラーは稀だ」と自画自賛もしている。
  • 入場の際乱入したファンへ怒り、それを止めに入った若手選手へ花道でパワーボムを見舞ったこともある。
  • 1980年代頃までは、試合後の暴れっぷりも凄まじかった。特に、引き分け裁定や負け試合の時には対戦相手に八つ当たりの乱闘を起こすのが常だった。それは乱闘を止めに入った中堅若手のセコンドにも矛先が向かうのも常道で、それは若手時代の三沢光晴川田利明にも及ぶことがあった(要領の良かった冬木弘道は受難頻度が一番少なかったといわれる)。セコンドにウエスタン・ラリアットの洗礼を浴びせてグロッギーにしてしまうことも多々あり、受けたセコンドとすればたまったものではない半面、結果的にウエスタン・ラリアット見たさに足を運んだファンを満足させることにもなった。新日本時代には決まってラリアットを受けていた前田日明は、現役時代一番痛かったのはハンセンのラリアットだったと語る(2007年10月4日放送のアメトーーク!にて)。
  • ジャンボ鶴田は無名時代ともにトレーニングを積み、トミーの愛称で呼ぶほどの親友で、馬場元子夫人が日本から送ったインスタントラーメンを2人で分けて食べたという。また、その味にいたく感激し、送られてきたインスタントラーメンを一人で食べてしまったこともあるらしい。新日本時代に対戦した同期のボブ・バックランドにも同じことが言える。2000年の鶴田の死に際してはショックを隠し切れず、ハンセンが引退したのはその死から間もないことだった。鶴田が引退後にアメリカ在住を考えた際、その相談にも乗ったという。
  • アメリカマットでの活動を控え全日本を主戦場とするようになってからは、オフのときはアメリカの自宅でコンディションを整え、万全の状態で全日本に上がることだけを考えていたという。ほとんど毎シリーズ、全戦参戦していたというのも特筆すべきことである。また、全日本プロレスとは当初2年契約を交わしていたが、それが切れてからも互いの確かな信頼関係を基に、馬場はファーストクラスの往復航空券を送り、ハンセンもリングに上がり続けた。
  • 全日本では外国人選手のリーダーとしての顔も持っていた。来日間もない頃のジョニー・エーステリー・ゴディには、日本のプロレスの特徴から居酒屋での食事の仕方まで指導していた。そのためか、の使い方が大変上手である。
  • 1983年には、PARCOのCMに起用される。「狩人か、旅人か」というキャッチコピーだったこのCMは好評で、電通作成の「広告景気年表」でも、この年の代表作の一つとして取り上げられている。
  • 1990年4月13日、WWF・新日・全日三団体共催東京ドーム大会のメインでハルク・ホーガンと対決し敗れる(当初、ホーガンの相手はテリー・ゴディが予定されていた)。プライベートでの両者は親友同士で、同年上映されたホーガン主演の映画『ゴールデンボンバー (映画)』にはハンセンも出演している。
  • 2000年11月19日、馬場元子社長(当時)からハンセンの引退が発表され、そのまま引退試合は行わなかった。理由は「日本のファンに、強いスタン・ハンセンのイメージを持ってもらったまま引退したかった」という理由で、長年酷使してきたボロボロの肉体を、日本のファンに見せたくなかったからだという。
  • 引退に関して「長年日本プロレス界の発展に貢献した」として小林邦明と共に財団法人・日本プロスポーツ主催の2000年度日本プロスポーツ大賞に招かれている。松井秀喜と一緒にテキサス・ロングホーンを作って写真に納まった姿が各スポーツ新聞に掲載された。
  • 馬場の色が無くなった全日本に今でも協力しているのはなぜかという質問に対し「ババにはいろいろとよくしてもらい感謝している。そのババが作ったオールジャパンがどんな形だろうとある限り私は協力する」と答えた。全日本に対して「ここは、私の勤めた会社だ」とも語っている。
  • 食えないグリーンボーイ時代にブルーザー・ブロディと無銭飲食まがいの行為をしたこともある。他に他人の畑のトウモロコシを無断で拝借したこともあるという。現在においては「非常に恥ずべき行為だ」と自身を非難している(自著『魂のラリアット』より)。
  • 良い意味で世渡り上手であり、大義をなすならプライド、金銭は二の次な日本人に近いものがあり、それが彼が日本で成功した最大の要因であろう。全日本プロレスで他の選手がWWFなどの他団体に大量に引き抜かれた時期も彼はジャイアント馬場を支持し最後まで着いて行くと決めていたため、馬場の死は深い悲しみだったという。相棒、ブルーザー・ブロディが逆に世渡り下手だったため、歯止めを行ったというが結局それは叶わなかった。ブロディの新日本プロレス移籍にも反対であったが、できるだけの知識を授けた。ジャンボ鶴田死去後も現役でありながら彼を語るのは自分の義務としてインタビューに応えた。
  • プロレスの勝ち負けに対するシナリオの有無を遠まわしに自伝で語っており、「善人でないとヒールは務まらない」、ジャンボ鶴田に対しても「ここは彼の国なので彼が天下を取るのは当然だ」と自身の分をわきまえていたが、「馬場がなぜザ・ファンクスにあれほど気を使うか理解できない」という点ではブロディと同意見だった。
  • 他にもザ・ファンクスには自分をプロレスラーにしてくれた恩人と思う反面、グリーンボーイ時代に身の安全やギャランティの上でアメリカ本土での希望ルートを聞き入れて貰えなかったことを遺憾に思っていたのは確かだったと言う。特にテリー・ファンクとの接点が多く、テリーはハンセンにとって学生時代から「近所の兄貴」と言う印象が強かったが、レスラー時代には不遇な扱いをされた印象も度々あったと言う。しかし、現役の晩年にテリーとタッグを組む機会があり、「お前も歳を取ったな」と言うテリーの言葉がハンセンに引退を決断させる一つの原因になったと言う。
  • プロレススーパースター列伝』で自身の生立ちを誇張されていたのに対しては「あれはあれで、ドラマチックに描いてくれた作者(梶原一騎)に感謝している」と満更ではない模様。
  • 阪神タイガースランディ・バースとは近所に住んでたこともあり親交が深い。日本で彼の野球の試合を観戦したこともある。
  • アニメDr.スランプ アラレちゃん』でハンセンを模した「マスクドメロン」(ハンセンにメロンのマスクを被せたもの)が登場する。また、週刊少年ジャンプ連載初期には、コスチュームのアラレとロングホーンをするハンセンを扉絵に描いている。
  • グリーンボーイ時代の若いうちに結婚し子供までいたので仕送りをしていた。ザ・ファンクスのテリトリーでは教師時代よりは収入が良かったが仕送りのために生活は苦しかったという。中堅時代はアメリカと日本を往復する生活を繰り返していたが治安の良さで外食に出ても安心な日本の方が良かったことも語っている。最終的に家族を十分養えるギャランティを払ってくれた全日本と馬場には強く感謝しており、現役の晩年は全日本一本に絞っても十分だったため、スケジュール調整も楽だった。因みに子供は前妻に2人、後妻(日本人)に2人の計4人で全てハンセンが親権を獲得している。
  • なぜ「ウィー!」と叫ぶのかと質問された際、当時を回想して「私が新日本に上がっていた頃は猪木も坂口も同じ外国人のタイガー(ジェット・シン)も自分より年上で、全日本に来てからも馬場も年上だった。そんな彼らに「俺はお前らより若いんだ。ニュー・ジェネレーション・パワーを見せつけてやる!」という思いが強くそれで「ユース!」と叫んでいた」という。それが日本人の耳には「ウィー!」と聞こえたというのが真相らしい(2006年『週刊プロレス』インタビューより)。
  • ヒールレスラーだった反面、社交的で友人(戦友)を大事にする性格であり、試合などでは決して遺恨を残さない。現役時代でもブルーノ・サンマルチノと談笑したり、2008年にはIGFウィットネスとして共に来日したドリー・ファンク・ジュニアとの再会を喜び、同様に自分を呼んでくれたアントニオ猪木にも感謝した。なお、ハンセンは全日本所属時代に猪木の現役20周年記念に駆け付けているが、同日ジャイアント馬場の20周年記念試合にも出場しており、両者の顔を立てることも忘れていない。

著書

  • リチャード田中訳 『不沈艦スタン・ハンセンの必殺!ラリアート一直線』(講談社、1983年)ISBN 4-06-101502-8
  • 『君にも必殺ラリアート』(東京スポーツ新聞社、1983年)ISBN 4-8084-0061-8
  • 『魂のラリアット』(双葉社、2000年)ISBN 4-575-29108-0

参考書籍

  • 『週刊ゴング2月14日増刊不沈艦S・ハンセン引退記念号』(日本スポーツ出版社、2001年)

入場テーマ曲

  • サンライズ』/ 全日本プロレス登場以後の入場テーマ曲

アントニオ猪木:炎のファイター、ミル・マスカラススカイハイザ・ファンクススピニング・トーホールドなどと並んで一般にも知られているほど有名な曲(1980年・オリジナルアーティストはスペクトラム)であるが、これは全日本プロレスに登場の時にのみ流れる(1990年の新日参戦時は使用された)。今でも高校野球の応援やプロ野球珍プレー・好プレー大賞バラエティ番組などで乱闘時のBGM、『進め!電波少年』の冒頭など多くの番組で使用されるほど人気が高い。一般には全日本プロレスのコンピレーションアルバムの音源が使われるが、スペクトラムのアルバムバージョン(2ndアルバム「OPTICAL SUNRISE」収録)の前奏と間奏を抜き出した編集でも作成可能。ハンセンの場合はこのスペクトラム版にさらに前奏としてケニー・ロジャースの「SO IN LOVE WITH YOU(君に夢中)」の前奏(馬の嘶きと駆ける音、鞭音もミックス)を付け、リズムの異なるこの二曲をスムーズに合体させるため、やはりスペクトラムの「Motion」のドラのリバース音を被せている。

新日本参戦時代には複数の入場テーマ曲が使われていたが、1980年(同年2月にNWF王座を猪木から奪取)にラリアットの場外弾を連発し、観客総立ち状態にさせていた当時の入場テーマ曲。サンライズのイントロのように牧歌的な部分が一切なく妥協なきハンセンのファイトのイメージに合致するので根強いファンも多い。『FIREPOWER』は映画の原題で、邦題は『リベンジャー』。

  • その他、新日登場時には『COSMIC SURFIN' (YMO:Live盤)』、『Conquistador (Maynard Ferguson)』、『ウエスタンラリアート(オリジナル)』等、複数曲が使用されていた。

獲得タイトル

NWAトライステート
NWAビッグタイム・レスリング
ジョージア・チャンピオンシップ・レスリング
ジム・クロケット・プロモーションズ
CWA
  • CWAインターナショナル・ヘビー級王座:1回
AWA
WCW
新日本プロレス
全日本プロレス

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. 学生時に地理教師の資格を取得。
  2. 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Cite web
  3. なお、この試合中に場外でテリーへラリアットを食らわせKOさせたことで会場は騒然となり、試合後もザ・ファンクスに対し暴行を加え続けたため馬場が駆けつけた。この時に馬場が放ったチョップでハンセンが流血し、普段よりも数倍速く威力もあるものと判り、「馬場がキレた数少ない場面」として知られている。
  4. 1982年2月4日の初の直接対決はプロレス大賞年間最高試合賞を受賞。
  5. このコンビは日本マットでピンフォール負けしたことが一度もない。
  6. テンプレート:Cite web
  7. テンプレート:Cite web
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  11. テンプレート:Cite web
  12. テンプレート:Cite web
  13. テンプレート:Cite web
  14. 『THE HEEL(プロレスアルバム16)』P16-17(1981年、ベースボール・マガジン社
  15. テンプレート:Cite web
  16. テンプレート:Cite web
  17. 17.0 17.1 17.2 テンプレート:Cite web
  18. テンプレート:Cite web
  19. テンプレート:Cite web
  20. テンプレート:Cite web
  21. 『デラックス・プロレス 1984年5月号』巻頭グラビア(1984年、ベースボール・マガジン社)