佐山聡

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佐山 聡(さやま さとる、1957年11月27日 - )は、日本プロレスラー総合格闘技の元祖とされる団体・シューティング(現・修斗)の創設者としても知られ、設立当時総合格闘家としても活動していた。2012年現在、本人の設立した武道団体・掣圏真陰流興義館総監を務め、武道家としても活動している。血液型B型、山口県下関市出身[1]

覆面レスラータイガーマスクとして空前のプロレスブーム、社会現象を巻き起こす。その後は、UWFで後にU系と言われる独自のルールと打・投・極による格闘技色の強いプロレススタイルを考案し、さらに前述の修斗を創設した。現在は掣圏真陰流を創始し、最先端の武道を追及していると共に、自身の団体リアルジャパンプロレスを創設して、プロレスの復権、復興に尽力している。

来歴

新日本プロレス若手時代

中学生(下関市立長府中学校)時代に沢村忠の影響で格闘技を志しレスリング柔道始め、その後山口県立水産高等学校に入学するが、1年で中退して1975年7月に新日本プロレスに入門、1976年5月28日に魁勝司戦でデビュー。

1977年11月14日に行われた梶原一騎主催の「格闘技大戦争」で、全米プロ空手ミドル級第一位のマーク・コステロと両者ボクシンググローブ着用・統一ルールの下、対戦した。目白ジムで打撃トレーニングを積んで試合に挑んだ佐山だったがリーチの差と寝技無しのルールに苦戦し、1Rこそ果敢にバックドロップ、反り投げなどの投げ技を繰り出すが(ただし反則)ボクシンググローブ着用のため技が決まらない。2R以降はパンチ・キック・膝蹴りと一方的に攻めまくられ、毎ラウンド「ダウンしては立ち上がる」の繰り返しとなった。プロレスラーとしてのプライドで何とかKO負けこそ逃れたものの、6R終了まで良いところなく屈辱的な判定負けを喫した。

リング下ではアントニオ猪木ストロング小林ウィレム・ルスカらが観戦し、セコンドでは山本小鉄が鼓舞激励するというプロレスの威信をかけた試合だった。なお、この試合に負けたから打撃を取り入れた格闘技に傾倒していったのではなく、元々リアル指向で、会社に内緒で打撃の練習をしていた(そんなところからこの試合に抜擢された)。

1978年メキシコへ渡り、「サトル・サヤマ」のリングネームで活動。慣れない環境や食生活で、体重が20kg近く減るなどの苦労をしつつも、NWA世界ミドル級王座を獲得し、グラン浜田とのタッグでも活躍した。1980年にはイギリスへ渡りブルース・リーの従弟こと「サミー・リー」のリングネームで東洋武術を彷彿とさせるスタイルのプロレスラーとして大活躍した(立場は完全なベビーフェイスで決め技は日本とは違い風車式のバックブリーカーを多用した)。後にイギリスへ渡った前田日明は、「サミー・リー」の弟というギミックで「クイックキック・リー」のリングネームで活躍したことからも明らかであるように、この「サミー・リー」の当地における人気は日本における「タイガーマスク」の人気に匹敵するものであった。

なお、漫画『プロレススーパースター列伝』にて描かれていた、メキシコ遠征時に名乗ったとされる、覆面レスラー「ティグレ・エン・マスカラド」や、目の回りに隈取りを施したペイントレスラー「ミスターカンフー」はフィクションであり、実際はこれらのリングネームは使われておらず、一貫して素顔で試合を行っている。

タイガーマスク誕生前夜

新日本プロレスから「タイガーマスクの映画を撮るので、帰国して欲しい」という連絡を受ける。当時イギリスでサミー・リーとして大変な人気で、マーク・ロコ(後のライバル、初代ブラック・タイガー)とのタイトルマッチを目前に控えていたこともあり帰国を断るが、「1試合だけでいいから、アントニオ猪木の顔を潰さないで欲しい」と説得され帰国。タイガーマスクとしてリングに上がるが、渡されたマスクやコスチュームの出来の悪さに泣きそうになったと、後に回想している(これはデビュー戦の相手を務めたダイナマイト・キッドも同様のコメントを残している)。なお、漫画『プロレススーパースター列伝』では渡されたマスクを手に取り、「悪くない」と発言しているが、これはフィクションである。

タイガーマスク

海外遠征から帰国後、梶原一騎原作の漫画『タイガーマスク』から現実のヒーローとして、新日本プロレスに彗星のごとく登場した。また、この時期テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送が開始され、メディアミックス展開も行っている。初代タイガーマスクとしてのデビュー戦は、1981年4月23日蔵前国技館に於けるダイナマイト・キッド戦。

デビュー戦のマスクは雑な作りの粗悪なもので、マントもまるでシーツのような物であった。佐山自身は物理的な羞恥の他にも、漫画の世界を現実に持ち込むことは「新日本プロレスで浮いた存在」になるのではないかと懸念していたが、数々のオリジナルムーブとフィニッシュのジャーマンスープレックス・ホールドでデビュー戦にして人気をさらった。

新日本プロレス伝統のストロングスタイルをベースに、全米プロ空手流の打撃技と武者修行先で培ったルチャリブレ(メキシコ式プロレス)の空中殺法とを織り交ぜた革新的なレスリングスタイルは、全国的に空前のタイガーマスクブームを巻き起こした。そのファイトスタイルは、実況の古舘伊知郎によって「四次元プロレス」、「四次元殺法」と形容された。タイガーマスクの試合を中継した『ワールドプロレスリング』の視聴率は、ほぼ毎週25%を超え地方興行も空前の大入り満員が続いた。子供たちの間では、新日本プロレスの看板レスラーであるアントニオ猪木を凌ぐほどの人気を獲得していた。

1982年は、1月1日に王座決定戦でダイナマイト・キッドを破りWWFジュニアヘビー級王座を獲得[2]。5月25日にはレス・ソントンからNWA世界ジュニアヘビー級王座を奪取し[3]WWFNWAのジュニアヘビー級王座を史上初めて統一した。この時期の代表的な好敵手として、ダイナマイト・キッド、ブレット・ハートブラック・タイガースティーブ・ライト小林邦昭などが挙げられる。また、アントニオ猪木藤波辰巳と組んでの6人タッグマッチにも出場し、アブドーラ・ザ・ブッチャーワフー・マクダニエルマスクド・スーパースタードン・ムラコグレッグ・バレンタインなどヘビー級の外国人選手とも対戦した。ジュニアヘビー級王者としてアメリカのWWFにも遠征し、ニューヨークマディソン・スクエア・ガーデンフィラデルフィアスペクトラムにおいて、ダイナマイト・キッド、カルロス・ホセ・エストラーダエディ・ギルバートらを相手に防衛戦を行ったこともある[4]。1982年12月7日にはペンシルベニア州アレンタウンにて、当時WWFを主戦場としていたミスター・サイトーことマサ斎藤と対戦し勝利を収めている[5]

人気絶頂の最中、新日本プロレスでの活動には突然終止符が打たれた。1983年5月に漫画『タイガーマスク』の原作者である梶原一騎講談社編集者への暴行容疑で逮捕され、社会的影響度から改名問題が浮上する。8月4日、デビュー戦と同じ蔵前国技館で行われた寺西勇戦の試合前に改名を予告し、ファンに新リングネームを当てさせるクイズ企画も用意された。しかし、8月10日に新日本プロレスに対して契約の解除を一方的に告げ、突如引退を宣言した。契約解除の通告書では、タイガー人気で得られた収益が猪木の個人事業「アントン・ハイセル」へ流用されていることを糾弾した(8月末に社内クーデター騒動が勃発し、猪木が社長を一時辞任)。佐山個人は結婚式を海外で極秘に挙げるようフロントから強要されたことに憤りを感じており[6]、タイガーブームの仕掛け人である新間寿と佐山の個人マネージャーだったショウジ・コンチャが対立していたという事情もあった[7]

9月21日付の東京スポーツに素顔の写真が掲載され、タイガーマスクの正体が佐山であることが公開される[8]。テレビ朝日系のバラエティ番組『欽ちゃんのどこまでやるの!?』にゲスト出演し、自らあっさりとマスクを脱ぎテレビで素顔を公表した。

新日本プロレスでタイガーマスクとして活動した2年4か月間のシングル通算戦績は155勝1敗9分けで、この1敗はダイナマイト・キッドをフェンスアウトさせての反則負けであり、シングルとタッグを含めて一度もフォール負けがない。

ザ・タイガー

人気絶頂期での引退発表を行った頃、自身のジム「タイガージム」を設立。ザ・タイガーとして、ほぼ同時期に新日本プロレスを退団した山崎一夫インストラクタースパーリングパートナーに迎え、新格闘技と称して新しいスポーツを模索する中、1984年7月23日、24日にUWFの「無限大記念日」興行に約1年振りの現役復帰。高田伸彦と組んで、前田日明藤原喜明とのタッグマッチを行った。

ザ・タイガーのマスクデザインは額の赤いマークが廃され、新格闘技ではアップライトスタイルからのキックが重要になってくるため、スポーツとして蹴られた相手を必要以上に傷つけない様、脛当て(レガース)が佐山により考案された。この時期にも、バラエティ番組では自らマスクを脱ぎにらめっこ勝負を行なったりしていた。

スーパータイガー

UWF正式入団時にスーパータイガーと改名(タイガージムが商標登録しているザ・タイガーの名称が使用できないため)。紫×銀のマスク+コスチュームに一新。藤原との試合でがぶられて(上からホールドされること。レスリングでよく使われる言葉)スタミナを失い、アームロックから逃れられずに腕を脱臼したことから、スーパー・タイガー名義のままで素顔にて試合をするようになる。自身のジムは一旦閉鎖し、「スーパータイガージム」として後に再スタートする。

リング上では前田、藤原、高田、木戸修、山崎らとの日本人対決を軸に壮絶な試合を行ない、「UWFはプロレスではなくシューティング」自分達を「シューター」と称した。公式ルールの制定にも着手するが、スポーツライクな、競技としてのシューティングを確立しようとする佐山と他の選手との間には徐々に溝ができていた。そして1985年9月2日。大阪府立臨海スポーツセンターで行われた試合で、特に不信を抱えていた前田からセメントを仕掛けられる。張り手や膝蹴りを多用し、グラウンドの佐山にローキックをする等、前田の尋常ならざるファイト、精神状態を懸念した佐山が、腹部に入った右膝を金的アピールしてレフェリーに試合を止めさせた(結果は18分57秒スーパー・タイガーの反則勝ち)。これがきっかけとなって、佐山は10月11日にUWF脱退を表明。看板選手を失った団体は活動休止に追い込まれ、佐山以外の選手は新日本プロレスと業務提携することになる。

前田との関係はまだ完全ではないも、2006年に真樹日佐夫の仲介で行われた、週刊文春での前田との対談で一定の修復はなされ、その後は電話で話すなど仲直りしている[9] [10]

修斗設立

1985年12月、佐山はシーザー武志と共にシュートボクシングの大会に出席し、翌年からのアマチュア格闘技大会開催を予告。スーパータイガージムでの指導をベースとした競技としての格闘技「シューティング(現・修斗)」の普及活動に励み、協会設立やプロ化を実現。1996年には修斗の運営から身を引いた。

UWF離脱直後にはプロレス界の実情を暴露した『ケーフェイ』を出版し、プロレス活動から距離を置いた(ジャパン女子プロレスの興行で挨拶をしたことは何度かある)。その後は総合格闘技界とプロレス界では異なる立場を取りながらも、双方に関わる活動となる。

現役復帰

1994年5月1日、当時新日本プロレスの取締役だった永島勝司に要請され、10年ぶりの新日本登場、4年ぶりの試合となる獣神サンダー・ライガーとのエキシビションマッチに参加した。試合中、佐山は挑発的な笑顔を浮かべていた。これは試合がエキシビションのため「適当にやろう」と思ったかららしい。翌年、初代タイガーマスクに名を戻して本格的にプロレスに復帰し、UWFインターナショナルみちのくプロレス東京プロレス、SAプロレス等に参戦した。1997年にはタイガーキングに改名し、新日本東京ドーム大会でアントニオ猪木と対戦する。

1998年、アントニオ猪木が創設したUFOに猪木事務所取締役の肩書きで参加する。小川直也を指導し、岡田孝(現・三州ツバ吉)からの推薦により村上和成の参戦を認めた。1999年1月4日、伝説となる小川直也対橋本真也のシュートマッチ、いわゆる「1.4事変」の仕掛け人の一人となる。余談だが、この時佐山は松葉杖をついてセコンドに就いているが、これは1週間前にアレクサンダー大塚戦で負傷したからである。その後、4月に猪木と団体方針の食い違いがきっかけとなりUFOを離脱した。

その年の5月に掣圏真陰流設立、再びプロレスから離れる。もう復帰は無いと思われたが、2003年9月21日、掣圏道の大会である「掣圏」において、ザ・マスク・オブ・タイガーの名でまたも復帰(対戦相手はザ・グレート・サスケ)。その後、再び初代タイガーマスクに名を戻し、dragondoor等に参戦。WJプロレスでは初めて長州力と対戦した。2005年6月9日には、「ストロングスタイルプロレス復興」を掲げ「リアルジャパンプロレス」を旗揚げした。

2008年3月13日にはリアルジャパンマットで、天龍源一郎との初対決がタッグマッチで実現。12月には、これまで試合での接点が全くなかった(1988年4月2日、両国国技館で行われた「格闘技の祭典」で、当時シューティングのエキシビションを行った佐山を激励する形で一緒のリングに上がったことはあったが)二代目タイガーこと三沢光晴との初対決がやはりタッグマッチで行われた。

2010年10月20日、藤波辰爾長州力と共に新イベント「レジェンド・ザ・プロレスリング」を2011年1月10日に後楽園ホールで旗揚げすることを発表した。[11]

マスク剥ぎ

初代タイガーマスク時代、小林邦昭に何度もマスクを破られたり、剥ぎ取られそうになった。それまでの覆面レスラーにもマスク剥ぎがなかったわけではないが、基本的には覆面レスラーのマスクには手を掛けないのが暗黙の了解で、小林のように毎試合マスクに手をかける行為はそれまでなかったものであった。

それ以後、歴代タイガーマスクや、女子プロレスにおける派生キャラクター、タイガードリームタイガーエンジェル等の試合でも、マスク剥ぎが「お約束」として必ず入っている。後に佐山は小林と対談した際に、マスク剥ぎのことに触れて「先輩(小林)がのし上がるためならと、僕は我慢していたんですよ。」と語っているが(両者は実際には仲が良かった)、実際それ以降の小林は『虎ハンター』として完全にブレイクする。

獲得王座

得意技

格闘技的な蹴り技をプロレスに持ち込んだパイオニアであり、さらに見栄えを良くするため、プロレス流にアレンジもなされた。また、ルチャをベースに当時としては画期的な空中殺法に加え、ルチャ的なジャベ、現在では格闘技色の強い関節技、さらに投げ技、丸め込み技まで難なくこなし、ラフにも強い正に万能型の選手で、他団体を含む後のジュニア選手のファイトスタイルに大きな影響を与えた。

各種キック
ロー、ミドル、ハイの格闘技的な三種。
当時、プロレスのキックといえばトーキック、もしくは胸板へのフロントキックが主流で、連発で行うものは珍しかった。
ローリング・ソバット
格闘技の蹴り技をプロレス流にアレンジした(プロレスでは)この技の元祖。
飛んで旋回する後ろ蹴りをプロレスでは同名の表現をするきっかけとなった(転じて、旋回しても飛ばないものはソバットと表現する)。
サマーソルトキック
サルト・モルタルをアレンジしたこの技の元祖。サミー・リー時代から使用。
セカンドロープに片足を乗せるスタイルで、俗にタイガーマスク式と表現される。
スクリュー・ハイキック
別名:回転延髄斬り。一回転して跳び上がりつつ放つハイキック。
この技から水面蹴りで足を払うコンビネーションも時折、見せていた。
バック宙キック
別名:回転地獄蹴り後方転回しながら膝ないし、膝下を叩きつける蹴り技。
ザ・マスク・オブ・タイガー時代にMOABとして復活させている。
フライング・クロスチョップ
ミル・マスカラスが得意とした飛び上ってクロスさせた両腕を胸板に打ち込むチョップ。
全盛期にはインパクトの瞬間に90°~180°回転する勢いを見せていた。
ムーンサルト・ダブルニードロップ
仰向けでダウンしている相手の頭側で背を向けて後方宙返りを行い、打ち込むニードロップ。
愛弟子である4代目タイガーマスクへ受け継がれた。
ジャーマン・スープレックス
和名:原爆固め。デビュー戦のフィニッシュとしても使用。
反り投げるのではなく、持ち上げて後方に突き刺すようなフォームから高角度を冠されることもある。
タイガー・スープレックス
和名:猛虎原爆固め。代表的なフィニッシュ・ホールドの一つ。
自身の手をクラッチせずに相手の背中に添えるスタイルで、俗に佐山式と表現される。
タイガー・ドライバー
別名:タイガー・ネックチャンスリー(ドロップ)。2代目タイガーマスク(三沢光晴)の同名技とは別技。
片足を振り子のように蹴り上げ、反動を利用してハーフハッチの要領でマットに相手の脳天を突き刺す。山崎一夫に受け継がれた。
ツームストーン・パイルドライバー
和名:墓石式脳天杭打ち。ダイナマイト・キッドとの抗争で会得。主に飛び技への繋ぎ技として用いられた。
ライバル関係にあったブラック・タイガーのものとは、胴をクラッチし反転させて仕掛ける違いがある。
ケブラドーラ・コン・ヒーロ
和名:風車式背骨折り。国内でのパイオニアの一人。
獣神サンダー・ライガーを始め、多くのジュニア選手に受け継がれた。
ダブルアーム・スープレックス
持ち上げて自身の身体を捻りつつ、相手に浴びせ倒すように叩きつける変形も使用。
PS用ソフト闘魂烈伝3では、上記、変形のフォームを再現したダブルアーム・プランチャが収録されている。
ブロックバスター
ボディスラムのクラッチで横抱き状態のまま反り投げ、ブリッジをきかせてフォールに固める。
スティーブ・ライトに勝利を上げたさい、唯一フィニッシュとして用いている。
タイガースピン
ヘッドロックの体勢からクラッチを解き、360°回転を二回行った上で行うレッグスピン。
そのままテコの応用で片脚を極めるレッグロックに派生する一連の流れ全体を指して同名で表現もされる。
スピニング・レッグロック
両膝をつきつつ、高速で行う単発型のスピニング・トーホールド
3代目タイガーマスク(金本浩二)に受け継がれた。
チキンウィングフェイスロック
たびたび、フィニッシュとしても用いられ、UWF時代にも使用された。
尻餅状態の相手へ仕掛けるタイプのものを使用。
ラウンディングボディプレス
和名:月面水爆。別名:旋回式ボディプレス。代表的なフィニッシュ・ホールドの一つでこの技の元祖。
名称については様々な説、憶測が飛んでいるため詳しくは個別記事を参照。
ムーンライトコースター
上記、ラウンディングボディプレスと混同されるが、縦回転式であり別技。
この縦回転式は武藤敬司が元祖を主張し、ムーンサルトプレスの名称が定着した。
タイガートルネードプレス
フェニックス・スプラッシュと同型でこの技の元祖。上記、ムーンライトコースターと混同されることもある。
ただし、実戦公開にはいたらず、後にライガーも同じ道をたどりハヤブサが正式公開した。
スペース・フライング・タイガードロップ
和名:宇宙飛行虎爆弾。ロンダートからノータッチでプランチャ・スイシーダを仕掛ける。
時折、リング内でも同技を見せていたが、フライング・ボディアタックの名称で実況された。
プランチャ・スイシーダ
全盛期には、走り込んでノータッチで見舞う跳躍力を見せた。
時折、場外の鉄柵を超える勢いを見せて、あわや反則負け(当時のルールで)になりかけたことがある。
フィンタ・デ・レギレテ
別名:タイガー・フェイントキック。飛ぶと見せかけてトップ・セカンドロープの間を回転してくぐり抜けるフェイント。
ここからプランチャ・スイシーダに派生するか、回転時に場外の相手を蹴り飛ばすこともあった。

修斗

第1次UWF離脱後、シューティング(現・修斗)の創始者として日本の総合格闘技界をスタートさせた。当時、関節技などのサブミッションホールドはプロレスにおける裏技的なものであり、プロでも「技は教えてもらうものではなく盗むもの」という風潮があり、やられることによって逃げ方を覚え、後輩にかけて覚えるという感じで、技術体系が確立されていなかった。しかし、佐山はそのプロの技を一つ一つ言葉で説明して体で実践して生徒(素人)に教えた。これが現在の総合格闘技の源となっている。しかし、1996年にフロントとのトラブルのため、離脱した(詳細は両者共に語らないが、プロとしての重要さを考える佐山と、より競技化したものを目指したいそのほかの幹部との間に溝が深まったと言われている)。

掣圏真陰流

掣圏真陰流とは、佐山が従来から提唱してきた、市街地型実戦格闘技という名目で1999年5月に創設された武道。旧名・掣圏道。

2010年10月29日、新たな武道である『武道 掣圏』の旗揚げ興行が後楽園ホールで行われた。これはボクシング総合格闘技などの格闘スポーツではなく、あくまで武道であるという定義を佐山はしている。試合は三本勝負となっており、試合時にはオープンフィンガーグローブを着用する。ロープのない八角形のリングで行われる。ルールはKO・一本による決着のほか、対戦相手の場外への押し出しと制圧(3秒以上の抑え込み)にポイントが与えられ、これを2ポイント先取することでも勝利となる[12]。入場時には日本刀を携えることが全選手の義務となっている。また、礼儀を重んじると言う佐山の思想から、ガッツポーズや相手を見下す行為は即失格とし、金髪や刺青を入れた選手は出場が認められない。「義」を構築し、礼儀作法を備えた人間を育て上げ、ひいては日本を復活させると言う目標を持つ佐山の世界観がふんだんに現れたものとなっている[13]

佐山は、『武道 掣圏』について、「蓋を開けてみれば全てが分かった時に“ああ、これか”という態勢になるのは目に見えています。それは日本の国体を崩す不良の輩やマナーとはかけ離れたものを子供たちに見せてしまう輩を輩出する大会ではありません。(中略)これで日本が救われます」と語っており、この武道の究極的な目標は、堕落し、国体が崩れている(と佐山が考えている)現在の日本を救うこととしている[14]

思想活動

歴史や政治思想に精通し、「武士道追求」として独自に右翼活動を展開している。以前から「天覧試合をやりたい」(当時の「天覧試合をやりたい」という発言は、修斗を、プロ野球や大相撲のように天皇に見に来てもらえるような立派なプロ競技にしたいという純粋な気持ちであって、近年の右翼的な発言とは画する。)「試合前は靖国神社におられる英霊に敬礼」「今の日本人に切腹する精神はない。こんな国では戦争には勝てない」等々の言動を繰り返し、戦前の日本軍を悪く言われると烈火のごとく怒ることは有名。佐山が20年前から使用していた八角形のリング(オクタゴン)は、天皇の玉座をイメージしたものであるという。ナチスについても「警察力を強化して泥棒を減らしたり、良いこともたくさんした」等と評価しているため、部分的に肯定しているとも言われるが、佐山本人はこのことを否定している。

掣圏道設立後から佐山の思想活動が本格化し、2001年第19回参議院議員通常選挙比例代表区から自由連合公認で出馬。33,762票を獲得したが、落選した。その選挙演説の際「暴走族を撃ち殺せ!!」と発言し、市民の度肝を抜いた。この参院選ではかねてから親交の深かった杉山穎男(元『格闘技通信』編集長・『武道通信』編集長)も出馬するが、1,596票の得票に止まり落選している。

こうした右翼的言動から、親しい人間は畏敬の念をこめて、極右・佐山皇帝」と呼ぶ。本人は「俺を街宣車で騒いでいるような連中と一緒にするな」と言って、右翼と呼ばれることを嫌がっているが、任侠系右翼団体である日本青年社との交流を公言している。

子供の教育における体罰の必要性を主張するシンポジウム(主催は加瀬英明)に、石原慎太郎櫻井よしこ高橋史朗田久保忠衛などと共に参加したことがある[15]

人物

  • タイガーマスク時代は華麗な空中戦を披露し、格闘技でもその高い身体能力を生かした闘いは、他を寄せ付けなかった。軽中量級の格闘技が発展した現代の総合格闘技ムーブメントには、佐山の果たした功績も大きい。
  • 精神分析学にも造詣が深く、「交感神経を刺激すると、人間は達観できる」が持論。催眠術を自由に操り、ダイエットも自由自在であると称しているが、自らのダイエットには幾度となく失敗している。ただこれは、俗流の「精神分析」なため、専門家から全く科学的でなくインチキでフロイトなどとは全く関係ないなどとしばしば言われる。
  • かなりの甘党。「羊羹をポッキーのように食べる」、「キックボクシングのスパーリング中、コーナーに小銭を置いておき、ラウンドが終わる度に自動販売機に向かう」、「山篭りで10kg減量したが、下山してしばらくすると元に戻ってしまった」、「小川直也と喫茶店に行き、甘いものばかり注文して1万円近く払った」等、甘い物に関するエピソード多数。このため、新日本から退いた後に体重が急増し、今日でもジュニアヘビー級の体重に戻らないままである。丸藤正道戦での記者会見で「95まで絞る」と言っているが、結局絞りきれなかった。しかし、小林邦昭戦では相手から減量の注文があったようで、116kgあった体重を100kg前後まで減量させることに成功している。2012年8月28日に行った記者会見で、佐山は「今107kgだが97kgに減量する」と宣言した。しかし、佐山が会場で赤福餅を頬張っていたことが報道陣に目撃されており、そのことを言及された佐山は「試合前には炭水化物が必要。試合への責任を持って食べる使命があった。4個しか食べていません。赤福餅はおいしい」と弁解した。丸藤正道からは「それを2個にしていけば、おのずと減量できる」とつっこみを入れられた。[16]
  • 普段は物腰柔らかで非常に言葉遣いが優しく、笑顔を絶やさない人柄であるが、キレると鬼の如く豹変する。礼儀の知らない若者は勿論のこと、自分より体格が大きい黒人が相手であっても、である。その様な場合でも、佐山は天才的な喧嘩の腕でほとんど負けたことがなかったというテンプレート:要出典
  • 新日本時代、道場に時折現れる道場破りの相手をするのは主に佐山の担当であったが、そのことごとくを退けた。同様のリアルファイトでは「前田も強かったが、笑顔で人間の腕をへし折れるのは猪木以外では佐山だけだった」と山本小鉄は語っている。
  • シューティング創設期、91年の夏合宿の様子がテレビ番組で放送されたことがある。プロレスを芝居と称して(後述)真剣勝負を謳っていた同団体のイメージに違わず、佐山が弟子を「本気で蹴っていない」という理由で竹刀で滅多打ちにし、流血する弟子が出るなど、峻厳な練習風景が撮られている。途中、カメラマンが「こんなところを撮るな」と恫喝されており、真剣味のある映像となっていた。しかしその一方で、強く打たなくても大きな音が出るよう中結を外した竹刀を使う(これは折れやすかったため、後に木刀になった)、恫喝されたカメラの映像が派手な効果音と共に途切れる、随所に佐山の音声解説が入る、等々、若干ヤラセ色も感じられるものとなっている。これについて、後に佐山は「テレビ演出のためいつもより厳しく叱咤し折檻した」と語っているテンプレート:要出典
  • 格闘技界に幅広い人脈を持ち、特にキックボクシング藤原敏男は新日本時代からの親友。藤原主宰興行藤原祭りではタッグマッチも行っている。
  • 第1次UWF退団時、ターザン山本と共に著書『ケーフェイ』を出版、プロレスの試合において必殺技として使用されているウエスタン・ラリアット延髄斬りといった技は、対戦相手の協力なくしては半永久的に成立しないことを暴露した。また、月刊誌『フルコンタクトKARATE』やミニコミ誌『格闘技探検隊』のインタビューに答える形で、前田日明らが創設した第2次UWFについても既存のプロレスの範疇を越えるものではなく、本物の格闘技でありスポーツでもあるシューティングとは根本的に異なるものと明言した。これらが原因となり、一時期プロレス界とは絶縁状態にあった。また、修斗の主宰者時代、その試合場で新日本プロレスでの獣神サンダー・ライガー戦(実質的なプロレスマット復帰戦)を指し「新日本で試合を、いや、芝居をしてきました」と発言し、プロレスファンを怒らせたことがある(エキシビションマッチだったのだから、その通りという解釈もあり得る)。安生洋二とタッグを組んで奪取した、東京プロレスの「3億円ベルト」の行方に関しても、「知らぬフリ」を決め込むという金銭疑惑も浮上している。
  • UWF特有のシューティングという格闘技スタイルが猪木の門下レスラーでカール・ゴッチに感化された佐山、前田、高田の三名によって創始されたことは否定しようのない事実であるが、佐山がその技術的な中軸であった。
  • 「大根役者だから」と本人はあまり語りたがらないが、何本か映画に出演している。真樹日佐夫原作の「六本木ソルジャー」では主演を務め、「真説・タイガーマスク」では船木誠勝と共演した。また、「ラストサムライ」のオーディションに合格していたが、「拘束時間が長いから」という理由で辞退している。
  • 新日退団後、全日本からオファーを受けたが(馬場が提示した金額は1億とも2億とも言われている。この時代プロ野球でさえ1億円プレーヤーはまだ出ていなかった)、たとえ新日を辞めたとはいえ、猪木に恩を仇で返すことはできないという理由で、オファーを断った。
  • 2006年の週刊文春で行われた前田日明との対談によると、既婚者で息子がいるとのこと。

佐山の弟子

プロレスラー

その他リアルジャパンプロレスで活動している、スーパータイガー (2代目)タイガーシャークなど。

格闘家

桜木裕司、瓜田幸造。この2人の共通の特徴は、選手コール時に敬礼をすることである。これは「試合前には靖国神社の英霊に敬礼せよ」という佐山の教えに基づくものである。 現在の直系の弟子はその他にも大数といるが、マスコミの前で露出的に第一線で活躍している弟子は上記に記した人物のみである。

入場テーマ曲

  • 「バーニング・タイガー」(ブレイン・ウォッシュ・バンド) - タイガーマスクのデビュー戦で使用。ただし生演奏。
  • 「おまえは虎になれ」(村松とおる)- 現在は弟子の4代目タイガーマスクが使用。
  • 「タイガーマスク二世」(水木一郎
  • 「燃えろ! 吠えろ! タイガーマスク」(古舘伊知郎
  • 「バーニングタイガー」(佐山聡) - 本人歌唱(入場曲の予定も、実際は本人が恥ずかしがって使用されず)。
  • 「アイ・オブ・ザ・タイガー」(サバイバー) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時に使用。
  • 「虎覇王(ヴィクトリーロード)」(ネバーランド) - スーパータイガーとして第1次UWF参戦時のイメージ曲であり、入場時には使われていない。
  • 「行け!タイガーマスク」(新田洋) - 現在の入場テーマ曲。

脚注

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関連項目

外部リンク

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  1. [1]レジェンド・ザ・プロレスリング公式サイト
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. 『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P162(1986年、ベースボール・マガジン社
  5. テンプレート:Cite web
  6. 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、河出書房出版、2008年、50-51・69頁
  7. 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、64頁
  8. 塩沢幸登『U.W.F戦史 1983年〜1987年 誕生勃興編』、80頁
  9. カクトウログ(2006年4月16日)
  10. カクトウログ(2012年4月20日)
  11. テンプレート:Cite news
  12. テンプレート:Cite news
  13. テンプレート:Cite news
  14. テンプレート:Cite news
  15. テンプレート:Cite news
  16. 初代タイガー減量宣言も「赤福うまい」 (デイリースポーツ 2012年8月29日) http://www.daily.co.jp/ring/2012/08/29/0005337419.shtml 2012年9月5日閲覧。