越中詩郎

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テンプレート:Infobox プロレスラー 越中 詩郎(こしなか しろう、男性、1958年9月4日 - )は、東京都江東区出身のプロレスラー。血液型はB型。フリーランス(個人事務所:Office K2)。

来歴

入門まで

中学時代に全日本プロレスを見てファンになる[1]。高校時代は野球部に入り2年目はファースト、3年目はキャッチャーとレギュラーになるも、甲子園に行くことはできなかった[1]。卒業後、電気工事関連の会社に就職するも、プロレスラーへの夢はあきらめきれず、高校時代の野球部の監督からレスリングの監督を通じてジャイアント馬場を紹介され、見習いを経て1978年7月に全日本プロレスに入門する[1]

デビューから新日本移籍まで

1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手にデビュー[1]。大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた[1]

1983年4月22日ルー・テーズ杯争奪リーグ戦三沢光晴を破り優勝[1]。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した[1]。しかし三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになり、1985年4月に東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされる。そして同年7月に全日本プロレスを離脱。新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述)。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。なお、すぐに新日本に移籍せず、まず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍し、そこから新日本に上がるという形を取っていた[2]

高田との抗争

1986年2月6日、IWGPジュニア王座決定リーグ戦の決勝でザ・コブラを破り、初代IWGPジュニアヘビー級王座を獲得[1]。その後、旧UWFから戻ってきた高田伸彦とジュニアベルトを争う。高田のキックを愚直にも正面から受けるファイトスタイルはUWFびいきのファンからも支持を集め、一躍人気レスラーとなった。そのキックや関節技を主体とした攻めの高田と、「耐える美学」「人間サンドバッグ」とまでいわれた受けの越中のシングルマッチは「ジュニア版名勝負数え唄」と形容され、当時のプロレスファンの圧倒的な支持を得た。1987年3月20日、王座決定戦で武藤敬司とのコンビを組み、前田日明・高田伸彦組を破り、第4代IWGPタッグ王座を獲得する[1]。1988年2月7日、第1回トップ・オブ・ザ・スーパージュニアで優勝した[1]

ヘビー級転向と反選手会同盟結成

獣神サンダー・ライガーらの台頭や自身のウェイトアップによりヘビー級に戦いの場を移す。ドラゴンボンバーズへ入るも誠心会館との抗争に関して新日本プロレス選手会と対立しヒールに転向。1992年7月31日、頭を剃り上げて反選手会同盟(のちの平成維震軍)を結成[1]し、一躍中堅からトップ戦線へ踊り出る。1994年11月13日、東京ベイNKホールで平成維震軍旗揚げ戦を行い、タイガー・ジェット・シンと対決した[1]。この時期、1995年G1 CLIMAX初戦でIWGP王者(当時)武藤敬司を破るという実績も挙げている。

1998年天龍源一郎と組みIWGPタッグ王座獲得。

平成維震軍解散から新日本離脱へ

1999年2月22日、平成維震軍を解散し新日本本隊に復帰[1]。その後佐々木健介と組みIWGPタッグ王座に返り咲いた。また2000年には全日本プロレスに参戦し、三冠王者決定トーナメントに出場している。

2003年1月、新日本プロレスを契約満了により退団し、WJプロレスに入団。当初は盟主である長州力の片腕的存在だったが、金銭面で揉め、大森隆男らと共にレイバーユニオンを結成。同年10月31日付でフリーランスとなった。

フリーランスとしての活動

2004年2月、大森隆男とともに、炎武連夢(大谷晋二郎田中将斗組)からNWAインターコンチネンタルタッグ王座を奪取。さらに、プロレスリング・ノアにも参戦し、平成維震軍の仲間だった齋藤彰俊と共闘。ZERO1-MAXキングスロードへも参戦。

2007年には、『アメトーーク!』でケンドーコバヤシによる越中のネタから「越中ブーム」が発生。それも背景に同年5月2日、11年ぶりにIWGPヘビー級選手権試合に臨んだ。試合は敗北したものの、王者永田裕志に対しヒップアタック侍ドライバー'84ジャパニーズ・レッグロール・クラッチといった、平成維震軍当時からの大技を遺憾なく発揮した。一時期は天山広吉真壁刀義らと組み、G・B・Hで活躍したものの、2007年8月に離脱、長州力、蝶野らとともに「レジェンド」を結成した。

2008年後楽園ホールで行われた『ハッスル・ツアー2008~7.11 in KORAKUEN』からハッスル参戦を表明。日本代表として出場した『ハッスルGP2008』においてザ・モンスター℃を下し、ハッスルデビュー戦を白星で飾った。

2009年8月27日に行われたハッスル主催『越中詩郎デビュー30周年記念大会』では新日本の永田裕志、獣神サンダー・ライガーと組み、天龍源一郎川田利明TAJIRI組と対戦。15分18秒、TAJIRIを高角度パワーボムからのエビ固めで破り勝利。試合後、ファンと共にデビュー30年を振り返った。

2011年5月、3月に晴れてプロレスデビューした橋本真也の長男、橋本大地を相手にタッグマッチを行い、「お前の父ちゃんにしこたまやられたんだ!」とマイクでコメントし、実力差をまざまざと見せつけた。

2012年6月13日、ノア主催三沢光晴メモリアルナイトのメインイベントに登場。森嶋とダブルヒップアタックを見せる等の活躍を見せたが、試合中に左足首脱臼骨折を負い長期欠場。

2013年、35周年を迎える。7月7日、ノアの有明コロシアム大会で1年ぶりに復帰した。

人物像

常にコンディションが良いことで知られる。技術面では受け身の巧さ、切れの良いスープレックス、高角度のパワーボムが特徴である。また、近年はヒップアタック等のを利用した攻撃が高い会場人気を集めており、「ケツだけで試合を組み立てられる」職人レスラーと評価されている。地方大会でも常に全力ファイトを見せる。

新日本移籍の経緯

新日本移籍の経緯については、かつて様々な説が流れたが、現在は越中自身が『やってやるって!』(ケンドーコバヤシと共著・扶桑社)や『元・新日本プロレス 『人生のリング』を追って』(金澤克彦著・宝島社)で自ら真相を明かしている。それによれば、全日離脱・新日移籍の経緯は、三沢光晴がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱いた中、選手の大量離脱に苦しむ新日本側が大剛鉄之助経由で接触してきたというものである。帰国した足で巡業中で三沢市に滞在していたジャイアント馬場に詫びを入れに出向き、あくまで移籍を認めない馬場を最終的にとりなしたのは、天龍源一郎だった、ということも語られている[1]。別れ際、天龍は餞別としてつかみきれないほどの一万円札を越中のポケットにねじ込んだという。

得意技

ヒップ・アタック
相手をロープに振りつつ追いかけるようにして走り、ロープの跳ね返り際を狙いひねりながらジャンプして尻を相手の顔面に叩き込む。怪我をしにくい臀部を使用するため自分にダメージは少ないが、相手に対して後ろを向くという危険な技のため、実は難易度が高い。
一見して「効いていないのでは?」と言われることもあるが、実際には尾骶骨がまともに相手の顔面に入るため、衝撃度は見た目以上である。テレビの実況では「軽い脳震盪を起こす威力」と紹介されるほか、打たれ強い天龍もこの技を喰らった際には顔を歪めている。佐藤耕平の歯を折ったことで、その威力が証明された。また、武藤敬司は越中の尻を、「とんがっている」と例えている[3]
派生として、座っている(または四つん這い状態の)相手の頭めがけてケツ(ヒップバット)、トップロープやエプロンを走って場外へのケツ(ダイビングヒップアタック)、コーナーポストからダイブしてケツ(ミサイルヒップアタック)などがある。
時には相手にヒップアタック攻撃を読まれ、バックドロップやジャーマン・スープレックスで切り返され、振り向いた際に尾骶骨を蹴られるというカウンター攻撃も何度も食らっている。
旧UWF勢は、ロープに振ってもリバウンドを拒否していたが、なぜかコーナーポストに振ると返ってくることを見抜いた越中が繰り出した飛んでくるケツの衝撃に前田日明も場外に逃げるしかなかったという。
これらのエピソードを総括して「ダイヤモンドより硬い尻」と言われる。ちなみに、この技はチャボ・ゲレロから盗んだ、と著書「やってやるって!!」で語っている。
パワーボム
持ち上げてから数秒タメを作る滞空式パワーボムは侍パワーボムと呼ばれ、天龍との抗争以後多用するようになる。両拳を突き上げながらフォールを奪う。
なお、この超高角度パワーボムは越中が元祖と言われている。
侍ドライバー'84
変形フィッシャーマンバスター。通常のフィッシャーマンとは逆の足を抱えて持ち上げる。'84は三沢と共に海外修行をしていた年に由来している。ノア参戦時に対三沢用の技として開発した。使用頻度は多くなく、ここぞというときに敢行する。
ジャーマン・スープレックス
ドラゴン・スープレックス
ジュニア時代のフィニッシュ・ホールド。ヘビー転向後は投げ放し式も併用する。
ブレーンバスター
頻繁に出すのではなく、ここぞという時に「ブレーンバスター!」と発してから用いている。
掛けた相手が巨体で体重差がある場合などは、お互いに組んだまま掛け合いとなり会場が沸き立つ。雪崩式ブレーンバスターも使う。
ジュニア時代からヘビー転向後しばらくは、高速ブレーンバスターも併用していた。
パイルドライバー
タッグ時では場外でのハイジャック・パイルドライバーを敢行する。
若手時代はツームストーン・パイルドライバーを使っていたが、現在では全く見られない。
ドロップキック
相手をロープに振ってから仰向けにマットと平行になるように飛ぶ(正面飛び式)。ジュニア時代は、自らダッシュしてのスクリュー式ドロップキックも併用していた。
ジャパニーズ・レッグロール・クラッチ
ジュニア時代から使用しており、ヘビーに転向してからも使用している。
ジャンピングアームブリーカー
越中式と言われ、相手の片腕をロックして絞め上げながら後方に倒れ込む。
河津落とし
相手の左足に自分の右足を絡ませながら相手の右肩に自分の右腕を乗せて、一緒に後方へ倒れこみ相手の後頭部から叩きつける。馬場直伝とも言われる。
腰骨攻撃
主に片ひざをついている相手の髪を掴み、顔面に腰骨をぶつけていく。
痙攣
DDT等を食らった後、下肢を痙攣させる。鶴田直伝とも言われる。
太鼓の乱れ打ち
反選手会同盟、平成維震軍時代からの得意技。
タッグマッチの時、相手を自軍のコーナーに押しやり、四つんばい状態(またはかがませて)味方全員で相手の背中を叩きつける。
テキサスクローバーホールド
ブルドッギング・ヘッドロック
マンハッタン・ドロップ
雪崩式ダブルアーム・スープレックス

タイトル歴

入場曲

中でも「SAMURAI」は反選手会同盟平成維震軍全盛期に使用していたことや、越中の紆余曲折の人生観を表したような曲調もあり、今でも一部で根強い人気がある。

著書

ゲーム

  • 『越中詩郎の完全無ケツだって!』 - 携帯電話用アプリ。

テレビ出演

ドラマ

バラエティその他

その他

テンプレート:スポーツ選手の出典明記

  • 高校卒業後、東京電力に入社。全日本プロレス入門まで1年間働いていた。
  • 全日本プロレスの若手時代、三沢光晴とのシングル戦は「前座の黄金カード」と言われるくらい、毎回質の高い試合を見せていた。若手の登竜門と言われた1983年のルー・テーズ杯も、決勝には越中と三沢が勝ち上がっている。
  • ビートルズ阪神タイガースの大ファン。ポール・マッカートニーの幻のコンサートでは、前列の席を入手していたという。また長州力と、甲子園球場に阪神の激励に駆けつけたこともある。
  • コメントの語尾に「〜してやるって!〜ってことですよ!」などと「やるって!」をつける癖があり、一部から「やるって節」とネーミングされたことがある。
  • 趣味はゴルフ鉄道、映画「男はつらいよ」鑑賞、好きなテレビ番組は暴れん坊将軍水戸黄門大河ドラマなど時代劇
  • 経歴欄にある、反選手会同盟結成時に頭を剃り上げてファイトしたが、越中としては初めてではない。メキシコ遠征時代の1984年7月13日、抗争していたエル・サタニコとのカベジェラ・コントラ・カベジェラで敗れ、丸坊主にされている[4]
  • 1987年、仲村トオル主演映画「新宿純愛物語」に木村健吾と共にヤクザ役で出演予定だったが直前に怪我をしたために出演出来なかった。代役大矢健一(現・剛功)。
  • 30代半ばまで独身を通したため、同じく独身の渕正信とともに『週刊プロレス』・『週刊ゴング』両誌読者コーナー独身ネタの標的にされていた。結婚相手は新日本プロレスの事務方の年下の美人で、日本プロレス界初の職場結婚でもあった。平成維震軍解散後敵対関係となった後藤達俊にも「あんなきれいな嫁さん貰いやがって」と逆恨みされていた。なお、後藤自身も、美人記者と評判だったスポーツ紙プロレス担当記者と結婚し、周囲を驚かせている。
  • ケンドーコバヤシが、アメトーーク!で越中詩郎(大好き)芸人をプレゼンしたことを契機に反響を呼び、越中公式サイトは、一時期アクセスが集中して閲覧しにくくなった。
  • 以前天山にマイクパフォーマンスで「おい、えっちゅう!(越中)」と呼ばれ、切れたことがある。
  • G1 CLIMAXにおける蝶野正洋との公式戦は「真夏の名勝負数え歌」と称されていた。これらは越中が新日本に在籍していた時に5回行われ、越中が3勝2敗で勝ち越している。

脚注

テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:IWGPジュニアヘビー級王座
  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 1.12 1.13 「レスラーヒューマンストーリー第202回 越中詩郎」、『週刊プロレス』No.1747、平成26年7月23日号(7月9日発行)、71-74頁、2014年。
  2. ニュー・プロレスアルバムNo.3 男・サムライ越中詩郎 ベースボールマガジン社
  3. 2009年12月13日の全日本プロレスファン感謝デーで行われたF-1タッグ選手権試合、武藤&神奈月組vs越中&ケンドーコバヤシ組の試合前のVTRで、武藤が神奈月に上記の台詞を言っているシーンが流れている。
  4. 月刊ゴング1984年10月号より