ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム

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テンプレート:MLBのチーム ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムLos Angeles Angels of Anaheim、略称:LAA)は、アメリカMLBアメリカンリーグ西地区所属のプロ野球チーム。本拠地はカリフォルニア州アナハイムにあるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム

概要

テンプレート:Main2 1961年のアメリカンリーグの球団拡張によって誕生した球団である。1979年に初の地区優勝を果たし、1982年と1986年にも地区優勝を遂げた。しかし、いずれもプレーオフで敗れ、リーグ優勝はならなかった。2002年にはワイルドカードでプレーオフに進出すると、勢いにのって勝ち上がり初のワールドチャンピオンに輝いた。2003年以降は大規模な補強を行い、2004年以降の6年に5度の地区優勝を果たすなど、リーグ屈指の強豪チームに成長した。

2010年現在は、長期に渡ってチームの指揮を執っているマイク・ソーシア監督の下、投手陣ではジェレッド・ウィーバートミー・ハンソンC・J・ウィルソン、といった強力な先発投手陣、打撃陣ではアルバート・プホルスマイク・トラウトクリス・アイアネッタといった攻守共に豊富な人材を揃えている。テンプレート:要出典範囲

経営

1997年から2005年まではウォルト・ディズニー社が経営に携わっていた。2002年のワールドシリーズ初制覇時の優勝パレードは、同じアナハイムにあるディズニーランドで行われた。

2005年にヒスパニックの実業家であるアルトゥーロ・モレノがオーナーに就任。モレノはチケット、ビールの値下げ、家族向けの低価格帯グッズの販売などを展開し、ファン層の拡大にも力を注いだ。試合中はホーム球場であるエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムを歩き回り、ファンと積極的にコミュニケーションをとっている姿が見られる。その効果もあってか、2004年以降はレギュラーシーズンの平均観客動員数は4万人を超えるようになり、スタンドはチームカラーの赤に染まる。現在では、シーズン入場者数は330万人から340万人程度を推移しており、メジャーでも上位の人気を誇っている。チームの価値も上昇し、現在は2003年当時の買収額である約1億8000万ドルから約3億6800万ドルほどになったといわれる。

また、広域的にも広告利益が期待できかつアナハイムを含むロサンゼルス地域に根ざした野球チームを目指すという観点から現在のチーム名である「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」に変更した。この名称変更に関して、地元ファンやアナハイム市は球団の態度に不快感を示すとともに、1996年に球団と市の間に交わされたアナハイムの名を明示的にチーム名に入れるとする契約に反するとして訴訟にまで発展した。後に球団側が勝訴し、現在では既にロサンゼルス・エンゼルスという名前が浸透している。

ラリー・モンキー

本拠地のエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイムではラリー・モンキーと呼ばれるが人気を集めている。ラリー・モンキーとは直訳すると「逆転猿」という意味で、ラリー・モンキーが現れるのは6回以降でチームが負けているか、同点の時のみであり、ラリー・タイムと称してスコアボードの大画面にラリー・モンキーの跳ね回る姿が映し出される。2000年頃からこの猿が登場し、不思議とチームも逆転勝利を収めるようになったことから、ラリー・モンキーと名づけられ、現在では球場の名物として定着している。

球団の歴史

球団創設

戦前までMLB球団は東海岸に集中していたため、ロサンゼルスなどの大都市を抱える西海岸へのMLB球団の移転の話はたびたび持ち上がっていた。初めにこれを検討したのがアメリカンリーグで、1940年にセントルイス・ブラウンズ(現・ボルチモア・オリオールズ)がロサンゼルスへの移転を計画した。しかし1941年の末に太平洋戦争が勃発したため、戦場となる可能性のあった西海岸でのプロスポーツの開催が困難となり、この計画は頓挫してしまった。1953年にはブラウンズが再びロサンゼルスへの移転を計画したが、球団自体が売却されたことで代わりにボルチモアへ移転することとなった。その後ワシントン・セネタース(現・ミネソタ・ツインズ)やフィラデルフィア・アスレチックス(現・オークランド・アスレチックス)といった球団もロサンゼルスへの移転を計画したが、どれも実行はされなかった。

1957年、ナショナルリーグのブルックリン・ドジャース(現・ロサンゼルス・ドジャース)がロサンゼルスに移転し、戦後初めて西海岸にMLB球団が誕生した。また同年にはニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)も西海岸に移転する。ドジャースとジャイアンツは初年度から多くの観客を集め、興行的に大きな成功を収めた。そのため、アメリカンリーグでも西海岸に球団を置くことが再度検討され、1961年のアメリカンリーグの球団拡張計画に基づき、ロサンゼルスにおける新球団の設置が決定した。新球団の名前はロサンゼルスの地名の由来である「天使たち = the angels」から採り、これにロサンゼルスを冠して「ロサンゼルス・エンゼルス」となった。こうしてエンゼルスはその歴史を歩み始める。

アナハイムへの移転

1961年、初年度となったシーズンは70勝91敗でリーグ8位(10球団中)に終わった。しかしこれは戦後の新設球団の成績の中では最も良いものだった。初年度はロサンゼルス・リグレー・フィールドを使用していたが、2年目からはドジャースの本拠地球場であるドジャー・スタジアムを間借りする。2年目には86勝76敗で早くも勝ち越し、リーグ3位に食い込んだ。なお、この年の5月5日のオリオールズ戦ではボー・ベリンスキーがエンゼルス初のノーヒットノーランを達成している。1964年には82勝80敗で再び勝ち越し。この年にはディーン・チャンスが防御率1.65・20勝9敗を記録し、エンゼルスでは初の個人タイトルとなるサイ・ヤング賞を獲得している。

しかしこうしたチームの好成績とは裏腹に観客数は伸び悩んだ。1962年から1965年までの4年間の合計観客数は300万人程で、同じ本拠地のドジャースと比べても半分以下だった。そのため間借りしているドジャー・スタジアムの賃貸料は割高となり、新球場の建設の必要性は明らかだった。1966年、ロサンゼルス南郊のアナハイムにアナハイム・スタジアム(現・エンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム)が完成し、チームもアナハイムへ移転。球団名も「カリフォルニア・エンゼルス」と改称した(州名を冠したのはミネソタ・ツインズに続き2球団目)。移転の効果は抜群で、1965年には57万人程だった観客数も移転した初年度には140万人を記録している。1968年からはア・リーグ西地区に所属。しかし1970年代後半まで負け越しのシーズンが続き、なかなか優勝には手が届かなかった。

初の地区優勝(1979年)

1972年、ニューヨーク・メッツからトレードでノーラン・ライアンが移籍。当時のライアンは持ち前の豪速球には凄まじいものがあったが、制球に苦しみ、なかなか活躍できない状況が続いていた。しかしエンゼルスに移籍するや否や防御率2.28・19勝16敗・329奪三振という活躍をみせる。翌1973年にはサンディー・コーファックスが1965年に記録したシーズン382奪三振を抜くシーズン383奪三振を記録。翌年以降も毎年20勝前後を挙げ、エンゼルスで4度のノーヒットノーランを達成するなど、MLBを代表する投手へと成長する。

1978年のシーズン途中にジム・フレゴシが36歳という若さで監督に就任。フレゴシは元エンゼルスの遊撃手で、ライアンとのトレードでメッツに移籍した経緯を持ち、この年の5月に引退したばかりだった。この年には、ツインズから移籍したライマン・ボストックが射殺される悲劇もあったが、フレゴシ監督の下で87勝75敗と8年ぶりに勝ち越し、2位でシーズンを終える。そして1979年には、ライアンに加えてロッド・カルードン・ベイラーボビー・グリッチらを擁し、初の地区優勝を遂げた。カルーは首位打者こそ逃したものの打率.318と期待にそぐわぬ活躍をみせ、ベイラーは打率.296・36本塁打・139打点を記録し、ア・リーグMVPに輝いた。続くリーグチャンピオンシップシリーズではアール・ウィーバー率いるオリオールズと対戦し、1勝3敗で敗れた。

1979年限りでライアンがチームを離れ、翌1980年には65勝95敗と大きく負け越した。また、この年にはNFLのロサンゼルス・ラムズ(現・セントルイス・ラムズ)がアナハイム・スタジアムを使用するようになり、球場もアメフト兼用に改修され、収容人数も43,000人から64,593人に増加された。このためアメフト兼用に球場を改築した他球団と同様に、試合数の少ないアメフトの試合では観客席が埋まる一方、試合数の多い野球の試合では空席が目立つといった弊害に悩まされることとなる。1981年は前後期制が導入され、前期は31勝29敗で4位だったものの、50日間に及ぶストライキで短縮された後期には20勝30敗で最下位に沈んだ。なお、この年にはグリッチが22本塁打で本塁打王に輝いている(22本塁打でのタイトルは戦後では最少。他にも3人が22本塁打を記録した)。

2度の地区優勝(1982年、1986年)

1982年、ニューヨーク・ヤンキースからレジー・ジャクソンが移籍。前年は15本塁打と不調だったジャクソンだが、エンゼルスに移籍するや復活、39本塁打を放ち本塁打王に輝いた。また、チームもジャクソンの活躍もあり、97勝69敗で2度目の地区優勝を果たす。続くリーグチャンピオンシップシリーズではミルウォーキー・ブルワーズと対戦。第1戦、第2戦と勝利し、リーグ優勝に王手をかけたが、その後2連敗。迎えた最終戦では7回まで3対2とリードしていたものの、7回裏に逆転を許してしまい、結局3対4で敗れた。その後、1983年は5位、1984年と1985年は2年連続でカンザスシティ・ロイヤルズに次ぐ2位に終わった。1984年9月30日にマイク・ウィットがMLB史上11人目の完全試合を達成している。

1986年、ウォーリー・ジョイナーチャック・フィンリーがメジャーデビュー。特にジョイナーは打率.290・22本塁打・100打点を記録し、新人王候補に名を連ねた(新人王は33本塁打・117打点を記録したホセ・カンセコ)。この年にはウィットを中心とした投手陣も抜群の安定感を誇り、92勝70敗で3度目の地区優勝に輝いた。リーグチャンピオンシップシリーズではボストン・レッドソックスと対戦。先に3勝をあげてリーグ優勝に王手をかけ、第5戦でもエンゼルスが8回まで5対2とリードし、優勝は目前と思われた。しかし9回表に、ここまでレッドソックス打線を抑えていた先発のウィットが、元エンゼルスのベイラーに2ランホームランを打たれ、5対4と追いすがられる。代わったゲーリー・ルーカスリッチ・ゲドマンに死球を与えて出塁。ここでたまらず抑えのドニー・ムーアを登板させるが、デーブ・ヘンダーソンを2ストライクと追い込みながら、粘られた末に2ランホームランを打たれ、5対6と逆転された。結局、9回裏にエンゼルスが1点を返して延長戦に突入するも、11回表にヘンダーソンに決勝の犠牲フライを放たれ、まさかの逆転負けを喫してしまった。これによって流れが完全にレッドソックスに傾き、続く第6戦、第7戦と連敗、またしてもリーグ優勝を逃してしまった(なお、ナショナルリーグはニューヨーク・メッツが優勝したため、エンゼルスが勝っていれば史上初の「エクスパンションチーム同士によるワールドシリーズ」になるところだった)。ムーアは1988年にエンゼルスを解雇され、翌1989年に拳銃自殺するという悲劇も起こっている。

ワールドチャンピオン(2002年)

1992年、ティム・サーモンがメジャーデビュー。翌1993年に打率.283・31本塁打・95打点を記録し、新人王に輝いた。また1994年にはギャレット・アンダーソンがメジャーデビュー。翌1995年に打率.321、16本塁打、69打点で新人王投票で2位に入った。1990年代はフィンリー、サーモン、アンダーソンを投打の柱として、一定の成績は残すものの、なかなか優勝には縁がないシーズンが続いた。特に1995年は8月2日の時点で2位のシアトル・マリナーズに13ゲームもの大差をつけたが、その後失速して同率首位に並ばれ、ワンゲームプレーオフではマーク・ラングストンの乱調で1-9と大敗し地区優勝を逃した。その1995年にラムズがセントルイスへ移転したことで、1997年にはアナハイム・スタジアムが野球専用球場に再改修された。またこの年にはウォルト・ディズニー社も経営に参加(この頃ディズニー社はNHLアナハイム・ダックスを創設するなど、プロスポーツチームの経営に注力していた)。球団名も地元アナハイムの地域密着型チームを目指すという理由から、ホームタウンの名前を冠して「アナハイム・エンゼルス」に変更した。

2000年からはマイク・ソーシアが監督に就任。同年にはトロイ・グラースが47本塁打を放って本塁打王に輝いている。グラースは翌2001年にも41本塁打を放ち、2年連続でシルバースラッガー賞を受賞するなど、チームの主砲として活躍した。

2002年には、地区2位だったものの、99勝63敗でワイルドカードを獲得。ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝1敗で下し、リーグチャンピオンシップシリーズではツインズを4勝1敗で下して初のリーグ優勝を果たした。ワールドシリーズではバリー・ボンズ擁するジャイアンツと対戦。ジャイアンツもワイルドカードから勝ちあがっており、史上初のワイルドカード獲得チーム同士の対戦となった。第1戦では敗れたものの、第2戦では弱冠20歳のフランシスコ・ロドリゲスが中継ぎとして登板し、3回を投げて初勝利をあげ、史上最年少のワールドシリーズ勝利投手として一躍注目を浴びた。続く第3戦は10対4で勝利。しかし、第4戦、第5戦と連敗し、ジャイアンツに王手をかけられてしまう。地元に戻った第6戦では、7回まで0対5とリードされていたが、7回と8回に3点ずつ取って、6対5で逆転勝利を収めた。第7戦では、先発のジョン・ラッキーが6回まで投げ、ジャイアンツを1点に抑え込むと、ドネリー、ロドリゲス、トロイ・パーシバルと繋ぎ、最終的に4対1で勝利。球団創設42年目にして初のワールドシリーズ制覇を成し遂げた。

黄金期到来(2003年-2009年)

2003年のシーズンオフにヒスパニックで実業家のアルトゥーロ・モレノが球団オーナーに就任。約1億4600万ドルを費やし、大規模な戦力増強を行った。ブラディミール・ゲレーロ(5年契約、計7000万ドル)、バートロ・コローン(4年契約、計5100万ドル)、ケルビム・エスコバー(3年契約、計1875万ドル)といった一流選手を次々と獲得。補強の効果もあってか、2004年以降は4度の地区優勝を果たすなど、安定した強さを誇っている。

2004年は、2位アスレチックスを1ゲーム差でかわし、4度目の地区優勝。しかし、続くディビジョンシリーズでは、この年86年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたレッドソックスに3連敗を喫した。2005年には、球団名を「ロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイム」と改称。この年には、地区2連覇を果たし、ディビジョンシリーズでヤンキースを3勝2敗で下すが、リーグチャンピオンシップシリーズでは、88年ぶりのワールドシリーズ制覇を果たしたシカゴ・ホワイトソックスに破れ、リーグ優勝はならなかった。

2006年は2位に終わったが、2007年には、2位シアトル・マリナーズをシーズン終盤で突き放し、8度目の地区優勝を果たした。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックスと対戦し、またしても3連敗を喫してしまった。

2008年はエースのジョン・ラッキーケルビム・エスコバーを開幕から欠き苦戦が予想されたが、前年不調だったアービン・サンタナと8勝を挙げたジョー・ソーンダースが開幕から最多勝争いに絡む大活躍。新加入のジョン・ガーランドや前年2桁勝利のジェレッド・ウィーバーも期待通りの活躍を見せ、5月には既に独走態勢に入っていた。ラッキーも復帰後は好投を見せ、結局ローテーション投手全員が10勝を成し遂げた。打線もFAで加入のトリー・ハンターや8月にトレードで加入したマーク・テシェイラがクリーンナップに座り、元来のスモールベースボールを軸とした安定した攻撃力を保った。チームは勢いそのままに9月上旬に早くも2年連続の地区優勝も打ち立てた。また、チームが圧倒的に勝ちを重ねる状況もあり、クローザーフランシスコ・ロドリゲスは開幕から驚異的なペースでセーブを稼ぎ、セーブのシーズン記録を更新した。しかし、ディビジョンシリーズではレッドソックス相手に1勝3敗とまたも苦杯、オフにはロドリゲスとテシェイラがFAで退団し、新たな戦いを強いられることになった。

2009年もラッキーやサンタナ、エスコバーをはじめとする先発投手陣に故障が相次ぎ困難なスタートとなった。将来有望な若手投手であるニック・エイデンハートに期待が集まったが、4月8日の登板後に交通事故で死去するという衝撃的な出来事が起きる。このニュースは全米でも大きく取り上げられ、翌日の試合は中止になった。その後、レイズのエースだったスコット・カズミアーをトレードで獲得することでローテーションを再建。主軸を担うようになったケンドリス・モラレスの活躍や復帰したサンタナの好投もあり3年連続の地区優勝を達成した。プレーオフ地区シリーズでは3年連続でレッドソックスとの対戦となったが、3連勝で前年の雪辱を果たした。リーグチャンピオンシップはヤンキースと争ったが、2勝4敗で敗退しワールドシリーズ進出はならなかった。

2010年以降

2010年は可もなく不可もない成績で開幕のスタートを切る。ところが、5月29日シアトル・マリナーズ戦で満塁サヨナラホームランを放った主砲のモラレスが喜びのあまりジャンプしてホームベースに着地した際、バランスを崩し転倒して左足下腿部を骨折。結局、モラレスは残りのシーズンを棒に振ることになった。また、開幕当初は4番を務めた新戦力の松井秀喜も期待された成績を挙げられず。7月にダン・ヘイレンをトレードを獲得すると、強力な投手陣の下で後半戦に追い上げを見せた。しかし、得点力不足が響いて80勝82敗にとどまり、優勝したレンジャーズから10ゲーム離された地区3位でシーズンを終えた。

2011年は地区2位ながら優勝したレンジャーズから10ゲーム離された。オフにはアルバート・プホルスC・J・ウィルソンらビッグネームを獲得した。

2012年はジェレッド・ウィーバーが自己最多の20勝で最多勝のタイトル、史上初となる新人での30-30を達成したマイク・トラウトが新人王のタイトルを獲得するも、89勝73敗で地区3位に終わった。

選手名鑑

現役選手

テンプレート:Los Angeles Angels of Anaheim roster

監督・コーチ

背番号 国籍 役職 選手名
14
テンプレート:Flagicon 監督 マイク・ソーシア (Mike Scioscia)
25
テンプレート:Flagicon 打撃コーチ ドン・ベイラー (Don Baylor)
55
テンプレート:Flagicon 臨時打撃コーチ ポール・ソレント (Paul Sorrento)
31
テンプレート:Flagicon 打撃コーチ補佐 デーブ・ハンセン (Dave Hansen)
23
テンプレート:Flagicon 投手コーチ マイク・ブッチャー (Mike Butcher)
 4
テンプレート:Flagicon 一塁コーチ アルフレド・グリフィン (Alfredo Griffin)
 9
テンプレート:Flagicon 三塁コーチ ゲイリー・ディサシーナ (Gary DiSarcina)
21
テンプレート:Flagicon ベンチコーチ ディノ・イーベル (Dino Ebel)
 1
テンプレート:Flagicon 内野コーチ ボビー・ヌープ (Bobby Knoop)
61
テンプレート:Flagicon ブルペンコーチ スティーブ・ソリス (Steve Soliz)
57
テンプレート:Flagicon プレイヤー・インフォメーションコーチ スティーブ・ソリス (Rick Eckstein)
70
テンプレート:Flagicon ブルペン捕手 トム・グレゴリオ (Tom Gregorio)
--
テンプレート:Flagicon 捕手コーチ ビル・ラッチマン (Bill Lachemann)

殿堂入り選手

永久欠番

主な日本人選手

日本人選手では、長谷川滋利投手が1997年から2001年まで、松井秀喜外野手が2010年に、高橋尚成投手が2011年から2012年まで、それぞれ在籍していた。

傘下マイナーチーム

クラス チーム 参加リーグ 提携 本拠地
AAA ソルトレイク・ビーズ
Salt Lake Bees
パシフィック・コーストリーグ
Pacific Coast League
2001年 テンプレート:Flagiconユタ州ソルトレイクシティ
スプリング・モバイル・ボールパーク
AA アーカンソー・トラベラーズ
Arkansas Travelers
テキサスリーグ
Texas League
2001年 テンプレート:Flagiconアーカンソー州リトルロック
ディッキー・ステファンス・パーク
A+ インランド・エンパイア・シックスティシクサーズ
Inland Empire 66ers of San Bernardino
カリフォルニアリーグ
California League
2011年 テンプレート:Flagiconカリフォルニア州サンバーナーディーノ
サン・マヌエル・スタジアム
A バーリントン・ビーズ
Burlington Bees
ミッドウェストリーグ
Midwest League
2013年 テンプレート:Flagiconアイオワ州バーリントン
コミュニティー・フィールド
Rookie+ オレム・オウルズ
Orem Owlz
パイオニアリーグ
Pioneer League
2001年 テンプレート:Flagiconユタ州オレム
ブレント・ブラウン・ボールパーク
Rookie アリゾナリーグ・エンゼルス
Arizona League Angels
アリゾナリーグ
Arizona League
1989年 テンプレート:Flagiconアリゾナ州テンピ
テンピ・ディアブロ・スタジアム
ドミニカン・サマーリーグ・エンゼルス
Dominican Summer League Angels
ドミニカン・サマーリーグ
Dominican Summer League
1989年 テンプレート:Flagiconドミニカ共和国
エンゼルス・コンプレックス

関連項目

外部リンク

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