KENTA

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テンプレート:Otheruseslist テンプレート:Infobox プロレスラー KENTA(けんた、男性、1981年(昭和56年)3月12日 - )は、日本人プロレスラー埼玉県草加市出身。

本名は小林 健太(こばやし けんた)。本名が小橋建太と一文字違いである。

経歴・戦歴

入門前

テンプレート:要出典範囲以降テレビ・雑誌を通じて小橋の、ひいてはプロレスファンとして成長する。

高校野球の強豪・修徳高校時代には野球に打ち込みつつ、小橋がアマチュア時代に体を作るために通っていた遠藤光男(日本アームレスリング連盟会長)の主宰するエンドウズジムの存在を知り、入会。卒業にあたり、遠藤にプロレスラー志望の意を伝えると、小橋と旧知の遠藤が小橋宛に履歴書を送り、「一般公募オーディションに参加するように」との返事を貰う。オーディション参加には、一面識もないにもかかわらず小橋の推薦が付いていて本人も驚いた、というエピソードがある。

デビュー

1999年(平成11年)、全日本プロレスが初めて行った一般公募オーディションに参加し、合格する。練習初日、余りの練習の厳しさに合格者が次々と倒れこんでいく中、テレビのインタビュアーに「後悔していませんか?」と訊ねられたところ、「いえ、していません」ときっぱり答えていた。2000年(平成12年)3月11日、後楽園ホールでのバトルロイヤルでプレ・デビュー。合格者7名の中で唯一5月24日青森県総合運動公園体育館にて、丸藤正道を相手に本名の「小林健太」でデビューする。その直後に全日本が分裂しそのまま三沢が設立した新団体プロレスリング・ノアに移籍する。この頃、小橋がリーダーのチーム「バーニング」が崩壊、初代付き人の金丸義信も小橋の元を離れ、KENTAが2代目付き人となり、3代目の潮﨑豪に引き継ぐまでの約4年間行動を共にすることになる。

新人時代

ジュニア戦士らしく飛び技主体のスタイルで戦っていたが、その路線には天才と名高い丸藤正道が居たためいま一つ印象が薄く、当時練習生であった鈴木鼓太郎が自分が出来ない跳び技を軽々やってみせていたことから自分のスタイルに迷いが出てくる。師匠である小橋にオレンジ色を譲り受けるも度重なる怪我で戦列を離れた。自分はジュニア戦士なのだから飛び技を使えなければならないと思い意図的に飛び技を出していたためである。小橋に師事しトレーニングに励み、スタイルもパワーを強調したものになっていった。2002年(平成14年)5月27日、第5代ジュニアヘビー級トーナメント決勝で金丸義信に肉薄し、それ以降、積み重ねてきたキックボクシングを取り入れたキック中心のスタイルを確立していく。

イケメンタッグ

トップに近づくため、丸藤正道とタッグを組み始める。性格はバラバラで特に仲良くもなかったが、タッグの相性は抜群であり、2003年7月16日、外敵タッグの獣神サンダー・ライガー村浜武洋組を退け初代GHCジュニアヘビー級タッグ王座を獲得した。丸藤の魅せる動きと受け、KENTAのハードヒットという両極端だが非常に分かり易いスタイル、そしてルックスの良さから「イケメンタッグ」と称されるようになり、多くの女性ファンを呼び込むことに成功した。ただ見た目が良いだけではなく、試合をすれば必ず名勝負を演じ納得のフィニッシュで勝利を掴むことから、同時期のGHCヘビー級王者の小橋建太と並んで「名勝負製造機」「ジュニア版絶対王者」と賞され、ノアにおけるジュニアの台頭を生んだ。

2004年(平成16年)、KENTAは「蹴撃七番勝負」を行なう。初戦のフベントゥ・ゲレーラ以外は全敗という結果に終わる。2戦目の相手小川良成の持つGHCタッグ王座に挑戦を表明していたが、敗れてしまったために小川から鈴木鼓太郎とのタッグでGHCジュニアヘビー級タッグ王座挑戦が決定するもこれを返り討ちにする。この実績から三沢光晴小川良成組が持つGHCタッグへの挑戦が2004年4月25日に決定した(結果は敗北)。

5月7日・8日に行われた第2回ディファカップに丸藤とのタッグで出場。決勝戦でタッグ歴6年を誇る日高郁人藤田ミノル組と35分24秒にも及ぶ激闘を繰り広げ、最後にはブサイクへの膝蹴りで藤田を撃破し見事優勝を果たした。6月5日には金丸義信・杉浦貴組に敗れ、約2年に渡り9度の防衛に成功したGHCジュニアヘビー級タッグ王座から陥落。

GHC ジュニアヘビー級王者時代

2005年(平成17年)7月18日東京ドームにて金丸義信が保有するGHCジュニアヘビー級王座に挑戦し奪取に成功する。その後日本国外での防衛戦を経て、2006年(平成18年)1月、先輩である丸藤正道を相手に防衛戦を行い、同年のベストバウト候補に挙がるほどの死闘を繰り広げ、ついに丸藤越えを果たした。この防衛戦の高い評判により丸藤正道と共に対ヘビー級路線に駆り出されるようになる。

直後の3月には師である小橋建太とこれまた激闘を繰り広げるも、リストクラッチ式バーニングハンマーにより敗れた。

その後も防衛戦を続けるも同年6月杉浦貴に敗北し1年近く在位していた王座から陥落した。

ROH参戦・対ヘビー級路線

GHCジュニアヘビー級王座からは陥落したものの、かつてタッグを組んでいた丸藤正道が2006年9月に秋山準を破りジュニアでありながらGHCヘビー級王座を戴冠。同年1月にGHCジュニアヘビー級王座の防衛戦で丸藤に勝利していた経緯から初防衛戦の相手として指名され、初のジュニアヘビー級同士によるGHCヘビー級選手権試合が行われた。1月の試合を超え、プロレス大賞にて2006年のベストバウトに選ばれる程の死闘を繰り広げたものの敗北する。

また2005年末よりアメリカのインディ団体ROHに定期的に遠征するようになり、当時ROH世界王者だったブライアン・ダニエルソンとライバル関係になる。現地にてROH世界王座に挑戦して敗北することもあったが、2006年12月にノアマット初上陸を果たしたダニエルソンとリマッチを行い初勝利を収めた。

2006年から断続的に続いていた対ヘビー級路線は2007年に入り森嶋猛とのシングルという形に結実した。2006年12月にSEMで引き分けたことに続き、2007年3月には日本武道館のメインイベントでROH世界王座戦(2007年1月に森嶋がROH世界王者になっていた)という形で森嶋に挑むも敗北。その後、下記に示す石森太二とのタッグ結成により再びジュニアヘビー級戦線に戻るかと思われたが、対ヘビー級の能力も高く評価されており、アメリカで三沢光晴を相手にGHCヘビー級選手権試合を行ったりする等、時々ヘビー級戦線に参戦している。

石森太二とのタッグ結成

2007年(平成19年)初夏頃から石森太二とタッグを組むようになり、ジュニアヘビー級戦線の活発化のためノア初のジュニアタッグリーグ戦を提唱し実現する。ジュニアヘビー級タッグ王者の鈴木鼓太郎&リッキー・マルビンの他、ROHの強豪タッグチーム:ブリスコ・ブラザーズや、丸藤正道がDDT飯伏幸太と組んで参戦したことにより大成功を収めた上、王者チームを差し置いて優勝をも果たした。

同年8月にはジュニアタッグリーグ優勝の勢いを駆ってGHCジュニアヘビー級タッグ王座に挑戦するも敗北。その後しばらく目立った活動は無かったが、2008年3月20日 DRAGON GATE「THE GATE OF GENERATION」大田区体育館大会にて、DRAGON GATEに流出したGHCジュニアヘビー級タッグ王座へ挑戦し、勝利して第9代GHCジュニアタッグ王者になる。しかし7月にはヒールファイトに目覚めた金丸義信・鈴木鼓太郎組に敗れて王座陥落してしまう。ここから両者の抗争がスタートし、2008年のジュニアタッグリーグの優勝決定戦で再び激突し、勝利を収め2年連続の優勝を決めた。

シングル王座返り咲き

また10月にブライアン・ダニエルソンの持つGHCジュニアヘビー級王座に挑戦。勝利を収めて3年ぶりにベルトを巻いた。初防衛戦は世界ジュニアヘビー級王座(全日本プロレスのタイトル)を奪取していた丸藤正道とのダブルタイトルマッチだったが、長年ライバル関係にある両者は一歩とも引かずGHC史上初の60分フルタイムドローという結果になり防衛に成功する。

2009年5月17日には自身初となるプロデュース興行「CROSS ROAD」を開催し、メインで因縁浅からぬ秋山とシングルマッチを実現させた。激闘を展開するも、結果は敗北。

2009年10月28日に第1回ジュニアヘビー級リーグ戦の鈴木鼓太郎戦で右ひざ前十字靭帯を断裂し、外側半月板を損傷した。10月31日には負傷に伴う長期離脱のため、GHCジュニアヘビー級王座を返上した。

DIS OBEYからNO MERCYへ

2011年1月ツアー『The First Navig.2011』が始まると、正パートナー不在のKENTAが金丸とのタッグチーム結成に個人的に興味がある旨の発言をする。これを受け、同月23日のアクロス福岡大会で、金丸義信がKENTAにタッグを結成するのかしないのかハッキリとするようにリング上でマイクアピールした。KENTAは金丸に耳打ちし、金丸は「分かった」とのみ発言し退場する。このときの発言内容は二人以外には明かされなかったが、後日ある条件を提示したと明かされた。同月29日のツアー最終戦・後楽園ホール大会における第4試合、潮崎豪小川良成、KENTA組対モハメド・ヨネ、金丸義信、平柳玄藩組の試合終盤で、KENTAは味方である潮崎と小川を突如攻撃、パイプ椅子による殴打を敢行。直後、金丸や平柳・ヨネと握手、抱擁し、さらには「これからが新しいディスオベイの始まり」とマイクアピールをしチーム加入を宣言した。なお、試合後の控室で先日提示した条件の内容は不明のままであるが、条件は成約したことがKENTAの口から告げられた[1]

2011年(平成23年)3月5日有明コロシアム大会のディスオベイ対健介オフィスの8人タッグマッチで、試合途中で仲間割れを起こし、モハメド・ヨネをKENTAが椅子攻撃、続いて金丸とKENTAが二人の得意技を見舞った。嫌がる平柳玄藩にも無理矢理ヨネへ椅子攻撃をするよう促し敢行させた。マイクアピールでKENTA・金丸・平柳で新たにチームを結成する旨を宣言。また、以前に金丸に提示した加入の条件はヨネを外すことであると明かした。3人はヨネ排除の理由として、ヨネは中途半端で、イメージが悪いためとしている。後日、金丸・KENTA・平柳の新チームの名称はノー・マーシー(No Mercy)であると発表され、追放したヨネと抗争を展開する。

翌4月にモハメド・ヨネ対NO Mercy3番勝負が行われ、第1試合で平柳、第2試合で金丸に勝利したヨネに第3試合で激突。疲労困憊の状態だったヨネに快勝した直後にマイクを握り、NO Mercy設立の根本的理由を話した後、NOAHが不況に陥っていながらも現場の状況を見ようともせずに憤然とNOAHのフロントを牛耳っているGM仲田龍を名指して「さっさとフロントから退け!」と言い放ち、NOAHの開拓とGM仲田への宣戦布告を宣言した。

6月11日、ヨネと再び対戦するもヨネの断崖式キン肉バスターでエプロン際に設置された机に脳天から落下、まさかの失神を起こしレフェリーストップによる敗北を喫した。 同月26日、高山善廣佐野巧真組と対戦(パートナーは金丸)、高山が佐野をエベレストジャーマンで裏切りNO MERCY入りを表明、加入を受け入れNOAH改革に一層の勢いを付けた。

11月、杉浦貴とのシングルマッチで杉浦に勝利し、潮崎豪の持つGHCヘビー級ベルトの挑戦権を獲得。同月下旬のグローバル・リーグにも出場、同大会での杉浦との再戦ではフロントネックロックで絞め落とされ128秒殺されるも、快調に勝利を重ねていき、決勝戦で森嶋猛に敗れるも準優勝となる。 12月に潮崎のGHCヘビー級ベルトに挑戦するも、グローバル・リーグで左膝を負傷していたため、go 2 sleepを潮崎に喰らわせることはできたものの入りが浅く、最後は潮崎のリミットブレイクで敗れる。以降、膝の怪我のため欠場する。

12月、2011年プロレス大賞技能賞を受賞。

2012年(平成24年)7月22日に復帰後は本格的に主戦場をヘビー級に移す。

9月に大阪府立体育会館で森嶋猛の持つGHCヘビー級ベルトに挑戦し、体重差がある中熱戦を繰り広げるも敗戦。10月にマイバッハ谷口とのタッグでGHCタッグベルトを奪取した。自身初めてのヘビー級のベルト獲得となった。しかし初防衛戦で潮崎・斎藤組に敗れ、短期政権に終わる。11月グローバル・リーグ戦で、圧倒的なファンの声援を受けながら初優勝を飾る。試合後、リング上でノア再興を宣言する。

2013年(平成25年)1月27日ボディメーカーコロシアムにおいて森嶋のGHCヘビー級王座に挑戦。21分42秒・GAME OVERでギブアップを奪い、遂に念願のGHCヘビー初戴冠。以後、約1年にわたって同王座を防衛し、同年のプロレス大賞で殊勲賞を受賞した。2014年(平成26年)1月5日に森嶋猛に敗れ、王座を失った。

ノア退団、WWE契約

2014年4月30日にプロレスリング・ノアを退団[2]。ノアラストマッチは5月17日の丸藤正道と組み杉浦貴&中嶋勝彦との対戦となった[3]。試合はKENTAが中嶋に生膝でのgo2sleepで勝利した[4]

7月12日、WWE大阪公演(舞洲アリーナ大会)にてハルク・ホーガンの呼び込みで登場、リング上にてWWEとの公開契約を行った[5]

人柄

相手がヘビー・格上・師匠であろうが物怖じせず、そのまま突っ込んでいくストレートさと、相手を小馬鹿にした動作や「すかす」クレバーさを備えたタイプのレスラーである。ルックスが良いためにプロレスとは関係のない雑誌にも数多く登場し、丸藤正道と共に女性ファン新規開拓の牽引役となっていた。

童顔であったためか初期の頃は女性ファンに「ケンタきゅん」と呼ばれていたが、今では呼ばれることは無い。ムシキング・テリー戦以降から、子供達の人気も上昇している。現在のノアのレスラーの中で、最もカリスマ的な存在となっている。

2006年の5月に入籍を発表。

周りからイケメンイケメンと騒がれ、自分もそれを逆手にとって「ブサイクへの膝蹴り」という技も使用しているが、本人曰く「自分を本気で『イケメン』だなんて思っている人は居ませんよ」。

人間関係

丸藤とタッグを組み、ジュニアタッグ王者の長期政権を築いていたが、KENTAは「丸藤さんとは仲が良くない」「タッグを組んでいるのは、あくまで上を獲る為」と平気で言っている。柴田勝頼のことは「ソウルメイト」と言い、趣味も同じことから公私ともに気の合う仲であることを公言している。

オッキー沖田を嫌っていた。理由は、オッキーがNOAH社長である三沢光晴のことを「緑」と呼び捨てにしているのを目撃したためで、「自分には例える色もないくせに」と憤慨していた。

師匠である小橋をめぐる関係で、秋山準とはそりが合わないとされていた。普段の興行ではタッグを組むことはまず無かった上に、対戦カードが組まれるとKENTAは秋山に対し普段以上の猛攻を浴びせ、秋山も何時も以上の冷徹さでこれに応戦していた。確執が決定的になったのは、2004年に行われたKENTA蹴撃七番勝負の秋山戦である。雑誌等の取材で秋山のことに話が及ぶと、KENTAは敢えて「秋山氏」「白パン」(秋山のリングコスチュームが白のショートタイツであることから)と呼んでいた。しかし2009年の自身プロデュースによる興行でメインイベントで秋山と対戦した際は、試合後にKENTA自ら秋山に握手を求め、秋山もそれに応じた。その興行終了後に行われた週刊プロレスでのインタビューでは「秋山さん」と呼び、ある程度確執は解消されたようである(そのインタビューの際、インタビュアーから「秋山さん、でいいんですか?」と逆に心配されたがKENTAは「いいです、いいです(笑)」と答えている)。

エピソード

  • 「第二回ディファカップ」優勝後、リング上で優勝賞金100万円を受け取ると、ZERO1-MAXオッキー沖田を呼び出し、「オッキー、これ、おまえが責任持って星川選手に渡しな」と、クモ膜下出血のリハビリを続けている星川尚浩へ渡すよう告げる。沖田はリング上で号泣した。
  • 第2回SEMのボーナスマッチの後、菊タローが「これからは菊KENタッグでタッグベルトを狙います。森嶋ヨネ、待っていろ!」と言われ、菊タローをつまみ出して「組むことはない」と言っているが、このネタも楽しんでいるのではないのかと言われている(KENTAはお笑い好きである)。
  • SUWA金丸義信平柳玄藩などヒールレスラーとの対立が多く団体内では急所攻撃を受けることが多い。2011年からはヒールとなり、金丸、平柳とは同じユニットに属している。
  • 北海道が鬼門。GHCジュニア、ジュニアタッグ両方のタイトルを北海道で手放している。

趣味

大変な好角家でもある。大相撲の話になると饒舌になり、力皇猛と仲が良いこともあって二人で両国国技館にて観戦したり、力皇の弟分である幕内力士などと食事をすることもある。また毎場所の場所前には力皇から番付表を貰い、自分の部屋に飾っていると言う。

主な得意技

ジュニアとしては飛び技、特にダイブ系が極めて少ないのは、周りのジュニア戦士が軽々と行っていたものを「怖くて出来なかった」ためである。現在では様々な経験を経て、キックを主体としたスタイルを確立し、師匠小橋建太と同様、雪崩式・垂直落下式・断崖式の危険技も併せ持つ。

打撃技

go 2 sleep
相手をファイヤーマンズキャリーの体勢で抱え上げ、相手を目の前に落とすと同時に胸元や首・顎あたりにカウンターで左膝を叩き込む。「ブサイクへの膝蹴り」に続くフィニッシュムーブ。この名前を意訳すると「おやすみなさい」になり、「これでフィニッシュ」することを意味する。小橋戦では表裏逆に担ぎ、後頭部に膝蹴りを見舞う裏go 2 sleepを披露している。
ブサイクへの膝蹴り
ロープに走り戻ってきた所で、右膝で相手の首筋・顎あたりを蹴り飛ばす独特の跳び膝蹴り。ボディに左掌底→右頬に左掌底→左頬に右掌底→右頬にローリング裏拳→右側頭部に左ハイキックというコンビネーション(ここまでの流れを「ブサイクへの顔面潰し」とも言う)から繋ぐことが多いが、他にも様々なバリエーションがある。
形は同じでも相手によって名前に数多くのバリエーションがあり、対戦相手によって様々である。この技の命名者は開発当時タッグを組んでいた杉浦貴
ミドルキック
時に高山善廣と合同で行うこともあるキックボクシング仕込の切れ味鋭いキック。主力武器。
ローリングラリアット
試合終盤にて繰り出される回転してのラリアット
ジャンピング・フロントハイキック
試合中盤に使うが、走ってからジャンプする点でブサイクへの膝蹴りと酷似しているため間違われることが多い。ちなみにこちらは膝ではなく靴底を相手の顔面にぶつけていく。

投げ技

ファルコンアロー
ブレーンバスターの体勢で持ち上げた後、相手の頭が自分の方にくるようあお向けに回転させながら自分は前方開脚、尻餅状態に座りながら股の間に相手の後頭部から背中を投げ落とす。FMWハヤブサが開発したことでこの名がついた。現在のスタイルが確立される前から大一番で使用されることが多い技である。
2005年以降、ビッグマッチでは雪崩式に使用することもあり、投げ技の中心となっている。2006年10月29日の丸藤戦では、断崖式で繰り出した。
フィッシャーマンズ・バスター
相手を前かがみにさせ、左腕で相手の首を下から巻きつけロックし、左腿を右手で抱えて持ち上げる。この状態で担ぎ上げ、垂直落下式に落とす技。ファルコンアロー共々キック主体となる前から度々使用されている。雪崩式で繰り出す際は、場所によって捻りを加えてドノバン・モーガンのコークスクリュー・ネックブリーカーのように落とすこともある。
タイガー・スープレックス
詳細はリンク先参照。KENTAのものは三沢光晴式('84)でクラッチしている。2004年頃から使用され始め、中盤から試合を決めに行こうとする繋ぎの投げとしてビッグマッチで使用されている。丸藤とのGHCヘビー級王座戦では雪崩式(下田美馬のデスレイクドライブ)で出した。
ターンバックル・パワーボム
パワーボムで担ぎ上げた相手をコーナーのターンバックルに後頭部から叩きつける技。元々は師匠小橋の技であったが、ビッグマッチで何度も使っていくことで自分の技へとしていった。
ジャンピング・パワーボム
軽くジャンプし、自らも尻餅を着く形で落とすパワーボム。

飛び技

スワンダイブ式ミサイルキック
KENTAにとっては珍しい飛び技。ファルコンアロー同様、長く愛用している技の一つである。2006年1月22日の丸藤戦の解説(高山善廣)によると、受身の取り方を背中でとるものから、捻りを加え前でとるものに変更したとのこと。
スワンダイブ式ラリアット
柴田との合体技「タッチ・ザ・スカイ」の披露後に使われだした技。相手の位置は違うが(タッチ・ザ・スカイは相手が柴田の肩車に乗せられている)、一人タッチ・ザ・スカイとも言える。
ダイビング・ニー・ドロップ
相手をセカンドロープに引っかけた所へ膝を落とす形で使うことが多い。
ダイビングフットスタンプ
天高くジャンプし物凄い勢いで落ちてくるため、観客席からは悲鳴にも近い歓声が上がる。2006年の丸藤戦、2007年の森嶋戦では場外で倒れている相手にトップロープから繰り出した。

関節技

STF
詳細はリンク先参照。2007年頃から、試合中盤の繋ぎとして使用している。
腕極め卍固め
卍固めをかけた体勢から相手の左腕を腕固めに捕える複合関節技。元は柴田が開発した技で、彼から伝授された。
テキサスクローバーホールド
若手時代に得意としていた技で、フィニッシュになることもあった。2009年にも再び使用し、この技で平柳、起田高志に勝利している。また、小橋も若手時代から得意としていた。
GAME OVER
カール・マレンコのカール・シックルと同系。相手の左腕を柔術のテクニックのオモプラッタの要領で両足で挟み込み、相手の頭をフェイスロックに極めて、相手の上半身を反り上げる。この技を使い始めた2011年のグローバル・リーグ戦から、ヘビー級相手の勝率が格段に上昇した。完全に極まれば、かなりの確率でギブアップを奪うことができる。go 2 sleepと並ぶ、KENTAの最大の武器である。

師匠「小橋建太」

プロレス界入りの経緯の通り、KENTAは小橋建太に多大なる影響を受けている。

練習生時代には小橋から「俺と一文字違いということで周りから色々と言われるかもしれないけど、お前はお前で小林健太を確立していけばいい」とアドバイスを受けた。

KENTAという改名の理由は「小橋建太に似ているから」ではなく、NOAH旗揚げ前に小橋が膝の手術で入院していた頃、お見舞いに来ていたTHE YELLOW MONKEY菊地英昭から「KENTAという名前はどうだ?」という話が出ていたという。その後小林名義で怪我の絶えなかったことから、小橋がその「KENTA」という名前を提案、吹っ切る意味で変えたという。

NOAH時代、小橋が膝の怪我悪化で長期離脱を余儀なくされた頃、小橋はバーニング解散を宣言する。その旨をKENTA(当時小林)に告げ、付け人も辞めて別のチームにでも行けと言うと「絶対嫌です」と固辞し続け、結局一人だけバーニングに残ることになった。

タイトル歴

リーグ戦・トーナメント
パートナー:丸藤正道
パートナー:石森太二(2007年・2008年)→青木篤志(2010年)
パートナーは高山善廣
プロレス大賞
  • 技能賞(2011年)
  • 殊勲賞(2013年)

入場テーマ曲

  • SHOUT OF MY SOUL / 山口大輔
  • FOR ONE'S LIFE / BRAHMAN (- 2002年)
  • NO LIGHT THEORY / BRAHMAN (2002年 - 2004年)
  • The Champ Is Here (remix) 〜Art And Life Chi-Roc (2004年 - 2006年)
  • What You Know (Instrumental) / T.I. (2007年1月8日 - 2011年2月13日)
  • Hard in da Paint / Waka Flocka Flame(2011年2月16日 - )
  • Enio / SebastiAn(現在)

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:GHCジュニアヘビー級王座

テンプレート:GHCヘビー級王者
  1. ベースボール・マガジン社『週刊プロレス』2011年2月16日号
  2. テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web
  5. テンプレート:Cite web