駅馬車 (1939年の映画)
テンプレート:Infobox Film 『駅馬車』(えきばしゃ、原題: Stagecoach)は、1939年のアメリカ映画。監督は西部劇の巨匠と呼ばれるジョン・フォード。主演は当時はまだB級活劇映画に出演していた三流俳優だったジョン・ウェインで、この演技を機にフォード作品の看板俳優として主演を務めていくようになり、一躍大スターになった。
西部劇ではあるが、物語は駅馬車に乗り合わせた人々の人間模様が中心で、終盤にアパッチ襲撃と決闘という2つのクライマックスが描かれている。アパッチ襲撃のシーンは大胆なクローズアップによる撮影やテンプレート:仮リンクによる見事なスタントで、スピーディーかつダイナミックなアクションシーンとなり、アクション映画史上不朽の名場面となった。
アメリカの西部劇映画を語る上で欠かせない名作であり、映画史を代表する傑作として。高く評価されている。1995年にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。
目次
ストーリー
トント発・ニューメキシコ州ローズバーグ行きの駅馬車に、町から婦人会(モラリティ・リーグ)によって追い出される娼婦・ダラス(クレア・トレヴァー)、アルコール中毒の医者・ブーン(トーマス・ミッチェル)、バージニアから来たマロイー騎兵隊大尉の妻・ルーシー(ルイーズ・プラット)、酒商人・ピーコック(ドナルド・ミーク)が乗り合わせる。さらに出発の際、南部出身の賭博師・ハットフィールド(ジョン・キャラダイン)が「マロイー夫人の護衛」として乗り込んだ。御者のバック(アンディ・ディバイン)とカーリー・ウィルコック保安官(ジョージ・バンクロフト)が加わり、駅馬車は出発する。
5万ドルを横領し、ローズバーグへ逃げるつもりの銀行家ヘンリー・ゲートウッド(バートン・チャーチル)がトントの町はずれで駅馬車に乗り込んでしばらく後、父と兄弟を殺された敵討ちとして、脱獄し500ドルの懸賞金を懸けられながらローズバーグに向かう青年リンゴ・キッド(ジョン・ウェイン)が乗車する。カーリー保安官とバックは共にリンゴの友達であるが、カーリーは「リンゴがプラマー兄弟と決闘しても殺されるだけ」と思い、あえてリンゴを逮捕した。またブーン医師は、かつてリンゴの殺された弟を治療したことがあった。
駅馬車は最初の停車駅(ドライフォーク)に到着するが、トントから随行してきた護衛の騎兵隊との交代の部隊がいなかった。ジェロニモがアパッチ族を率いて居住地を出た情報がある中、護衛なしで前進してローズバーグを目指すか、引き返すかの投票が行われ、ローズバーグに向かうことに決定する。
夕刻、次の停車駅アパッチウェルズに到着する。ここでルーシーが卒倒し、ブーンとダラスの助けで女児を出産する。リンゴは道中親しくなったダラスにプロポーズし、一緒にメキシコに住もうと誘うがダラスは答えなかった。ダラスに励まされ、リンゴは敵討ちを諦めメキシコに逃げることにするが、丘の上に上がったインディアンの宣戦布告ののろしを見て諦める。
駅馬車は急遽出発するが、渡し場に到着した時、渡し舟を含め渡し場全体が焼討ちにあっていることに気付く。仕方なく駅馬車をそのまま浮かして川を渡りきるが、インディアンの襲撃はなく、一同は安堵する。だが、渡し場でインディアンの光信号のようなきらめきを見たハットフィールドは警戒を続けていた。ブーンが祝杯を挙げようとしたその瞬間、ピーコックの胸に弓矢が突き刺さった。総攻撃をかけてくるアパッチ族に、男たちは必死に応戦する。バックは腕を打たれ、リンゴが先頭馬まで飛び移り手綱を引いた。弾薬が底をつき、ハットフィールドは最後の一発でルーシーを介錯しようとするが、インディアンに撃たれて命を落とす。その直後に騎兵隊が到着し、駅馬車は一人の犠牲と二人の負傷者と共にローズバーグに到着する。 ローズバーグにはルーク・プラマーを筆頭とするプラマー三兄弟が揃っていた。リンゴと三兄弟は酒場の前でにらみ合う。一瞬の銃撃戦の末、生還したリンゴはダラスの元に帰ってきた。カーリーとブーンが馬車でそこに到着し、リンゴはカーリーにダラスを牧場まで送るように頼む。カーリーはダラスも馬車に乗せてリンゴを送っていくことにするが、そういった後にブーンと馬車から降りる。カーリーとブーンは馬に石を投げ、「彼ら(リンゴとダラス)を文明から逃がす」のだった。
カーリーはブーンに「一杯おごるよ」と誘い、ブーンは「一杯だけな」と答え、荒野へ去って行くダラスとリンゴの馬車の後姿で映画は終わる。
製作
『男の敵』(1935年)などの監督作品がヒットし、人気監督となっていたジョン・フォードは、1937年にアーネスト・ヘイコックスの短編小説『ローズバーグ行き駅馬車』(ハヤカワ文庫『駅馬車』/井上一夫訳)の映画化権を2500ドルで獲得し、ダドリー・ニコルズと脚本を執筆。フォードが所属する20世紀フォックスに企画を持ち込んだが、当時衰退していた西部劇の映画化には興味がなく拒否され、その他大手の会社にも企画を持ち込むも相手にされなかった。そこで、独立プロダクションを立ち上げて製作活動を行っていたウォルター・ウェンジャーに話を持ち込み、53万ドルという低予算で作品を製作することとなった。フォードにとっては『三悪人』(1926年)以来の西部劇映画となった。
そのため出演料も低額であったが、トーマス・ミッチェル、ジョン・キャラダインなどといった芸達者な俳優を集めることに成功した。主演級の俳優については、ウェンジャーはリンゴ・キッド役にゲーリー・クーパー、ヒロインのダラス役にマレーネ・ディートリッヒをそれぞれ起用しようと考えていたが、低予算であったため希望は実現せず、ダラス役にクレア・トレヴァー、リンゴ役にフォードの友人でB級映画専門の俳優だったジョン・ウェインという、フォードが希望していた俳優が起用される形となった。しかし、ほとんど無名だったウェインの主役起用は周囲から反対されていたという。
撮影は1938年10月頃に始まり、ユタ州にあるモニュメント・バレーで撮影を敢行した。この撮影以降フォードは多くの監督作品をモニュメント・バレーで撮影し、お気に入りの撮影スポットとした。
また、モニュメント・バレーに住んでいたインディアンのナバホ族が生活に困窮していたことを知った撮影隊は、彼らを撮影の裏方やエキストラとして雇い入れ、スタジオで規定されている報酬を払って生活を助けたというエピソードがあり、ナバホ族の雇用はその後の作品で撮影に来た際も続けていた[1]。
ジョン・ウェインは無名であるにもかかわらず大役に抜擢されたため、共演者やスタッフたちはウェインのことを快く思っていなかった。それを知ったフォードは共演者たちに同情してもらえるようにウェインをこっぴどくしごったという。
クライマックスのインディアン襲撃の場面はカリフォルニア州にある乾燥湖で撮影が行われ、ウェインのスタントマンとして活躍していたヤキマ・カヌートをスタント・コーディネーターとして起用された。カヌートは馬から駅馬車を引っ張る馬に飛び移り、そこを撃たれて落馬して彼の体の上を馬車が通過するという危険なスタントを披露した。しかし、そんな危険なスタントのおかげでこの場面はハラハラするような迫力あるシーンとなった。
公開後
1939年2月15日に公開されたが、批評家から大絶賛され、興行的にも大成功した。この年のアカデミー賞には7部門にノミネートされ、助演男優賞(飲兵衛医者を演じたトーマス・ミッチェルに)と音楽賞をそれぞれ受賞した。しかし作品賞は13もの賞にノミネートされ、8つの賞を獲得した『風と共に去りぬ』が受賞した。
日本では翌1940年6月19日に封切られたが、この作品は映画評論家淀川長治が、ユナイテッド・アーティスツ日本支社の宣伝部勤務になって最初に担当した作品であり、『駅馬車』という邦題を考えたのも淀川である[2]。淀川の宣伝活動はやりすぎだったため、一度は会社をクビになるが、作品が大ヒットしたためクビは免れている。また、淀川の活動ぶりはアメリカに報告され、後日淀川に作品の製作者であるウェンジャーからサイン入りの銀時計を贈られた。
評価
作品は現在も高い評価と人気を受け続けており、映画史上に残る不朽の名作として知られている。映画批評家らを対象にした過去の作品のランキングや投票では必ずと言っていいほど上位にランキングされている。
国内での評価も良く、1940年度のキネマ旬報ベストテンに第2位でランクインされた。
ランキング
- 「映画史上最高の作品ベストテン」(英国映画協会『Sight&Sound』誌発表)
- 「AFIアメリカ映画100年シリーズ」
- 1998年:「アメリカ映画ベスト100」第63位
- 2008年:「10ジャンルのトップ10・西部劇部門」第9位
以下は日本でのランキング
- 1980年:「外国映画史上ベストテン(キネマ旬報戦後復刊800号記念)」(キネマ旬報発表)第7位
- 1988年:「大アンケートによる洋画ベスト150」(文藝春秋発表)第9位
- 1989年:「外国映画史上ベストテン(キネ旬戦後復刊1000号記念)」(キネ旬発表)第7位
- 1995年:「オールタイムベストテン・世界映画編」(キネ旬発表)第7位
- 1999年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・外国映画編(キネ旬創刊80周年記念)」(キネ旬発表)第7位
- 2009年:「映画人が選ぶオールタイムベスト100・外国映画編(キネ旬創刊90周年記念)」(キネ旬発表)第10位
キャスト
役名 | 俳優 | 日本語吹き替え | ||
---|---|---|---|---|
1964年TBS版 | 1975年NET版 | PDDVD版 | ||
リンゴ・キッド | ジョン・ウェイン | 前田昌明 | 納谷悟朗 | 矢嶋俊作 |
ダラス | クレア・トレヴァー | 初井言榮 | 武藤礼子 | 渡辺つばさ |
ブーン医師 | トーマス・ミッチェル | 桑山正一 | 大平透 | 大塚智則 |
カーリー保安官 | ジョージ・バンクロフト | 外山高士 | 川久保潔 | 柴田秀勝 |
バック | アンディ・ディバイン | 納谷悟朗 | 相模太郎 | 菅野裕士 |
ルーシー・マロリー | ルイーズ・プラット | 北村昌子 | 鈴木弘子 | 志摩淳 |
ハットフィールド | ジョン・キャラダイン | 北村弘一 | 岩崎洋介 | |
ピーコック | ドナルド・ミーク | 清川元夢 | 此葉 | |
ゲートウッド | バートン・チャーチル | 宮川洋一 | ||
ルーク・プラマー | トム・タイラー | |||
騎兵隊中尉 | ティム・ホルト |
その他の声の出演:鎗田順吉、仲木隆司、水鳥鐵夫、上田敏也、田中康郎、今西正男、渡辺典子、石森達幸、緑川稔、島木綿子、鈴木れい子
主な受賞歴
アカデミー賞
- 受賞
- アカデミー助演男優賞:トーマス・ミッチェル
- アカデミー作曲・編曲賞:リチャード・ヘイグマン、フランク・ハーリング、ジョン・レイポルド、レオ・シューケン
- ノミネート
- アカデミー作品賞:ウォルター・ウェンジャー
- アカデミー監督賞:ジョン・フォード
- アカデミー撮影賞 (白黒部門):バート・グレノン
- アカデミー美術賞:アレクサンダー・トルボフ
- アカデミー編集賞:オソー・ラヴァリング、ドロシー・スペンサー
ニューヨーク映画批評家協会賞
- 受賞
- 監督賞:ジョン・フォード
主題歌
主題歌:『駅馬車』(映画タイトルと同じ)
- イギリス民謡「The Ocean Burial」を編曲したもの。
その他
オーソン・ウェルズはデビュー作である名作『市民ケーン』を製作する時に、この作品を何度も鑑賞して研究していた。
ジョン・フォード監督はこの映画の発想源はギ・ド・モーパッサンの短編小説『脂肪の塊』だと語っている[3]
漫画家赤塚不二夫は幼少期にこの映画を見た事がきっかけで、漫画家を志すようになったと言われており、青梅市にある青梅赤塚不二夫会館では、この映画の看板も展示されている。
駅馬車定跡
この映画のイメージからとって、駅馬車定跡と呼ばれる将棋の定跡がある。1948年に、塚田正夫名人(当時)と升田幸三八段(当時)の五番勝負・第4局で指されたのが最初とされる。 その定跡は、相掛かり相腰掛け銀から、先手が▲2六飛と手待ちをしたのをとがめ、角交換から一直線の攻め合いになるものである。駒が次々中央に集まってくる様子が、当時人気があった「駅馬車」のラストシーンを思い出させるということで、この名前がついた[4]。先手の銀1枚に対し、後手側は銀2枚と金1枚の計3枚が対抗する形になる。塚田-升田戦では、映画とは逆に3枚側が勝利を収めた。
DVD
ユナイテッド・アーティスツ製作だが現在、米国では版権をキャッスル・ヒル・プロダクション、配給権をワーナー・ブラザーズが保有する。日本では東北新社が配給権を持つことから東北新社が正規版DVDを発売中。
日本では著作権の保護期間が終了したと考えられることから現在激安DVDが発売されている模様。ただし監督没後38年以内なので発売差し止めを求められる可能性がある。