阪急1000系電車 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阪急1600系電車から転送)
移動先: 案内検索

阪急1000系電車(はんきゅう1000けいでんしゃ)は、かつて(京阪神急行電鉄→)阪急電鉄に在籍した、プロトタイプである1000形をはじめとする、阪急初の高性能電車群を指す。

具体的には、以下の各系列に細分される。

  • 阪急最初の高性能車で試作車の1000形(初代1000系)
  • 本系列の神戸線向け量産仕様の1010系宝塚線仕様の1100系
  • 本系列の京都線仕様の1300系(初代)
  • 車体は1010系・1100系と同形だが旧型車の台車・主電動機・制御機器などを流用して製造された宝塚線仕様の1200系
  • 1200系の京都線仕様の1600系
  • 1010系・1100系を能勢電鉄に譲渡した能勢電鉄1000系

本項目では、各系列について、節を分けて解説している。

1000形

1000形は京阪神急行電鉄初の新規設計された高性能車として、1954年に1000 - 1003の1形式4両がナニワ工機で製造された。

奇数車と偶数車でペアを組む2両編成2本で構成されていた。

車体

本形式はナニワ工機が独自開発した準張殻構造車体を採用した。このため、外観は先代に当たる810系と比較して側板がゆるく「く」の字状に折れ曲がり、窓周りが一段飛び出すという、他に類例の無い独特の形状の車体断面となっており、また車体全体に丸みを帯びていた。

窓配置はd1(1)D10D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)で810系の配置・寸法を踏襲しており、客用扉は片開き式、戸袋窓以外の側窓は阪急伝統の1段下降窓、座席はロングシートであった。また連結面も920系以来の広幅貫通路を踏襲した。

この車体設計は以後の1000番台各系列の基本となったが、屋根上通風器については在来車と同じ箱形の押込式通風器を2列並べて搭載する形態を採っており、屋根高さは以後の各形式よりも低く、前照灯が飛び出して見える形状であった。

主要機器

主電動機

初期の高性能車ゆえに主電動機は試行要素が強く低出力な東芝SE-515-B[1]を採用した。駆動方式は他社で良好な実績を残しつつあったWNドライブが採用された。

制御器

主制御器も同じく東芝製MPE系超多段電動カム軸式抵抗制御器のPE-10Bを全車に搭載した。

当時東芝はアメリカのゼネラル・エレクトリック(GE)社と提携関係にあり、これは同社の最新型であったMCM制御器を参考に開発されたもの[2]と見られている。

このPE-10Bを含む本形式の主要電装品は元来直流600Vと1500Vの双方に対応可能な回路構成とされており、後年の架線電圧1500V昇圧時には奇数車と偶数車で2基の主制御器を同期動作させ、1両ごとに高圧・低圧を分担して直列接続することで高電圧対応とする、いわゆる親子方式あるいはおしどり方式で運用するよう設計されている。

本形式は各車に主電動機を装架する全電動車方式であり、上述の通り主制御器も各車に搭載されているが、軽量化のためにパンタグラフ電動発電機は偶数車に、空気圧縮機は奇数車にそれぞれ集約搭載してあった。これら補機の機器構成と、昇圧後は先述の1500V動作時のシステム構成に関する制約[3]のため、本形式は1両単位での運行は不可能であり、常時奇数車と偶数車をペアとする2両単位で運用された。

なお、この制御器の抵抗器から発生する余熱を暖房の熱源の一部として利用される設計[4]となっていたことも、試作車としての本形式の特徴の一つである。

台車

1000・1001・1003の3両は、一般的な軸ばね式軸箱支持機構[5]を備える住友金属工業FS-303[6]一体鋳鋼台車を装着した。

これに対し、唯一1002に限っては試作の住友金属工業FS-305アルストムリンク式一体鋳鋼台車が装着された。なお、このFS-305は阪急のみならず日本初のアルストムリンク式台車である。

アルストムリンク式台車はフランスのアルストム社で電気機関車用として開発された軸箱支持方式を参考に設計されたものである。これは、垂直方向の支持に軸箱上に置かれたコイルばねを使用する点では軸ばね式と同様であるが、水平方向の軸箱支持に、左右各1本の水平リンクを上下段違いに配置することでペデスタルを廃したもので、リンクの使用により軸箱の案内に摺動面が存在しないため、摺動面の摩耗による軸箱の前後動発生を抑制できるというメリットが存在する。それゆえ、高速運転時の蛇行動対策や保守性の観点では、ペデスタルを使用する軸ばね式に対して有利[7]であった。以後、阪急では1961年20002300系向けFS-333・33まで7年に渡ってこの特徴的な機構を備える台車を継続採用している。

ブレーキ

当初は発電制動併用の日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)製C動作弁によるAMC-D自動空気ブレーキを採用した。

運用

新造当初より4両編成での使用が殆どであったが、本線の長編成化が進むにつれ、昭和40年代前半には、もっぱら今津線で運用されていた。1967年の神戸線昇圧の際には、前述の通り1500V対応の機器を装備していたため、おしどり方式での昇圧工事を行っただけで大きな改造を受けることはなかったものの、本形式は試作要素を多分に含む特殊な制御器を搭載しており、制御シーケンスの相違から昇圧後も他の車両と混結できず、引き続き今津線で使用された。また、ATS列車無線の装備時には、当時中間に入っていた1001と1002には装備されず、実質的に中間車となった。

その後1969年に宝塚線の昇圧工事が完了し、複電圧対応車の必要が無くなったことと、特殊な機器を搭載するが故の保守上の問題や、運用を限定される事による使い辛さもあって、宝塚線の8両編成化用増結車として本形式を充当することとなり、1971年電装解除、運転台撤去、台車交換[8]、空制系のAMC-D自動空気ブレーキ(発電ブレーキ併用)からHSC電磁直通ブレーキ[9]への変更、および3扉化を実施されて付随車化の上で宝塚線に転属し、1010-1011と1012-1013の間に組み込まれる事になった。

その後も長らくこの編成で宝塚線で使用されていたが、1981年に1012Fが伊丹線に転属したのを皮切りに支線での使用がメインになり、甲陽線での使用を最後に、1984年廃車された。

なお、廃車後しばらくの間、1001が正雀工場倉庫代用として使用されていたが、のち解体されている。また、1000の運転台部分のみ、平井車庫で保管されている。

1010系・1100系

1010系・1100系は1000形の試用結果を元に設計された量産高性能電車で、歯車比の相違等から神戸線用(1010系)と宝塚線用(1100系)に区分された。1956年から1961年にかけて1010系が35両と1100系が51両の合計86両がナニワ工機で製造された。

車種構成

新造形式は、1010系が制御電動車の1010形、制御車の1017形、付随車の1050形[10]の3形式、1100系は制御電動車の1100形、制御車の1150形、増結用制御電動車の1140形、増結用制御車の1190形の4形式からなる[11]

1100系は線形の制約もあって神戸線向けほどには高速性能が要求されず、当初より経済性を重視して制御電動車(Mc)-制御車(Tc)による1M1T編成として設計された。その後、宝塚線の利用客増加に伴う増結用として、1140形(Mc)と1190形(Tc)が増備されたが、これらの車両は1両単位での増結用であったため、連結面側も狭幅貫通路および自動連結器付きであった。

車体

基本設計は1000形に準じ、準張殻構造の軽量車体を備えるが、換気装置として新たに三菱電機製ファンデリアが採用されたのが最大の変更点である。

このファンデリアは天井中央部に設置されており、車内天井と車体屋根板との間に風洞を設け、さらに車体側面の雨樋上部に換気用ルーバーがほぼ全長に渡って設置されるなど、複雑な構造の二重屋根となった。

初期車は1000形や810系などと同様、2扉ロングシート車として製造されたが、1100系では1958年製造の1108以降、1010系では1959年製造の1030以降がラッシュ時の混雑緩和と乗降時間の短縮を狙って当初より3扉で落成した。これら3扉車は窓配置がd1(1)D4D(1)3D(1)2(d:乗務員扉、D:客用扉、(1):戸袋窓)に変更されている。また、2扉車については1966年から順次、3扉化が行われている。

主要機器

主電動機

1000形での実績を反映し、定格出力の引き上げを図った東芝SE-515-C[12]が採用された。駆動システムはWNドライブが引き続き採用されている。

歯数比は高速運転が実施される神戸線用で全電動車方式を基本として計画された1010系が4.16、MT比1:1での使用を基本とし牽引力を重視する必要があった1100系が5.76と違えてあった。ただし、これは後年神戸線の5両編成化時に1010系もMT比3:2に再編され、歯数比を5.76へ引き下げたため、最終的には両系列の走行性能は統一されている。

制御器

当面は架線電圧1500Vへの昇圧を見送る、という経営陣の方針転換を受け、1010・1100系では主要機器は600V単電圧仕様に変更された。このため、主制御器はPE-10Bの実績を基に改良・簡素化して同期機能を省略したPE-13Aを採用した。

なお、補機の配置は1010系では1000形に準じて奇数車と偶数車で集約分散配置とされ、1100系では電動車に電動発電機を、制御車にコンプレッサを搭載してこちらも集約分散配置とされていた[13]

台車

1002での試用結果が良好であったことから、同車の住友金属工業FS-305を改良した、アルストムリンク式台車が正式採用された。このため当初は高速運転を行う神戸線用の1010系が両抱き式ブレーキシューを備えるFS-311を、曲線が多く比較的速度の低い宝塚線用の1100系が片押し式ブレーキシューを備えるFS-312をそれぞれ装着した。

また、1957年製造の1010系2次車で空気ばね台車の試験が行われ、1018-1019にはFS-311の枕ばねをベローズ式空気ばねで置き換えた形状のFS-320が、1020-1021には日本における量産空気ばね台車の始祖となった京阪1810系用KS-51を基本とする汽車製造KS-52シンドラー式台車が、それぞれ装着された。

シンドラー式台車は円筒案内式台車、という別称が物語るように、軸箱の前後に配されたコイルばねの内部に軸箱の上下動を案内するシリンダーを内蔵してペデスタルを廃止したもので、元来スイス国鉄用軽量客車のために各社で開発された技術を導入したものであった[14]

さらに、1018-1019編成に挿入された1050形1056については比較試験の意味もあって汽車製造が新開発したエコノミカルトラックと呼ばれる、揺れ枕を持たず軸箱支持を緩衝ゴムのみに依存する簡素な構造の軸箱梁式空気ばね台車であるKS-62が採用されている。

これとは別に、付随車である1050形には前述の1056と例外的にFS-311を装着して竣工した1052を除き、両抱き式ブレーキシューを備えるFS-33アルストムリンク式金属ばね台車[15]が採用され、1010・1100・1150の各形式についても3扉車は新設計の片押し式ブレーキシューを備えるFS-324・FS-324Aアルストムリンク式金属ばね台車[16]が採用された。もっとも、以後は様々な事情から複雑な台車振り替えが実施されており、各車の最終的な装着台車は当初とは必ずしも一致しない。

ブレーキ

1000形に準じ、AMC-D発電制動併用自動空気ブレーキを採用した。

運用

1010系のうち、初期に製造された4両(1010-1011+1012-1013)は、1000形と同様に奇数車と偶数車でペアを組む全電動車編成であった。だが、運用開始後の実績から、3M1T編成でも神戸線での運用には充分なこと[17]と、コスト面の問題などから、1014以降の車両については、制御車(Tc)の1017形を1両組み込んだ3M1T編成として製造された。1010Fについても、その後製造されたMc-Tc編成の1026-1027と1028-1029と組み替られ1010-1011+1026-1027,1012-1013+1028-1029と3M1T編成となり1010系の編成は統一された。

1030以降の増備車は、乗客数の増加から3扉車となり、さらに付随車(T)である1050形を組み込んだ3M2Tの5両編成で製造された。一方4両編成についても、1050形を新造して3M2Tの5両編成7本に組み替えられた。また前述のとおり、3M2T編成化で歯車比が1100系と同じ比率に変更された結果、この時点で両系列間での性能面での差異が無くなった。

1100系については、2M2Tの4両編成での運用が基本であったが、年々増加する宝塚線の乗客数に対応すべく、1959年から1960年にかけて1140形が製造され、4両編成の大阪寄りに連結され3M2Tの5両編成で使用される様になった。引き続き、1961年には1190形が6両製造され、1140形の1140 - 1145と2両編成が組まれた。一方、1146 - 1148は引き続き増結用車として使用されたが、1147と1148は1963年以降に神戸線に転属し、1010系の増結車としても使用される様になった。

1964年以降は、本格的に両形式の混用が始まったが、その頃より神戸線・宝塚線の昇圧計画が具体化した。制御機器が600V専用であったため、これら2系列は共に補機を含む電装品一式が更新されることとなり、京都線1300系と同様にMM'ユニット化され、制御器は新造の東芝PE-22Aに交換された。一方主電動機は、装備されていたSE-515-Cが、複電圧対応で設計されていた1000形のSE-515-Bの同系機種であり、対地絶縁試験の結果、発電制動を廃止し過負荷を避ければ昇圧対応可能であると確認されたため、そのまま流用された。また、ブレーキ装置もAMC-DからHSCへと改造されている。

1140形については、昇圧前までは梅田寄の先頭車として使用される事が多かった[18]が、昇圧に際して、電動車をMM'ユニット化する必要から、1100形の一部とともに、当形式をM'車として1010・1100形とユニットを組ませる事となり、運転台と不要となったパンタグラフが撤去された。また、それ以外の車両についても、運用上不要な運転台が撤去されている。

なお、昇圧工事に際しては1500V専用車として施工されたため、600V区間では走行出来なかった。それゆえ、神戸線の昇圧に先立って改造された車両については改造工事後の試運転を京都線に回送の上で実施し、その後神戸線の昇圧実施まで、正雀車庫や桂車庫に留置された。一方、神戸線昇圧後に改造された車両については、宝塚線所属車についても、改造工事後は神戸線に転属し、昇圧即応車である3000系などが入れ替わりに宝塚線に転出した。その結果、一時的に全車両が神戸線に所属していたことがある。

昇圧後も神戸・宝塚線の主力車として運用され、神戸高速鉄道開業後には、特急運用などで高速神戸や新開地まで乗り入れていたが、山陽電気鉄道本線への乗り入れ対象車からは外されており、入線実績は無い。また大阪万博の際には、数編成が京都線に貸し出され、臨時準急などに使用された。

ファイル:Hankyu1029.JPG
冷房改造車 1029

1976年には一部の車両[19]に冷房改造がなされ、ファンデリアおよび風洞撤去の上で冷凍能力10,500kcal/hの東芝RPU-3003が各車に3基搭載された。最初に改造された編成(1113F)については、屋根以外には大きな改造は受けていなかったが、それ以後の30両については、窓枠の無塗装化や運転台撤去車の車掌用扉の完全撤去などの追加工事を行っている。

ファイル:Hankyu 1100.jpg
試作的に更新された1100(ホロ枠に注目。塗装かステンレス板貼付けかは不明。6両目はT化された1000形、1976.9.26石橋にて撮影)

なお、1050形については冷房改造の対象から外されたため、1両も改造されずに廃車された。また、冷房改造されなかった車両については、1978年ごろから小規模な更新改造が実施され、車外スピーカーの取り付けや内装デコラ板の張替え等が行われた。

出力の関係で4M4Tの8両編成が使用出来なかった神戸線では、各駅停車の8両編成化が進んだ1978年を最後に運用を終了したが、宝塚線では引き続き主力として8両編成で使用され続けた。それでも晩年は支線運用が中心となり、1984年の1100Fを最初に廃車が開始され、1020Fと1114Fを最後に1986年3月に非冷房車が全廃、冷房車についても、伊丹線で使用されていた1026Fと、箕面線で使用されていた1106Fを最後に、1989年3月までに全車廃車された。

一部車両は、能勢電鉄に譲渡された(詳細は後述)。

1300系

ファイル:Hankyu 1300.jpg
冷改前の1307(1975.8.29十三にて撮影)

京都線初の高性能車として1957年から1961年にかけて16両がナニワ工機で製造された。

車種構成

制御電動車(Mc)の1300形1301 - 1308と付随車(T)の1350形1351 - 1358の2形式で構成される。

ただし、1300形は2両単位で機器を集約分散搭載する1C8M制御方式を採用しており、奇数車が制御器とパンタグラフを搭載するMc、偶数車が電動発電機と空気圧縮機を搭載するM'cとなっている。

また、1350形は増結時に順次挿入されたため、当初は編成単位での車番が不統一になっており、このため1357以外については後年以下のように改番の上で整理されている。

  • 旧  新
  • 1358→1351
  • 1351→1352
  • 1355→1353
  • 1352→1354
  • 1356→1355
  • 1353→1356
  • 1354→1358

なお、神宝線用の各系列が車番について0起番となっているのに対し、こちらは1起番となっているが、これは京都線の前身である新京阪鉄道以来の慣習を踏襲しているためである[20]

車体

車体設計は同時期製造の1010・1100系と同型の準張殻構造19m級軽量車体を備える2・3扉車である。

全16両のうち、第1編成である1301-1351-1302の3両に限っては、国鉄京阪との競争が激しかった京都線固有の輸送事情から、既存の710系に準じた2扉の扉間固定クロスシート車として製造された。これに対し、1303・1352以降は混雑もあって全車ともロングシート車となった。

また、編成として最後に新造された1959年竣工の1307-1354-1308は、当初より3扉車として製造されたが、これらより後に既存編成向けに追加製造された1355・1356・1358の3両については組み込み先各編成の仕様に合わせて2扉車として製造されている[21]

特急にはクロスシート車とロングシート車が、710系やP-6と同様に、どちらも区別なく使用されていた。

主要機器

電装品は新京阪以来の京都線の伝統に従い、東洋電機製造の製品が採用されている。

主電動機

主電動機はTDK-811-A(100kW)、駆動システムは東洋電機が独自開発した中空軸平行カルダンが採用された。

歯数比は1305以降、牽引力を確保するため、82:13(6.31)と高く設定されている。

制御器

MM'ユニット方式による1C8M制御が阪急で最初に採用され、電動カム軸式多段制御器の東洋電機製造ES-563A・B[22]が奇数車に搭載された。

台車

台車は1305-1353-1306が住友金属FS-325、1307-1354-1308が汽車製造KS-62A(Mc)・62(T)軸箱梁式空気ばね台車(エコノミカルトラック)[23]をそれぞれ試験的に採用した以外は全車住友FS-311であった。

ブレーキ

ブレーキは当初より発電制動付のHSC-D電磁直通ブレーキが採用された。これも阪急初の採用例であった。

運用

編成は当初、第1編成(1301F)が1300形(Mc)-1350形(T)-1300形(M'c)の3両編成、第2編成(1303F)が1300形(Mc)-1300形(M'c)の2両編成とされた。もっとも、第2編成はすぐに1350形が挿入されて3両編成化され、第3編成(1305F)・第4編成はいずれも当初より3両編成として竣工している。さらに、1960・1961年には各編成へ1350形がもう1両ずつ挿入されて4両編成となったが、1350形の番号が編成内で整っていなかったため、上述の通り後日改番されている。

710系と共に特急急行などに運用されたが、大出力で足の速い「オートカー」こと2300系の登場によって次第に優等列車の運用から外されるようになった。その後、1963年河原町延伸による特急の増発で、ロングシート車のみの第2編成以降も含め、再び特急運用に駆り出されるようになったが、翌年1964年に転換クロスシート装備の特急専用車として設計された2800系の就役開始に伴い、1966年にクロスシート車がロングシート化されて特急運用から完全に撤退した。

その後も本線各駅停車運用を中心に使用されていたが、千里線の輸送力増強の為、1971年に7両編成2本に編成替えされ、千里線専用となった。この時余剰となったT(付随車)2両(1351・1355)は、同じく輸送力増強が課題であった宝塚線へ移籍し、1200系に編入された[24]。また同時期に3扉化されている。

ファイル:Hankyu 1300 cool.jpg
冷改後の1307(1976.8.1梅田にて撮影)

1975年には、1010系グループとしては初めて冷房化工事が行われる事になり、アルナ工機に入場の上、改造が実施された。この冷房化に際しては、ファンデリアおよび風洞撤去の上で冷凍能力10,500kcal/hの東芝RPU-3003が各車に3基搭載されたが、冷房制御用機器を電動車に搭載するスペースが無かったため、1300形奇数車(Mc)寄りの1350形に搭載されている。また、1350形は1300形奇数車に隣接して連結されていた奇数車のうち2両が編成から外されていたため、偶数車に機器を搭載することとなり、このため冷房化時に編成中での1350形の奇数車と偶数車の位置関係が入れ替えられている。

1983年に4両編成3本に組み替えられて嵐山線運用に転用されたが、この際余剰となった1307・1308は以後使用されないまま1986年に廃車解体され、残る12両も1987年までに編成単位で順次廃車解体されて系列消滅した。

1200系

宝塚線用として当時まだ残存していた木造車である1形の代替を名目に、600形920系といった在来車各形式から台車・主電動機・制御機器といった主要機器を、複雑な入れ替えを実施した上で捻出し、これに1010系と同様の車体を新製して1956年から1958年にかけてナニワ工機で製造された車両である。したがって、本系列は吊り掛け車であり、1010系のような高性能車ではない。

車種構成

920系以降の在来吊り掛け駆動車と同様の制御電動車(Mc)である1200形1200 - 1207と制御車(Tc)である1250形1250 - 1257の2形式16両が当初製造され、これらを組み合わせた2両編成が基本とされた。

注目されるのは、これらに加えて阪急初の運転台を持たない中間電動車(M)である1230形1230 - 1233が1957・1958年に各2両追加で製造されていることで、これは以後の長大編成化に先鞭をつける形となった。

車体

1010・1100形に準じた準張殻構造の19m級軽量車体を備える。

なお、本系列は全車2扉ロングシート車として竣工している。

主要機器

各形式間で複雑な転用が行われた結果、台車は920系から、電装品は600形から捻出されたものを使用している。

主電動機

主電動機は600形に装架されていた芝浦SE-140[25]を転用し、1200形は各4基、1230形は各2基装架した。

駆動装置は吊り掛け式で、歯数比は2.77である。

制御器

電空カム軸式制御器である芝浦PC-2Bを搭載する。これは本来920系の後期以降に採用されたものであり、捻出元となった600形へは主電動機交換の際に搭載されたもの[26]であった。

台車

台車は、920系用の扶桑金属工業KS-33L(H-147)と、川崎車輌製川-16(1255-1257のみ)が流用された。

ただし、1250形の台車は度々交換されており、1958年に1232・1233が製造される際にKS-33Lをこれらに転用するため、1250・1251の台車を汽車製造L-17に交換した。その後、1250・1252が川-16に、1253-1257がL-17に交換され、さらに、1971年以降、1550形が廃車された際に発生した台車を再利用する形で、1253-1257の台車が扶桑金属工業製FS-3台車に再交換されている。

また1232・1233は、付随車化当初はKS-33Lのままであったが、暫くしてL-17に変更されている。

ブレーキ

当初はA動作弁+中継弁による台車ブレーキ方式のAR自動空気ブレーキを搭載していたが、昇圧時にHSC電磁直通ブレーキへ換装されている。

運用

全車とも竣工時より宝塚線で使用された[27]が、昇圧前後の一時期のみ、神戸線で使用されていたことがあるほか、性能的に近く運転曲線を同一として取り扱える810系と混結されていたこともある。

昇圧時には、主要機器流用元の各車が1500V昇圧を念頭に置いて設計されていたことが幸いし、電装品は大改装されずに済んだが、昇圧後のスピードアップとさらなる長大編成化の進行をにらみ、ブレーキがAR自動空気ブレーキから応答性に優れるHSC電磁直通ブレーキへ変更され、これにあわせてATS設置や長編成化に伴う不要な運転台の撤去と編成の組み換えが実施されている。また、中間電動車4両のうち1232と1233は中間付随車(T)化され、1230と1231は付随車化された1232・1233の発生品を流用して主電動機を4基搭載に増強された。

また、上述の通り同系の車体を持つ京都線1300系の編成替えで余剰となった、中間車の1350形2両(1351・1355)が宝塚線系に転籍して本系列に組み込まれ、最盛期には8連1本と7連2本に組成され高性能車に伍しての本線運用が実施された。

6000系の増備にともない、1977年頃から今津線等の支線での運用が主となったが、車体が3線統一規格の大型車体であり、走行性能も元来阪急が戦前から大出力車を建造し続けてきたことが幸いして高性能車にそれ程見劣りせず、しかもブレーキのHSC化で上述の通り最大8連も組成可能であったことから本形式は重宝され、一部は1980年頃まで宝塚線で使用された。

製造後20年を経過して更新修繕が必要な時期になったが、旧性能車の残存時期を考慮して、810系や1010・1100系に対して行われた更新修繕は見送られ、老朽化した一部の床下機器の交換工事のみにとどまった。その結果、車齢の古い810系よりも先に淘汰されることとなり、1982年甲陽線での3連運用を最後に定期運用を離脱して順次廃車され、休車となっていた1206Fの4両を最後に、1983年に全車廃車された[28]

1600系

ファイル:Hankyu1600Series.jpg
晩年の嵐山線運用の1600系

1200系の京都線バージョンとして、系列内のMT比是正を目的に電装解除された100形(P-6)の主電動機を流用して、1957年から製造された。1200系とは違い、台車と制御器が新製されている。

車種構成

制御電動車(Mc)である1600形1601 - 1606と制御車(Tc)である1650形1651 - 1656の合計12両がナニワ工機で製造された。

車体

1300系に準じた準張殻構造の19m級軽量車体を備える。

なお、本系列は全車2扉ロングシート車として竣工している。

主要機器

主電動機

主電動機は100形の一部を電装解除して捻出された東洋電機製造TDK-527-1A[29]を搭載する。駆動方式は吊り掛け式、歯数比は100形と共通の2.35である。

制御器

多段電動カム軸式の東洋電機製造ES-559A・Bが新造された。

台車

台車は1600形が全車710系と共通のゲルリッツ式台車[30]である扶桑金属工業FS-103、1650形はFS-103と1300系や1010・1100系が履いていたのと同じアルストムリンク式台車のFS-311を混用していた。

ブレーキ

ブレーキはA動作弁と中継弁を組み合わせたAMAR/ACARで、これは後にHSCへ変更されている。

運用

主に千里線や本線普通運用についていたが、P-6と同一性能でもあるため、6両編成で急行で走ることもあった。かなり遅くまで千里線で使用されており、最後まで残った1編成(7両編成であった)は1982年まで使用され、吊り掛け車として最後まで梅田駅に乗り入れた編成となった。その後は嵐山線に転出し、1983年末に廃車された。

全車2扉で登場し、その後3扉化された。列車無線装置やATSは一旦全車に装備されたが、1972年に一部車両の運転台が撤去され、4連固定化された。1200系と同じく冷房化はされなかった。

なお、千里線での運用終了に伴い1982年に休車となった1601は、VVVF制御方式の試験車として使用された。

能勢電鉄1000系

ファイル:能勢電鉄1000系.jpg
能勢電鉄1000系こと譲渡された1010系

1986年1988年に1010系と1100系の4両編成1編成ずつ計2編成が能勢電鉄に譲渡され、新たに能勢電鉄1000系(1000・1001F)として就役開始した。

600Vで使用するため、電動車は単車で走行可能な1M方式とする必要があり、中間電動車となる1030形については、先頭車を種車としている。電気関係は、主回路の降圧処置が施されており、電動発電機が静止形インバータに交換されて1080形に搭載されたが、あとはほぼそのまま使用されている。その為1500Vに昇圧された際にも、容易に対応する事が可能であった。

また外観については、方向幕の取り付けや通過標識灯尾灯を腰板部に移設し、窓周りにベージュの塗装が施されるなど様々な改造が施されている。塗装はのちに、試験塗装を経て、ベージュに扉周りがオレンジという新塗装[31]に変更された。

1998年に1000Fの中間2両を1001Fの2,3両目に編入した6連1本に編成替えされ、ラッシュ時間帯のみの運用となった。この際に余剰となった2両は廃車された。

2001年4月にさよなら運転を実施し、同年5月に開催された阪急電鉄正雀工場でのレールウェイフェスティバルの車両展示を最後に廃車された。

  • 1000F 1000-1080-1030-1050(旧番号:1030-1032-1033-1037)
  • 1001F 1001-1081-1031-1051(旧番号:1108-1158-1110-1159)

2扉車と3扉車

2扉車は客用扉が車端側(つまりそれぞれ反対方向)に開く上、戸袋窓がすりガラスになっていた。後に3つ目の扉を増設する際には、中央の戸袋窓は通常の透明ガラス(光線カットのため、やや青くなっている)されたが、両端のスリガラスはそのまま残された。

これに対し当初から3扉車として製造された車両は、すべての客用扉が同じ(先頭車の場合、運転室と逆の)方向に開き、かつすべての戸袋窓が透明ガラスである。

車両番号と社紋の取り付け位置

1010・1100系及び1300系の側面車両番号と社紋の取り付け位置は、阪急電鉄の3扉車の車両番号・社紋の取り付け位置とは異なっていた。例を挙げると、先頭車は左右の側面ともに、運転台寄りに車両番号が取り付けられており、2扉車からの改造車も同様であった。

これに対して、1200系と1600系については、一般的な3扉車と同様の取り付け位置となっていた。

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

関連項目

テンプレート:阪急電鉄の車両 テンプレート:能勢電鉄の車両

テンプレート:リダイレクトの所属カテゴリ
  1. 端子電圧375V時定格出力75kW。
  2. 一世代前のPCM制御器は空油変換による油圧カム軸式制御器であって、電空カム軸式のPC制御器から派生したGE社製制御器の技術的な系譜の上では傍系に属し、電動カム軸式のMPE系やMCM系とはやや異質な存在である。なお、このMPE制御器は同じ1954年に開発された東急5000系電車 (初代)にもPE-11が採用されている。
  3. ペアを構成する2両の制御器のカム軸進段タイミングを合わせるため、ペア間で信号線を引き通してタイミングを同期させるための回路を構成する必要があった。
  4. この機構は同系の制御器を採用する東急5000系(初代)でも採用されていた。
  5. 軸箱が、その上部に配されたコイルばねの作用で垂直方向に支持され、左右から挟み込むように配されたペデスタルと摺動することで水平方向に支持される。
  6. 住友金属工業ではWN駆動方式および中空軸平行カルダン駆動方式の電車用台車に100の位が3の形式番号を割り振っており、また通し番号を示す下2桁が03であったことから、この台車は同社としてもごく初期のカルダン台車の一つであったことが判る。
  7. ただし、リンクの回転部にゴムブッシュが挿入してあり、後年これの劣化による保守が問題となって阪急では継続採用が中止され、板ばねを使用するミンデンドイツ台車へ移行した。
  8. 組み込み先である1010・1100系と床面高さを揃える必要があったため、京都線1650形が装着していた住友金属工業FS-311へ全車交換された。なお、旧台車は810系の864 - 867に転用されている。
  9. 電装解除されたため、当然発電ブレーキは廃止となった。
  10. 1017形は当初1010形の一部として、将来の電動車化を念頭に置いて設計されていた。
  11. その後の昇圧改造やATS整備に伴う運転台撤去などで車種構成には大きな変化が生じている。
  12. 端子電圧300V時定格出力90kW。昇圧後は375V・110kWとなる。
  13. ただし、後年増備の1140形電動車では増結車としての性格上、単車で運用可能とすべく電動発電機もコンプレッサも搭載されていた。それゆえ、1140形とペアを組むべく増備された1190形制御車には、補機類が一切装備されていない。
  14. 日本には主に近畿車輛シュリーレン社と提携して導入したシュリーレン式と、この汽車製造→川崎重工業がシンドラー社と提携して導入したシンドラー式の2系統が伝えられた。
  15. これのみ車輪径が軽量化を目的として860mmから762mmに縮小されている。
  16. 初年度となる1958年製造の1108 - 1111のみFS-324を装着。
  17. 全電動車編成では神戸線の使用実態に照らして出力が過大で、また歯車比が高速運用を目的に低く設定されたため、当初の計画よりも速度が出過ぎたと言われる。
  18. 当時は梅田寄の車両が混む傾向があり、乗客の乗降時間短縮を計る事が出来る3扉車を梅田寄に連結する事で、混雑の緩和を目指したと考えられる。
  19. 1010系10両、1100系28両に対して施工された。
  20. この起番の方法は3300系まで踏襲されている。
  21. これら3両を含めた3編成12両の3扉化は万博開催を控えた1969年以降に順次施工されている。
  22. ES-536Bの採用は1305以降。
  23. なお、エコノミカル台車装着車とFS-311装着車を比較すると約2.8tの軽量化が実現されており、鋳鋼製のFS-311が重い台車枠を備えていたことが判る。
  24. これらの2両は1984年に廃車となっている。
  25. 端子電圧750V時定格出力150kW、780rpm。
  26. 600形は本来ゼネラル・エレクトリック社製PC-12を搭載していた。
  27. なお、宝塚線は本系列が1100系より先に入線している。
  28. 1232・1233の2両については、1977年に運用を離脱してから1982年に廃車されるまでの5年間、西宮車庫に放置されていた。そのため、塗装等が色褪せ、全体的に錆の浮く状態であったが、正雀工場まで回送され解体されている。
  29. 端子電圧750V時定格出力149.2kW、805rpm。
  30. なお、扶桑金属工業→住友金属工業製で一般に「ゲルリッツ式」と呼称されている台車はいずれも軸箱支持機構のみゲルリッツ式の機構を模倣しており、厳密な意味ではゲルリッツ式台車とは言い難い。
  31. フルーツ牛乳」という愛称がある。