三線
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三線(さんしん)は、弦楽器の一種。
目次
概要
弦楽器のうち撥弦楽器に分類され、今日では琉球古典音楽や沖縄民謡から奄美民謡、ポップスなど様々なジャンルで用いられているが、三線は主にメロディ部分が奏でられる。音を出す胴の部分に蛇皮を張り、胴の尻から棹(さお/ソー)と呼ばれる棒に向けて三本の弦を張りわたして、弦を弾いて鳴らす。日本の沖縄県地方をはじめとする琉球文化を代表する楽器である。数え方は主に「本」「棹/竿(さお)」「挺/丁(ちょう)」を用いる。
三線の歴史は、15世紀以降の沖縄音楽史とほぼそのまま重なる。琉球時代は貴族や士族といえども経済的には必ずしも恵まれず、高価な蛇皮を張った三線は富裕さの象徴であったとされる。裕福な士族は一本の原木から二丁の三線を製作し「夫婦三線(ミートゥサンシン)」と称したり、漆塗りの箱に納めて「飾り三線」と称し丁重に床の間に飾ったりする文化があった。蛇皮に手が届かない庶民の青年は、芭蕉の渋を紙に塗って強化した渋紙張りの三線を製作して毛遊び(もうあしび)し、農作業の後の時間を楽しんでいた。
近代に入り、琉球処分を経て日本の施政下に入った明治時代以降、さまざまな流派が王朝時代の楽曲の保存や三線の普及に務めた。
第二次世界大戦末期には沖縄は激しい戦火に見舞われ、貴重な三線(製作後250年を経たものや、琉球国王所有だったものなど)は多くが失われた。戦後は古い楽曲にとどまらず、日本の民謡や歌謡曲の節回しを取り入れた曲やいわゆるポップミュージックの曲の中に三線が採り入れられたが、ごく一部の例外を除いてその影響は沖縄県周辺にとどまっていた。1972年に沖縄がアメリカ合衆国から日本に返還された後もその流れが続いていたが、2001年に放映されたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』を発端とする沖縄ブームに伴い、沖縄音楽への興味も高まるとともに、三線は生産量が増えるとともに価格帯が下落し、楽器として一般的に認知される一因となった。
三線の良し悪しを決定づけるものとして、胴内の増幅音と反響音による倍音効果、または棹や弦と胴の関係性などが挙げられることもあるが、根拠は明らかではない。胴の面と棹の野面(音面)との角度を整えることを分当や部当(ブーアティ)といい、職人の技量によって音の響きは大きく変わる。
2010年3月、沖縄県内の三線職人の有志が集い、三線製作の技術向上と地域ブランド化・後進の育成・品質の保全を目的とした沖縄県三線製作事業協同組合が発足した。
現在、三線は沖縄県伝統工芸に指定され、工芸士には銘苅春政(三線)新崎松雄(同)照屋勝武(同)仲嶺盛文(同)渡慶次道政(同)親泊宋康(同)又吉真也(同)が認定されている。また「鹿児島県伝統工芸品(奄美地方)」にも指定されている。
分布
かつての琉球王国の版図である沖縄県地方および奄美群島を中心に長く用いられてきた。第二次世界大戦後は楽器としての認知度が高くなるに従い、それ以外の土地にも広がっていった。沖縄県は戦前、移民が盛んな土地柄であったことから、ハワイやブラジルなどの沖縄移民コミュニティーにも定着している。
起源
中国南部・福建省由来の弦楽器である三弦(サンシェン)がその起源とされる。伝承では、久米三十六姓が琉球へ帰化した14世紀末以前にはすでに琉球に持ち込まれていたとされるが、文献には現れていない。三線はその後16世紀に入って琉球から泉州(今の大阪府南部)堺に伝わり、日本本土の三味線の起源となった。
三線が琉球の楽器として定着したのは、名工「知念の某」が首里王府から初代の三線主取(サンシンヌシドゥイ)に任命された17世紀中頃というテンプレート:要出典。棹の長さや胴の貼り方において三弦と三味線には共通点が多く、一方で部位の名称は中国の三弦よりも日本の三味線に近いことから、三線は他の文化とともに再度琉球へ降りて発展したのではないかと一部では考えられているテンプレート:誰。当時清から琉球王国を訪れた冊封使の接遇のために、日本の歌舞伎や能を参考にした琉球舞踊「組踊」がこの頃に生まれていることから、日本の芸能(大和芸能)に精通していた王国摂政羽地朝秀の影響が伺える。
堺への三線の伝来時期、および伝来した楽器が具体的にどのようなものだったかについては諸説ある。特に楽器の姿については、二弦の蛇皮張の楽器だったという説から、安南(ベトナム)の阮や二胡といった楽器も同時期に日本に伝わった可能性もある。
呼称
三弦は福建省南部の言葉で「samhian」と発音し、北京語では「sanxian」と読む。山内盛彬はサンセンからサミセンへ変化していったという説を唱えている。胴の太鼓部分に蛇の皮が張られている三線は、猫や犬の皮を張る三味線と区別するためジャビセン(蛇皮線)やジャミセン(蛇味線)と広く呼ばれていたが、沖縄県ではサンシンやシャミセンという呼称が一般的である。奄美群島においては蛇皮模様をプリントした人工皮と区別するためジャミセンの呼称を使う者もいる。
小さな島が点在するこの地域では島ごとに方言が大きく異なるため数多くの異称があるが、統一名称として「三線(サンシン)」の言葉が広く使われている。
琉球処分後の明治時代、日本の一部となった沖縄では、汀志良次を汀良、古波蔵を古蔵、神里原を神原といったように地名や人名などを「日本風に」2文字で表記する方法が流行したが、三味線の「味」を同様に省略して三線という呼称になったという俗説がある。
方言による呼称抜粋
- 三線(サンシン)……沖縄本島、奄美大島ほか[1]
- 三味線(シャミセン)……沖縄本島の首里周辺
- 蛇皮線(ジャビセン)
- 蛇味線(ジャミセン)
- サミシル……徳之島の一部など[2][3]
- サミセン……徳之島の一部など[4]
- サンシル……沖永良部島[5]、徳之島など
- サンシヌ……与論島[6]
- サミシン、シャミシン……石垣島や竹富町域など)
形状
棹の形状からその形状(型)は7種類に分類される。現在製作されている三線はすべて、以下の型の複製である。三線の型については、琉球三線楽器保存育成会らによって整理されるまで定義はきわめて曖昧であった。そのため以前は、例えば天は真壁型で鳩胸は与那城型といった折衷型も数多く出回っていた。型の名は棹の製作者の名前をつけるが、近年では又吉真栄による「マテーシ千鳥」や「マテーシ鶴亀」のように、新しい型の棹を製作する試みもなされている。
- 南風原型(フェーバラー)
- 最も古い型であり、名工「南風原」の作と伝えられている。棹は細身で天(チラ)は曲がりが少なく扁平。野坂(スンウリ)は大きく曲がり、野丸(ティアタイ)は半円である。野丸と鳩胸(ウトゥチカラ)の区別がほとんどできない。高音域の音であっても澄んだ音がでるように野(トゥーイ)は下がっている。南風原型はさらに拝領南風原型(ハイリョウフェーバラー)翁長親雲上型(オナガペーチン)に分けられる。
- 知念大工型(チニンデーク)
- 初代三線主取であった知念の作とされる。棹は太く、天の曲がりは大きい。天の部分と野丸の下部から鳩胸にかけて痩せ細った馬の背のように中央が盛り上がっているのが大きな特徴。天も南風原型と比べて広い。野坂は短く、野丸は丸みを帯びている。
- 久場春殿型(クバシュンデン)
- 久場春殿の作とされている。沖縄県の三線では最も大型で、天の曲がりが小さく薄い。上部から下方へ次第に太くなり、野丸と鳩胸の区切りが殆ど出来ない。胴内の軸には三角形の穴があり、一段の段が付けられている。両側には碁盤のへそのような溝がある。芯の付け根に段が刻まれている。かつて辻界隈の遊郭では護身用の武具(棍)として用いられたという逸話がある。
- 久場の骨型(クバヌフニー)
- 久場春殿の作。横から見ると蒲葵の骨に似ていることからその名がついた。三線の中でも箏と匹敵する程の美音を持つ。棹が三線の中で最も細く、久場春殿型とは対照的である。南風原型を一回り小さくしたように見える。野丸と鳩胸の区切りは殆ど出来ない。
- 真壁型(マカビー)
- 名工「真壁里之子」の作。均衡がとれたその美しさから真壁型が最も多く製作され、かつ人気も高い。開鐘と呼ばれる三線は全てこの型。他の名工達と異なり、王国の官職にあった真壁の棹に対する情熱は相当なもので、完成した棹であっても納得のいかないものは薪として火にくべたという伝承がある。棹は細身で天は中絃から曲がり、糸蔵(チルマダイ)が短い。宇根親雲上型(ウーニペーチン)もこの型に属する。今市販されている三線の多くは廉価版でもこの形をベースにしている。
- 平仲知念型(ヒラナカチニン)
- 三線主取であった知念の弟子、平仲の作。棹は細めだが、鳩胸に丸みがない。天は大きく湾曲していて、中央は少し盛り上がって丸みを帯びている。知念大工の系統と見る人もいるが、現在の動向では「平仲知念型を型として再検討する必要がある」という風潮のようである。
- 与那城型(ユナー)
- 真壁型と同時代の与那城の作とされている。琉球古典音楽の演奏家はこの型を好む傾向にある。この型は更に小与那型(クーユナー)、江戸与那型(エドユナー)、佐久川与那型(サクェカーユナー)、鴨口与那型(カモグチユナー)に分かれる。真壁型よりも棹厚く、月の輪と棹の野面とが直角をなしているのが大きな特徴。天は糸蔵の先から曲がり、範穴はやや下方に開けられている。糸蔵は長く、鳩胸も大きめ。特に江戸与那型の芯には大小3つの穴が開けられている。後世に自分よりも優れた名工が現れたとき、修正の余地を与える意味で厚くしたと言われている。面取与那(メントゥイユナー)とも呼ばれる「与那城の遺作」とも呼ばれた「通常の与那の野面が天の曲がり付近から野坂に掛けて平均的に面が取られ、範穴も真壁型の様に取られたかのような名器」も存在したとの伝承も存在する。「修正の余地の意味」の異説として「三線大工の師でも有った名工真壁に対して、与那城が{間違った棹作りをした時にはいつでも師真壁に面を取り去って下さい}との謙虚な心積りで居たから」と言う話も伝わっている。
部位と素材
棹(ソー)
三線の音色と価値はその棹で決まるといわれる。素材としてはカリン、ゆし木、紫檀、縞黒檀(カマゴン)、黒檀などがある。その中でも材質が重くて硬く、年月が経過しても反りや狂いの生じにくい黒檀(黒木=クルチ)が珍重されている。三線の棹として現在最高級とされるのは八重山産の黒檀(八重山黒木=ヤイマクルチ)である。現在では台湾やフィリピン産の南方黒木(カミゲン)やカマゴンと呼ばれる種類が黒木の代用として多く使われているが、これらも年々出回らなくなってきている。
ただし、八重山産黒檀であればすなわち良い音を保証するという意味ではない。棹となる原木はよく「寝かせて」自然乾燥させ、材質を締める。良い棹を作るには最低でも5年は寝かせた素材を使う。また、よく響く棹には黒木を使い、柔らかい音色を求めてあえてゆし木を棹に使うといった工夫も行われる。名高い三線の名器を「開鐘(ケージョー)」と呼ぶが、そのうち富盛開鐘(トムーイケージョー)の棹はゆし木製である。
鑑賞用三線のように音色を度外視すれば棹の素材に制限はなく、純金製や銀製、ガラス製、アルミ製、樹脂を用いた棹も実際に存在する。
胴(チーガ)
胴の部材には主にイヌマキ(チャーギ)やクスノキ、リュウガンが用いられる。高価な三線にはケヤキ、カリン、黒檀が用いられることもある。廉価品には東南アジア産のゴムノキなども用いられる。
胴は弦の音を増幅させる場所となる重要部分となる。その表裏は皮の張り具合(強さ)で判別し、音の高い方を表とする。型別にみると、南風原型や真壁型は小型の胴、知念大工型と与那城型は大型の胴とされてはいるが、違いは曖昧である。
伝統的には三線の胴にはインドニシキヘビの蛇皮を用いるのが一般的であったが、第二次世界大戦直後、アメリカ合衆国による沖縄統治下で物資が乏しかった時代には、コンビーフなどの空き缶を胴に用いたカンカラ三線や、馬の皮、セメント袋、落下傘生地(いずれも米軍の軍用品で、ヤミ市に出回った)を張った三線も存在した。カンカラ三線は戦後の沖縄史を語る文脈では欠かせない存在でもあり、金武村(当時)の日本兵捕虜収容所で作られた「屋嘉節」などは、カンカラ三線で唄うことにこだわる奏者も多い。こうした経緯から、20世紀末頃からは学校教育でも社会科や音楽、総合的学習の教材として取り入れられている。また札幌市豊平川さけ科学館には鮭皮を胴に使用した変わり種三線がある。
天然の蛇皮はワシントン条約に抵触するため、現在ではビルマニシキヘビやアミメニシキヘビが養殖され、三線に使用されている。1954年(昭和29年)発行の『琉球三味線寶鑑』[7]や戦前の演奏風景を収めた写真からは、ボールパイソンやボア、クサリヘビ科(ハブやマムシが属する毒蛇の仲間)など、大きな厚めの皮が取れる蛇皮が使われていた形跡も伺える。
本張りと呼ばれる蛇皮一枚張りは、薄い皮をいっぱいに張った状態のままでは湿度の微細な変化によって皮が伸縮するため割けるおそれがある。そもそも三線の製法が沖縄県の風土に合わせたものであるため、県外では特に管理が難しい。そのため、管理がしやすい「人工張り(人工皮)」(蛇皮模様のプリント素材を張ったもの)や、プリント素材の上に蛇皮を重ねて張る「強化張り(二重張り)」も一般的である。人工張りは環境の変化に強い反面、高く鋭い音になりやすい特徴がある。奄美群島では徳之島以南などを除き沖縄県と比べて薄い皮を強く張った三線を好んで用いる人も多いが、撥さばきが荘重な傾向のある奄美大島南部では厚い蛇皮をより強く張る事を好む人も多く、また沖永良部島や与論島の南奄美地方の民謡では薄めの皮をやや緩く張るのが好まれるなど、その地域により傾向が異なる。
古謝美佐子のように合皮を積極的に利用する奏者もおり、本土の三味線に比べ合皮への抵抗感は薄い。
現代ではコンサートやライブでの使用のために、胴部分にマイクやピックアップを内蔵した「エレキ三線」も作られる。このほか近年ではエイサーで用いられるパーランクーに棹をつけたパーランクー三線という変わり種も見られる。
弦・絃(チル)
三線の弦はその名の通り3本である。太い弦(抱えたときに上側)から順に「男絃(ヲゥーヂル)」「中絃(ナカヂル)」「女絃(ミーヂル)」と呼称する。弦の素材は主に白色のテトロン製かナイロン製である、まれにエナメル製の弦も存在するが、手触りの悪さから回避されがちである。明治時代以前は絹糸を撚った弦が使用されていたが、音のバランスを保ちにくく非常に切れやすい。奄美群島の三線では、さらに細く、黄色い絹製の「大島弦(ウーシマヂル)」が用いられる。大島弦が黄色なのは、かつて音に張りを与えるため弦に卵黄を塗った名残である。
胴巻き(手皮=ティーガー)
胴の周りには、様々な模様の胴巻きをつける。以前は家紋をあしらっただけのシンプルなものが多かったが、高度経済成長期を経て色や素材、デザインにバリエーションが増し、オリジナル性やファッション性に富んだティーガーがよく見られるようになった。大正時代頃までは、胴の手を乗せるために小さな面積の金襴製・毛皮製のティーガーを巻いたが、現在ではもはやほとんど作られない。
糸巻き・範(カラクイ・ムディ・ジーファー)
弦は糸巻き(カラクイ)で絞って調弦を行う。伝統的なものはその形状から、首里・梅・菊・カンプー・歯車などいくつかのデザインがある。糸巻き(カラクイ)の用材は主に黒檀・紫檀・黒柿である。中国の楽器の糸巻きをまねて、牛骨・ラクト材・象牙・プラスチックなどで装飾したものが多い。
駒(ウマ)
三味線と同様、胴面に駒(ウマ)を立ててはじめて、音が鳴らせるようになる。ウマは前後で微妙に傾斜が異なっており、背を棹側に向けると倒れにくい。素材については竹(モウソウチク)や牛骨が一般的であるが決まりはなく、素材もきわめて多岐に渡る。ウマの素材によって音色も変わる。職人の間では竹製の駒を油で揚げる(油煎加工する)と良い駒になるとされる。夜間など音を響かせられないときの練習のために、消音駒(忍び駒、忍びウマ)も市販されている。
爪・撥(チミ・バチ)
演奏に使う義甲(バチ、ギターでいうところのピック)。弾くときには、指と同じ向きにやや湾曲した5〜15センチほどのバチを人差し指に装着し、つま弾くのが一般的であるが、自分の人差し指の爪で直に弾くことも多い。早弾きの曲にはギターのピックを用いることもよくある。大まかな傾向として、古典や舞踊の曲には大型のバチを、民謡やポップスには中型や小型を使うことが多い。手の小さい女性やまだ慣れていない初心者は小型のバチを使うこともあり、一人ひとりの好みによっても異なる。バチの材質は水牛の角が高級、上質とされる。普及用にはエナメル製のバチが一般的に市販されている。ただ、他の部位と同じく定義は特にないため、非常に様々な素材のバチが存在する。奄美群島では細長い竹箆状のバチを使用して演奏する。
その他の部位の名称
- 糸掛(チルドゥミ)
- 猿尾(ミジアティ)
- 心(チーガタムチ)
- 心穴上(ミジトゥイウイミー)
- 心穴下(ミジトゥイシチャミー)
- 爪形(ウトゥアティ)
- 爪裏(ウトゥダマイ)
- 野坂(スンウリ)
- 鳩胸(ウトゥチカラ)
- 野(トゥーイ)
- 野丸(ティーアタイ)
- 粟転(ウトゥノクイ)
- 歌口(ウトゥガニ)
- 糸蔵(チルダマイ)
- 範穴(カラクイミー)
- 天(チラ)
- 月の輪(チラカマチ)
- 虹(ウイチラムチネー)
- 乳袋(ミルクミミ)
- 胴表(チーガウムティ)
- 胴裏(チーガウラ)
塗り
通常、棹の表面は黒く漆塗りされるが、近年ではウレタンの吹き付け塗装が主流。黒木や花梨といった用材で棹を作製する場合には、その木目や色合いを生かすために春慶塗り(スンチーヌイ)と呼ばれる透明の漆塗りを施すことが多い。また、奄美群島では塗りを施さない地のままの棹を好む人も多い。
開鐘(ケージョー)とは
18世紀の中期頃。良く鳴り響く三線を明け方に突く鐘の音(開静鐘)に例えて開鐘と呼んだ。開鐘と称されている名器の全ては真壁型である。尚家に伝わる三線の中でも非常に良い品とされていた三線は俗に「五開鐘」や「十開鐘」と呼ばれていたが、それがどの三線だったのかは文献によって諸説有る。他に開鐘に準ずる三線として十数挺あり、戦後はこれらの準開鐘も含めて開鐘と呼んでいる。五開鐘のなかでも最高峰と言われていた盛島(盛嶋)開鐘は第二次世界大戦により焼失したと伝えられていたが、戦後、尚家の元へ戻り、1982年に尚裕より沖縄県立博物館に寄贈された。現在は沖縄県立博物館・美術館にて収容、展示されている。ちなみに、沖縄県立博物館・美術館では盛島開鐘の心の部分に「盛嶋開鐘」という記載がされているため「盛島」ではなく「盛嶋」という表記を使用している。ただし、戦後、長いあいだ行方不明だった点を考慮すると、後から作為的に手を加えられた可能性や、その真偽について今なお憶測が絶えない。開鐘には属しないが、護佐丸が愛用した三線と言われている泊綾爪や続面、勝連虎毛、鴨口与那城、江戸与那城は三線の名器として知られている。
- 1916年4月17日、琉球新報社の記事より
- 盛島(ムリシマ)開鐘・西平(ニシンダ)開鐘・湧川(ワクガー)開鐘・熱田(アッタ)開鐘・翁長(ヲゥナガ)開鐘
- 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」と冨原守清「琉球音楽考」より
- 盛島開鐘・西平開鐘・湧川開鐘・城(グスク)開鐘・安真太平(アマダンジャ/アマダンチャ)開鐘
- 「沖縄大百科事典」の開鐘の項目(又吉真三)より
- 盛島開鐘・西平開鐘・湧川開鐘・城開鐘・安真太平開鐘(西平、湧川の代わりに久田と大宜味を入れる場合もある)
準開鐘に属するもの
- 友寄(トゥムシ)・豊平(トヨヒラ)・屋良部崎(ヤラブザキ)・前田・翁長・熱田・屋冨祖・城間(グスクマ)・松田・富盛(トゥムイ)・安室(アムロ)・志多伯(シタハク)
奏法
沖縄県では基本的に撥を上から下へ下ろして弦を弾く奏法(ダウンストローク)で弾かれるが、奄美群島では下から上に弾き上げる奏法(アップストローク)が多用される。沖縄県では本土の三味線と異なり、撥で胴を叩かないが、奄美群島では竹製の撥で胴を叩く奏法もある。楽譜には勘所や壺(チブドゥクル)と呼ばれる弦を押さえるポジション、タイミング、弾き方を文字で表した工工四(クンクンシー)と呼ばれる縦書き譜が用いられる。
もっとも一般的な「本調子」では C-F-C(男弦-中弦-女弦)で調弦するが、弾き語りのときは奏者の声域に合わせて全体の音高を上げ下げする。
流派
三線の演奏には琉球王朝の宮廷音楽として発達した琉球古典音楽と、庶民の間に歌い継がれてきた沖縄民謡、奄美群島の島唄とに大きく分けられる。伝えによれば、歌と三線は「いんこねあがり」という者がおもろや自作の即興詩を三線に合わせて伴奏していたのが始まりとされる。村々を放浪していたため、そのスタイルは広く取り入れられた。俗にいう赤犬子(アカインコ)は当て字。現在、赤犬子神社(※ 赤犬子宮 ( アカナクー ) )が 楚辺村 ( そべそん ) にある。
湛水親方こと幸地賢忠が創設した湛水流から、知念績高の弟子であった安冨祖正元と野村安趙が、それぞれの流れを伝える安冨祖流と野村流を興す。ちなみに古典という呼称は近代に入って、その継承や保存という意識が強まることによって生まれた。仲宗根幸市は、楽曲の種類によって大節(ウフブシ)や端節(ファブシ)と呼ばれていたものを総称して古典と呼ばれるようになったのがいつ頃なのかハッキリしないとしながら、おおよそ大正末頃ではないかと推測している。
主に士族の作法や教養であった難解な古典音楽と異なり、毛遊びや祝いの席などで親しまれた沖縄民謡は、当時の流行や地域のうわさ話、替え歌、春歌、男女間の愛憎に密接した内容が歌われている。沖縄本島の民謡とは別に宮古民謡や八重山民謡などに分けられる。
音楽だけに限った話ではないが、琉球古典音楽や沖縄民謡の世界では、その考え方の違いや諸々の事情から複数の団体や会派に分かれている。例えば、琉球民謡協会では「新人賞・優秀賞・最高賞・教師・師範・最高師範」の段階分けがあり「師範免許を取得すると教師を指導できる」と言ったように、その所属団体によって会費やコンクールの段階等に違いが生じる。これは本土の家元制を参考にしたもので、通っている研究所の先生の推薦で受験するシステムが一般的。
- 1949年設立・八重山音楽安室流協和会
- 1958年設立・八重山音楽安室流保存会
- 1970年設立・八重山音楽大浜用能流保存会
- 1976年設立・八重山古典民謡保存会
- 1998年設立・八重山音楽安室流室山会
- 宮古民謡協会
- 宮古民謡保存会
- 宮古民謡保存協会
- 在沖宮古民謡協会
主な演奏者
脚注
- ↑ 「奄美民謡総覧」:セントラル楽器民謡企画部、小川学夫、指宿正樹、指宿邦彦、指宿良彦編、南方新社
- ↑ 「徳之島民謡傑作集ワイド」:セントラル楽器
- ↑ 「山民謡集」:山民謡保存会(鹿児島県徳之島町山)
- ↑ 「公民館講座島唄教室」:(鹿児島県徳之島町)
- ↑ 「沖之永良部民謡集{三味線・唄・歌詞}蛇皮線独習書シリーズ2改定版」:川畑先民、吉田治里共著、沖之永良部民謡協会監修、吉田蛇皮線楽譜研究所
- ↑ 「与論中央公民館サンシヌ{三線}講座楽譜(初級、中級編):与論中央公民館発行
- ↑ 池宮喜輝著、沖縄芸能保存会(1954)
参考文献
- 島袋正雄 「沖縄三線の起源と各型について」
- 王耀華「中国と琉球の三弦音楽」
- 冨原守清「琉球音楽考」
- 宜保榮治郎「三線のはなし」
- 山内盛彬「山内盛彬著作集 第一巻」
- 山内盛彬「琉球の音楽芸能史」
- 大城學 第385回 博物館文化講座「三線と沖縄の人たち」配布資料