藤原浜成

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藤原 浜成(ふじわら の はまなり、神亀元年(724年) - 延暦9年2月18日790年3月12日))は奈良時代貴族歌人藤原京家参議藤原麻呂の子。官位従三位参議。名は初め浜足と称した。

経歴

藤原京家の祖・藤原麻呂の嫡男として、京家の中心的人物であったが、年齢的に一世代近く年上であった他の3家(南家北家式家)の二世世代に比べてその昇進は常に一歩後れをとらざるをえなかった。

天平勝宝3年(751年従五位下に叙せられる。孝謙淳仁朝にかけて、大蔵少輔大判事民部大輔などを歴任するものの、昇進は停滞し従五位下に長らく留まるが、天平宝字8年(764年)9月に発生した藤原仲麻呂の乱において孝謙上皇側に味方し、同年10月には一挙に従四位下にまで昇進する。のち刑部卿を経て、宝亀3年(772年)49歳で従四位上・参議に叙任され公卿に列す。

宝亀4年(773年)、光仁天皇皇太子であった他戸親王廃され、新たな皇太子を選定する際、光仁天皇の第一皇子・山部親王(のち桓武天皇)を推す藤原百川に対し、浜成は山部の母(高野新笠)が渡来系氏族(和氏)の出身であることを問題視し、山部の異母弟で母(尾張女王)が皇族出身である薭田親王を推挙したとされる[1]。その後も宝亀5年(774年正四位下、宝亀6年(775年正四位上、宝亀7年(776年従三位と光仁朝では順調に昇進する。

桓武天皇の即位直後の天応元年(781年)4月に大宰帥に任ぜられて大宰府に下向した。しかし6月になると、歴任した官職で善政を聞いたことがないとの理由で、大宰員外帥に降格された。そして従者も10人から3人に、俸禄も3分の1に減らされ、職務の執行も停止を命じられ、大宰大弐佐伯今毛人が代行した。これは即位した桓武天皇による、反対する勢力への見せしめ、さらにはかつて自らの立太子に反対したことに対する報復であった可能性が高い。天応2年(782年)閏正月には、娘・法壱の夫である氷上川継氷上川継の乱を起こすと、浜成も連座して参議侍従を解任された。その後、中央政界に復帰できないまま、延暦9年(790年)に大宰府で薨去した。享年67。最終官位は大宰員外帥従三位。

人物

諸書に概ね通じており、陰陽卜占等の術に習熟していた。中央及び地方の諸官を歴任したが、治績を上げることができず、部下の官人や民は苦しんだという[2]

万葉歌人であった父麻呂の血を受け継いで、浜成も歌人であり、宝亀3年(772年)現存する日本最古の歌学書である『歌経標式』を光仁天皇[3]撰上している。

系譜

脚注

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参考文献

  • 伊藤善允「天応元年六月の政変」『政治経済史学』74号、1969年
  • 山口博「藤原浜成論(上・下)」『古代文化』27巻12号・28巻1号、19751976年
  • 佐藤信「藤原浜成とその時代」『歌経標式-注釈と研究-』、桜楓社1993年
  • 木本好信「氷上川継事件と藤原浜成」『文化情報学科研究報告』1、2006年
  • 宇治谷孟『続日本紀 (下)』講談社学術文庫1995年
  • 水鏡
  • 続日本紀』延暦9年2月18日
  • 序文に「上」あるいは「謹上」との文言があり、天皇に対して献上されたものと考えられている。
  • 日本文徳天皇実録