藤原弘達

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藤原 弘達ふじわら ひろたつ1921年大正10年〉7月31日 - 1999年平成11年〉3月3日)は、日本政治学者評論家広島県尾道市生まれ。「ふじわら こうたつ」と呼ばれることが多い。福山誠之館中学第六高等学校を経て、1945年昭和20年)、東京大学法学部を卒業(政治学博士)。東京大学では、丸山眞男に師事。明治大学教授を務めた後政治評論家となり、きわめて攻撃的な独自の右翼的政治論評で一世を風靡した。

来歴・人物

テレビ界での活動

TBSの『時事放談』で細川隆元とホストを務めた他、同局のニュースショー『JNNニュースコープ』で金曜日と土曜日[1]のメインを務めた。又、企業のトップをゲストに招いてゴルフを交えた対談番組『藤原弘達のグリーン放談』(テレビ東京)の司会もしていた。

晩年は、フジテレビの『たけし・逸見の平成教育委員会』に放映開始時から数回出演。「たけし落とし」を最初に獲得した「生徒」であり、同番組の第1回の最優秀優等生でもある。

またラジオでは、TBSラジオで平日午前7時から放送されていた「サラリーマンニュースショー・朝のファンファーレ」のニュース・パーソナリティーを長く務め、番組冒頭では「おはよう!!サラリーマン諸君!!今朝のニュースパーソナリティーは藤原弘達です」と言うのが定番だった。

創価学会・公明党に対する批判

藤原弘達は1962年(昭和37年)から創価学会を非難する論評をしており[2][3]1969年(昭和44年)8月、2か月後に創価学会公明党政教一致などを批判する『創価学会を斬る』を出版するという広告が出ると間もなく、公明党の中央幹部の藤原行正や『聖教新聞』主幹(当時)の秋谷栄之助などから出版の中止や、書き直しなどを要請された。藤原は2回目の1969年(昭和44年)9月14日の約1時間40分におよぶ藤原行正・秋谷栄之助との会話を隠しマイクで録音した。同年直後に藤原のインタビューがマスコミによって報道された。藤原はこれを出版阻止を目的とした創価学会による言論弾圧の脅しであり、金銭授受による買収工作であったと表明した。

年明けの6か月後、テープの内容が誌上で公開された(『週刊朝日』、昭和45年3月20日号)(藤原行正 『池田大作の素顔』 講談社)。しかしながら、その録音テープには言論弾圧や脅しの内容はなく、藤原の主張した金銭授受による出版中止の買収工作もなかった。録音内容には、「内容に問題があったために出版を控えてほしい」という要望があったのみであり、創価学会からの脅し、暴言、買収工作はなかった。この件に関して藤原弘達は隠し録音や彼の言動と録音内容の不一致に関する弁明を行わず、「創価学会側には出版中止の深意があったとので弾圧である」表明するにとどまった。藤原弘達は同書執筆に当たり創価学会に直接取材をしていないため、秋谷は資料提供の上、取材協力を惜しまない旨の発言をした。しかしながら、藤原弘達はこれをも「言論妨害」であるとして拒否。今度は公明党委員長(当時)の竹入義勝の依頼を受けた自民党幹事長(当時)の田中角栄から2度に渡り出版の中止や書き直しを求められたが、これも断り出版に踏み切った。

出版された該当著作の書き出しは「日本の極貧層は約五百万人である。創価学会の公称会員は一千万以上であるが実際には五百万人くらいであろう。両者は五百万人でありこの数は一致する。創価学会員全員が日本の極貧層とはいわないが、日本の底辺層の民衆である」という内容で、五百万という数字の根拠は示されておらず、創価学会および創価学会員には到底受け入れられない侮辱的な文章であった。続いて創価学会の文化活動を、現在の放送禁止用語に相当するような軽蔑的な表現をもちいて批判している。さらにそれに続く社会的経済的な論議にも客観的、定量的根拠となるデータが示されておらず、著者の主観的な判断内容で貫かれている。著作の内容は問題点があまりにも多く、京大名誉教授・田中美知太郎はこれに厳しく反論した。以後約半年間、類似の内容の著作が複数の著者によってに出版されたが、藤原の著書の販売数にはるかに及ばず、世間の注目をそれほど集めることはできなかった。

藤原の主張を最初に公にしたのは、日本共産党機関紙『赤旗』(当時)の記事およびそれに続く同党活動員による街頭でのビラ配りであった。日本共産党系の書店の店頭にはいち早く藤原の著書が陳列された。これは事件の直前におこったNHKテレビでの共産党対公明党の政治討論会の内容の影響、および直後の総選挙の影響が考えられる。藤原はそれまで日本共産党に対する痛烈な批判評論、非難評論を行ってきたので、政敵であったはずの日本共産党が行った予想せざる動きは、創価学会のみならず一般世間をも驚かせた。これに続きマスメディア社会党民社党日本共産党の議員による国会予算委員会で政府への追求が起こった。マスコミは後にこれを言論・出版の自由の侵害の問題(「言論出版妨害事件」)と呼んだ。

この件の数年後におこった宗門との問題について、創価学会の会長(当時)であった池田大作が公式に「猛省」表明を行い、創価学会と公明党を制度的に分離することなどを約束した。声明の中には公明党の議員が創価学会の役職につかないことが含まれており、これは即座に実行された。この件は創価学会と宗門との問題であり、藤原弘達とは直接関係がない。

1990年平成2年)以降は主だった活動がなかったが、1994年(平成6年)に藤原は創価学会に反対する保守派の政治家、宗教団体などが設立した「四月会」(発音は「死学会」の意味)に顧問として参加。実質的な活動はなかった。

1999年(平成11年)3月3日死亡。

藤原の自宅に不特定多数の者から匿名で「おめでとうございます」などという藤原の死亡を祝う電報が届いたり電話が頻繁にかかっていたとの遺族の証言が『週刊新潮2000年(平成12年)3月30日号に掲載された。[4]。この情報は新刊新潮の記事のみで、事実関係の裏づけが取れていない。

著作

単著

論文

共著

編著

翻訳

脚注

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関連文献

関連項目

外部リンク

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  1. 1965年(昭和40年)からスタートされた日曜版も含む
  2. 『時』(1962年)4月号 参議院の目〃創価学会〃-第三勢力をねらうその実力と組織に(『 文藝春秋昭和38年(1963年)7月号
  3. 藤原弘達 『角栄、もういいかげんにせんかい』(講談社 1984年9月)藤原によると、後の藤原の言によるとその度創価学会信者から激しい抗議の手紙が相次いだという。しかし、その頃は言論を封じ込めるようなものではなく、総本山や創価学会本部に来てみないかとか、創価学会系の出版社が発行している雑誌(『』)への寄稿、講演会への出席などを誘う懐柔策が中心だったという。その後、元学会会員だった植村左内隈田洋(ペンネームは福島泰照)などが書いた創価学会批判の本が創価学会側の妨害に会い、出版できなかったと主張。藤原によると、彼をマスコミに出られなくし、教授としての地位を奪おうとするためと思われる中傷やいやがらせが、エスカレートするようになったと主張している。藤原は『新評』(新評社)紙上で「公明党七つの大罪」という論評を書いたが、これに対しても、掲載前から圧力があり、同雑誌の発売後も、広告代理店などに手を回して、圧力をかけてきたと主張。さらに、毎日新聞社記者・内藤国夫の公明党批判の本も各方面から圧力を受けたとし、創価学会・公明党の問題を指摘すること以上に、言論に対する圧力に対して人間の権利を確保するための闘いとしての認識が強まったというと後に主張している。懇意にしていた書店、出版社主から本の出版を断られたので、「日新報道」という小出版社を選んだと表明した。
  4. テンプレート:Cite journal