舟崎克彦

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テンプレート:存命人物の出典明記 テンプレート:Infobox 作家 舟崎 克彦(ふなざき よしひこ、1945年2月2日 - )は、作家詩人作詞家挿絵画家劇画原作者森窓一郎名義での作品もあり、著書は300冊以上にのぼる。影響を受けた文学者として、谷崎潤一郎金子光晴西東三鬼の3人を挙げている。柔道三段。現在、白百合女子大学教授。

来歴

出生から

1945年2月、キリスト教系の病院なら米軍の爆撃を免れるはずとの母の考えにより、東京都中央区明石町の聖路加国際病院にて誕生。父の舟崎悌次郎は和歌山県生まれ、京都帝国大学経済学部卒、元画家志望だった建築家で、当時は会社社長テンプレート:要出典範囲。克彦はその末男として東京都豊島区千早町に育つ。舟崎家はもともと新潟県佐渡市金丸の素封家であり、祖父舟崎由之日本金属創業者で衆議院議員だった。祖父の実兄の松栄俊三(まつばえ・しゅんぞう)は相川町長や新潟県会議員、佐渡汽船会長などを歴任した。戦時中は祖父の設立した会社が軍需産業の一端を担っていたため、経済的に恵まれていた。テンプレート:要出典範囲

学生時代

1951年、2人の兄と同じように学習院初等科に入学。このとき左利きを右利きに変えさせられた。

1952年日本舞踊の名取りだった実母が克彦の目の前で心臓発作を起こして急逝。この時期の事柄は自伝的作品『雨の動物園』(サンケイ児童出版文化賞国際アンデルセン賞優良作品賞受賞)に詳しい。母の死後、ディズニーアニメと野鳥飼育に熱中する。愛読書は中西悟堂内田清之助で、将来の夢は鳥類学者になって山階鳥類研究所の所員になることだった。学業は不振だったが、鳥類学の知識だけは教師を凌いでいたという。このころ、ディズニー作品の模写によって画家としての素質を培う。

杉浦茂馬場のぼるの漫画や、柳亭痴楽林家三平古今亭志ん生らの落語からも大きな影響を受けた。小学校4~5年のとき、東京の民間人で5台目といわれる米国ベンディックス社のテレビ受像機を父が購入。トニー谷フランキー堺三木のり平らのコメディ番組に夢中になった。

1957年学習院中等科入学。新聞部に在籍してマンガを描く。さらに、バレーボール部に所属する傍ら、『悲しみよこんにちは』などの映画や、E.プレスリーなどの軽音楽に熱中。このころ継母を迎える。

1960年学習院高等科入学。美術部と生物部と柔道部と演劇部に籍を置き、他校との対抗戦がある時期には応援団の副団長をも引き受けた。最も熱中していたのは演劇部の活動だった。

しかし、クラブ活動に入れ込みすぎたために成績が低下して大学への学内推薦が受けられなくなった(卒業はさせるが大学には推薦しないという"上げ首"処分)。この鬱屈していた時期に、学内誌の編集長から勧められて初めて詩作をおこなう。

1963年に高等科を卒業し、代々木ゼミナールで1年間の浪人生活を送る。1964年、一般入試を経て学習院大学経済学部経営学科に入学。借金して第一詩集『いもむしの詩』を栄光社から自費出版したところ、完売して黒字になる。この詩集を買ってもらった女子短大生近江靖子の紹介で高田敏子の主宰する同人誌『野火』の創刊に参加。さらに、『野火』編集長赤間太郎の世話により、作詞家岡本おさみたちと共に朝日新聞夕刊の連載コラム「山手線」に取材記者として参加し、キャップ涌井昭治の指導を受けた。この仕事は大学卒業まで続いた。

その傍ら柔道部と演劇部に在籍し、大学1年の時にはジャン・アヌイの芝居やシイラ・デラニィ作「蜜の味」に俳優として出演したが、柔道部で主将になったため余裕がなくなって演劇部は退部。学習院卒で柔道部という経歴から右翼と誤解され、児童文学界で顰蹙をかったこともある。舟崎は『落語アナーキー』を自称しており、また、当時の学生バンドブームに乗ってフォークバンドを結成した柔道部の友人に自ら作詞した歌を提供、その中の一曲は後にクレイジーキャッツレコードに吹き込んだ。

大学卒業後

画家志望でもあったが「才能がないからやめろ」と周囲に猛反対されて断念、1968年に大学を卒業すると、父の世話で東京建物横浜支店に勤務し、不動産の鑑定評価業務に携わる。この年の秋に靖子と結婚。東京都世田谷区で所帯を持つ。

会社からはアルバイト禁止を言い渡されていたため、靖子と共にペンネームでレコードの作詞、荒木一郎ディスクジョッキー番組のシナリオ執筆、雑誌イラスト制作といった仕事を続ける。

1969年、長女誕生。同年、不動産鑑定評価の業務が高等数学を要求されるため胃潰瘍となり、自宅療養中、暇に飽かせて『トンカチと花将軍』を靖子と共に執筆。

1970年、『トンカチと花将軍』の原稿が旧知の高橋睦郎を経て矢川澄子の手に渡り、福音館書店に委ねられる。同年5月、第二詩集『塔は影をかばい乍ら』を森窓一郎名義で思潮社から上梓。

童話作家として

胃潰瘍は恢復していたが、義理のある人々に向けて退職の口実を設けるため、意図的に胃潰瘍を再発させ、1971年に東京建物を退社。同年、『トンカチと花将軍』が福音館書店から刊行され、童話作家としてデビュー。続いて同年、『野ウサギのラララ』を福音館書店の『母の友』誌に7ヶ月間連載(舟崎靖子との共作)。しかし福音館書店から単行本化を拒絶される(後年、1999年理論社から刊行)。同年、『スカンクプイプイ』をあかね書房から上梓。同じく舟崎靖子との共作だった。

1972年、長男誕生。1973年、単独で執筆した初めての長編ファンタジー『ぽっぺん先生の日曜日』を出版社5~6社に持ち込んだところ、それまでの児童文学とあまりに違っていたのでことごとく拒絶反応を受けたが、高橋睦郎によって紹介された吉岡実の仲介で筑摩書房からの出版が決定。以後、シリーズ物となって刊行されている。

1974年、高橋の誘いにより、吉村作治企画のギリシアエジプト旅行に参加。1975年、次女誕生。

1978年から数年間、ボローニャ国際児童図書展ツアーのアドバイザリースタッフとなり、ミヒャエル・エンデたちと交遊。

1979年から3年間、NHK教育テレビおかあさんといっしょ人形劇シナリオ『ブンブンたいむ』の台本を合計約700本執筆。

1981年、靖子と離婚。しかし以後も仕事の上での共作関係は続く。

このほか、『獏のいる風景』『黄昏クルーズ』など大人向けに書かれた奇妙な味小説も出色。『ゴニラバニラ』では妖怪を扱い、『暗くなり待ち』では近親相姦を扱い、『鐘は鳴り 私はのこる』では英国人女性との恋愛を扱っている。

イラストレーターとして、『トンカチと花将軍』や『ぽっぺん先生』シリーズ、および『ピカソ君の探偵ノート』シリーズ等では挿絵をも手がけている。

1995年に発表した童話『それでも夜は明ける』(秋書房)は、児童文学では稀有な、阪神大震災をテーマにした作品である。

近著に『月光のコパン』(岩波書店2007年)『舟崎克彦エッセイ集 作家の昼下がり』(パロル舎2010年)『白百合女子大学 舟崎教授の創作演習』(朝日クリエ2010年)がある。白百合女子大学教授。

長女の舟崎真理には舟崎靖子との共著がある。

受賞歴

『ピカソ君』と『名探偵コナン』の類似性について

青山剛昌の漫画『名探偵コナン』は、舟崎作品の『ピカソ君の探偵帳』と主人公のキャラクター設定が類似しており、かつ同じ探偵ものであるとの読者の指摘を受け、舟崎が小学館編集部に問い合わせをしたところ、「作者は舟崎さんの作品を読んでいないかもしれません。だが、スタッフが『ピカソ君』のシチュエーションを面白がって、一アイデアとして提供した可能性はないとは云えない」という回答を得ている(舟崎著『これでいいのか子どもの本!!』風涛社・所収)。因みに『ピカソ君の探偵帳』の初出は1981年、福音館書店『子どもの館』4月号からであり、1983年には同社より単行本化されている。一方『名探偵コナン』の初出は小学館・週刊少年サンデー、平成6年(1994年)5号からとなっている。

外部リンク