織田勝長

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:基礎情報 武士 織田 勝長(おだ かつなが)は、安土桃山時代武将織田信長の四男[1](もしくは五男[2])。生母は不明。幼名は坊丸。「勝長」は『甲陽軍鑑』において見られる名で、文書上から確認される実名では津田源三郎、織田源三郎信房[3]。法名は林庭宗松。

生涯

名乗りや待遇などから、信忠生母の生駒夫人より上位の女性の所生という説がある。岩村城遠山景任の未亡人おつやの方の養子となる。おつやの方は信長の叔母であり、景任は嗣子なくして死去したため、遠山家を嗣がせるために、おつやの方のたっての頼みで送り込まれた(当初、信長は養子の申し入れを拒否する姿勢であったと言われている)。しかし、養子となり岩村城主となったものの、まだ坊丸(勝長)は幼かったため、城の采配はこの叔母が握っていた。

元亀3年(1572年)11月、甲斐国武田信玄美濃国侵攻において、武田家臣秋山虎繁(信友)による攻勢で岩村城が降伏し武田方の居城となると、おつやの方は岩村城代となった秋山虎繁を夫として迎え入れることで武田方との和議が結ばれた。その際、坊丸は甲斐国に送られ、信玄の養子(人質)となった。信長は、この身内からの裏切りとも言える行為に、周囲の者が驚くほど激怒したと伝えられている。それが遠因となったのか、秋山虎繁とおつやの方は、後年岩村城を織田軍が奪回した際に、信長によって逆さ磔とされている。また、秋山虎繁とおつやの方の婚姻を仲介したと伝えられる織田忠寛も、後年不可解な理由で粛清されている(信長説とその子信雄説がある)。

天正9年(1581年)11月、武田勝頼によって坊丸は送還され、安土城で信長と対面する。この年、高天神城を落とされて劣勢にあった勝頼は、織田・徳川連合軍への防備を固めるため新府城の築城を急がせている一方で、越後上杉氏との甲越同盟の締結、相模後北条氏との甲相同盟の破綻に際して、対峙していた織田方との和睦(甲江和与)も模索しており、返還はその一環であったと考えられている。

同年、坊丸は元服して勝長と名乗り、尾張国犬山城主となる。ただし、元服自体は武田の人質時代にすませている可能性も高く、『甲陽軍鑑』において見られる「勝長」の名前はそのとき与えられたものと考えることも出来る。織田家復帰後の勝長の書状における署名は、「信房」で統一されていることを見ても、織田家において与えられた名は、織田源三郎信房と考えるのが妥当であろうと思われる。少なくとも織田家に復帰した後に信長の「長」という字を当時敵であった勝頼の「勝」の下に置く、また、「信」の字を使わない名は与えるとは考えにくく、また源三郎も織田家(平姓)ではなく武田家(源姓)で与えられた名だと推察される。なお『寛政重修諸家譜』では、11月24日に元服したとなっているが、これが本来の意味の元服であるのか、信房の名を与えたことを指すのかは不明である。

甲州征伐には兄・信忠の与力として参陣し、信濃国上野国を攻略して、武田側の武将小幡氏を降伏させるという活躍を見せる。しかし、本能寺の変において信忠と共に、明智光秀の軍勢に攻められて二条御所で奮戦ののちに討ち死にした。

長男の勝良は織田信雄に仕え、のち加賀前田家に600石で仕えた(「諸士系譜」)。その子孫もそのまま金沢藩に仕えたようである。

脚注

  1. 『天正記』では羽柴秀勝を五男としていることから。
  2. 寛永諸家系図伝』など
  3. 「信」は武田氏の通字と見られている。なお、『甲乱記』でも実名を信房としている。

関連項目

小説
テレビドラマ

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